天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

五、組合の近代化

五、組合の近代化

 

活魚運搬船壱漁丸進水

壱岐郡内漁協の合併事業として、郡内の活魚を京阪神地方へ直送販売することを主体にした計画があった。本事業は、全国に先がけモデルケースとして注目された。第一次構造改善事業により、活魚運搬鋼船、第一壱漁丸四九㌧、第二壱漁丸四九㌧ともに二〇〇馬力の二隻を昭和三八年度に建造進水した。

活魚運搬船建造概要

総事業費 三四七一万円

内訳 国庫補助金一〇三一万円

県費補助金 六八七万円

公庫融資 一三一〇万円

地元負担金 四四三万円

当初の計画にしたがい第一壱漁丸、第二壱漁丸は運航されていたが、活魚輸送の方が箱輸送よりも運搬経費が高くついたため、郡内漁協でも勝本漁協、箱崎漁協が専用利用することになった。両漁協も京阪神直送はほとんど止め、一部の活魚を箱立鮮魚と積み合わせで福岡、唐津に出荷していた。活魚船としての利用度は一割程度であった。したがって運営面で赤字増加となり、郡内漁協長会で協議の結果、昭和四二年九月末日に勝本漁協と箱崎漁協が各一隻ずつ引き受けることになった。勝本漁協買取りの第二壱漁丸は一〇二〇万円で、当時船長ほか船員四名とともに勝本港に回航された。勝本では活魚船としてではなく、鮮魚運搬船として、時には遭難救助活動船として利用された。船舶事業としての収支は毎年赤字決算であったが、組合員に対する間接利益は大きかった。昭和五一年三月、第二壱漁丸も老朽化により、福岡の「寿石油店」に、六一三万円にて売却処分された。

 

冷蔵庫施設完成

昭和四〇年一二月、勝本浦新町埋立地に三〇㌧冷蔵庫が完成した。

当時は、動力漁船三五八隻で、魚種もブリ、イカ、タイなどが主体であった。漁獲物は鮮魚運搬船で福岡、唐津に共同出荷していたが、離島としての立地条件により、運搬船の配船および氷の供給が円滑にいかずに、残量は地元において入札になっていた。また三月から八月までは大型船六五隻が巻落操業を行なっていたが、イワシ、サンマなどの餌料購入の際の保管施設がなかった。そのため大量保管ができず、高値の餌を使用していた。そして時には餌の入手ができず、出漁を中止することも再三おこった。昭和三八年以後の構造改善事業で、短期蓄養施設事業の生簀網、二三個設置の餌用イワシの確保が困難となった。

以上の事情のため、総事業内容が次のとおり決ったのである。

冷藏庫工事概要

場所 勝本浦一〇一番地先

冷藏能力 三〇㌧

面積 七二・九平方㍍

総事業費 四一〇万円

内訳 国庫補助金 一八五万円

県費補助金 二〇万円

町費補助金 七五万円

自己負担金 一三〇万円

 

()(なが)島の定置事業について

定置事業の実施については、従来いろいろと論議がされてきた。組合としても、何か自営事業を行ない、利益を得ることにより、組合員の手数料を引き下げ、負担を軽くしたかった。そこで大洋漁業または県水産試験場に漁場調査を依頼したところ、「定置漁場としては適所だ」との回答を受けた。総代会や総会でも一部の反対者があったが、将来に夢を託して実施することで決議がされた。昭和四〇年一二月より下漁場定置事業として、従業員は立石郡一頭領ほか一八名で、浦海(うらうみ)を基地として開始された。

以前はブリ網が行われていた場所でもあり、組合員の期待は大きかった。

しかしながら、その後七年間継続されたが、次の頁のとおり伸び悩み状態で中止された。

 

有線放送施設

勝本浦(塩谷地区除く)を主体に、昭和四一年五月より有線放送が開始された。五〇㍗の増幅器で勝本浦八ヶ所にスピーカーを取り付け、組合の通達事項などをそのつど放送することになった。

組合の放送施設は総工事費一八万円で完成したが、同年九月塩谷町公民館より放送施設の延長の要請があり、二か所に増設された。

本施設は、昭和五〇年八月新施設ができるまで利用されたが、その間住宅ブーム、宅地造成などで、配線の切断が多く、組合の担当職員の頭痛の種であった。

 

第一製氷所完成

以前、氷は福岡・唐津より鮮魚運搬船で仕入れていた。その結果、各船への氷配分回数も割当制をするなど不便を生じていた。その頃、漁船の大型化にともない二番イカの水揚げが増加してきたため、構造改善事業により製氷所を建設することになった。昭和四三年九月四日に着工し、昭和四四年三月三一日に完成した。

