天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本漁業史 第三章 ①~漁業の進展~

第三章
漁業の進展

一、磯漁の推移

海と海底
海の広さは、地球表面の約七〇㌫をしめ、陸地の二倍以上である。この海の大部分は深海であり、また大洋である。海は海岸からだんだんと深くなっていくが、水深二〇〇㍍ぐらいまでのところは、陸地からの堆積物がつもってなだらかな傾斜になっている。これを大陸棚と呼んでいる。
大陸棚は大陸や島の周囲を取り巻き、この水域を沿岸とか浅海と呼んでいる。この大陸棚は変化に富み、浅瀬や深みや暗礁などがあって複雑な地形となっている。このあたりは、海藻がおいしげり生物の生息するうえにも好条件に恵まれていて、大部分の生物がここで生活している。

海藻の分布
日本沿岸における海藻類の分布状況にはかなりの様相変化がみられる。それは日本列島が南北に伸びる長い海岸線をもち、しかもその周辺を流れる暖流と寒流が区域によってかなり違った影響を与えるためである。それらを考慮にいれて、現在では日本沿岸を大きく区分している。太平洋側では、宮城県金華山以北を寒海域、宮崎県南部辺までを温海域、宮崎県南部以南を暖海域とに三分する。日本海側及び九州西岸では、九州南端から津軽海峡入口までを温海域、北海道西岸を寒海域とに二分する。これがおおよそ現在の日本沿岸区分である。そしてこれにともない、海藻の分布状況もちがってくる。以下各海域に分けて海藻の分布状況を示してみる。
寒海性=コンブ類、ヒバマタ、マツモ、ギンナンソウ類、カレキグサ、フジマツモなど。
温海性=アラメ、カジメ、イシゲ、ヒジキ、ホンダワラ類、テングサ類、フノリ類、キントキ類など。
暖海性=カサノリ類、イワツタ類、サボテングサ類、ラッパモリ、キリンサイ類、マクリなど。

海藻(海草)
海にはえている藻類は、根、茎、葉の区別があるが、根は海底に附着する役目を果すのみなので養分は葉の全面から吸収している。多くは、茎の部分に胞子を生じて繁殖する。そして色によって種類が分られている。
緑藻類=浅い海に生じる緑色の藻で、食用となる。あおのり、あおさ、みるなどがある。
褐藻類=やや深いところに生ずる褐色の藻で、食用となる。こんぶ、わかめ、かじめ、ひじき、もずくなどがある。正月飾りや肥料となる「ほんだわら」などがこの類で、いずれもヨードを含むから焼いて灰としてヨードをとることができる。
紅藻類=深海に生ずる紅色の藻類。食用となるものには、あさくさのり、えごのり、寒天にするてんぐさ、つのまた、とさかのり、糊にするふのり、虫下しに使うまくりがこの類である。
海藻類は、海底、海中で固着生活をするが、全般的にみて冬あるいは春のころから初夏までが繁茂期で、盛夏から秋にかけてが衰退期となっている。

磯の生物
磯に住む生物を少しあげてみよう。
アワビ=あわび科の巻貝。耳形の貝がらの一方だけをもち、二㍍から一五㍍の岩礁にすむ。本州、東北地方以南に分布している。(黒鮑)
勝本では「いそもん」と呼ぶ。呼水孔は三個から五個ある。
トコブシ=北海道以南に産し、干潮線下の岩礁にすむ。呼水孔は六個から九個で、勝本ではトコボシと呼ぶ。
サザエ=軟体物動の腹足類に属している。貝殼は円錐形で螺層に管状の突起がある。主に温海の岩の間にすみ(東北地方以南)、夜出て海藻類を食う。肉はつぼ焼として賞味せられ、乾したものはかつて中国に輸出された。(あわび、さざえ等は褐藻類などの海草を食べて育つ)
ウニ類=棘皮動物。体は球状で栗のいがに似ている。皮膚の内にある多くの石灰質の骨庁が、正しく一〇列に並び、互いに密着して硬い殻をなしている。浅い海底の岩石の間にすむ。産卵期の卵巣を塩漬とし、雲丹として賞味する。
むらさきうに=直径五㌢ぐらい、普通ウニと呼んでいる。本州中部以南にすむ。
ばふんうに=ガゼの事、直径四㌢、三―四月産卵(他のウニは夏)雲丹の原料として最高。北海道以南にすむ。
こしだかうに=三㌢。殼の色に変化が多い。本州中部以南にすむ。
たこのまくら=長さ一二㌢。本州中部以南の浅海にすみ、傷を受けると緑色の液を出す(勝本でいうたこのまくらはヒトデである)。
ぶんぶくちゃがま=長さ五㌢、本州中部以南の内湾一〇から九〇㍍の海底にすむ。
がんがぜ=直径六㌢、本州中部以南にすむ。
普通のうには手で持っても痛くもないが、針のように長い棘をもつガンガゼはオニガゼともいわれ非常に危険である。棘の長さは殻の五、六倍もあり、針のように鋭く中空のため折れやすい。これに触れるとすぐ皮膚に折れこんで激しく痛む。一般にこの棘には毒があると思われているが、外国の学者の調べたところでは有毒成分は含まれていないといわれている。この棘の表面にはこまかい針のような突起がならんでいて、皮膚にささるとなかなか取れにくい。
ナマコ=棘皮動物に属する。体は長く瓜のようで、一端に口、他端に肛門がある。体はたいへんやわらかい。岩石の下面等に吸い付いている。
またなまこは再生力が強く、外的刺激によって内臓を肛門から出してしまったものでも失った内臓をニ―三週間で再生する。餌は海底の砂泥の中に含まれる微小生物で、その砂泥を含めて触手で口に押し込み微小生物だけを食べ、砂は糞とともに出す。
ふつう食用にされる種類は、日本各地の沿岸に分布するマナマコ、茨城県以北の太平洋側と日本海側の沿岸に分布するキンコ、奄美大島以南に分布するシカクナマコおよびアカミシキリ(アカワタ)、本州各地に分布するオキナマコ、沖繩本島以南に分布するバイカナマコ(ガジマル)などがある。多くのナマコ類の体内にはホロツリンというサボニンに似た毒素が含まれていて、これを魚に注射するとすぐ死ぬといわれている。しかしふつうの食用のナマコでは微量のせいか人体にはほとんど影響がない。煮て干したものは「ソリニ」の名で中国料理の高級材料とされ、内臓を塩辛にしたものは「このわた」、卵巣を塩漬けにして乾燥させたものは「このこ」といって酒の育などに喜ばれる。

人と貝類
貝類は、敏捷に逃げる魚類と違って、道具の貧弱であった原始人にも簡単に採取できた。そのため貝塚からも明らかなように、貝類は旧石器時代から食用とされていたのである。貝塚からの出土品は、その地方、地方によって多様化していることはもちろんである。しかしその中でもカキ類、アサリ、ハマグリ類が多く、巻き貝も割って食べていたことがわかる。現在でも貝類の食用としての価値は、一般に海産物をあまり利用しない欧米人でさえもカキに限って生食するなど、甲殻類に次いで賞味されている。海産に限らず、日本では淡水のシジミ、フランスでは陸貝の一種(エスカルゴ)なども利用される。
貝殼は、容器や道具として古くから利用されていたらしい。それは、遺跡から出土する土器中に、明らかにアワビ類をかたどったと思われる器のあるところから見ても明らかである。南方民族は、大きなシャコガイ類を水がめ用にしている。日本の北方土着民はカワシンジュを刃物に用いていたし、ホタテ貝類は皿の代用となり、イタヤガイは貝杓子になっている。
貝類は、その美しさと造形的な形から装身具にも用いられている。真珠層のよく発達したアワビ類、ヤコウガイ、マベ、シンジュガイ類などは螺鈿(らでん)や象眼の材料となっている。タカラガイ類やトウカムリガイ類は、層による色彩の相違を利用して、カメオやイタリア彫刻として美しい美術品となっている。ツノガイ類の首飾りや腕輪、マドガイ類の風鈴などは、南方ではごく一般的な装飾品である。南方土着民は、装飾的な意味もあるが、タカラガイ類などを地位の象徴としても用いている。
貝を貨幣として用いている歴史は古く、特に中国では殷(いん)の時代にすでに見ることができる。またアジア、インド、その他の南方諸地域では、近世までタカラガイ類を貨幣として用いていたし、未開土人は現在でも用いていることが知られている。
ホラガイなどの大型貝は、殻頂部を欠いただけで吹奏楽器となる。日本でも修験者等の「ホラ」や戦国時代の陣貝などに使われ、南海の島民も連絡や合図に用いている。
玩具としての笛は、ヤツシロガイやアカニシなどの中型の巻き貝に穴をあけて作る。テングニシをはじめ数種の貝の大型の卵嚢は、ホオズキとして女児の玩具として使われている。
「ウミホオズキ」はテングニシ、「ナギナタホオズキ」はアカニシ、「トックリホオズキ」はボウシュウボラの卵嚢である。バイの殼頂を切り鉛を入れた「ばいごま」は、現代のべいごまのもとである。また碁(ご)の白石はかつて日向灘産のチョウセンハマグリが珍重されていたが、最近はメキシコ産の同科の一種で代用されている。
養殖真珠の核も、淡水貝の貝殼から製せられた小球である。アカガイ類の空殼はイイダコ用の「タコツボ」に用いられる。カキ類、ハイガイの殻は貝灰の原料となる。
その他貝には種々の伝説があり、ハチジョウダカラガイ(子安貝)は安産のお守りとか、スイジガイはその形から火難除けの呪符とする地方もある。
人間に益するものばかりでなく、害となる貝も少なくない。淡水産のカワニナは肺吸虫の中間宿生、タカヤマガイ、(別名ミヤイリガイ)は日本住血吸虫の中間宿生になっている。またヒメモノアラガイは羊の肝蛭(かんてつ)の中間宿生、淡水生腹足類には人間および動物に寄生する吸虫類などの中間宿生が多い。しかし、カタヤマガイにも見られるように、その完全駆除は非常にむずかしく、地方病に悩まされる人も少なくない。間接的な被害を与えるフナクイムシ類やキクイガイ類は、木造船の船体や木材の海中構築物を食害して損害を与える。またニオイガイ類はコンクリート製の橋げたなどに損害を与えた例がある。陸貝が野菜や果樹に与える損害も大きいし、オウウヨウラクやマダコはカキ養殖場や真珠養殖場に侵入して食害する。
このように古来より人と貝類の結びつきは、いい面においても悪い面においても深いものがあった。そしてこの深い結びつきは現在もいや未来でも変らないだろう。

