天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

長崎県(壱岐市)・新城神社(壱岐)

20160410 壱岐・新城神社

新城神社、新城神社と小さな頃から聞くものの初めて来た。地区名に新城西、新城東とあるくらいなんだけどね。

いかにも観光客っぽいカップル?ご夫婦?(僕より年上に見えた)の会話が(汗)

明らかに関西弁なんだけど、平景隆自刃の地と書いてある石碑の前で、

女性:『これなんなん?』 

男性:『知らん、誰か死んだんやろ』って(汗)

平景隆って名前書いてあるでしょ?と言いたくなる(笑)

要は北条時宗の時代の壱岐の守護代で守りきれずに自刃したんだったと思う。たぶん(笑)しかし、島に来てくれてるん
でありがたいんだけど、この神社の何を知るべくもせずして去って行く。これ、結構多いし、ちょっと気持ちがわかんな
かったりする。

まあ、お二人が楽しければいいか。ほんと余計なお世話だよね(笑)

基本情報
所在地:〒811-5522 長崎県壱岐市 勝本町新城東触字尻井441


【Official site】













新城神社
新城神社(しんじょうじんじゃ)は、長崎県壱岐市に鎮座する神社である。

祭神
平景隆公を主祭神とする。

概要
1274年(文永11年)10月14日、元軍・高麗連合軍は、対馬に続き、壱岐島の西側に上陸。壱岐守護代・平景隆は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れ、翌15日、平景隆は樋詰城で自害する。文永の役で戦死した壱岐の守護代・平景隆の本陣であった樋詰城跡に新城神社は鎮座する。祭神の平景隆は元寇文永の役の日本国危き時に、国家を衛るため勇敢に戦い命を捧げた。

祭神は、国難事変に際して神威を顕し、平時に於ては国家の平和を護り給う神々である。 壱岐島民は文永11年(1274年)以来、新城神社御創建の願い、明治19年(1886年)本殿の建設を実現した。

なお、『高麗史』金方慶伝には、壱岐島での戦闘の模様が以下のように記されている。

元軍が壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた。高麗軍の将である朴之亮及び金方慶の娘婿の趙卞はこれを蹴散らすと、敗走する日本兵を追った。壱岐島の日本軍は降伏を願い出たが、日本兵を1,000余り討ち取った。
歴史

    文永11年(1274年) 元(モンゴル)・高麗(韓国)連合軍による島民大虐殺
    明治19年(1886年)本殿建設

元寇の合戦の場となった壱岐の新城神社の神殿内部
主な祭典

    1月1日 元旦祭
    2月11日 建国記念祭
    12月31日 除夜祭

参考文献

    新城神社御由緒書

周辺史跡

    文永の役新城古戦場:この一帯は、第一回目の元寇である文永の役(1274年)の最後の激戦地であり、惨殺された多くの壱岐島民の死体を埋めた千人塚がある。元寇殉国忠魂塔が中央に建ち、観音像、本来の千人塚の標石である自然石がある。また、案内看板もあり、元寇の悲惨さを忍ぶことができる。

    少弐資時の墓:二度目の襲来である弘安の役では、蒙古・高麗連合の東路軍が対馬を襲い、次いで壱岐に攻め込んで来た(1281年)。元・高麗連合軍を迎え撃った当時の壱岐守護代少貳資時は、船匿城(ふなかくしじょう)で全滅した。壱岐神社近くの少貳公園の松林の中に資時の墓があり、周辺には、元寇の戦艦と思われる碇(いかり)石、急を知らせる防人の狼煙(のろし)台やがある。

    唐人原古戦場

交通

壱岐芦辺港から車で10分
関連項目

    元寇
    壱岐神社
    壱岐市立一支国博物館
    小茂田浜神社
    少弐資時
    元寇資料館

壱岐には神社登録が150あまりあります。現在、四二社巡りなどイベントなどが行われていますが、選別された大きな神社です。
福岡市で言えば、中央区、博多区、東区を合わせた程の面積の中に150社の登録。神社密度はかなり高いと言えます。
この壱岐という福岡市からジェットフォイルで1時間、フェリーで2時間10分の距離の島に。
また、長崎県の遺跡の6割が壱岐にあると言われています。溫泉も神功皇后が産湯に使ったと言われ、1700年の歴史の溫泉です。溫泉の色も珍しい『赤湯』と呼ばれる珍しい色です。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社