第一製氷所工事概要

場所 勝本浦一〇五の二番地

製氷能力 日産一五㌧製氷

貯氷能力 四五〇㌧

面積 四一六平方㍍

総事業費 三八八〇万円

内訳

国庫補助金 六三二万円

県費補助金 四二一万円

町費補助金 五一〇万円

自己負担金 二三一七万円

 

勝本漁協一W海岸局完成

勝本でも、トランシーバー漁船が増加し、従来一〇〇㍉が海上使用の許可出力であった。ところが、不正メーカーなどが漁業者に五〇〇㍉トランシーバーを売りつけていた。そのため漁業者を対象に、電波管理局より厳しい取締り指導を受けた。これは始末書を提出し一件落着したのであるが、今後の方針として漁場の混信状態を解決するため、一W海岸局の設置計画を進めることにした。

そこで昭和四六年一一月には五〇〇㍉無線機を海上使用できるよう陳情した。しかし電波法が国際法だけに不可能との回答であった。組合としては、昭和四六年までに三回実施していた無線免許国家試験を、昭和四七年度に二回実施して、約二五〇名の資格者を育成した。そして昭和四七年一二月勝本漁協一W海岸局の誕生をみた。

海岸局施設概要

施設能力 一W海岸局(二六MC)

総事業費 一〇二万三〇〇〇円

内訳 県費補助金 三〇万六〇〇〇円

町費補助金 二〇万四〇〇〇円

自己負担金 五一万三〇〇〇円

なお海岸局の運営については、各町無線の船団長で行うことになった。当初の加入隻数は次の通りである。

(加入種別) (加入隻数) (年会費)

1 一W船舶局 一四三隻 四〇〇〇円

2 箱崎加入局 三六隻 二〇〇〇円

3 二五W所有者 五二隻 二〇〇〇円

4 一〇〇㍉所有者 二四九隻 一〇〇〇円

 

勝本漁協青申会の発足

漁船の大型化にともない、イカ一本釣りの日本海出漁で水揚高も増加したが、毎年納税時期の三月になると税務知識不足のため困惑していた。白色申告であったこともあり、納税者の最高額は六〇万円前後であった。そこで漁協の指導や再三の会議の開催などにより、勝本漁協青色申告会を発足するに至った。

青色申告会の目的および事業

第四条 本会は青色申告制度を普及して申告納税制度の確立を図るとともに、納税維持の向上に努め、あわせて漁業経営の合理化と税務署ならびに納税者間の融和を図るをもって目的として次の事業を行う。

⑴ 青色申告の前提となる記帳ならびに指導を行う

⑵ 税務に関する法規ならびに取扱い事項の伝達

⑶ 漁業経営に関する指導ならびに相談

⑷ その他、本会の目的達成に必要な事項

以上の主旨に基づき、昭和四九年六月に一五㌧以上の船主を対象に初総会を開催した。船主および協業者を含め七一名の会員で、会長に山口正義氏、副会長に中村岩夫氏と島本栄氏とを推薦した。九州管内の漁業者による青申会は珍しい存在であった。

 

第二製氷所完成

昭和四三年当時の漁船勢力は、二㌧から三㌧が主体となっていたが、漁業近代化により昭和四七年には、三㌧から八㌧階層が主体をなし、漁場も沿岸より沖合へと進出していった。壱岐郡内漁協の全体漁獲量をみても昭和四〇年には八七二七㌧だったのに対し、昭和四七年には一万五八八二㌧と二倍に増加していた。また流通面でも魚価を上げるために鮮度の保持が重要視されていた。これに対する壱岐郡内の氷供給状況は、箱崎漁協日産二五㌧、勝本漁協日産一五㌧の合計四〇㌧であった。これでは漁船の大型化にともなう壱岐漁民の漁獲物鮮度保持ができず、福岡、唐津より鮮魚運搬船での海上搬入で氷の供給をしていた。勝本漁協においても、イカ一本釣り漁船が急激に増加し、昭和四三年には六三隻(五㌧以上)だったのが、昭和四七年には二〇四隻(五㌧以上)と約四倍の増加率であった。

そこで、近代的な製氷機と評価されている石川県漁連のノーススター製氷機を勝本でも設置することになり、昭和四九年度構造改善事業で着工され、昭和五〇年三月末日完成した。したがって、勝本漁協の日産合計㌧数は、第一製氷所と合せて待望の六〇㌧となったのである。