磯漁と三世紀の倭人
私達の遠い祖先は、海の幸をどのようにして得たのであろうか。邪馬台国は九州だ、畿内大和だと論争は盛んであるが、そのもととなった通称『魏志』倭人伝(中国の三世紀後半に書かれた二千字余りの、わが国に関するまとまった最古の記録)の中に当時(弥生時代)の人々の生活ぶりが書かれている。
それによると、末盧国(唐津附近)では好んで魚腹(アワビ)を捕え、水深浅となく皆沈没してこれを取る。倭人の男子は皆大小となく顔にも身体にもいれずみす(これは恐しい魚や動物をおどし身を守るためである)。いま倭の水人は好んで沈没して魚やはまぐりを捕える。又、いね、麻をうえ蚕を飼い、桑(くわ)を植え糸をつむぎ、麻糸、絹布を出す。以下略
わが壱岐でも、四周海であるから当然同じ事がおこなわれていたであろう。浜に出てアワビ、サザエをとっていたであろう。麻や絹が作り出され、機織りの技術があるのだから、釣糸や魚すくいの「タボ」ぐらい作っていたかも知れない。又、壱岐の遺跡から、鯨の骨で作ったアワビ取りの道具が発見されている。

旧藩時代
平戸藩時代の壱岐では、沿岸を八つの浦に分けて各浦に浜使を置き、その上に浦役所を置いて管理させていた。八ケ浦とは芦辺、郷ノ浦、勝本、八幡、印通寺、湯ノ本、瀬戸、小崎をさしている。
各浦民はこの領海を請海といい、みんなの財産として「入会」(いりあい)の漁場とした。しかしそれは自由漁撈を許されたものではなく、以下のような条件がつけられていた。
一、「あわび」は幕府の支那貿易品であるから特定の漁民、小崎、八幡の両あまに区画特許する。
二、「わかめ」は許可を得て税を納める者は在、浦の区別なし。
三、「肥料藻」は農家の自由採取に委ねる。
四、「他の魚貝」は農家(在部者)でも自家消費分は勝手に取ってよろしい。
この条件下における勝本漁民の漁場(請海)は「東は箱崎邑(むら)と新城邑との境、黒平場鳥帽子石に限り、西は本宮邑産屋崎限り、奥の島々勝本浦のしる所なり」と壱岐名勝図誌(一二〇年前)に記されている。その沖合いの限界については知ることができないが、当時の漁撈形態から考えて地付漁場限りであったものであろう。

小崎海士の特権
磯漁最大の価値ある獲物「アワビ」は、小崎浦の海士(あま)が壱岐の採取権を持っていた。太閤秀吉の朝鮮出兵の際、水先案内人として筑前鐘ケ崎と肥前名護屋から連れて来た海士が小崎海士である。そしてこの時の戦功により、壱岐全部のアワビ採取権を与えられたという。この太閤の「御墨付」なるものについてもいろいろと詮議されてきたが、アワビの採取権といっても小崎海士だけが取るのではなく、他浦の者は自分の地区内だけの採取はしてよく、他地区に公然と入れるのは小崎海士だけということのようである。
小崎海士の特権が、平戸藩によって認められ続けてきたということは(徳川家康のものなら当然であろうが)平戸藩にとって都合の良い事だったからに他ならない。他国との貿易によって富を得ることは、古今東西の例によっても明らかである。鎖国以前における平戸港は日本有数の貿易港であり、その「うまみ」は充分知っていたのである。当時のオランダ、中国に向けての有力な交易品を産出しない平戸藩では、対中国向けの海産物(ナマコ、アワビ)の増産は最大の至上命令であったろう。その捕獲についても種々検討を加え、他浦のものに地元を荒らさせ競争心を刺激して浦人どもに増産させる手をとった。なにしろ義人、百姓源蔵を出した悪名高き平戸藩のことである。当時うまい手段をとったものである。

中国貿易の目玉商品・海産物
徳川三代将軍家光による鎖国令により、オランダ、中国だけが長崎で貿易をおこなうようになった。重大な関わりをもった平戸藩(六万三〇〇〇石)の城下町としての平戸を歴史的にふりかえってみたい。
古来、大陸への航路にあたり、遣唐使をはじめ宋、元貿易船なども往復途次に寄港した。戦国時代、明の海商の一根拠地となり、巨頭王直らが勢力を張った。天文一九年(一五五〇)ポルトガル船の入港がはじまり、永禄四年(一五六一)まで連年入港した。また天正一二年(一五八四)ルソンからスペイン船も入港した。慶長一四年(一六〇九)オランダ船が、慶長一八年(一六一三)にはイギリス船が入港し、幕府の通商許可を受け、それぞれ商館を建設して日本貿易に従事した。しかしイギリス人はオランダとの競争に破れ、元和九年(一六二三)商館を閉鎖した。鎖国政策の完成により寛永一八年(一六四一)オランダ商館は長崎出島に移された。その間、堺や京都の貿易商も集まり、中国人の往来も少なからず、平戸はもっとも繁栄した。その後は一部、糸割符商人もあったが松浦氏の城下町として、また漁港として続いたのである。
長崎貿易における輸入品は、生糸、絹織物、薬種、砂糖、蘇芳(染料)、胡椒、伽羅などであった。輸出品は銀、銅、樟脳、硫黄、俵物(煎なまこ、干しあわび、ふかのひれ)等であった。
この間、中国船の来航は激増し元禄元年(一六八八)には年間七〇隻に制限するに至ったのである。

朝鮮使節の接待
徳川時代になってから、将軍の代替りごとに朝鮮から慶賀の使節が日本にやって来た(日本では来聘(らいへい)使と呼んだ。朝鮮では通信使、又は祝賀使の名目であった)。これは将軍一代に一度のことであったので、幕府では多額の国費をいとわずに(はじめ一〇〇万両、新井白石の大改革後は六〇万両に減少した。)この信使を丁重にもてなした。その使いは江戸への途中先ず対馬と壱岐に立寄った。沿道の藩主は、将軍の命令でこれを接待せねばならなかった。
明暦元年(一六五五)七月の朝鮮使節接待の資料をみてみたい。徳川家綱が五代将軍に襲職したのを慶賀するため釜山を出発した趙桁の一行は、その途中対馬の府中に立寄り、二一日の朝対馬を立って壱岐の北端にある勝本に向った。その頃の勝本は海が深くはいりこんだ港で、漁師の家以外には接待するのに適当な場所がなかった。それで東の海岸の山を崩(くず)して海を埋めた。これが今の築出である。そこに宿舎を建て、接待の調度や食料が用意された。この時の信使の一行は四八〇余名であったので、食料を整えるのも大変なことであった。一行が二六日この港を立つまでに、米が五〇石(七五〇〇㌔)、するめが五〇〇〇斤(三〇〇〇㌔)、やまいも一五〇〇本、酒が一五石、卵が一万五〇〇〇個、あわび二〇〇〇貫要したという。このように手厚くもてなされた一行は、八月四日下関に着き、一〇月二日に江戸に到着した。あらしが続けばそれだけ長く滞在されるので、接待も大変だった。藩主はひそかに沼津村有安の爾自神社に幣帛を献じ、順風を神に祈ったという。
安永五年(一七七六)勝本浦正村神皇寺前面二五三坪を築出し、内一四三坪を神皇寺の用地として一一〇坪を土肥市兵衛預けとし、朝鮮信使迎接用地とした。それ迄は築出の用地で、正徳元年(一七一〇)、享保四年(一七一九)、延享五年(一七四七)、宝暦五年(一七五五)の四回迎接している。
幕府では財政窮乏のため一一代将軍家斉のときから、この慶賀を対馬で受けた。そのため二人の高家が玄海を渡って対馬におもむいた。
使節は正使以下、だいたい四〇〇人台で少なくて三〇〇人、多いときは五〇〇人にのぼった。これは琉球使節と並んで徳川将軍の権力を誇示する道具だてとなったから、幕府では財政上多大の犠牲をはらって迎接した。
このような使節が来て迷惑するのは農漁民で、前記の接待用の食料はすべて臨時徴集として、平戸藩が壱岐の農民漁民から集めたものである。その負担は、たいへんなものであった。

