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勝本町漁業史 page008 第二章~勝本と漁業~

第二章

勝本と漁業

 

一、遺跡よりみた漁撈生活

 

勝本町の遺跡

この勝本の地に、人類がいつごろから住みついたのか明確なことはわからない。しかし調査を重ねていくと、古代の住居址や墳墓、貝塚などの遺跡から、古代の人々の生活のようすを知る手がかりをつかむことはできる。そこで現在判明している町内の古代遺跡を調べてみる。

①若宮島(埋葬された石棺の中より、青銅鏡が発見された。)

②名烏島(島の南面に、貝塚がある)

③串山半島(ミルメ関址、集ノ辻古墳、串山ミルメ浦遺跡、貝塚などが現存することから古代の重要な生活の場であったと推定される)

④天が原(青銅矛三本が発見され、古代の祭祀遺跡として注目されている)

⑤塩谷(むかし塩を焼きし所なり。また藪田から、用途不明の石器が多数採集されている)

⑥聖母神社(小型の組立て式石棺が群をなしていたが、激浪で洗い崩されたようである)

⑦松崎(老人ホーム付近。繩文式土器が散布している海岸の遺跡)

⑧東の木(大久保触東の木池の近くから、石棺、カメ棺数基が発見されている)

⑨伊志呂(立石西触の伊志呂神社付近から、貝塚や石器・土器類が発見されている)

⑩志和木津(立石南触志和木津で、石器や土器が採集されている)

⑪カラカミ・小場・牛神・国竜(立石仲触から立石東触にかけての一帯は、全国的にも有名な弥生遺跡として重要なものである)

このほか、勝本町内には「鬼の岩屋」と呼ばれる古墳が数多くある。これらは壱岐の古墳文化を調べる上で重要な遺跡であるが、数が多いので、ここには記載しない。

以上の遺跡の中でも、特に漁撈生活と密接なつながりを持つ、重要な二つの遺跡を紹介してみよう。

⦿天が原遺跡

勝本町東触の天が原海岸で、昭和三十六年二月二十二日護岸工事中に、中広形銅矛が三本発見された。なお現在それは、勝本町教育委員会、那賀中学校、壱岐郷土館にそれぞれ保管されている。

この矛は、青銅製の利器で、両刃で中央に鎬がある。そしてその両側には樋がとおり、もと部は円筒状でこれに柄木をさしこむようになっている。中国の起源をもつこの武器は、刃の部分が鋳造後研ぎだしてはいるが、鋭利ではなく、非実用的な祭器としての性格をもっている。

一般的に細形銅利器のようなものは、個人的な権威のシンボルとしての性格が強く、カメ棺、箱式棺などの個人墓の副葬品として発見される場合が多い。これに対して、天が原より出土した中広形銅利器の場合は、集落とか、クニの祭祀品として、集落や墓地からはなれた海岸部や平野をのぞむ丘陵部などの場所に、単独で埋められた例が多い。

また地域の人々にとっては、東は西よりも「よい」方向であるという観念が強い。東は「日に向かう」ハレの方向であるのに対して、西は災いをもたらす死や墓と結びついた方向である。この天が原の場所は、勝本浦から東の方向にあたり、しかも集落からはなれた静かな海岸部であるから、祭壇を設けるには格好の地であったのだろう。

これらのことから、この天が原の地で、勝本の集落か、壱岐のクニを単位とした大きな組織の共同祭祀が行われたようである。その際、貴重な祭器である三本の銅矛が神々に捧げられ、地下に埋蔵されたと推察される。とくに遺跡が海岸であることから、島の海人族たちが、豊漁や航海の安全を祈って盛大な祭祀をしたのではないかと考えられている。

⦿カラカミ遺跡

この遺跡は、「香良加美」「韓神」「唐神」の文字をあてて古来より呼ばれている。そして、湯ノ本湾に流れる刈田院川の上流に位置し、勝本町立石東触から仲触にかけて山頂一帯にある丘陵性遺跡である。注目されるようになったのは、大正八年松本友雄氏によって調査紹介されてからで、戦後は東亜考古学会や九州大学などによって発掘調査されている。

この頂上部には「香良加美」と刻まれた石の祠があり、以前この地下より掘り出された石剣を宝物としている。住居や墳墓もこの周辺にあったと思われるが、明確な結果は調査中のためわかっていない。

ここの刈田院川流域の低地では水田耕作が、丘陵地ではコムギなどの畑作が行われていた。しかし規模は小さいものである。貝塚をふくむ包含層から発見された獣骨、鳥骨、魚骨、貝類など種類が多いことから見て、むしろ漁撈や狩猟がさかんであったと推測できる。とくに漁具を見ると、鯨骨製大形銛、鉄製小形銛、鯨骨製「あわびおこし」が注目される。釣針は、鉄製のほか鹿角製や骨製のものがある。

