天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本漁業史 第三章 ③~漁業の進展~

三、釣漁の変遷

一、漁場

恵まれた漁場
漁場とは水産物が良く繁殖する所をいう。魚類が群集する所は海岸に近い浅海で、水深二〇〇㍍をこえるとまれになるといわれる。また寒暖二流の合する所、潮流の荒い所などにもよく群集している。
勝本で漁場といえば、誰でも異口同音に「七里ヶ曽根」と答えるであろう。他に勝本漁民が利用する漁場としては平曾根、ナンカケ、十八立、赤瀬割附近、火棚、アラ曾根、正月曾根等の曾根があり、ときとして喜三郎曾根に行く場合もあり、昔はオウサ曾根も利用していた。このように、青物釣りにまた赤物釣りに優秀な漁場が身近にあり、大変に恵まれた所といえる。

七里ヶ曾根
勝本と対馬のほぼ中間に、北東から南西に連なる大きくて長い曾根を、七里ヶ曾根という。上の瀬(灯(とう)見(み)を含む)、中の瀬、下の瀬の三つからなる。七里ヶ曾根の名称は、勝本から曾根までの距離をいうのと曾根の周囲が七里あるからとの二説がある。
距離は、勝本から一〇㌋から一二㌋位で、判りやすくいうと、戦前戦後、我々が長い間体験した速力のおそい小型漁船で説明してみると、ディーゼル四馬力(一㌧位)で七里ヶ曽根に行くと、上の瀬まで北西に約二時間、下の瀬までは西北西に約二時間半かかった。上の瀬から下の瀬までは約一時間かかる。上の瀬、中の瀬、下の瀬はほぼ同じ位の距離ではなれ、水深は浅いところで約三〇尋から三五尋位で「アサリ」と呼ばれ、この部分はかなり広い。まわりは深くなり大体五、六〇尋から七、八〇尋と遠くなる程に深くなっている。
浅いところではガシラ、クチビ、ハタ等の瀬魚やイサキ等がおり回りにタイ、ブリの群が回遊してくる。魚群探知機で調べると、曾根の岩かげに潮流れからかくれるように魚がかたまっているのが判るときもある。ブリの釣れる場所は大体決っているようなもので、冬季は上の瀬からかみに、春季は下の瀬からしもである。「とこなつ」と呼ぶ瀬付きのブリやタイも年間少しはいるようである。しかし漁のあるのは何んといってもマメ、サンマ、イワシ等の餌になる小魚がきたときである。それ等の小魚を追ってやって来た大魚の群は、しばらく瀬に付くから凪さえしたら大漁間違いなしである。
或る人が統計をとって調査した日本列島近海における各漁場の優劣表によると、昔から現在まで、変わりなく好漁場として続いている曾根は、必ず南北に連なっていて東西に連なる曾根はあまり芳しくないとあって、七里ヶ曾根はこのことを立証する良い例の一つとして挙げてあった。古来、延繩一本であった私達の祖先は、この曾根の附近で操業しその存在は良く判っていたが、操業上の理由(延繩の項参照)から瀬の上ではやらなかった。未知のところでも延繩をやると、浜か、瀬かの区別は良く判るし、このような経験の積みかさねが新たな曾根や瀬を発見させ、そして漁場を広げていったのである。明治初期、家室船が勝本漁民の知らなかった漁法(即ちタグリや夜釣)によって大量のブリを釣ってきたため、あたかも七里ヶ曾根は家室船によって発見された、と一部に誤り伝えられているのは残念である。しかし、部分的には下の瀬に彼等の発見した「カムロアイロ」なる良い山当てが伝えられている。

平曾根
勝本から大体西の方角にあり、前記四馬力の船で約四五分の所にある。瀬の沖はゆるやかに深くなっているが、地の方は大体荒いところが続いている。主に秋、冬の夜釣、春のたぐりに三・五㌔前後の小ブリが良く釣れる地廻りの主漁場である。七里ヶ曾根に対して「三里ヶ曾根」と呼ぶ人もあった。

ナンカケ
湯ノ本湾の西、一寸沖にあり、モジャコ(ブリの稚魚)を乱獲しない以前には、必ず梅雨時から初冬までに二㌔前後の小ブリが夜釣に良く釣れた。又、秋には曳繩にハガツオ(キツネガツオ)が良く釣れる。

火棚
赤瀬沖にあって、東西に連なる曾根である。秋の夜釣り、冬の曳繩に小ブリが良く釣れ、年間を通じてタイ、イサキ等の良くつくところである。勝本の秋イカは必ずここで取れはじめたものであるが、現在は余り振るわない漁場となった。

アラ曾根
平曾根と七里ヶ曾根のほぼ中間にあり、地のヘリ、沖のヘリとあり、下はトカメの出るところから上(かみ)は千(せん)羽(ば)までとその範囲は相当に広い。ところによっては「コワイコロビ」もあるが、大体ゆるやかな「むら浜」続きで、タイの一本釣りの好漁場であり、タイ、レンコ、チコ等が良く釣れる。この内、チコは現在では全然釣れなくなった。
同じく一本釣り漁場として、アラ曾根のかみに地、中、沖のコロビと呼ぶところがある。昔のモーター五馬力で地のコロビまで四〇分、中のコロビまで一時間二〇分、沖のコロビは二時間走りであった。大体等間隔で東西に長く、壱岐の島ぞいに並んでいるようである。