一二〇年前の小崎浦と八幡浦
小崎浦(家居六三戸)では毎年五月下旬より八月頃まであわびを取る。船には「長崎御用」の小旗を立て、風本海の灘、瀬戸海の赤瀬、渡良大島の後根滝などで取っていた。一〇尋から一一、一二尋ぐらいもぐるのである。あわびを取るには一尺四、五寸ぐらいの鉄の「あわび金(がね)」というので、海底の石にいる(ころび石をウネといい、またソネともいう)あわびを一人一つ或は三つ四つ石からはずすのである。ときによっては呼吸が苦しくなる時もあり、辛い仕事である。
取ったあわびは、串あわびにする。この製作法は次のとおりである。あわびの色白赤きを取り、貝からはなし板にふせ上を撫でて広くする。それを上より厚さ二分位宛(約七㍉位)にすき切りにし、あつい湯でゆがき横にわって串を通すようにする。それを竹のくしに五ツ宛さして繩に通して干す。一〇串を細繩でくみ一連とする。夜は板にはさみ、昼はかげ干しにする。そうやってつくられた串あわびは、四尺五寸の小(こ)櫃(ひつ)に入れて城下に積んでいく。国守に六八連をおさめ、長崎に数百連をおさめている。
〈塩煮あわび〉これは、生貝をおこし二夜ばかり塩につけて、それを海水で洗い竹の串に横に五ツ宛さして、五串ずつ細繩で両方をくみ日に干したものである。国守に五連、長崎に一二五連おさめたとなっている。
また小崎部落は、当時の九州西海捕鯨にとってなくてはならない「ハザシ」の供給地であった(もちろん勝本の鯨組にもハザシとしてやとわれていた)。
・八幡浦
民戸六十五烟、内一烟酒屋、口員五百十一人
内男二百九十人 内女二百二十一人
船舶四十五艘、内二十五反帆一艘 内伝通 三十二艘
内 五反帆十艘
当時の名物は、いわゆる藻焼あわびとあわび熨斗、小都根のひじきである。
藻焼きあわびの製造法は次のとおりである。まず藻を地上に敷きその上に松割木を積み、上に雄あわびの大きなものをならべ火をつけて焼く。そしてあわびを貝からはなし、貝の目を味噌でふさぎまた貝の内にもぬり、それに身を入れて焼く。焼けるにしたがって醤油をさし加え、竹の串でよくさし通してまた酒を入れる(貝一つに味噌一〇匁ばかり、酒は三合ばかり入れる)。しばらく焼いたのち、火からおろし、そのまま、まわたとともに切って食べる。その味はなんともいえない位おいしいとされている。
のしあわび(熨斗鮑)は次のようにつくる。雄あわびの生をまず貝からはなし、よく端をそろえ、まな板の上でみみの方から八枚立、又は一〇枚立ぐらいにへぐ。それを竹にかけおもりをつけて長くのばし、畳の表につけてのして干し上げたばねる。のしあわびの製造は夏の暑いときが一番よく、寒気の時分は塩湯でのすとよい。これは例年、国守に五二把産物として、献上したという。また伊勢の大神宮にも、参拝ごとに二把奉献した。これは恒例である。
あまは、海人の他に蜑とも書く、海中にもぐって海草、貝類などをとる漁師のことでこれを職業とする婦人を海女という。

磯(潮干狩り)
磯とは、湖や海の岸の石のあるところをいう。しかし勝本では場所をさすのではなく、普通海岸の磯付漁場の動植物の採取のことを「いそ」といっている。
いそをする方法は種々あるが、陸から取る事を「カチいそ」という。これだと大人に限らず女、子供にでも簡単に貝類を取ることができる。陸からの天ガ原(灘)御棚などとともに、名烏、若宮、辰ノ島などの島いそも重要であり、船渡しによるカチいそもある。
カチ磯はいつでもというわけにはいかず潮時に従わなければならない。旧暦の一二日頃から二〇日まで(一五日から一八日までが最も潮干が大きい)がその潮時である。潮流れの項にあるように表潮と裏潮があって、よく潮の引く時とあまり引かない時がある。春は昼間によく潮が引くので旧暦の三月節句時分の磯を節句磯といい、この時分がカチ磯に最も適している。
小船をあやつって魚貝、海藻などを海底より取ることを「船磯」という。これは簡単というわけにはいかず、或る程度の熟練を要する。
他に「もぐり」がある。海人、海女が普通行うが、勝本ではごく短かい期間、成人男子のごく一部だけが従事した。
ミナ拾い、フノリかき、オゴ取りからはじまって、潮が引くとウニ、ガゼ取り、サザエ、トコボシ、アワビ等を探(さが)し、ヒジキむしりやホヤノリ、アオサ、ミル、天草、ワカメなど各人おもいおもいにいそをする。熟練した者は、全身海につかり獲物を探す。
又、正月頃の岩ノリ取りもある。

船磯(鉾漁=いそもん取り)
小船をあやつって磯付漁場の魚貝、海藻類をとることを目的とする漁撈である(いつの頃から船を使用しはじめたものかは、史料がなく不明である)。突手と漕手の協力によって、風と潮とに抵抗して位置を自由に保ちつつ移動することができるから、漁撈能率を高め漁場を湾外や沖合に拡張することができる。
海底を見る方法として、カジメのドレを流したり、ワラを束ねて油をつけそれで海面に油を流したりする方法がとられている。このようにして三、四尋のところまで、漁撈ができたと伝えられている。しかしその透視力は極めて低く、不完全なものであったにちがいない。でも海の方は、現在とはくらべようもないくらいきれいであったと想像される。

箱(磯)メガネ発明
磯漁において一大革新をもたらしたものは、「イソメガネ」の発明であろう。これは大阪において或る家の女中が、ガラス障子を洗っていてその障子を見て水の中が見える事がわかり、これがヒントで発明されたという。勝本において箱メガネを使用したのは明治一六、七年頃からだといわれている。
この漁法では、ネリ(漕手)は常に突手の指図とホコさばきの状況を見て、敏速かつ適確な船の操縦をしなければならない。突手はおもかじ側のおもての間から突き、ネリに船を動かす指図をしなければならない。ネリは、「おさーい」の声で櫓を前方へ突き出すように押し、「しかーい」では櫓を手前に引いて船を廻し、「ねらーい」で櫓を小きざみに押して船を前進させる。その間、もり竿の立ち方に注意し、突手が獲物を取り良いように加減しなければならない。
道具はいそもん突きといって、カシの木で作り四角で握り良いようにしてある。この竿の先にとがった金具を付け、アワビを一回おこしてから小さな二又のホコで突き取る。サザエはさみは、カシの木に丈夫な六番線ぐらいの金を三本付け先をまげ、それに竹の竿を付けたものである。戦時中の話であるが、沼津のアワビおこしは何時の頃からか二枚金で突きはさみホコは使用しないとのことであった。
上手な人では、五尋から六尋位のところまでアワビを突くという。アワビをホコで突き取るとき、死なせないために身の部分はさけ、なるべく薄い端(はし)の方を突かねばならない。またナマコは、ホコ突きである。舟磯の専門を「本職」と呼ぶ。本職ともなれば「したとこ」(海底の様子)を見ただけでアワビのいるところ、いないところがわかるという。アワビが岩にいても、上から見て平にいる場合は取りにくい。そのような時は貝殻を突いておいて他の船にまかせ、自分は先に進む。アワビは背中をさわられると、かたく岩に吸い着くので取りにくくなる。素人は、これにひっかかってずい分時間がかかる。これもカケヒキである。磯漁の盛んな時は、専業者が三〇艘もあったということである。

ワカメ(メノハ)切り
勝本では昔から「ワカメ」の名称を「メノハ」といい、船から採取することを「めきり」と呼んできた。
ワカメはその場所によって差はあるが、大体二月上旬から下旬に芽が出はじめる。そして寒い間は、ゆっくり育つようである。一番ワカメを切った後の二番、三番のワカメは、最盛期の四月末から五月初めにかけて成長が良く「信じられないくらいの早さ」で大きくなる。最初のものほど先の赤葉が少なくおそくなる程多くなるようである。きめきめとした感じの一番ワカメが珍重される。ワカメは(他の海藻も同じであろう)寒がするほど良く、雨も適当に降るほうが太りが良いといわれる。メカブから放出された胞子の発生適温は、一二度から一七度である。
昔からメノハはカマゾウの音を聞かせないと太らないといわれてきた。密生を間引くと、栄養分のまわりが良くなり他のものが良く太るということであろう。事実、最盛期には切るあとから次々と大きくなる。農家の麦刈りや稲刈りのように、一回で切りつくすことはない。普通同一の瀬で、三回は切る事が出来る。最後の頃に、背が低く幅広いワカメが生えるが、これをウズキメ(卯月芽)またはウズクメと呼んでいる。ところが最初のワカメを立ち枯れさせると、その年は一回かぎりでおしまいのようである。ワカメは五月末から六月にかけて「めかぶ」が成熟し、胞子が出てやがて枯死、流失してしまうのである。

