天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本漁業史 第三章 ⑥~漁業の進展~

四、勝本浦の発展につくした人々

 

原田元右衛門

翁は情け深く、大胆で知略のある人であった。天保一四年(一八四三年)勝本において捕鯨業をはじめた。他に趣味とてなく人のためになら自らの金を使ってもよい、というのが趣味かもしれなかった。

文化年間(一八一〇年頃)藩主松浦公が土地一〇〇石を勝本の共有地(請地)としてあたえようとした。しかし当時勝本は鯨取りに忙しく生活も楽であったから、みんなは請地をもらってもその管理がわずらわしいからと藩主に願って返上したのであった(浦請地は年貢上納の負担を伴うので、浦人にはあまりありがたいものではなかった)。ところが天保年間(一八三〇年頃)は作物の実りが悪く、そして漁もなかった。おまけに痘瘡(とうそう)(天然痘)まで流行したので、一般大衆は大いに苦しんだのであった。この時、先の請地があったらと誰しも思ったのである。しかしそれはすでに近村のものとなり、近村はいろいろとその恩恵にあずかっていたのである。

この有様を見て勝本の長老たちが相談し、藩主に願って再び請地を下さるよう願い出たけれどはかばかしくいかなかった。この時翁は働き盛りであった。さきの請地のことも知っていて、その考えのなさにあきれ、また同情もしていた。そこで自分の仕事をなげうち東奔西走、特に藩主にお願いしてようやくいくらかの請地(先の半分と言われるが)をいただくことができたのであった。

ところが数年して区費が足りなくなり、この請地を抵当に借金したのである。ところがなかなか返済することができない。人手に渡りはすまいかと翁も心配していたのである。おりから翁の網に大きな鯨が取れた。翁は私利を捨てこの鯨を処分した金で先の借金を返して請地をとりもどしたのである。

明治になって、この請地の一部に村役場及び勝本、香椎の両小学校を建て、新道を造ったりした。残りの地で穀物類を六〇石ばかり得ることもできた。この穀物は小学校の基本財産にあて、毎年その恩恵を受け続けることになった。

翁はまた名を秘して年末には貧しい人々のために米等をそっと家に投げ込んでやる、といった善行をかさねる人でもあった。また勝本では蛤等取れないので、よそから良い種を求めて来て浜辺に入れたりした。勝本の港が浅くなり船を着ける際不便というのでこれを良くしてやろうと計画を練り、工事にかかろうとしたとき惜しくも病にたおれ、明治二年一一月、六五歳で逝去されたのである。

現在勝本小学校校庭に翁の顕彰碑がある。

 

中上長平

天保一一年(一八四〇)一一月一日生まれる。家は荷受問屋であったが、一八、九歳の頃自分から漁師になった。

親切で正直な性格で進取の気性に富み、漁民の生活の向上を願い率先して漁獲方法の改善を行なったのであった。

翁の二〇歳代といえば、世は幕末、万延、文久、元治、慶応と目まぐるしく変わる世の中であった。まず小型漁船で対馬厳原に渡り、イカ取りをしたところ大漁であった。これがきっかけとなり以後、勝本漁民も対馬のイカ漁に行くようになったのである。

以前よりカムロ船によって伝えられていたタグリ漁法があった。これははじめ瀬の近くでないと釣れないものと考えられていたが、漁具を考案しいろいろと実験してみた結果、瀬の上でなくても釣れることがわかった。そこで皆に教えた。そして漁獲もふえ、良い収入を得ることができたのである。明治二年(一八六九)のことであった。

ブリ延縄は、夜明を待って投入しなければ漁はないと考えられていた。しかし翁は魚群の水面に浮き上る時間を実験し、夜が明けてから投入しても漁のあることを証明してみせたのである。以来この漁法で一般漁業者に与えた影響も大きいものがあった。