魚類は、イシダイ、マグロが多く、他にもサバ、アジ、カレイ、ブリ、ヒラメ、イワシ、メカジキ、カツオ、スズキ、マダイ、クロダイ、フグなど種類が多い。とくに沖合魚や深海魚の漁法、有毒魚の料理法は注目される。

貝類は、カキ、アワビ、サザエ、オキシジミ、イガイ、ウニ、バイ、ハマグリ、アサリ、ツメタガイ、ウミニナなど岩礁性のものが多く、二枚貝のものは少ない。

獣骨は、アシカ、クジラ、イルカ、サカマタ(シャチ)のほか、イヌ、イノシシ、シカ、ドブネズミ、ウマ、ウシ、ネコ、タヌキなどがある。

このほか各種の弥生式土器にまじって、漢式土器、中国の方格規矩鏡、仿製内行花文鏡、鉄鉇、鉄銛、鉄鎌、鉄鏃など多量の鉄器と、それに銅鏃、鹿角柄付刀子などが出土している。これらに比べて石器は比較的少なく、利器が石器から鉄器へ移行していることもわかるのである。

この他に、貴重な鹿トも発見されたことや、付近の地名などからも考えて、この遺跡は、高度の文化をもち、「カラカミ」を守護神とする大陸からの集団が渡来し、この地に居住していたのではないかと推測できるのである。

 

漁撈とは

漁の字は「すなどる」と読むが、いさり火(漁火)の「いさる」という読み方もある。

・すなどる(漁る)〔磯魚捕る、ノ約ト云フ、磯辺ニテ捕ル語ガ移リテ、沖ニモ云フヤウニナレリト思ハル〕魚ヲ求メテ捕ル。イサル。猟ヲスル。

・いさる(漁る)〔磯求食る、が、いささる、いさる、ト約レル語ナラム〕海ニテ魚類ヲ捕ル。スナドル。アサル。漁撈ヲス。湖水ニモ云フ。

・撈=音は「ロウ」または「リョウ」、訓は㈠「とる」水中に沈んで物をとる、漁―、⑵「とる」鉤でひっかけてとる。

・漁労=水海に生棲する魚類・貝類・海藻類およびその他の生物を採捕すること。漁業とは一般には同義語として用いられるが、水産業の専門的立場では両者は区別されている。漁労は単に水産動植物を採捕するだけのことであり、漁業はその採捕が営利の目的で行われ、民が生活の糧を獲得するための行為であるとしている。

これらの日本語からわかるように、日本古来の漁撈は、元来磯辺に発生したものである。それは一方では「求食る」という採集の形式であった。そしてこれが沖に進出していくとともに、潜水とか鉤を使用した漁法で「魚を求 て捕る」「猟をする」という語にも通じたということである。

また、漁業という経済行為の基本形として、漁撈という行為がある。この漁撈の方は必ずしも経済性を意識していないともいえるのである。

 

古代の漁法

古代の人々は、魚なくしては生きることができなかったようで、多量の魚や貝を食べている。それは、町内各地の貝塚から出土している膨大な魚骨や貝類によっても、知られるのである。勝本は、壱岐の島内でも最もよい漁場にめぐまれ、古代より漁撈活動のさかんであったことが想像される。

古代の漁法としては、磯で採集する、銛で突く、釣針で釣る、網でとるの方法がある。

〈磯で採集をする〉

水中の藻類、貝類、魚類など採捕することは、最も手近な生活手段であったろう。

海藻のどんな種類のものを食用にしただろうか。東大寺正倉院の文書は次のようなものをあげている。「海藻(ワカメのこと)滑海藻(荒布)海藻根(ワカメの根の部分)末滑海藻、海松(小枝の多い海藻)青乃利、布乃利(主に糊に用いたが食用にもした)紫菜、奈能利僧(鏡餅の飾りなどに使用、ホンダワラ)大凝菜(トコロテンの材料)小凝菜(海髪とも書き、トコロテンの材料)鹿角菜(糊の材料)鹿尾菜(ヒジキ)母豆久(酢のものにする)於胡(または於胡菜)、蔣子、都志毛。」

貝塚で発見された貝の種類は数多い。とくにハマグリ、アサリ、カキ、サザエ、シジミなどが大部分をしめ、多産でしかも簡単に採取できるものが、さかんに食用に供されたことを物語っている。

アワビの採集は、素手では不可能であるから、石斧でこじあけるか、へら状の道具を使用していたのかも知れない。これに関して、カラカミ遺跡から、従来「へら状骨製品」とか「骨剣」と呼ばれていたものが、かなり出土していた。これに注目した九州大学の岡崎敬氏は、これらは実際の武器や儀仗の器具ではなく、刃を使ってこね上げる用途をもつもの、つまり「あわびがね」と指摘された。この「あわびがね」は、骨製品から鉄製品となって、さらにあわびの採集を容易にしたものである。