口開け
昔のことはよくわからないが、大体一定の期日を定めて解禁日としていたようである。戦後では、早い年で三月二〇日頃から、おそい年で四月一〇日前後からとなっている。終りは大体梅雨期に入るまでであった。

道具
カシの木を細く丸く手ごろに削り、半尋ぐらいにする(スゲネー)。その先に「そり」をもたせた八寸から九寸のカマを付ける(カジメ切りは九寸から一尺もの)。これを「カマゾー」と呼ぶ。五尋から六尋の長竿では、スゲネーを一尋から一尋半にする。または竹を継ぎ足したつぎ竿を用いる。これに各人それぞれの長さの女竹を付けて(女竹は雑木林のものがノエが良く長い。木に負けまいと競争して長く成長するという。長いもので四尋半ぐらい。五尋〔八㍍五〇〕のものは稀(まれ)である)使用する。普通は三尋から四尋ぐらいのものであろう。
このかまぞう竹を使って海底のワカメを切るのであるが、切って、引っかけて、あげるのくりかえしである。本職はなるべく多くのものを切りカマ一杯(ぱい)にひっかけてあげるが、なれない内は少しずつ早くあげる回転専門の方が能率がいい。要領は、カマのそりを利用することである。そうすれば竿づかいは思いのまま、あまり力もいらず肩の附近もぬれず簡単に使える。ネリもアワビ突きのようには忙しくなく、風上に舟をたてて切り手の指示に従えば良く、風のときはいたってヒマである。くびり石を投げ込んでやる一人乗りでも、工夫次第では二人乗りに負けない働きが出来るようである。尚三人乗りでトモ、オモテから二人切るのを二丁がまという。
製品は素干しワカメといわれるもので、メカブもつけたまま竹竿にひっかけて干し、ムシロ、海棚、石やコンクリート等の上に干して仕上げる。めかぶは目方をふむので切る時はぜひともつけるようにした。めかぶをつけない者は下手(へた)だとされた。干し上げてから「シト」といって塩水を撒(ま)いてしっとりさせてから売った。またワカメは雨に弱い。乾燥機もなかったし火であぶる事もなかったから、長雨が降り気温が高いと腐れた。特に麦の色づく頃の長雨は用心しないと、折角切って来ても商品にならないことがあった。

戦時中(壱岐要塞化)
大正一五年、郷ノ浦に要塞司令部が設置されて壱岐の要塞化が始まった。昭和の初め頃から東洋一といわれる黒崎砲台の建設にかかり、その観測所として出発した名烏島も、いつの間にか一五サンチ加農砲四門を有する砲台と変ってしまった。そして大東亜戦争もたけなわとなるにつけ、周辺の磯漁もみだりにできなくなっていった。
昭和一七、八年頃になるとあぶらめ瀬戸の通行もできなくなった。この頃の事であった。ワカメの宝庫名烏島の北側を切るべく、軍部にお願いしたのであるがなかなか許可がおりない。そこで磯の世話役の人達が一日アワビ取りの奉仕をして、それを献上してワカメ切りの酢可を得た。さて当日、島の上から兵隊の監視付きである。地の方であったが一定の線から内へは立入らない事を申し渡されて、操業を開始した。メデノワダ附近が最も厳重であった。ネリは禁止区域が判るからハラハラするが、切り手は夢中、ネライ、ネライの連続である。なにしろカマにかかりきれないぐらい一回に切れるのである。船にあげる時も手ではなく腕にかけて大ワカメをあげる。繩が張ってあるわけではないから、ツイ禁止区域内に入るのである。一艘でも入ると途端に上からラッパの音、トテトテタ……桑原、桑原と急いで止めて沖に出るわけである。こんな思い出もあった。
当時はワカメが多かった。組合でも時々生(なま)で受取り積出していた。一斤が四、五銭だった。干しあげて一斤が三〇銭から三五銭ぐらいだったから、良い収入だった。(当時の大工賃が五円位であった)
終戦の年(昭和二〇年)は空襲もあっていて、各町内会(隣組)は自分達の防空壕掘りに大忙しであった。軍の工事も名烏、辰ノ島とも急ピッチで進められ、町民も順番で動員されていた。(日当は男子で一日一円位。後でまとめて役場=現保育所で支給された。)小船の所有者で元気な者は、みな作業員の運搬である。終戦年は磯どころではなかった。

旗立て制
頃は三月花の頃と唄われる、うららかな春の訪れの時、勝本では「艱難(かんなん)の春」といわれるブリの閑漁期になるのであった(曳繩「艱難の春」参照)。
それゆえに人々の目は、自然に磯に向けられた。従ってロ開け日は小船がひしめき、蒙古軍の来襲もかくやと思うばかりの有様であった。ワカメの少ないとき等、僅か数時間で切りあげてしまった。そこで考え出されたのが、「或る程度大きくしてから切ろう」という事での旗立て制であった。
各町から一名宛の世話人を出しワカメ組合を作り、組合長、其の他の役員を決めてワカメ一切の世話をした。日和見、旗立て、監視、乾しワカメ集荷の世話などである(もちろん大事な事は親組合にお願いした)。操業地を「うちめ」と「そとめ」に分けて、うちめは専業者に解放し、そとめは大きくして適当な時期にみんなで切った。そして毎回ごとに、めかぶを買い上げ元の場所に投入された。毎年、カジメの切り捨てが実施された。薬品のホープであったヨードも化学薬品にとって替られ、この頃ではカジメも厄介ものであった。
このような努力の結果大成功で、他浦の不漁を尻目に増産につぐ増産であった。さしずめ昭和三〇年代はワカメの黄金期ともいえよう。

分け口
船磯における漁獲物の配分方法は、船と漁貝を突手が負担し、ねりは労力のみである。大体、船一口、一人一口で二口、計三ロであるから、三分の二を突手が取り、三分の一がねりの取り分である。(船半口、二ツ半割りの船頭方もある)

ワカメの人工養殖
昭和三四年春のことである。「新潟、宮城など寒い地方の一部でしか出来なかったワカメの人工養殖が、暖国の海でも出来ることが熊本水産試験場の研究で判り漁業界の朗報となっている」とこのような新聞報道がおこなわれた。
はじめは漁民も、この養殖ワカメに大きな期待をかけたのである。しかし農家におけるミカンと同じでやがて供給過多となり、ワカメ製品価格の集落となってはねかえってきたのである。天然ものを苦労して切ってきても日当にもならないとあっては、他の仕事をした方がよく、最近では土産用に一番ワカメを切るだけとなった。
勝本のワカメ養殖は、昭和二九年青年部が山口県の日本海側沿岸を視察、その時修得した「イカダ養殖」を同年六月から以後二ケ年に二回実施した。しかし天候の都合で見るべき成果はなかった。

カジメ
奈良の正倉院に、約一二二〇年前の国家の珍宝が保存されているが、そのなかの文書(東大寺文書)に海藻についての記録も残されている。それによると、カジメとアラメ(ウドンとチリメン)も区別して書いてあるという。ということは、大昔からカジメも大いに利用されていたことがわかる。
カジメについての新しい利用法として、ヨードの製造がある。また戦時中、カジメの焼き灰は火薬の原料になるといわれ、勝本で焼かれた灰は対馬に運ばれていた。ヨードについて説明しておこう。ヨードは沃度と書き、黒ずんだ紫色の板状に結晶し一種の臭気があり、熱すると重たげな紫色の蒸気となり冷えて容易に結晶する。水には溶けにくいがアルコールには良く溶け「ヨジウムチンキ」となる。またヨードは沃素と呼ばれ、医薬その他工業上に必要なものである。

ヨード製造
明治三一年に千葉県より業者が来村して、勝本でヨード製造をはじめた。当時は極めて幼稚な方法で、規模も小さく、朝に海藻を採取し夕方にヨードを得るという状況で、その生産額も極めて少量であった。その後、田ノ浦に工場が建てられ一時は盛況を呈したが、しばらくして工場は閉鎖された。
明治三二年、熱心な研究家田口喜一郎氏が御手洗(みたらい)に工場を建設した(田口沃度工場)。そこで苦心惨憺して努力した結果、その経営も次第に向上した。そして一時はその原料(主にカジメ、ホンダワラ)も地元の分だけでは足らず、買い集めの人を遠く平戸、五島、済州島、朝鮮方面に派遣し、かの地で焼製せしめた灰を取り寄せ精製したこともあった。御手洗附近の農家では、船から運ばれて来た燃料の石炭揚げにやとわれていたという。最盛時の消費原料一〇万数千貫。ヨード三〇〇〇貫(当時ヨード一貫一円七〇銭)を生産した。
大正三年七月から同七年一一月まで、約四年半に亘る欧州大戦争のため(第一次世界大戦)、それまでドイツから輸入されていた薬品としてのヨードが入らなくなった。この頃、馬場先の浜辺(現、福屋荘附近の土地)に中上沃度工場が建てられ、操業を開始した。しかしやがて第一次大戦の終結とともに薬用ヨードの暴落をきたし、その影響により工場の経営も困難になり閉鎖された。