明治六年三四歳の時、対馬沿岸でサバ漁業を試してみようと思い二、三の漁船をさそって上県郡銘村に渡った(現在の下県郡豊玉町銘であろう。西海(にしめ)で志多浦のちょっと北)。これも初めてのことであったが、幸い良い漁場を見つけ予想外の好成績であった。同地のサバ漁はこれから盛んになり、初夏の頃には遠く四国、九州地方の漁船が集まるようになった。

その他、マグロ流し延縄、ハイオ網を創作した。ハイオ網は明治三〇年に考案したものであったが、多額の資金が必要であること、推もやったことがないという危険性から、実施することができず空しく数年を過したのであった。明治三五年になってようやく篠崎武吉氏の賛同を得て、操業を開始し非常な好成績をおさめた。熊本、山口、大分、各県の水産試験場及び一般漁業界の有志は次々と翁のもとにきて、その方法を習い操業するものが増えていったのである。大正三年、壱岐、対馬間におけるハイオ網従事隻数は四〇隻ぐらいとなり、一隻の漁獲高も二〇〇〇円から三〇〇〇円におよんだのである(ちなみに小敷瀬防波堤は大正七年から八年まで約一ヶ年かかってあの大きな石を積み上げた大工事であったが、その費用はしめて六〇〇〇円であった)。

明治三九年六七歳のとき、朝鮮木浦附近のタイ漁の状況を調査して有望なことをたしかめた。そして若い漁師にすすめ二隻で出発しようとしている時、病となりついに明治四二年一一月二六日、七〇歳で没したのであった。城山公園には翁の顕彰碑が建てられ永くこれを記念している。

 

殿川徳次郎

嘉永元年(一八四七)勝本に生まれる。少年時代家運が衰退し、貧乏の中に成長した。

二五歳の時、父仙蔵と共に酒造業をはじめ全く寝食を忘れて働き家運の挽回につとめた。

また公共事業にも努力し、勝本学務委員を務めること二〇余年、教育基本財産である区有地の改良を行い多大の増収を得たのである。勝本港正村湾の埋没を心配し、浚渫(しゅんせつ)することを考え、皆を励まし県や村の補助を得てこれを実現したのであった。

日常軽薄で浮かれた行いを戒め質実剛健、奮闘努力主義で生活するよう後進を指導した。

 

松尾万吉

明治二六年四月、勝本に生まれる。早く父を失い、幼い頃から漁業に従事した。ある時出漁中、突然暴風にあい船はてんぷく、人事をつくしてみたが力つきて死ぬのはもはや時間の問題となった。弱る体、もうろうとする頭、ひたすら志賀大明神、聖母神社に「救け給え」と祈ったのである。そのかいあって折よく通りかかった対馬商船会社の汽船に助けられ九死に一生を得たのであった。

これ以後彼は感謝の念をもって全てに取り組んだ。町内はいうに及ばず青年会、消防組、水防組、校友会等の発展をはかり、献身的な努力と奉仕の毎日をおくった。補修学校の出席督励にも尽力した。

大正九年四月勝本西部青年会長より模範青年として表彰。大正一一年三月三〇日香椎村長より模範青年及び公共事業に尽力したとして表彰。同一二年一月二四日香椎村漁業組合長。同一二年三月壱岐郡教育会長より表彰を受けた。

氏はさらに勝本における暴風警報の夜間信号に石油灯では暴風のため役に立たないので、これを電灯に代えようと運動をおこしたのであった。だが経費不足のため実現せず、大正一二年夏前途有望なこの青年は、三二歳で夭折したのであった。

氏は生前、水防組の長として組員とともに命がけの救助活動を行なってきた。もちろん無報酬であったが、助けられた人達は謝礼をおくった。そうした謝礼金はその都度積立てられた。