〈銛で突く方法〉

魚を突くには、銛が使用されている。銛には、銛先の着脱できるものと、柄に固着したものとがある。

投げ銛は、柄につけた銛頭が簡単にはなれるようにできている。この銛頭には穴があけられていて、繩が通してある。そして銛を投げると、繩の一方の端が手元に残るしくみである。手に持ったまま突く銛(簎ともいう)は、二本以上の銛頭を柄に固定して用いることが多い。銛には、逆釣のあるものとないものとがあって、その多くは鯨骨で作られている。しかし少数だが鉄製のものもある。これらのことから、獲物の種類や大きさによっても銛を使いわけていたことが知られる。

三世紀に書かれた『魏志』倭人伝によると、「好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之」、「今倭水人好沈没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以為飾」などとある。これは、倭の水人たちが、「魚や鮑をこのんでとらえ、水の深浅を問題にしないで、みんな水中にもぐってこれをとるのである」、「今倭の水人は、うまく水中にもぐって魚や蛤をとらえている。彼らは身体に入れ墨をしているが、のちしだいに飾りになってきている」

水人たちがさかんに潜水してアワビ類をとり、さらに魚突きもやっていたことから、突き漁を主とするワダツミ系海人族の技術もあわせもっていたことがわかる。また興味をひかれるのは、当時の水人たちが入れ墨の習俗をもっていたことである。これは中国南部の稲作と漁撈の文化をもつ種族の影響と思われる。しかしこれも記事にあるように、入れ墨の習俗はまじない的なものから、装飾的なもの、もしくは身分の違いをあらわすことに変化してきている。つまり本来の入れ墨の目的は、失われているのである。

〈釣針で釣る〉

針に餌をつけ魚を誘いひっかける漁法が、釣りである。

釣針は鹿の角を使い「し」の字の形に湾曲したものが多いが、まれに骨製のものがある。カラカミ遺跡からは、鉄製釣針も出土している。長さは三㌢程度の小型のものから、大きなものは十㌢近くのまである。釣針の内側や外側には、鉤といって魚を釣ったとき離れないように突き出したものがある。

骨角製の釣針には、棒軸と先端部とをべつの材料で作り、結縛して用いる結合釣針もある。釣針は、深いところにいる魚をとるために考えだされたもので、魚の種類や大きさによって使いわけていたのであろう。

興味深いのは、遠洋性のメカジキやマグロの骨が出土することである。このことから、すぐに沖合漁業とは考えないまでも、船が利用されたものと推定される。ではどのような船が利用されたのか、たぶんそれは、数本の丸太や竹をならべて結びつけた筏や大木をえぐって作った刳舟であろう。

筏船は、対馬北部に昭和三十年頃まで見ることができたそうである。それは主として海藻をとるのに使用していたが、昔は網漁にも使用していたという。この筏の特長は、解体すれば丸太になり、他にも利用できることである。また、浮揚する力は少ないけれども、これを並べてつなげば、物資の輸送にも効果をあげることができるのである。

刳舟には、平面か長方形の割竹型丸木舟と、先端がとがった鰹節型丸木舟とがある。カラカミ遺跡から出土した壺形土器に船をえがいたものがあり、沼津の古墳の線刻にも船が描かれている。いずれも鰹節型であり、舷に板材をとり付けたものと考えられる。

弥生時代の中期以降になると、鉄器の使用がはじまる。鉄の斧、手斧、槍鉋が出現すると、造船技術も進み、玄界灘の荒波にもたえる船が造られるようになった。そしてしだいに単材の刳舟だけでなく、二本あるいはそれ以上をつないだ、いわゆる複材刳舟ができるようになった。やがて本体の舟に波除けの棚(舷)をつけて耐航性を増し、船腹の増大をはかる工夫が行われ、いわゆる組立構造船らしいものが現われるようになるのである。

〈網でとる〉

貝塚で見られる魚類の中に鰯、鰺、鯒、鰈、甲烏賊、小海老など小型で、網のほかにはその漁獲が容易でないものがある。この点から考えても、当時魚をとるのに網が使用されていたことは、十分推察できる。これらの網をあむことは土器の文様の原体をあんだことからみて可能であり、また石の錘などの器具の存在からも推察できる。

網や綱には植物せんいを、うきには木を、錘には石・土器・陶器・鉛などを、用いる。

石錘の製法としては、打製と磨製がある。打製石錘は、礫の両端にうちかきを作ったもので、主として繩文時代に使用されている。磨製石錘は、礫の両側をすりへらして凹溝をつけたものや、礫を一周して凹溝をもつものなど形も種々ある。

土錘には、土器片を楕円形に整形したのち両端に切れ目を入れたもの、円筒形のもの、紡錘形の表面に溝をめぐらしたものなどがある。

網はほとんど残っていないのでその形や大きさはわからないが、小型の魚の骨もあることから、網の目もそれ相応に細かいものがあったと思われる。網の形状や規模は使用法によって異なるが、これは刺網、かぶせ網、すくい網、しき網、ひき網、まき網、たて網の七種に大別されている。

 