第二製氷所工事概要

場所 勝本浦中央突堤

製氷能力 日産四五㌧製氷

貯氷能力 一八〇㌧

面積 三八九平方㍍

総事業費 一億五二〇六万円

内訳 国庫補助金 二七一三万円

県費補助金 一八〇八万円

町費補助金 一八〇八万円

自己負担金 八八七七万円

 

天が原上架施設完成

漁船の上架は、勝本浦造船業者が所有する施設で行われていた。ところがそれだけの施設では、時化の時や月夜の間、十分処理能力がなく特殊船などは福岡や他町村へ回船する状況であった。小型船は、しかたなく凪の時、沖止めして上架することさえもあった。

さいわいにして、昭和四九年度の地方港湾の利用計画の中で、天が原斜路用地として二一〇〇平方㍍が、造船所用地として二八〇〇平方㍍が確保できた。そこで、昭和五〇年度、構造改善事業で斜路工事が実施された。上架施設の運営にあたっては、塩谷湾内で造船をしていた中村、石井、大久保、土肥の四業者が塩谷湾海岸通り工事のため本施設横に移転されることにより、一部管理委託をすることになった。これは昭和五〇年一一月末に完成し、組合員の船据えも自由に利用できるようになった。

斜路施設概要

場所 勝本町仲触藪田

上架能力 斜路五線(一線の長さ七〇㍍)

面積 二六九四平方㍍

総事業費 四五三九万円

内訳 国庫補助金 一八一五万六〇〇〇円

県費補助金 一三六一万七〇〇〇円

町費補助金 六八〇万八〇〇〇円

自己負担金 六八〇万九〇〇〇円

 

上漁場ブリ定置の開始

組合事業も自営を行うことで販売手数料の引き下げ、または指導事業の強化を目的として当初は、昭和四八年より五〇年まで七里ヶ曾根において、ブリ餌付事業を行なったが多額の欠損金を出し中止した。

この損失金(六八〇〇万円)を取り返すために次の方法として実施された自営事業が、天が原のシケン滝長瀬沖の親族定置である。

頭領(下村繁木)副頭領(川谷力雄、豊坂守)をリーダーとして、八名の従業員で昭和五一年春より開始した。初年度は、試験操業で順調な水揚げであった。

昭和五二年からは定置網の有効利用で実績を上げるため、総会で下漁場の本宮山折柱沖漁場の同意を得て、同時二ヶ所操業を試みた。新漁場での定置敷込みのこともあり、地区外の漁船が定置に飛び込んだり、ロープ切断事故が再三おこり定置従業員を苦しめた。一回の事故修理でも一〇日間から二〇日間を必要とするだけに水揚高を左右する。

定置事業は、三月から五月が盛漁期でありこの間に事故が再三に渡り発生したのも、別添資料の欠損金を出した原因でもある。

昭和五四年六月まで天が原の斜路用地横を基地として行われたが中止となった。

なお、ブリ飼付事業の欠損金は、この間に発生した外国船座礁による油流出事故補償金で埋め合せができたのは幸いであった。

 

漁網倉庫新設

昭和三九年頃よりイルカの回遊が激増し漁獲減少が問題化して、その被害は生産量をはるかに上回るものと思われた。

壱岐近海、特に勝本冲は好漁場であるだけに、イルカは格好の餌場として漁場を荒しまわった。

そこで勝本漁船による簡易発音機を使用しての追込み方法を採用し、イルカを追込むことにした。これが最も捕獲可能であった。そして昭和五一年度構造改善事業において、網収納施設を建設することにした。

これには、漁船で辰ノ島沿岸まで追込んだ場所で使用する追込み網と、辰ノ島入江に追込んだ後で使う仕切網とを収納するのである。また同時に、定置網も収納できる倉庫である。

漁網倉庫工事概要

場所 勝本浦中央突堤

施設能力 イルカ網 六統

定置網 三五〇反

面積 一六五平方㍍

総事業費 五五九万円

内訳 国庫補助金 二二三万六〇〇〇円

県費補助金 一六七万七〇〇〇円

町費補助金 八三万八〇〇〇円

自己負担金 八三万九〇〇〇円

 

組合本館事務所落成

従来漁協事務所および荷捌所は、勝本浦の鹿の下東(勝本郵便局用地)にあった。当時の集荷状況は、漁船の大型化と漁船数の増加にともない、鮮魚集荷場所もその日の水揚げに応じて変更していた。本部であった鹿の下事務所のほか、中央突堤先端の空地、第一製氷所前面棚、および鮮魚運搬船の両舷受け取りと、いろいろ集荷場が変わるという困難を生じていた。従って作業の不便、時間のロス、経費の割高など不利な点が多く、同時に鮮度低下を招いていた。