カジメ切り
カジメ切り専業は、量との戦いであってなかなかの重労働である。ワカメ切り作業が技巧に頼る仕事とすれば、カジメ切り作業は力に頼る仕事である。
ワカメ切りは時候の良い春であるが、カジメ切りは梅雨明けの七月からであり暑い盛りの重労働である。最初の一日、あんまり頑張りすぎると、翌朝便所に行くのに立ちあがれずにはって行ったという。始めは浅い瀬の上から切りはじめ、しまいには五、六尋のところまで切った。カジメはワカメのように次々に育つというわけにはいかず、一回切ると来年まで待たないと育たない。船一杯に切ったカジメを近くの小石原の陸にあげ、家族が「モッコ」等で運び、広げて干すのであるが、同業者が多いと良い干し場を競争で取り合った。切り手は一生懸命頑張るからすぐに満船になり、その都度運んで干した。乾燥も、条件の良い時には大体一日で仕上る。しかし日が暮れて持って帰れない時や、或る程度乾いて雨の降りそうなときは、「トシャク」といって昔、田舎で稲束を積重ねてあった(稲むら、又はいなずか)ようにまるい小山を作った。こうしておけば雨が降っても表面だけがぬれて、中は大丈夫であった。このようにして良く乾燥したものをまた船に積み込んで持って帰るのであるが、数日分もたまると、四畳半ぐらいの部屋は一杯になる程である。
大正期におけるヨード製造時は、カジメと共に藻も切って干したという。しかし「稼ぐに追いつく貧乏なし」の諺どおりカタイ仕事ではあるが、大変な仕事であったと考えられる。

カジメとアラメ
植物図鑑によると、カジメ(ウドン)、アラメ(チリメン)とある。これに従えば、我々がいうカジメ切りは正しくなく、アラメ切りといい直さなくてはなるまい。
海藻類は全般的にみて、冬あるいは春の頃から初夏までが繁茂期で、盛夏から秋にかけては衰退期になる。
アラメ「チリメン」は一年かからないと大きくならない。大体一一月のはじめ頃は、殆ど古葉ばかりで新芽は一、二本しかないが、正月頃には数本になる。あまり食べなくなる三、四月頃が、もっとも新芽の多い時である。これは寿命が長く、時季が過ぎても枯れることはない。しかし数年たったと思われる茎が黒く堅いものより、一年、二年ものの方が葉の繁りが良いようである。
大戦中、又戦後の食糧難の頃は、カジメを副食物(つくだ煮)の原料として採取した。また、肥料にも多く用いられたが、化学肥料の発達により全く使用されなくなった。

ウドン(カジメ)
チリメンについては一般に良く知られているが、ウドンについては余りその生態は良く知られていない。もちろん生態などの文献などお目にかかれず、図鑑にその形が描かれているだけである。
これはチリメンと違い成長するのに一年はかからないようである。一一月中「フカリ」に時たま見掛けるが、古葉ばかりで食べられない。一二月中頃からボツボツ見え始め、最盛期はワカメの芽が出る一月の中頃から三月頃までであろう。最盛期は極めて短かいようで、四月のワカメ切りのとき何本か切ってみるが、バサバサしたものになっている。カジメ汁にむくからと、早い時期に海底を探しても見えない。今年は駄目かなと正月頃見回すと、今度は一杯あるという具合である。
ウドンは浅いところには余りなく、干潮時五、六尋のところが最も多い。深いところのものほど葉が大きくピラピラとやわらかそうである。これは切っても引っかけにくく、チリメンのようにハカがいかない。従ってヨード製造用に切る者もいなかったであろう。ワカメのように枯死流失してしまうといい切るわけにいかない。前記のように何本か古葉をみかけるからである。現在ではワカメとカジメの「合いの子」みたいなものと考えられている。

カジメ汁
壱岐・対馬の磯辺では冬の間、小舟を漕ぎ、箱メガネで海底をのぞきながら長い竹ざおを海中で操っている風景をよく見かける。海藻のカジメ採りだ。カジメはワカメに似ているが、ワカメより分厚く表面はザラザラしている。
壱岐、対馬ではこのカジメを、みそ汁の材料に好んで使っている。カジメを細かく刻んでワンに盛る、それに別につくったみそ汁をかけて出来あがり。カジメから粘液が出てみそ汁に溶け込み、風味がよい。みそ汁のなべにほおり込んでもよいが、あまり煮たたせると粘液が出すぎてドロドロになってしまう。カジメの切り方は巻いて切ると切りやすい。もともと家庭料理だが、対馬では多くの食堂、日本料理店のメニューにカジメ汁が入っている。
初めて食べる人には独特のにがらっぽさみたいなものがあるが、なれれば「ワカメのみそ汁なんかとは比べものにならないくらいうまい」と島の人はいう。単身で、壱岐、対馬に転勤して来た人の中には「カジメ抜きでは朝めしにならぬ」とか、「カジメのみそ汁を作るのを日課にしている」とかいう人が多い。カジメは一一月中旬から二月中旬に採ったものが軟らかくてうまい。

もぐり
もぐりとは潜水して海中の魚介海藻を採る漁法である。原始的な潜水漁法は、古代には一般的な生活技術であった(魏志倭人伝)。今日では漁業者の一部である海士、海女の特技である。あまという語(ことば)はもともと海をさしていて、あまのつり舟などといっていた時代には、あまは漁業者の総称であった。現代でも漁師を「あま」という地方がある。
男あま(海士)女あま(海女)は一、二県をのぞく沿岸諸県に散在しているが、千葉県の房州、静岡県の伊豆、三重県の伊勢、志摩の海女、山口県の大浦、福岡県の鐘崎、福井県の雄島、石川県の舳倉島などの有名なあまどころは大方海女が主になっているため、海士よりも海女が著名である。
あまの採取する海産物はアワビ、サザエ、イガイ、トコブシ、ガゼ、ナマコなどの貝類、テングサ、エゴ、ワカメ、コンブのような食用海草、ツノマタ、カジメのようにのりやヨード剤の原料や肥料用の海草である。アワビは今日も高級海産物として珍重せられているが、交通の不便な一〇世紀ごろ(平安期)には生アワビのほかに干しアワビ、蒸しアワビ、のしアワビ、すしアワビなど今では忘れられた加工法があって海に遠い都市にみつぎ物として運ばれている。のしアワビなどは、庶民の間でカツオ節やするめなどと似た役割をはたしていたようである。近世になると、俵物の一つとして干しアワビが海外に輸出されている。テングサ、エゴなどの海草が寒天の材料として需要を増したのは一九世紀ごろからで、これにともない比較的浅海に潜水するテングサ海女の数が増加した。
海女の潜水作業を房州では「もぐる」、伊豆、志摩では「かずく」、佐賀関では「すむ」、徳島県阿部村では「むぐる」とも「かずく」ともいう。古書には、潜水作業を「かつき」潜女すなわち海女を「かつぎめ」と呼んでいる。「かずき」は、負(ふ)戴(たい)運搬に関する用語として各地で使用されている。潜水に関する用語と負載の用語と関連をもつことは、漁業者と負載して行商する者との関係を考えさせる。
房州では一回の潜水を「ひといき」といい、その「ひといき」を数十回連続してくり返すのが一作業でこれを「ひとおり」という。「ひとおり」の間は船上にあがって休むことも暖をとることもせず、船端(ふなばた)や浮樽につかまって呼吸をととのえ、再び海底に沈潜するはげしい労働を繰り返す。一おりの作業は約二時間、一日三おりするのが普通であるが、息を調整することをふつう「いそふく」という。一作業中連続して潜水すると夏でも冷え込んでくるので、船上の火鉢に火を燃やすか浜に上ってたき火をする。以前は塩水を満たした桶に焼石を入れ、密閉して船中に持ち込み、これを浴びて暖をとることも行われた。五、六尋(九―一一㍍)の浅海にもぐるときは、「あまおけ」「すみだる」「まげだる」または「いそおけ」と称する桶やたるを浮かして、これにもたれてしばらくの休息をとる。桶の中に獲物を入れるか、または浮きだるに採取物を入れる袋をさげる。七〇―八〇年前は、板あまといって一枚の板を浮べて潜水した。五、六尋の浅海に潜水する海女を「ふなど」あるいは貝海女という。
アワビは一五―一六尋(二七―二九㍍)、二〇尋(約三六㍍)の海底でもとれる。これには船を用いる。船でいくには夫婦家族が一組になって出るので、「ととかか船」ともいう。潜水はひとときの間の作業であるから、早く沈下し早く浮上してなるべく多くの時間を海底の作業に費やし、多くの獲物を得なければならない。それで浮上を助けるもの、沈下の速度をはやめるものの工夫が昔から行われている。『枕草子』(一一世紀初め)にも、船上の男が海女の腰につけた綱をたぐって浮上に力を添えている様子が記されている。
これを「いきずな」命綱という。
このひき綱を磯車と呼び、滑車で引き揚げるところもある。男女一組になってする「ととかか船」に他家の船頭を頼んだ場合には、船頭四、海女六の割合で収入を分配するのが全国共通である。七〇―八〇年前までは「みつわけ」「みついい」といって、採った貝を三つならべて二つは海女がとり一つは船頭にやったという。分銅を使って沈下する速力を早めても、採取する能率は倍加する。志摩の岡崎では石に穴をあけて綱を通して分銅にしたこともあり、金属の分銅をインドいかり、またはハイカラとよんだ。その使い方もところによって同じでないが、より速くもぐるということは、より深くもぐることになる。そしてそれは新漁場の開拓にもなって、使用当初は漁獲が激増したという。