鯨と水人

前述した弥生時代のカラカミ遺跡から多量の鯨骨製品が出土していることから、当時鯨をとらえ、その肉を食料にすることがあったと思われる。

鯨はいうまでもなく哺乳動物で、生殖のため寒海より温海を回遊する習性をもつ。日本近海にはマッコウクジラ、ザトウクジラ、ナガスクジラ、セミクジラが多く見られた。この鯨の回遊路にあたる西日本、なかでも壱岐はその中心部で鯨をとらえやすく、鯨の利用もきわめて多かったと考えられる。

しかし、弥生時代に鉄製銛があり網のようなものが利用されたとしても、計画的、積極的な捕鯨が行われたとは考えにくい。やはり、シャチ等に追われたか、餌を追って浅瀬にのりあげ進退の自由を失なった状態の寄りクジラを捕獲したものであろう。

七世紀と推定される郷ノ浦町有安触鬼屋窪古墳には、舟の群が銛を突きたてている捕鯨のようすをえがいた線刻画がある。すでに金属器の発達した七世紀には、漁業の共同集団ができていた。そして壱岐の水人たちは、鉄の長銛を利用して鯨の回遊期に速度のおちた鯨などを入江に追いこむことはあり得たはずである。しかし捕鯨業としての成立は、近世(慶長十一年ごろ)にまたなければならない。

 

古代の漁撈生活

大昔わたしたちの祖先と思われる人々は、どす黒い手づくりの土器をこねながら、壱岐、対馬をはじめ多くの島々に広く分布していた。つまり学者たちに繩文文化と呼ばれ、七千年余もつづいた時代のことである。当時の人々は、岩かげやほら穴に住み、石や骨でこしらえた道具を使って、けものを追い、あるいは貝や魚をとり、海藻や木の実を食べてくらしていたのであろう。

つまり漁撈や狩猟を主とした採集経済の時代であったといえる。自然が与える山海の中から、生活資料を単に抽出し採取していくという初期の段階では、何も漁撈民とか狩猟民とかいうほどの分化があった訳ではない。ただひたすら自然環境に応じて、生活に必要なものはすべてその時、その所に応じて陸上から海上にいたるまでの動植物を採取したと考えられる。

ところがそれは後期になると、環境と集団の相違によって、海や川など水上を生活の舞台とする漁撈型住民と、山間を生活の領域とする狩猟型住民とに分化してくる。

漁撈型についてみると、男子は海上に出漁し、夜は漁具の製作に、女子は海岸の貝や海藻の採取に従っていたようである。ときには男女ともに土器づくりに専念することもあったろう。また環境や季節のいかんによっては、狩猟をしたり、簡単ながら植物の栽培までもしたことが出土品からも推察される。

生活の場としての住居は、主として洞窟や堅穴だったが、初期の段階ではまだ定住生活は営まれず、獣や魚をもとめて転々と移住していたと考えられる。

ところが後期になり、生業上の分化の色彩がこくなり、また自然の採集生活の不安定さからくる「獲得から生産へ」の欲望が働き、幼稚な農耕がはじまる。そうして移動生活から定住生活へ、そして定住生活による集落の形成へという動きが進行したのである。

やがて紀元前三世紀ごろ、壱岐・対馬をはじめとして北九州に弥生式土器をもつ文化が登場する。この弥生文化は、農業の発生、金属器の利用、原始国家の誕生……といったきわだった特色をもっている。

このことは当然、当時の漁撈生活にも一大変革を与えるのである。つまり金属器の利用や、せんい材料の社会的生産の増加は、漁撈上の生産手段である銛、槍、釣針、漁網の構成と、数量に大きな変化を与えていった。この頃の人々は、この技術上の変化によって、漁撈上の生産機構そのものの変更をよぎなくされ、多数による集団漁業など、画期的な発達をとげるようになるのである。

 

塩の製造

海の幸として、塩は見落とせない大事なものである。古代人は塩の入手にかなり苦労したようである。特に農耕がさかんになると、植物食が増加し、塩は生命にかかわる重要なミネラルとなった。日本には岩塩がないので、塩は海水から採集した。

〈土器製塩〉

土器に海水をいれ煮沸煎熬して塩の結晶をとる方法で、原始的な製塩法として、原始から古代にかけて各地で行われた。海水が煮沸のまえに濃縮されたかどうかはわからないが、いずれにしても注ぎ煮されたと思われる。

この方法は、煎熬する過程で土器の器壁中に食塩・炭酸石灰・硫酸石灰その他の結晶が生じる。このため土器にひびや剥離ができやすく、その破損度はきわめて高くなる。したがって繰返しの使用ができないため、消耗品的生産用具として莫大な量が製作・使用・廃棄された。そのため器形は特に単純化し、文様などの装飾的要素をもたないのがふつうである。

〈藻塩焼く〉

『万葉集』には「藻塩焼きつつ」「藻刈り塩焼き」「初垂塩」などの語句がみられる。『常陸風土記』にも「塩を焼く藻」、『古今集』には「藻塩垂れ」などがみられる。これらの語句は古くからさまざまに解釈されてきたが、現在では藻を焼くことにより塩を得ていたと考えられている。