正月曾根
仲瀬戸から真北に走り、対馬の小山と黒島の重なるあたりから沖の方に広がる曾根、というよりはコロビである。壱岐の島が低くなり天候によっては幾つかに切れて見える位遠距離にあり、壱岐の島の山当てはできない。タイ、レンコの好い漁場であるが、小型漁船の利用度は他の漁場に比べて低い。
名前の由来はこうである。以前不漁の年があり、一本釣りをしていた船がたまたまここに流れ当り、タイ、レンコを大漁した。このために曾根のあるのが判り、以後みんなが利用して良い正月を迎える事が出来たという。以来、ここを正月曾根と呼ぶようになったと伝えられている。

喜三郎曾根
勝本から真西(一九㌧型で約三時間半の距離)、壱岐の島は岳ノ辻がようやく見える程度で天気の良い日対馬が南北一直線となり丸く見える位置にある。昔ハイオ網が盛んであった頃、ハイオが良く取れたところで、網あげの最中にも次々に来てかかったといわれている。近年ではシビ曳ぎでシビが良く釣れたところである。当時、シビがイカ、サンマを追い、良く湧いたそうである。五島から対馬に渡る航路筋に当るところから、昔発見されたところらしい。瀬があり、浅い所で五五尋ある。底魚はタイ位のものであるが、カツオが良くつくところである。

オウサ曾根
古老の話によると、前浦沖にあって、その距離は大体七里ヶ谷根の上の瀬の「はえのぼせ」と同じ速さというから、赤瀬と小呂、または「えぼし」との中間位であろうか。ブリ、アカバナ(カンパチ)等が良く釣れ、イサキなどは一匹で一斤(六〇〇㌘)もあるものもいる。
主に昭和の初め頃まで勝本船も良く利用したといわれるが、現在ではその場所を知る人も少ない(赤瀬の東のオサ曾根の事であろうか)。

男女群島
長崎県五島列島福江島の南西六五㌔の東支那海にある群島で、全島福江市に属している。男島、女島のほか、クロキ、ハナグリ、寄寄(ヨセヨセ)の小島と岩礁からなる総面積五平方』の群島である。女島(面積一・五平方㌔)の屏風ヶ浦断崖上には、標高一一九㍍の灯台があり、航海を守るとともに気象通報の役割を果たしている。男島(面積二・一平方㌔)の南岸真浦には、漁港施設のなごりはあるが、常住人口はない。
対馬暖流の進路に当たり附近は豊富な漁場をなし、またサンゴの生産地で、明治末年以来富江を基地としたサンゴ採取船の遭難が繰返された。近海の透明度は五〇㍍で海は明るく、水深四〇㍍の海底にはイシダイ、クチビ、タイなどが群れをなす。
昭和五三年末、勝本漁協の特殊船(一九㌧型)の全船主が数隻の船に分乗し現地に試験操業を行い、又後日数隻が出漁して底もの釣りを行なった。その結果ベンケイ、クロムツ等が釣れ、カツオも釣れそうだと報告してきた。

山当て
漁場を正確に知り、そこへ到着するためには山当てをしなければならない。
その方法は、なるべく遠くの山と近くの山とを重ね合せ、その見通し線を交叉させて地と沖、かみとしもとの位置を計り(できれば三ヶ所だと申し分ない)、いつも変らず同じ場所に行って操業するのである。つまり三角形の頂点に船を持って行く方法である。山と山を重ねて「〇〇かさなり」又は「〇〇もたれ」、山の蔭から山を出すのを「〇〇だし」、山のおりたところを「〇〇おろし」などと呼んでいる。
勝本の場合、不思議な事にちょっとした山と山とを重ねれば瀬や曾根があり、「せど」の一杯開き見通しには瀬は少なく「せど」のふさがる「けぬき」になるとまた瀬のあるところが多い。
昔から、特に一本釣り(勝本では赤魚等の底ものを釣る漁を、普通一本釣りと呼んでいる)は、「山釣」と云われているように、山当てに精通しなければ良い漁はできないとされてきた。青もの等は大体曾根附近におれば、カモメ等の海鳥によってその居場所が判る事が多い。時によっては泳ぎ回ってくる事もある。しかし底魚である赤もの等は、その上に船をもって行かないと釣れない。又、山当ては昼に限らず夜間においても必要である。熟練した漁師は、くらやみの中でもその日の潮と風向きを考え、時間をはかり、港内から一直線に目的の場所に着く事ができる。例えば夜中に一隻だけで夜釣りにでかけたとき、また飼付時期に天候が悪く夜が明けても山の見えない時など、網張り船の船頭には高度の「カン」と熟練が必要であった。
漁師にとって「山当て」は大切な事なのである。
現在では各地に水銀灯の「合せ」が設置されており、夜間操業も楽である。それに魚群探知機で海底の状態も良く判るし、ロランの普及で(ロラン参照)大体のところまで判るし大変便利である。なお大正初期には、城山の松は大切な山当て目標であるから、その伐採は禁じられていた。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社