さて水防組が解散になるとき、積立てておいた金で何か記念になるものをと組員で相談したのである。その結果、故組長の強い遺志であった夜間信号用の灯台を弁天波止の先に建てたのであった(工事費六五円)。そして組長の名をとって万吉灯台とした。ところが灯台と名付けたため「民間で勝手に灯台を作ることはまかりならぬ、ただちに取りこわせ」との当局の厳命がおりた。これに勝本では驚き、地元選出の牧山耕蔵代議士等に頼みその尽力で、万吉灯台の「台」の字を取ることでおさまると言ういきさつがあった。

 

佐々木徳蔵

文献に「明治初期、砂のため漁船が航行しにくくなった博多瀬戸に標識の柱をたてた」とあるがくわしいことは不明である。

(大正一四年発行の『香椎村青年読本』より)

 

原田卯八郎

氏は、二代原田元右衛門翁の弟原田仙蔵氏の四男で、慶応二年(一八六六)六月一〇日勝本に生れた。明治二〇年、酒類製造業を継承した。翁は日ごろ勝本をどのように発展させるべきか、思いを将来にめぐらすのであった。

離島航路汽船の寄港問題、港湾浚渫、優良灯台の建設、不正漁船の取締りなどに尽力した。特に学校教育の普及と発達には一段の努力をして、もっぱらこれの実現をはかった。

翁は、勝本港に汽船が寄港しないのを悲しみ、当時の郡長に数回意見を陳述したが何の効果もなかった。そこで義兄の篠崎武吉氏とともに、佐賀深川汽船会社と数回交渉を行なった。その結果、同社の汽船が寄港するようになったのである。そして引続き離島航海県費補助対馬商船会社船の寄港を懇請しこれも定期に寄港させたのである。明治二七年末のことである。当時、本郡における県費補助船の寄航は郷ノ浦一港だったため本郡北部の住民は非常に不便を感じていた。これにより北部住民は、多大の便益を受けるようになった。

大正六年甥の三代原田元右衛門氏とともに、勝本港への汽船寄港につき国庫補助の請願を牧山、秋田両代議士を通じて行い、これも実現させた。

明治三七年の日露戦争では、勝本浦の水産物を加工、製造して、陸軍糧秣廠へ軍食品として一二万円相当の納品をなし、感謝状を受けている。勝本港外の若宮島に陸軍省で灯竿所および望楼が設置されたが、平和の回復と同時に廃止の報が伝わった。そこでは灯竿所は航路標識上非常に必要であることを説明し、有志と計りこれの継続設置を請願して成功した。ところが翁はこれに満足せず、航路標識の理想は灯台設置であると、さらに大正三年横浜航路標示所および商船、郵船会社に灯台設置の運動をおこした。この交渉中の大正五年、牧山耕蔵氏が衆議院議員に当選した。牧山代議士を通し貴族院、衆議院、逓信、内務省などに請願してもらった結果、ついに大正七年四等灯台建設の決定をみたのである。ところが当時は欧州大戦中であった。このため物価が暴騰し予算が超過したのである。そこで政府は、五等灯台に変更して工事に着手することにした。翁はこのことをたいへん心配し、どのようにして四等灯台に変更するか、工夫考慮した。建設に要る石材をその所有管理者である本土村長に交渉し、石材の無償提供を約束してもらった。さらに土砂、砂利全部を勝本浦の負担とし、外観を四等灯台として建設することにした。大正七年一月に建設に着手し、大正一二年さらに四等灯台レンズの取替えを請願しその実現を見るに至った。現在の建物はすなわちこの時できたものである(その後増灯された)。全く翁の努力のたまものというべきものであろう。

明治三七、八年の戦争後、壱岐勝本および対馬近海に不正漁業船が跋扈(ばつこ)し、漁場は荒された。このためブリの漁獲が減少して、浦漁民は多大の損害を受けていた。翁はこれを深く心配し、不正漁業取締およびこれに関する法令改正の請願のため自費を惜しまず東奔西走した。そしてついに大正三年五月二七日大浦農商務大臣に面会し、意見をのべて諒解され目的を達したのである(つまり取締法を改正強化してもらったのである)。