その製造工程は、①ホンダワラやカジメなどの大きな藻を刈りとって、これに海水を何度もかけて乾かす。②これを集めて簀のようなものの上にのせ海水を注ぐと、下にある容器に濃い海水がたまる。③これをくり返して濃厚な鹹水をつくる。④最後に、煎熬設備で煮つめて結晶塩にする。

このように採鹹と煎熬、あるいは焼き塩をふくめての作業の全工程が、「藻塩焼く」ということばで簡潔に表現されているのである。

『常陸国風土記』信太郡浮島村の項に「乗浜の里の東に浮島の村あり……居る百姓、塩を火きて業と為す」

『播磨国風土記』の餝磨郡のところに、応神天皇の御代に、「塩代の塩田廿千代を奉りき。かれ塩代田と名づけき」

という記事があるように、製塩に適した海浜には、塩田と製塩の村が発達していたことがわかる。この時期は、製塩以外の分業も発達し政治的つながりが各地とも強くなっていたので、生産された塩はそれぞれの集団の首長を通じて、朝廷や地方の有力集団へ貢納されたり交換に出されたりした。

〈塩浜の里〉

勝本浦の東部に、塩谷という地名がある。現在は埋め立て工事も完了し町民グラウンドや住宅地となっているが、以前は広い砂浜であった。

『壱岐名勝図誌』では、「塩屋浦。此所、むかし塩を焼きし所なりと云。」とある。また伝承では、むかしここに塩田を作り、塩を製造したことからこの名がついたという。この塩谷の里が、塩田、すなわち砂粒に塩を付着させそれを集めて海水をそそぎ鹹水をとる作業場であったことは、まずまちがいないだろう。ただ、これら塩浜の実体については、文献もなにもない。おそらく自然の浜に若干の加工を施し、潮の干満差を利用したかあるいは海水を汲みそそいだものであろう。

この塩谷の里から少し北へ行くと、古代の北の玄関口であったといわれる海松目浦の入江がある。弘仁七年(八一六)壱岐に、二関と十四所の火立場がおかれた。その見目の関の地に比定されている場所である。この丘の頂上には古墳がある。記録によれば「壱岐巡云、天原・みるめの浦、皆櫛山の後の方なり。四見滝なといふ所あり。廿年以前、集の辻の脇をほりて石櫃を一つほり出したり。内に金棒六本程入たり。長さ三尺ほとくさりて鉄火筋程のこれり。其石ハ浦人普請に用たるよし。此所ハ百合若大臣、京より来り給ひて、諸鬼を平治後ハ使者となしたるよし。大臣の為に海辺より蜷を取来りて、集辻にて奉る故、是所に蜷あり。――後略――」

現在調査している集ノ辻古墳は、規模は大きくないが、前方後円墳の可能性もある。金棒六本があった石櫃といい、この集ノ辻古墳といい、何を物語るのであろうか。いずれにしても、これだけの古墳を造るだけの強力な政治権力があったことになる。それはこの周辺部を根拠地として活躍した海人族を統治する家族で、その墓がこの古墳なのかも知れない。

昭和五十四年、ここで海岸道路の工事が始まったため、調査を開始した。約半年間表採した結果、弥生式土器、土師器、須恵器などの土器片を発見した。中でも注目したいのが、八十余個の把手である。把手とは、器物をとりあげる手がかりのために器物につけた突起である。甑やかまどの両側につける太く短く突出した形の把手が多い。なぜ数多く把手が一つの場所から出土するのだろうか。

また近くに、土器崎(一名こうこ崎)がある。明確な伝承ではないが、むかし土器の破片が多く散乱していたとも聞く。さらに『壱岐名勝図誌』には、新続古今恋二より「仮にたに藻塩のけふりなひかすハ見るめの浦にかひやなからん」儀同三司次貞、を記載している。この「藻塩のけふり」は、明らかにこの地で藻塩採鹹法なる製塩が行われたことを意味するのではないか。

これらのことから、この地は「塩浜の里」として、藻塩採鹹法と土器煎熬法とが結びついて製塩が行われたと推測できるが、明確なことは今後の調査にまちたい。ただ近くの貝塚からの出土品は、通常のものと変わりない。土器片、魚介類、軟骨などが出土していることから、当時の人々は、狩りや魚介類の捕獲や植物類の採集で暮らしの基本を立て、製塩は副業としていたのかも知れない。それでもとれた塩は、各地に運ばれたのであろう。

このようにして、「塩浜の里」で生産された塩は、海人族によって本土へ、そしてさらに山奥の村々へも運ばれ、黒曜石や毛皮、木の実など生活必需品と交換されたのである。やがて、この塩の運ばれる道は、海と山とをつなぐ交易ルートとして「塩の道」となり、新しい交通路として流通経済の発展に大きな役割を果すのである。

 

二、漁業の神々

 