めがね
めがねを用いたのは六〇~七〇年前からで、それまではメクラさがしであった。目の悪い者は、土用三ヶ月で目があかぬほどはれ上って痛んだという。潜水めがねには両眼式のものと「はなめがね」と呼ぶ一眼式のものとがある。めがねを使用してから作業が楽になり能率が高まったため、乱獲のため漁場が枯渇することを心配してめがねの使用禁止を申し合せた村もあった。
あまの道具としては、岩礁に密着している貝をはがすテコ形の鉄製具が用いられている。これにカシの柄をつけるところもある。小さい二〇㌢ぐらいのから大きいのは四〇㌢ぐらいまでにおよび、浦ごとに少しずつ異っていて、これに魔よけの印をほりつけている地方もある。「かいがね」「おこしがね」「ふぐせ」「のみ」などと呼ぶ。海女部落では、この貝起し金とあま桶は娘の大事な嫁入り道具であるという。
漁業権が今日のように固定していない頃はどの海に誰がはいろうが自由であった。石川県の舳倉島の海女は、中世期九州の福岡県鐘崎から年々やってきてアワビを採っていたものが土着したものである。山口県の大浦の海女も長崎県対馬厳原町曲の海女も、鐘崎から分かれたと伝えられている。新漁場を求めて漂泊して遂には住みつく。京都府の北海岸の海女は、北は福井県の三国、小浜、南は兵庫県の岬々まで米、みそ、なべを小船に積んでゆき、船小屋やほら穴を利用したり船に寝泊りして、テングサを取っていた。そして地先漁業権が決定されてからも、この慣行は認められた。
以前は一年中自由にもぐれたが、今日では口開き制度になっている。これによって乱獲を防止し、魚貝海草の生育を保護している。そして漁場利用の公平が保たれるようになり、養殖増産の計画をたてられるようになった。

潜水方法
現在、潜水方式は次の四つに分けられる。
①息をこらえる法。もっとも基本的なもので素もぐりといわれる。
②ヘルメット法。頭全体が入るようなヘルメットをかぶり、船または陸上からパイプを通って送られてくる空気を吸って潜水する方法。
③スキューバ法。呼吸用の機器を身につけて潜水する方法で、アクアラングもこの中に入る。他にデモン、ノルマレア等いろいろの商品がある。
④ダイビングベル法。つり鐘を水平に保って海中に沈めると、空気がつり鐘の上部に圧縮された形で残る。これをダイバーが吸うという仕掛けである。この原理が海底居住に応用されている。
このような方法でサルベージ、漁業、海底調査など水中の作業が行われている。
〈アクアラング〉アクアラングとは水中肺のことで、昭和一八年(一九四三)フランスの海軍大佐ジャック・イブ・クストー(海中探険家で映画、随筆などで我が国にも紹介されて有名)が、液体空気会社のカナダ生れの技術者エミール・ガニアンと協力して完成した。
わが国でも昭和三〇年頃にこの機器が導入されて以来国産品が出回りはじめ、装具なども漸次改良されて今日に至っている。
〈足ひれ〉水中で呼吸することができ、物を見ることができても、親から貰った足だけでは歩くにはよくても泳ぐにはちょっと困る。そこでイルカやカエルのまねをして考案されたのが、「足ひれ」である。(フィンまたはフリッパー)これをつけると、素足より五倍以上も能率的といわれる。
〈ダッコちゃん(黒服)〉水温があまり冷えると手足のけいれんや疲労の原因になるので、水温二〇度以下または長時間潜水する場合には、スーツなどを着て体温の低下をさけなければならない。
そのための服には、服と皮膚(ひふ)の間に水の入るウエット・スーツと水の入らぬドライ・スーツがあり、水温のごく低い時は後者を用いる。
ドライ・スーツは薄いゴムで出来ていて、潜水者の体温の発散を防ぐため下に毛のシャツを着る必要がある。暖かいのだが着てからの口のしめ方がむずかしく、そこから水が入ると浮力が著しく減少する。また体の周囲に空間が多い。それゆえ、深い所に長くいるとその部分だけ一気圧なので、血液がそこに集まり部分的に炎症を起こすこともある。やはり一般には、ぬれてもウエット・スーツの方が喜ばれている。
ウエット・スーツは天然ゴムまたは合成ゴムその他の合成樹脂製で独立気泡のスポンジ状であることが望ましく、現在では国産でも弾力性の高い丈夫なものができている。
独立気泡というのは、スポンジ状の服地の中の細かい気胞が個々に独立しているもので、この気胞は熱の絶縁材として役立ってくれる。それが独立していないと、ダイバーの水中での姿勢にしたがって浮力の中心が移動し不都合なことになるばかりでなく、保温の目的も達しにくくなる。その名の示す通り、水は首すじ、手首、足首などから入り体はぬれるが、その水はすぐ体温で暖められてぬるま湯の着物を着たようになる。スーツが体にピッタリ合わないと体のまわりの空間が多くなって、それだけ水がはいり体温をうばわれる率が多くなる。ウエット・スーツを着るとそれだけ浮力を増すので、それを調節するだけの重量帯がいる。またこれを着るときは、あらかじめ服の内側を水でぬらすか、汗しらずやタルカム、パウダーのような粉をふると簡単に着られる。黒くすべすべしているので、一般にウエット・スーツのことを「だっこちゃん」と呼んでいる。
昭和三五、六年頃から、従来は裸に簡単な衣服をまとっただけだった海女達も、下にこれを着込んで寒い時も楽に仕事が出来るようになった。第一水から上ってからたき火がいらなくなった、と大喜びである。
はじめ、これを着てあわび採りをすると、資源が枯渇するとして着用を禁止されていた。だが便利なものを使いつけるとなかなか止められぬもので、潜水着なしでは潜られぬようになり、現在では簡易潜水着と足びれだけは認められるようになった。
〈小崎海士も入漁料〉小崎海士の慣行的特権として無条件で認められてきた他地区におけるあわび採取も、時代の流れには勝てず戦後の地先漁業権を含む漁業法の改正と各漁協におけるアワビ依存度が高いため、入漁反対にまで発展した。勝本漁協では、昭和三五年から入漁料を徴収し、種々の条件を付してアワビ採取を認めている。入漁料は昭和三五年度は五万円、昭和五三年度は七〇万、五四年度は一〇〇万円である。

カツギ
勝本浦ではもぐり(カツギ磯)の習慣は余りなく、海中にもぐり、アワビやサザエを採るなどということは、漁師のすることではないとする気風が強かった。素もぐりであった戦前、戦後において磯の時期だけ、ウニ、ガゼ取りをする人はあった。また夏季においてイカの不漁、月夜の閑漁期におかず取り程度のもぐりは、誰でもが経験することであった。これらは極く浅い所をもぐるだけであったが、長時間海中にいるためには、着物を澤山着て海に入った。裸だと夏でも長く潜られないという。この時分、夏にアワビ、サザエを採っても、自家消費するだけで販路もなかった。
昭和三〇年代頃からレジャーという言葉も流行し、壱岐にもボツボツ観光客が増えはじめた。これらの人達の土産用に磯のものが喜ばれ、それとともに値も出はじめた。従来、磯は在部が熱心でありカツギをする兼業農家も多かった。そして潜水着などの普及でカツギ磯も専門化していった。昭和五四年度の申し込もアワビカツギが四八名、ウニガゼが七一名に達する。

黒服の「乱獲」沼津版
黒服の「乱獲」でアワビやサザエ、ウニ等の漁業資源が枯渇、このままでは生活出来ない、共同漁業権を漁協合併前に戻せと郷ノ浦漁協沼津地区の漁民、約三〇〇人が決起大会を開いて漁協の対策を県に訴願することを決議した。昭和五三年八月八日の事である。(ちなみに黒服業者は一三七人である)支庁が沼津漁民代表と漁協の間に入って調停を重ねた結果、一二月一六日どうにか解決した。その骨子は次の通りである。
一、アワビの解禁は一二月二一日から翌年一〇月末日までであるが、黒服操業は沼津以外は三月末日まで四メートル以深、四月一日から一〇メートル以深とし、沼津地区は解禁一ケ月後の一月二一日からとする。
一、ウニ、ガゼ類の黒服操業は解禁の日から二潮おいた二潮間とする。