明治二五年初代勝本区長に就任した。そして勝本区有地からの収益を、各戸配当または浦共有として随時支出することを止めて、学校基本財産にくり入れ基本財産を蓄積するという大方針をたて、もっぱらこの管理につとめた。勝本学務委員に奉職すること、前後通じて二〇余年におよんだ。明治四一年勝本小学校新築に際し、区会議員、学務委員として、また工事監督員として有志と共に一七〇余日寝食を忘れて尽力した。それも工事費一万余円に対し、区民には全く戸割りを賦課することなく、竣工させるよう努力したのである。こ

四、勝本浦の発展につくした人々

 

原田元右衛門

翁は情け深く、大胆で知略のある人であった。天保一四年(一八四三年)勝本において捕鯨業をはじめた。他に趣味とてなく人のためになら自らの金を使ってもよい、というのが趣味かもしれなかった。

文化年間(一八一〇年頃)藩主松浦公が土地一〇〇石を勝本の共有地(請地)としてあたえようとした。しかし当時勝本は鯨取りに忙しく生活も楽であったから、みんなは請地をもらってもその管理がわずらわしいからと藩主に願って返上したのであった(浦請地は年貢上納の負担を伴うので、浦人にはあまりありがたいものではなかった)。ところが天保年間(一八三〇年頃)は作物の実りが悪く、そして漁もなかった。おまけに痘瘡(とうそう)(天然痘)まで流行したので、一般大衆は大いに苦しんだのであった。この時、先の請地があったらと誰しも思ったのである。しかしそれはすでに近村のものとなり、近村はいろいろとその恩恵にあずかっていたのである。

この有様を見て勝本の長老たちが相談し、藩主に願って再び請地を下さるよう願い出たけれどはかばかしくいかなかった。この時翁は働き盛りであった。さきの請地のことも知っていて、その考えのなさにあきれ、また同情もしていた。そこで自分の仕事をなげうち東奔西走、特に藩主にお願いしてようやくいくらかの請地(先の半分と言われるが)をいただくことができたのであった。

ところが数年して区費が足りなくなり、この請地を抵当に借金したのである。ところがなかなか返済することができない。人手に渡りはすまいかと翁も心配していたのである。おりから翁の網に大きな鯨が取れた。翁は私利を捨てこの鯨を処分した金で先の借金を返して請地をとりもどしたのである。

明治になって、この請地の一部に村役場及び勝本、香椎の両小学校を建て、新道を造ったりした。残りの地で穀物類を六〇石ばかり得ることもできた。この穀物は小学校の基本財産にあて、毎年その恩恵を受け続けることになった。

翁はまた名を秘して年末には貧しい人々のために米等をそっと家に投げ込んでやる、といった善行をかさねる人でもあった。また勝本では蛤等取れないので、よそから良い種を求めて来て浜辺に入れたりした。勝本の港が浅くなり船を着ける際不便というのでこれを良くしてやろうと計画を練り、工事にかかろうとしたとき惜しくも病にたおれ、明治二年一一月、六五歳で逝去されたのである。

現在勝本小学校校庭に翁の顕彰碑がある。

 

中上長平

天保一一年(一八四〇)一一月一日生まれる。家は荷受問屋であったが、一八、九歳の頃自分から漁師になった。

親切で正直な性格で進取の気性に富み、漁民の生活の向上を願い率先して漁獲方法の改善を行なったのであった。

翁の二〇歳代といえば、世は幕末、万延、文久、元治、慶応と目まぐるしく変わる世の中であった。まず小型漁船で対馬厳原に渡り、イカ取りをしたところ大漁であった。これがきっかけとなり以後、勝本漁民も対馬のイカ漁に行くようになったのである。