すなどり

漁業のことを古い言葉で〝すなどり〟というが、これは磯魚捕るの約語で、魚を求めて捕ることの意味である。万葉集に、

沖べ行き邊に行き、今や妹がため、吾漁有る、藻臥束鮒

とある。古い時代には単に食を充たすために魚を捕る漁撈であったが、今日では営利を目的として、水産動植物を採捕する漁として発展したのである。

 

漁民と信仰

人間万事生命あっての物種といわれるが、その生命を維持する第一のものは、いうまでもなく食糧である。したがって、これを与え給うことを神に祈るのは当然のことである。特に各自が食糧を自給自足したような原始的生活の時代にあっては、なおさらのことである。山や海の幸即ち捕獲物の多いことをもって、人生の第一の福となし、これを与え給うことを神に祈るのは、正に人生の第一の務めでなければならなかったのである。

こうした信仰の対象となる神がどのような神であったかは、時代が遠く隔たっており、その詳しい記録も残されていないことからはっきりしないが、俗にいう「幸の神」の名称が今に残されている。これは正月の歳の神を迎えるために、各家の庭に「幸い木」をつるし、それに海の幸、山の幸(平年は一二、閏年は一三の綱をつけ、鯛・鰯・鯖・秋刀魚・鯣・昆布・鰤・大根・蕪など)をさげ、歳の神に一年の幸福を祈っていたことをみても、その生活態度がうかがわれる。

世は移り変り、農耕時代になってからも、なお山間部では狩猟民として、海岸部では漁撈民として生きる多くの人々がいた。彼らはその土地の山神や海神に祈ることを常とし、また一方ではその地域集団の産土神も有していたのである。

勝本は海に恵まれて、古い時代から漁業が盛んに行われ、江戸時代に入って捕鯨業が営まれるようになり、急速に発達している。漁法も次第に改善され、造船技術も進んできて、人々はテンマ船、チョッキ船、テントウ船等を造って、次第に沖へ沖へと出て行った。漁場は勝本の漁業の宝庫ともいえる七里ヶ曾根・ひら曾根・なんかけ曾根等を発見して今日に至っている。

これらの漁場は対馬海峡にあって、冬から春にかけては鰤・鮪・鰹・烏賊など多量の魚が獲れた。しかし北西の風、俗に「あなぜ」、朝鮮風と呼ばれる季節風が吹き荒れる、旧の一、二月頃には、月に二、三回程度の出漁に終る年が多かった。それに出漁しても突風に出会い、遭難して尊い人命を失うことが年に何回も起きた。

このようなことから、人々の生命を守り、大漁を祈る漁村の信仰が、浦中の行事としてまた個人の行事として行われるようになったのである。

 

聖母神社

その第一が氏神様として崇敬される聖母神社である。『壱岐神社誌』によれば、創立は一二六〇年前頃と記されている。御祭神は息長足姫尊またの名を神功皇后といわれる。第一四代仲哀天皇二年に皇后となられた。

皇后は天皇が穴門(長門)に行幸なさる時に、命を受けて敦賀より船で長門の豊浦の宮に行き、そこに数年間滞在された。軍を筑紫に進められるに当り、皇后もまた天皇に従って熊襲征伐に参加された。

神功皇后は、熊襲が反抗するのは新羅の援助があるからとの考えから、新羅征伐を天皇に進言した。同九年二月六日、天皇は筑前香椎宮で崩御されたが、皇后は天皇の喪を秘して、重臣武内宿禰と相談され、自ら男装して新羅を征伐された。その結果、三韓は朝貢するようになり、大いに国威を海外に輝かすことができた。

皇后はまた応神天皇の摂政として、六九年間政務をとられた。その間、大陸文化を我国に輸入し、古代にあって日本文化の興隆をはかられた神徳が仰がれている。これを表の神徳とすれば、裏の神徳は、応神天皇と神功皇后の関係は母と子となり、日本の古くからの母子神の信仰である。即ち母が子を抱きかかえ、これを大切にし、自分の子を自分の替りとして、この世に下される信仰のあったことがうかがわれる。また本地垂迹説の神仏同体観より、香椎宮を聖母宮と転称したことは、即ち応神天皇の生母なるが故といわれている。

聖母神社は一二〇〇年余りの長い歴史の流れの中で、勝本の心の古里として、勝本と盛衰をともにしてきた。そして勇猛進取、海上安全、殖産興業、安全等の神として深い信仰を受けてきたのである。

その由緒については省略するが、参考資料として、後藤正足著『壱岐神社誌』、佐賀大学助教授波平恵美子氏の「聖母神社の祭りについて」の論文がある。

ここでは、寛保元年(一七四一)酉八月に祠官吉野虎之進の書いた「聖母大明神年中行事品目」を紹介する。

年中行事

一、正月元日、御鏡餅御神供御神酒等祠官方より指上、中原弁次郎殿よりも御鏡餅御神酒被献之、右の品々御内陳へ奉備勤行祝詞相勤申候、右両所より献上の供物弁次郎殿祠官両所へ銘々頂戴之