昭和五四年度磯入漁について
最近の磯については、漁業権管理委員会に諮問の上理事会で決定される。
一、各種開口日
イ、ウニ、ガゼ第一回目(節句磯)三月二七日(旧二月二九日)から三月三〇日(旧三月三日)まで四日間、口開けする。
ロ、第二回目口開日、四月二四日(旧三月二八日)午前一一時より口開けする。(ウニ、ガゼ、ヒジキ、天草(てんぐさ)、フノリ)島磯については、渡船の出港を一〇時半まで止める。旗を上げている間は操業しない事。当日は海陸より監視に当る。
ハ、ワカメの口開日、ワカメ組合の役員に一任し、口開日は決定次第通知する。
二、カツギ磯について
アワビは一月一五日より九月三〇日まで開放。ウニ、ガゼは口止め前の一汐(一五日間)ぐらい採取させる。なお、内海も開放する。ただし(根島、名烏島)及び聖母神社下より御棚エボシ瀬までは除く。
三、その他の口開き日
トコブシはウニ、ガゼに準じ、アワビやサザエの鉾突きは一二月二一日より三月三一日まで、岩ノリ、アオサ、ナマコは一二月二一日より三月一五日まで、天草は四月二四日より八月三一日までとする。ただしカツギで採取することは禁止する。
四、簡易潜水着(黒服)の使用について
潜水着(黒服)の着用は許可する。(ただしウニ、ガゼ、節句磯の口開け四日間はカツギは全面禁止する)
五、各種口止め日について
ウニ、ガゼ、天草以外の海藻その他は七月三一日で口止めする。
六、各種行使料(鑑札代)について
イ、ウニ、ガゼ、他鑑札代は、組合員(正準共)は一名に付き二〇〇円とし、家族は一名に付き一〇〇円とする。員外者は一名に付き一五〇〇円とする。(ただし、組合員の家族で七〇歳以上は免除する)
ロ、ワカメの行使料は員外者は一隻、四〇〇〇円とする。
ハ、カツギ磯の行使料について
1、アワビ、サザエのカツギは組合員一名につき一万五〇〇〇円とする。
2、ウニ、ガゼのカツギは組合員一名につき一万五〇〇〇円、ただし、磯洗い参加者には五〇〇〇円払戻しする。
3、員外者のカツギは一名三万円とする。ただし町内居住者に限る。
七、鑑札の申込みについて
申込み期間―三月一日から三月二〇日まで。交付期間―三月二一日から三月二五日まで。鑑札の申込みは各部落毎に一括して申込むこと。
八、岩ノリの鑑札は各人毎に交付し一名につき一〇〇〇円
九、ウニ、ガゼ及び海藻類の販売について
アワビ、ウニ、ガゼは組合で入札するので組合の指定する業者以外には販売しないこと。その他海藻類も組合で一元集荷するので他に販売しないこと。ただし節句磯のウニ、ガゼのほかは一般販売を認める。
十、入漁違反者に対する処理について
共同漁業権第四三号第一種行使規則にもとづき処分する。違反者に対する過怠金は最低二万円とし、処罰の軽重についてはその都度、管理委員会で協議検討する。
十一、根島の禁漁区について
従来通り禁止する。ただし希望者を公募して採取させる。
十二、名烏島禁漁区について
各種別毎に日時を決めて希望者を公募して採取させる。
イ、アワビ、サザエの採取について 一般組合員より希望者を募り採取させる。期日、日時、行使料(歩合)については役員会に一任する。
ロ、ウニ、ガゼ、トコボシ、サザエについて 一般組合員より希望者を採取させる。期間、日時は組合に一任する。(数日間予定)鑑札料は一人につき一日一〇〇〇円とする。員外者に鑑札の貸与、譲渡をしてはならない。当日の監視については管理委員、磯総代で協力すること。
ハ、ヒジキの採取について ヒジキは、天候の都合を見て三日間、一日一名一〇〇〇円で採取させる。
ニ、岩ノリの採取について 岩ノリは採取期間の内(旧一一日、一二日)及び(旧二六日、二七日)の四日間だけ採取させる。
ホ、ワカメは、ワカメ組合の責任において期間中を通じ、一〇日間だけ採取させる。ただしその場合、ワカメ切り以外の道具は積まないこと。
へ、磯建網の操業については、状況に応じて漁業権管理委員会と協議の上決める。
十三、磯監視について
監視体制を強化し違反防止に努める。
十四、定期の沖止めの日は磯全般操業を禁止する。

根島禁漁区
昭和三九年、勝本小学校育友会(斉藤千嘉太会長)は、学校図書の充実をはかるために勝本漁協にお願いして根島を禁漁区とし磯のあがりをもらって図書購入費にあてた。
第一回はPTA全員廻り順で根島に磯を行いウニ、ガゼを採ったが、磯のできるものやできないものと色々と不都合があり翌年から入札制にして専業者に委せた。

名烏島禁漁区
昭和四八年五月二〇日の第三一回総会において、禁漁区設定の件が提案された。
その目的は、組合事業の財源として禁漁区を設定しアワビの養殖をはかるというものであった。そしてその場所として根島(従来通り)名烏島、手長島の三ケ所を予定した。しかしいろいろな意見があり、湯ノ本地区については場所の選定は関係者と話し合って決めるという事でこの件は承認された。その後の話し合いの結果、「ふる坊」に魚礁を設定した時点で同地を禁漁区にするということになった。昭和五四年現在、禁漁区は根島と名烏島地区だけである。
名烏島には、四九年度に一〇㌢未満の稚貝を五〇万円分放流した。これは関係者に規定以内のアワビを採らせて買ったものである。その後椎貝がなかなか手に入らず苦労したが、五三年度には一万八〇〇〇個の椎貝を入手放流した。これは冬と春の二回に分けて行ったもので、価格は三五円であった。今後も入手すれば投入する予定になっている。

アワビの天敵
磯の貝類(アワビ・サザエ等)の中で、最も高価でうまいものはアワビである。あらゆる宴会の料理に珍重されている。それゆえこのアワビは、充分に保護しなければならない。
あわびの天敵はタコといわれ、せっかくアワビを養殖してもこれを好物として食べるタコを野放しにしていては、その歩止りが悪くなる。タコは実にうまくアワビの息をつく穴を足でふさいで、簡単に岩礁よりはずし食うのである。海中をのぞくと、アワビの貝殻だけがほうぼうでよく見受ける。これはタコの仕業である。組合ではそれを心配して、タコ退治を検討中である。

磯の増殖作業
「取る漁業から育てる漁業へ」と叫ばれた昭和三〇年代初め、その一環としてワカメ増殖を目的とした投石が行われた。昭和三二年五月、青年部員総出で串山半島西北端から団平船に石を積み込み仲瀬戸、内長瀬に投入し、ワカメ組合がメカブを採取して来て同時に投げ込み、結果を待ったのであった。以後数年、この附近一帯は豊作が続いた。しかし下地が砂底であるため、現在ではその面影をとどめない。余程大がかりにやらないと永久的ではないようである。
また婦人部でもフノリ等の増殖をはかるために、「磯洗い」などがおこなわれた。昭和三八年、組合より岩ノリの養殖試験のため、メデの岩場にセメントをかけた。しかし青ノリにいち早く占領されて、見るべき成果は得られなかった。これについては終戦当時、勝本浦の一問屋が博多瀬戸の村井氏方前の浜辺に綱を張ってノリ養殖を試みたのであるが、岩ノリではなくアオノリが附着し失敗に終ったことがある。

青年部の藻切り作業
増、養殖とは反対に茂りすぎた藻のために博多瀬戸がふさがり、航行が困難となるので、そのため春先になると青年部によって藻切り作業が行われている。年によってはアブラメ瀬戸も同時に実施している。

食糧藻の供出
戦後は食糧難であった。七〇〇〇万の日本人のうち一〇〇〇万が餓死するといわれ、新聞の投書欄をにぎわしたものであった。昭和二一年の春であった。「船持ちは船一杯分の藻を切って干し(あぶら藻を除く出来る丈けササ藻が良い)供出せよ」と組合に「上からの命令」がきた。当時モーター船が主力であったから、機械船でも藻取り作業は可能であった。戦争に負けてお上の命令もないだろうとブツブツ不平をいい合いながらも、人助けの為にと自分を納得させて各自が女(め)竹(だけ)を切って来て灘の内などで藻を取ったものである。二本の竹を藻の中に突込み廻すと巻きつくので、それを引張りあげるのである。磯の経験者や小舟持ちは、カマゾウで切り、干しあげた。製品は解体前の旧製氷所に納めた。もちろんいくばくかの代金は支払われた。

戦時中
戦時中は油不足のため、小舟で漁に行くことが多かった。その帰りなどに大きな藻の固りが流れていると、喜んで船に積み込み持って帰ったものである。海棚の上に広げておくと、すぐに乾いた。肥料になるのでためておくと、田舎の人が取りに来て「イモ」と替えて呉れるのである。