以前よりカムロ船によって伝えられていたタグリ漁法があった。これははじめ瀬の近くでないと釣れないものと考えられていたが、漁具を考案しいろいろと実験してみた結果、瀬の上でなくても釣れることがわかった。そこで皆に教えた。そして漁獲もふえ、良い収入を得ることができたのである。明治二年(一八六九)のことであった。

ブリ延縄は、夜明を待って投入しなければ漁はないと考えられていた。しかし翁は魚群の水面に浮き上る時間を実験し、夜が明けてから投入しても漁のあることを証明してみせたのである。以来この漁法で一般漁業者に与えた影響も大きいものがあった。

明治六年三四歳の時、対馬沿岸でサバ漁業を試してみようと思い二、三の漁船をさそって上県郡銘村に渡った(現在の下県郡豊玉町銘であろう。西海(にしめ)で志多浦のちょっと北)。これも初めてのことであったが、幸い良い漁場を見つけ予想外の好成績であった。同地のサバ漁はこれから盛んになり、初夏の頃には遠く四国、九州地方の漁船が集まるようになった。

その他、マグロ流し延縄、ハイオ網を創作した。ハイオ網は明治三〇年に考案したものであったが、多額の資金が必要であること、推もやったことがないという危険性から、実施することができず空しく数年を過したのであった。明治三五年になってようやく篠崎武吉氏の賛同を得て、操業を開始し非常な好成績をおさめた。熊本、山口、大分、各県の水産試験場及び一般漁業界の有志は次々と翁のもとにきて、その方法を習い操業するものが増えていったのである。大正三年、壱岐、対馬間におけるハイオ網従事隻数は四〇隻ぐらいとなり、一隻の漁獲高も二〇〇〇円から三〇〇〇円におよんだのである(ちなみに小敷瀬防波堤は大正七年から八年まで約一ヶ年かかってあの大きな石を積み上げた大工事であったが、その費用はしめて六〇〇〇円であった)。

明治三九年六七歳のとき、朝鮮木浦附近のタイ漁の状況を調査して有望なことをたしかめた。そして若い漁師にすすめ二隻で出発しようとしている時、病となりついに明治四二年一一月二六日、七〇歳で没したのであった。城山公園には翁の顕彰碑が建てられ永くこれを記念している。

 

殿川徳次郎

嘉永元年(一八四七)勝本に生まれる。少年時代家運が衰退し、貧乏の中に成長した。

二五歳の時、父仙蔵と共に酒造業をはじめ全く寝食を忘れて働き家運の挽回につとめた。

また公共事業にも努力し、勝本学務委員を務めること二〇余年、教育基本財産である区有地の改良を行い多大の増収を得たのである。勝本港正村湾の埋没を心配し、浚渫(しゅんせつ)することを考え、皆を励まし県や村の補助を得てこれを実現したのであった。

日常軽薄で浮かれた行いを戒め質実剛健、奮闘努力主義で生活するよう後進を指導した。

 

松尾万吉

明治二六年四月、勝本に生まれる。早く父を失い、幼い頃から漁業に従事した。ある時出漁中、突然暴風にあい船はてんぷく、人事をつくしてみたが力つきて死ぬのはもはや時間の問題となった。弱る体、もうろうとする頭、ひたすら志賀大明神、聖母神社に「救け給え」と祈ったのである。そのかいあって折よく通りかかった対馬商船会社の汽船に助けられ九死に一生を得たのであった。

これ以後彼は感謝の念をもって全てに取り組んだ。町内はいうに及ばず青年会、消防組、水防組、校友会等の発展をはかり、献身的な努力と奉仕の毎日をおくった。補修学校の出席督励にも尽力した。

大正九年四月勝本西部青年会長より模範青年として表彰。大正一一年三月三〇日香椎村長より模範青年及び公共事業に尽力したとして表彰。同一二年一月二四日香椎村漁業組合長。同一二年三月壱岐郡教育会長より表彰を受けた。