一、五ヶ日毎朝祠官勤行の事

一、同十四日迄の内祠官方より、歳木門松御供物奉備尤十四日目の暁松引祠官御神前にて勤行祝詞相勤之

一、三月三日、神酒御飯等祠官方より奉備勤行祝詞言上之事

一、五月五日、粽神酒祠官方より奉備勤行祝詞の事

一、六月十五日、社内之祇園祭神酒御飯等祠官方より奉備勤行祝詞

一、同二十九日、聖母大明神名越之御神事祠官相勤御鉾奉幣浜殿奉下候事

一、八月朔日、祭礼の始御供物品々大行司小行司より是を指上祠官奉備勤行祝詞の事

一、同七日、注連降大行司小行司之家祠官 注連引元日の通御供物奉備御旅所並鳥居町中迄六ヶ所の注連引事

一、同九日之晩御飯等祠官より献上浜史役所より神酒掛の魚献上祠官参勤祝詞言上之事

一、同十日之朝、社家八人祠官宅相集社頭に参り御飯御神酒等御内陳祠官奉備勤行祝詞神楽舞奏動座加持相勤御正躰神輿二社奉遷浜殿、御幸奉成次第奉備奉幣勤行、神皇寺も御供夫より御船奉成御旅所に御幸大行司小行司より御飯神酒御供米献上祠官奉備鎮座加持勤行祝詞

一、同十一日より十四日之朝迄大行司小行司より御飯神酒御供米献上浜史役所より掛の魚神酒献上祠官奉備勤行祝詞言上尤浦中より神酒献上御神楽舞奏、神皇寺も毎日参詣

一、同十三日之晩御飯神酒御供米御備等祠官方より献上、可須村より御飯神酒献上 大神楽相勤

一、同十四日、御幣揃浦中より御幸船之事有り、大行司小行司より御飯神酒献上祠官奉備、勤行動座加持御神輿陸地御幸中宮へ奉成、御飯神酒御供米等奉備勤行祝詞 古より勤方品々有之、神皇寺も御供、此間御名代様於棧敷対手罷成胞貝之御盃に而御酒被召上其御座に神皇寺も罷成右の儀相済御神輿御本殿迎御正躰奉遷鎮座加持相勤御飯御神酒等品々御内陳へ奉備勤上祝詞言上、夫より御名代様御参向被遊鮑貝之御盃に而御酒被召上御棧敷同前奉幣并御神楽舞相勤公方神楽酒献上則神酒等御名代様是を指上御盃祠官頂戴諸事祠官勤之御祭礼御成就の御供米祠官指上御名代様御下向被遊候

夫より前殿祭り茂頂戴之諸事祠官勤之

一、同十五日、浦中之注連上之節大行司小行司之家に而御神前御神酒御飯等献上祠官勤行祝詞言上

一、九月七日、若宮嶋若宮大明神

浦中より漁祭として小神楽上ケ

夷大明神妙見宮両社神酒御供米掛の魚等上之右供物祠官頂戴半分惣の市配分

一、同十九日、若宮大明神御祭礼祠官始宮子中より押餅御飯神酒次第御供米掛の魚等奉備可須村より右同前之御供物献上、浦中より押餅御飯御神酒献上浜殿江御幸諸事祠官勤仕

一、同日聖母大明神并牛神、可須村より御飯神酒御供米等献上祠官勤行祝詞勤仕

一、十一月十五日、印鑰大明神御祭礼御供物等右同行

一、十一月十五日夜伊勢大明神御祭礼大神楽祠官勤上

一、同十二日、平大明神御祭礼祠官勤仕

一、極月晦日、聖母大明神畑として、浦請地之畑より掛の魚鰤壱献上祠官御内陳へ奉備勤行祝詞言上其鰤五寸斗切肴にて神酒頂戴、残りの鰤中原弁次郎殿御頂戴

一、同夜祝い中より歳木歳繩門松奉備祠官御内陳にて勤行歳籠祝い不残歳籠右御祭礼諸神事之御供物散銭等不残祠官頂戴尤日々之散銭御初尾等同行

一、組方大神楽願物等祠官受納仕来り候

一、対州様御入津并勝本船旅船日和申し節供物等四ツ割二ツ祠官受納残二ツ分は市二人江遣祝方へも御供米一升つつ遣来候

右御尋被遊候に付勤来候趣書付指上申候

以上

勝本浦

吉野虎之進

 

勝本の漁業関係の神事

一月二日

船方の仕事始めをこの日に行う風習は各地にみられる。勝本では船乗り始めといって、船にふら帆を立て、歳繩を飾り、船霊様に鏡餅・神酒・ご飯・おなます等を供えて、船を乗り出し、その年の恵方に向かって乗り始めを行なっている。機械船になってからは若宮神社や羽奈毛の観音様迄参る船も多くなった。