昭和四九年より壱岐と福岡間にフェリーが就航した。これにより大型保冷車が導入できるから、輸送コストも安くなると同時に鮮度保持の点でも便利になった。

そこで、一元集荷および保冷車が導入できる荷捌所建設が急務となった。当初は勝本港中央部の中央突堤に五〇〇平方㍍程度の計画であった。また九州郵船の勝本入港は、繋船の困難および経営コスト高を招き廃止となった。その用地を含めて一三二一平方㍍を利用することになった。ここに勝本漁民の一〇〇年の大計でもあった荷捌所、事務所および勝本町事業主体の漁村センターが、昭和五二年三月に完成した。

本館事務所概要

場所 勝本浦中央突堤

荷捌能力 毎日三万三〇〇〇㌔

面積 二三二三平方㍍

荷捌所 一二七〇平方㍍

事務所 五一八平方㍍

センター 五三五平方㍍

総事業費 二億四九〇七万円

内訳 国庫補助金 三三三三万円

県費補助金 二二二三万円

町費補助金 三〇六一万円

自己負担金 九三七七万円

(ただし、漁村センターは町の事業主体で総事業費六九一三万円であった。)

 

勝本漁協()り市場開設

勝本漁協の鮮魚の販売方法は、組合に集荷した鮮魚を組合荷捌所で入札、浜売り、その後は集荷した鮮魚を関東、関西に直送販売をする。時代の変化につれ、販売方法も浜売りから、直送販売と変わっていった。

長年鮮魚、干魚、貝類の全面組合集荷で共販を目標に努力し、また組合員の協力で、徐々に一元集荷に近づいたものの、一〇〇㌫集荷はできず、組合の要望に答えることができなかった。ある時期はブリの漁はあっていても、漁協の荷捌所には一本のブリも水揚げされないこともあった。正月前の組合荷捌所の現場は寒くひっそりしていた。またその前を鮮魚運搬車の荷台に、積み上げられた鮮魚が、郷ノ浦の市場へ運搬され、販売された。このような事態を打開するために、前々から鹿ノ下の組合荷捌所は狭く何かと不便であり、新事務所の建設が計画され、それの完成に伴い組合員の要望で競り市場開設が、具体化され始めた。

組合内部で課長会、役員会と検討され、賛否両論が出た。狭い島内に二つの市場が両立するか、直送体制に逆流ではないか、はたして仲買人が何人集るか、競り時間の問題、鮮魚の預り、魚代の精算、職員の人選と慎重に検討され、結論をまとめ、各町部落への説明と懇談会が始められた。

各町内、強い要望があるが不安である。色々と問題点の提供を受け再度組合内部で細部にわたり協議された。

香椎組合長、小畑専務も特に競り開設には熱心であった。また競り市場の成功へと熊本担当理事を始め各町より一名の委員が選出され、競り協力委員会が発足し、総代正副議長を含め二五名で構成された。初代の委員長は白石一郎氏で、具体的に競り時間、競り開始月日、自由販売魚種、組合員の内規、仲買人の規程を決め、各町より要望事項がだされ、委員会で活発に意見が交換された。組合内部では、市場開設に必要な事務手続、知事の認可、販売業務規則、細則を作り、仲買人の募集も行われた。地元消費魚については魚価が高いということで、島内の仲買人を対象に募集したが、問題がおこった。今までなかった郡内の仲買組合ができ、勝本漁協の競り市場には参加しないということであった。

募集の結果八〇名程の仲買人が集まったが組合の競り市場が始めてなら、仲買人全員も始めてであった。多量の鮮魚が処理できるかと不安で心配された。仲買人の最高人員は規則では一三〇名まで、八〇名の参加で出荷仲買人、加工仲買人、地元小売仲買人、小売仲買人としてランク付けされ、契約をしていった。

いよいよ競り開始日を昭和五二年八月八日と決定され、競り人の職員も福岡魚市場に一〇日間勉強に行き、簡単な技術を習得した。八月八日は福岡魚市場の青柳部長の協力を受け、二五〇箱の鮮魚を販売し、どうにか初日が終ったという気持だった。こうして勝本競り市場が開始された。

当時の職員は競り担当が松島課長外三名、女子職員一名でスタートしたが、集荷、精算の面で販売課全員、目の回るような忙しさであった。ひとりひとりが一生懸命である。担当理事、担当職員も毎日、朝早くから出勤し、現場は活気に満ちた中で一日が始まる。