氏はさらに勝本における暴風警報の夜間信号に石油灯では暴風のため役に立たないので、これを電灯に代えようと運動をおこしたのであった。だが経費不足のため実現せず、大正一二年夏前途有望なこの青年は、三二歳で夭折したのであった。

氏は生前、水防組の長として組員とともに命がけの救助活動を行なってきた。もちろん無報酬であったが、助けられた人達は謝礼をおくった。そうした謝礼金はその都度積立てられた。

さて水防組が解散になるとき、積立てておいた金で何か記念になるものをと組員で相談したのである。その結果、故組長の強い遺志であった夜間信号用の灯台を弁天波止の先に建てたのであった(工事費六五円)。そして組長の名をとって万吉灯台とした。ところが灯台と名付けたため「民間で勝手に灯台を作ることはまかりならぬ、ただちに取りこわせ」との当局の厳命がおりた。これに勝本では驚き、地元選出の牧山耕蔵代議士等に頼みその尽力で、万吉灯台の「台」の字を取ることでおさまると言ういきさつがあった。

 

佐々木徳蔵

文献に「明治初期、砂のため漁船が航行しにくくなった博多瀬戸に標識の柱をたてた」とあるがくわしいことは不明である。

(大正一四年発行の『香椎村青年読本』より)

 

原田卯八郎

氏は、二代原田元右衛門翁の弟原田仙蔵氏の四男で、慶応二年(一八六六)六月一〇日勝本に生れた。明治二〇年、酒類製造業を継承した。翁は日ごろ勝本をどのように発展させるべきか、思いを将来にめぐらすのであった。

離島航路汽船の寄港問題、港湾浚渫、優良灯台の建設、不正漁船の取締りなどに尽力した。特に学校教育の普及と発達には一段の努力をして、もっぱらこれの実現をはかった。

翁は、勝本港に汽船が寄港しないのを悲しみ、当時の郡長に数回意見を陳述したが何の効果もなかった。そこで義兄の篠崎武吉氏とともに、佐賀深川汽船会社と数回交渉を行なった。その結果、同社の汽船が寄港するようになったのである。そして引続き離島航海県費補助対馬商船会社船の寄港を懇請しこれも定期に寄港させたのである。明治二七年末のことである。当時、本郡における県費補助船の寄航は郷ノ浦一港だったため本郡北部の住民は非常に不便を感じていた。これにより北部住民は、多大の便益を受けるようになった。

大正六年甥の三代原田元右衛門氏とともに、勝本港への汽船寄港につき国庫補助の請願を牧山、秋田両代議士を通じて行い、これも実現させた。

明治三七年の日露戦争では、勝本浦の水産物を加工、製造して、陸軍糧秣廠へ軍食品として一二万円相当の納品をなし、感謝状を受けている。勝本港外の若宮島に陸軍省で灯竿所および望楼が設置されたが、平和の回復と同時に廃止の報が伝わった。そこでは灯竿所は航路標識上非常に必要であることを説明し、有志と計りこれの継続設置を請願して成功した。ところが翁はこれに満足せず、航路標識の理想は灯台設置であると、さらに大正三年横浜航路標示所および商船、郵船会社に灯台設置の運動をおこした。この交渉中の大正五年、牧山耕蔵氏が衆議院議員に当選した。牧山代議士を通し貴族院、衆議院、逓信、内務省などに請願してもらった結果、ついに大正七年四等灯台建設の決定をみたのである。ところが当時は欧州大戦中であった。このため物価が暴騰し予算が超過したのである。そこで政府は、五等灯台に変更して工事に着手することにした。翁はこのことをたいへん心配し、どのようにして四等灯台に変更するか、工夫考慮した。建設に要る石材をその所有管理者である本土村長に交渉し、石材の無償提供を約束してもらった。さらに土砂、砂利全部を勝本浦の負担とし、外観を四等灯台として建設することにした。大正七年一月に建設に着手し、大正一二年さらに四等灯台レンズの取替えを請願しその実現を見るに至った。現在の建物はすなわちこの時できたものである(その後増灯された)。全く翁の努力のたまものというべきものであろう。