夜突き
夜、灯りをつけて比較的に浅い海中を探すと、魚は藻の上に休み、アワビ、サザエ等は岩陰から出てゴロゴロいるという。それを突くのは容易な事であるが、昔から漁師でこの夜突きをして成功した者はいないといい伝えられている。

男女群島の海底
昭和五三年の夏の頃、朝日新聞のコラムで、各地の海底の模様を連載紹介した。それによると、男女群島には藻は一本もなく、従ってアワビもサザエも皆無だそうだ。それで男女群島では、昔からサンゴ採りが盛んであった。
もしもこの附近なみに水温があがったら、壱岐、対馬もこの様に深も生えない海になるのではないだろうか。暖冬だと手放しでは喜べないことになりそうだ。

海の汚染と磯の衰退
第二次大戦中の昭和一五年、アメリカで石油、石炭を原料としたアルキルベンゼンスルフォン酸ソーダ(ABS)が完成した。これが昭和三〇年頃から「合成洗剤」あるいは「中性洗剤」として、日本の家庭にも普及しはじめ、文明の利器として重宝されるようになった。
ところがこの合成洗剤が、とんでもない悪魔の申し子だったのである。人間の体に刻々と恐るべき爪をたてているばかりでなく、環境衛生の面でもゆゆしい公害を引き起こす悪業を働きはじめたのである。その毒性は人体にいろいろな障害を及ぼし、河川、海岸における漁業並びに植物に悪い影響をおよぼすといわれている。その中の一つをあげてみよう。この洗剤中に含まれている燐酸塩は、植物の肥料として働く成分をもっていて、排水にまじって川や湖に流れ込むと藻や植物プランクトンを異常に繁殖させるのである。そして藻やプランクトンが死ぬと、腐敗分解のため水中の酸素が大量に消費され、川や湖は死んでしまうのである。川や湖で悪いものが、海で良かろう筈がない。家庭廃水も公害の大きな一原因であり、最近では漁婦連でも、海を守るため公害のない従来からの粉石鹸への使用替えを提唱している。この様に、ここ二〇年ぐらいの間に海の汚染は驚くほど進行している。今まで豊かな筈であった海が、今では瀕死の状態におちいっているのである。
海洋汚染は陸地をとり囲む沿岸とその近海にとどまらず、大洋をもおおいつつあるといわれている。そして更に恐しいことは、工場排水による目に見えない海水の有毒化である。ある学者はこういっている。「海は広大で無尽蔵であるという伝説は否定されなければならない。海は小さく弱くこわれやすいものである。海の循環が想像されていた以上に停滞していることが調査の結果わかったのだから、海を汚染していくことがどのような結果を招くかは明らかである。我々は生命は水によってささえられているということを忘れてはならない。海の死は生命の死であり、そして人類の生存の問題にもかかわってくる。今や海からの資源の抽出ということよりも、海の循環をいかに保護するかの方が重大な問題になってきた。そしてその問題を解決した時こそ人類の生存が可能になった時であろう」

こわされた循環
化学が余り発達しなかった頃には、自然本来の営みが行われていた。それが戦後急激な化学の発達によって、この循環作用にヒズミがおこったのである。
昔は、人糞や海藻などを田舎に運びあげて肥料とした。それは農作物を養い、そして雨とともに流れ、また海に還元されていった。海の植物にとっても「こやし」は必要なものであり、持ちつ持たれつの関係であった。ところが化学の発達は、海中植物にこやしを与えるどころか害になる農薬、合成洗剤、化学薬品の大量投棄を平然と行いはじめたのである。そして大事な肥料である人糞は、わざわざ船に積み込んで遠くに運ばれる。磯の生物にとって良いはずがない。いわば毒になるものばかり食わせて栄養になるものは何一つも食わせない、ということである。これでは磯が死なないのが不思議なくらいである。また海藻の育ちが悪いのは、この他に暖冬という原因も加わるであろう。

磯やけ
勝本の地先でも最近、「藻場」が少なくなったと心配されている。機械船でもわかる身近な場所は「メデの水尺」附近であろう。
朝夕港の出入りに仲江を通る時、以前は博多瀬戸を必らず開けて走らないと、ものすごい藻の中に突入したものであった。和船でもここは、少し風があると櫓を押して通れなかった。この頃では、多い時でも船外機でスイスイと通ることができる。一昔前は藻がぎっしり生い茂っていた所が、現在ではゴロゴロと石ばかりで何も生えず真白くなっている。このような現象を磯やけと呼んでいる。藻が少ないという事は、ワカメ、カジメ、ヒジキ等の育ちが悪く昔に比べて少ないということである。

磯のご難あいつぐ船の座礁
昭和四五年一月四日、シンガポールの貨物船ホーチュン・トレーラー号(四八六〇㌧)が機関の故障をおこし、北西の大風に流されて本宮山と鋤崎の中間、下磯浜のあたりに漂着して座礁大破した。そのため燃料の重油類、約五五〇㌧が流失した。
本宮山の黒瀬からシモ(南側)へはこの重油が流れ海岸線は真っ黒に汚染されて、数年間はこの油のスジは遠くからでも望見されたほどであった。
この油のために磯もできなくなり、黒瀬から鋤崎にかけてはその後三年間漁の採取禁止が続いた。
この船は老朽船であったため大破した後サルベージにより解体撤去された。当時はこの船の遭難の原因などにいろいろと話題があり、老朽船なるが故の保険サギだともいわれた。しかしその真相は今もわかっていない。
昭和四五年一月三〇日、仲江に錨泊中であった海上自衛隊佐世保防備隊所属の自衛艦「いわぎく」三〇〇㌧は、夜中に吹き荒れた北風のため「タンス」に漂着座礁した。これの損害賠償額は一五一万九六一四円であった。
一カ月に二回の遭難座礁事故が発生したのは、有史以来初めてであった。しかしそれから七年目には次に記す外国船の大きな事故が発生し、勝本漁民にこれまで以上の大きな迷惑がかかったのである。
昭和五二年五月一〇日、パナマの鉱石運搬船ミュージベル号(五九五六㌧)が勝本沖で機関故障をおこし、折から北の大風であったために、流されて名烏島北約三〇〇㍍の浅瀬に座礁した(乗組員はヘリにより全員無事救出された)。この船は座礁当時約五八〇㌔の重油類と六〇〇〇㌧のリン鉱石を積んでいたが、船底の一部が破損して重油約二〇〇㌔㍑、リン鉱石約八〇〇㌧が流出、附近の海に大きな被害を与えたのである。
名烏島は禁漁区としてアワビを養殖中であり勝本漁協随一の好漁場であるが、その時はまだ磯を行なっておらず油のため採取不能となってしまった。また風下であった若宮、御棚、タンス方面でも、油に汚染されその損害は計り知れないほどであった。漁協では油汚染を最少限に食い止めるため婦人部に応援を求め、名烏、若宮、御棚などの油除去に努めたのである。しかし被害は磯だけに止まらず、積荷のリン鉱石の海中散乱のため、五月中旬から六月の梅雨期にかけて、ごく浅い所でとれる赤イカ漁に悪影響を及ぼしたらしく、好漁場であったノリゼ、アサウミ、ワセ附近は例年になく不漁になってしまった。
この船は建造後まだ二年しかたっておらず、解体するのは惜しいということで、サルベージ会社の手により二ケ月がかりで船底の応急措置をした後、七月一四日朝、離礁に成功して下関に曳航された。
二度ある事は三度あるとか、相次ぐ汽船の座礁により漁民にとっては大事な磯漁場を汚染され続けたのであった。このような事故が発生すると、海藻や貝類は油臭くなるのではなかろうかとの懸念が生じ、汚染地以外でとれたものも同じように評価されてしまう。そして勝本の一般製品のイメージダウンとなり値段が安くなる心配があり、二重にも三重にも漁民を苦しめたものである。この相次ぐ遭難は、勝本漁民にとっては全くの災難であった。今後このような事故のないよう願うばかりである。

海藻の利用
海藻類を一番よく利用するのは日本であるが、藻体を直接食用にするほかに寒天またはアルギン酸に製造したものも食用にする。また家畜飼料や田畑の肥料にも利用している。
アマノリ、ワカメ、コンブ、ヒトエグサなどの養殖技術や、投石・築磯・磯掃除などによるテングサ類・コンブ・ワカメ・ヒジキ・フノリなどの増殖技術は、他国に抜き出ている。諸外国、ことに欧米では、海藻類をそのままで食用にするところは極めて少ないが、アルギン酸、カラーゲナンなど海藻からの製品はかなり食用にされている。海藻食品には、たんぱく質や脂肪の含有が少く、炭水化物は消化率が低くて栄養的には余り良い食品とはいえない。しかしカリ、ヨードその他の無機物、ビタミンA、Cなどの含有が多く、それらの供給食品としては良いといわれる。なおなかには血中コレステロール低下、血圧降下、動脈硬化防止に効果のある物質を含むものもあり、保健食品としても今後見直されていくであろう。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社