船霊様とは、漁民や船乗りの間で広く信仰されており、船を守るという神また船中にて祭る神といって、船玉とも書き、船神様ともいっている。多くのところでは、女の髪の毛、男女一対の紙雛、二個のさいころ、一二文銭、五穀等をご神体として、帆柱を立てる「筒」の下に納めていた。今日では船の構造が変り、ブリッジの中に祭られるようになった。これらのうちで、女の髪の毛を入れるのは、他の品々よりも古風な信仰に根ざすもののようである。聖母神社にも昔は女の人がいろいろの願かけのため、髪の毛を切り、それを束ねて供えていた時代もあった。船主とか船頭とかの妻や娘などの毛髪を入れるというところもあるといわれている。

船の中での炊事役は一番年の若い人がその役目に当てられていたが、自分達がご飯を炊いて食べるときは、まず釜蓋にご飯を盛って船霊様にお供えしてからでないと食べてはいけないとされていた。

船霊様を女というのは全国的な伝承であるが、船霊様が「しげる」または「いさむ」などといって、豊漁や遭難などの吉凶を事前に予知してくれるという伝承も広く分布している。なお船霊様は、猿田彦大神あるいは住吉大神という人もある。

船下ろしに先立って、船霊様をいわいこめるのはどこでも船大工の役目で、その時の祝詞は秘伝のようにしている。台乗せ、台下ろし、いわゆる造船台の始めと終りに祭りを行なって船大工をもてなすのである。

進水して艤装が終ると、神主を招いて船霊祭りを行い、海上安全と大漁を祈る。祈願が終ると神酒を船の取舵側と機関のところにそそぎ、船主も戴いて終る。船据えのときは昔から艫をこつ、こつと叩いて、船霊様に船から降りてもらい、終ると取舵側を叩いて乗ってもらったといわれている。船で小便をするときは、面舵側からはしても取舵側からはしないという。面舵側は漁をするところ、取舵側は船霊様の乗り降りの道といわれるからである。

一月四日

聖母神社百々手講。勝本浦西部地区で毎年この日に行われる行事である。

西部地区八町が交替で当番町となり、町内の最年長者が宿元となる。

御箱があり、その中には当番町の各戸主の氏名が列記され、家内安全の祈りがこめられる。此の御箱は次年の当番町に渡すのである。

この儀式を御箱渡し、御箱受けという。

当日は当番町側より宿元を含む五名、次年の当番町側より五名、各町公民館長出席により神事が行われ、受け渡しの儀式が終り酒宴に入り、百々手講の行事はとどこおりなく終る。

この行事は、西部地区民の一年間の魔よけ厄払いの意味を持ち、又、勝本浦民の各種の御講の始まりでもある。

同様な行事として、翌一月五日に志賀神社百々手講も行われている。

一月七日

この日は綱打ち節句といって、年間の漁業用の綱を作る行事があった。これを綱打ちと呼び、向こう一年間を船方として働く者がきて手伝った。その日は餅をついて親しい家に配っていたが、今はすたれてしまった。

旧一月一七日

漁祭りとも初神楽ともいって、新しい年の海上安全と大漁とを祈る神事が沖世話人の主催で、聖母神社で行われる。戦前までは浦中の各船の船主が代表して参拝し、沖世話人は酒と肴と膾を準備して接待していた。戦後は酒が入手できない時期があったので、今日では各町に神酒を配っている。

この日の神楽は、長崎県の無形文化財に指定された壱岐大神楽が奉奏される。祭員七名で、約二時間半、大々神楽は六時間位かかる。この神楽は室町時代から行われていたといわれるが、詳しい記録は残っていない。寛文初年に両部習合を唯一神道の式に改めて、聖母神社で行なったのが現在の神楽の起源といわれる。この日、仏教では観音信仰と結びついて、羽奈毛の観音様に参って供養を行なっている。

旧三月四日

桃の節句または「花ちらし」ともいっている。各部落では一年の願立願成就といって、氏神様に参拝し、帰って部落別に山登りなどして懇親会を行なっている。

旧五月五日

端午の節句、菖蒲節句ともいう。各家の軒先には菖蒲とよもぎをさし、男の子の生まれた家では鯉幟を立てて祝っている。

旧六月六日

厳島神社、俗に弁天様といわれ、祭神は市杵島姫命を祀っているが、相殿に弁財天女を祀っている。市杵島姫命は宗像三女神のお一人で大島に祀られてある。厳島明神は市杵島姫命で、水の神として崇敬されている。室町時代の神仏習合説により、弁天様と称されるようになったといわれている。弁財天女はインドにおける仏教上の天部の一女神であるが、本名サラスパチー、水の女神の義であるといわれる。我が国では多く水辺、特に島上に祀られ、竜神として崇められる例となって習合し、その名を残している。

音楽の神とも弁舌の神とも、更に才智の神ともいわれ、子供達の水難と才智の神としての信仰があり、子供達のお参りが多い社である。

旧六月一五日(勝本の祇園祭り)

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【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社