明治三七、八年の戦争後、壱岐勝本および対馬近海に不正漁業船が跋扈(ばつこ)し、漁場は荒された。このためブリの漁獲が減少して、浦漁民は多大の損害を受けていた。翁はこれを深く心配し、不正漁業取締およびこれに関する法令改正の請願のため自費を惜しまず東奔西走した。そしてついに大正三年五月二七日大浦農商務大臣に面会し、意見をのべて諒解され目的を達したのである(つまり取締法を改正強化してもらったのである)。

明治二五年初代勝本区長に就任した。そして勝本区有地からの収益を、各戸配当または浦共有として随時支出することを止めて、学校基本財産にくり入れ基本財産を蓄積するという大方針をたて、もっぱらこの管理につとめた。勝本学務委員に奉職すること、前後通じて二〇余年におよんだ。明治四一年勝本小学校新築に際し、区会議員、学務委員として、また工事監督員として有志と共に一七〇余日寝食を忘れて尽力した。それも工事費一万余円に対し、区民には全く戸割りを賦課することなく、竣工させるよう努力したのである。このため家業を顧みるひまもなく、清酒九七石全部が腐敗したという。その他明治四一年、官有地城山を小学校運動場の名義での払下げを実現させた。城山は太閤の朝鮮征伐のおり築城した趾で、漁業者および航海業者のための勝本における唯一の標識である。当時城山の老木は枯死し、若木は盗まれるなど、ひどい状態であった。史跡保存上また航海標識上勝本浦民には最も尊いこの地の払下げが実現をみたことは、浦民のために益するところが多かった。また大正一三年天皇陛下御成婚記念として、三ヶ年継続事業で林間学校と城山公園の設備に努めた。大正元年、勝本小学校校長住宅の設置の必要を感じ、他有志とともにこれも実現させた。これは当時本郡唯一のものであった。大正一三年勝本総保護団長に当選すると、勝本校運動場の整理に、通学道路の改修に、あるいは弁天崎海水浴場の設置に努めてこれらを完成させた。翁はまた、同志と共に奔走し機械器具等の設備と充実に努めた。この結果その功労顕著であると表彰された。また大正一四年には香椎本土村長より、勝本学区学校基本財産土地管理事務に関し功労多きによりと表彰されている。

このように翁は、勝本教育振興および勝本浦発展策について余念がなかった。そして昭和三年五月二五日、六三歳で亡くなられた。

のため家業を顧みるひまもなく、清酒九七石全部が腐敗したという。その他明治四一年、官有地城山を小学校運動場の名義での払下げを実現させた。城山は太閤の朝鮮征伐のおり築城した趾で、漁業者および航海業者のための勝本における唯一の標識である。当時城山の老木は枯死し、若木は盗まれるなど、ひどい状態であった。史跡保存上また航海標識上勝本浦民には最も尊いこの地の払下げが実現をみたことは、浦民のために益するところが多かった。また大正一三年天皇陛下御成婚記念として、三ヶ年継続事業で林間学校と城山公園の設備に努めた。大正元年、勝本小学校校長住宅の設置の必要を感じ、他有志とともにこれも実現させた。これは当時本郡唯一のものであった。大正一三年勝本総保護団長に当選すると、勝本校運動場の整理に、通学道路の改修に、あるいは弁天崎海水浴場の設置に努めてこれらを完成させた。翁はまた、同志と共に奔走し機械器具等の設備と充実に努めた。この結果その功労顕著であると表彰された。また大正一四年には香椎本土村長より、勝本学区学校基本財産土地管理事務に関し功労多きによりと表彰されている。

このように翁は、勝本教育振興および勝本浦発展策について余念がなかった。そして昭和三年五月二五日、六三歳で亡くなられた。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社