色々と問題が発生すると委員会で協議され解決処理された。五二年度決算では、二億三〇〇〇万、五三年度決算では七億七〇〇〇万、五四年度決算では一二億と勝本競り市場は順調に伸び、実績も上がって行った。

現在勝本漁協の販売体制は、競り販売、活漁販売、委託直送販売という三つの方法で、全国でもめずらしい体制である。組合員の選択で販売ができ、おのずと鮮度も向上し、漁家所得の増加に影響を与えた。

仲買人の方も五三年には勝本鮮魚仲買組合が設立され、初代会長には村川貢氏が選出された。組合活動も研修と協和と充実した組合ができ、毎年一回総会が開催されている。

競り事業が短期間で成功した裏には、委員会、組合員、仲買人が一丸となり、この事業に対する理解と協力の結果である。

勝本の市場は、毎日一〇〇〇箱から二〇〇〇箱の鮮魚が販売され、地元消費また県外各市場へと処理、発送されている。

 

青年部資材倉庫の設置

漁協青年部も、従来から事業の一環として購買事業を行なっていた。

しかしながら毎年の取扱数量、金額も増大し、数年前から資材倉庫の要請があっていたが適地がなく延びていた。今回の中央突堤の利用計画で、昭和五四年度事業として石井建設の施工で昭和五四年六月末に完成した。

青年部資材倉庫工事概要

場所 勝本浦中央突堤

面積 一〇四平方㍍

総事業費 五八〇万円

内訳 町費補助金 一七〇万円

自己負担金 四一〇万円

 

串山二〇〇㌔タンク新設

第二次石油ショックにより、昭和五四年度当初重油の㍑単価は三二円であったが、年度末には七九円と二倍半の単価上昇となった。その間一〇回にわたっての値上げであった。

県外出漁船にあっては下関と金沢港で重油不足をおこしたため、金沢港では休船状態にならぬよう勝本単価五〇円のとき九〇円の高値重油を五〇〇㌔確保し、出漁態勢を整えた。

このような状況に対応するため、勝本でも串山半島に、オイル二〇〇本の屋外貯蔵所と重油二〇〇㌔タンクを昭和五四年一二月完成した。

重油タンク工事概要

場所 勝本浦串山半島

面積 五〇〇平方㍍

総事業費 一五〇〇万円

内訳 町費補助金 五〇〇万円

自己負担金 一〇〇〇万円

 

製品倉庫の完成

従来するめ、海藻の集荷は箱倉庫などを利用して行なっていた。

中央突堤に荷捌所を設置しただけに、関連施設は集約する計画にもとづいて、昭和五四年度の構造改善事業で漁網倉庫の横に建設工芸博栄の施工で昭和五四年一二月に完成した。

製品倉庫工事概要

場所 勝本浦中央突堤

保管能力 九〇〇個(一〇㌔ケース)

面積 一六五平方㍍

総事業費 六五〇万円

内訳 国庫補助金 一九一万円

県費補助金 一二七万円

町費補助金 一三〇万円

自己負担金 二〇二万円

 

コンピューターの導入

勝本漁協も漁船の増加で、長崎県下一の在籍漁船港となり組合職員数も六十数名でその事務量も複雑化した。漁船操業でも機械化が進み無線機、魚探、ロラン、レーダーがなくては操業ができない時代となった。

事務の合理化と経費の軽減を計ることで昭和五四年六月より本機の導入について、視察研修会を重ねて約一年間検討協議がされた。富士通興業株式会社に依頼し組合本部に本機のファコム・V-八三〇を設置し、信用部に端末機ファコム・二七三〇を二台置き、昭和五五年五月二〇日より川上憲久室長外三名のスタッフで業務を開始した。

本機はリース制契約で、販売事業と信用部事業をセットし、今後逐次その他事務作業を開発組入れする計画である。

九州管内の漁協では初めてのコンピューター導入だけにプログラム作成にはスタッフの苦心があった。

 

文字数(スペース含む、含まない) 82

五、組合の近代化

 

活魚運搬船壱漁丸進水

壱岐郡内漁協の合併事業として、郡内の活魚を京阪神地方へ直送販売することを主体にした計画があった。本事業は、全国に先がけモデルケースとして注目された。第一次構造改善事業により、活魚運搬鋼船、第一壱漁丸四九㌧、第二壱漁丸四九㌧ともに二〇〇馬力の二隻を昭和三八年度に建造進水した。

活魚運搬船建造概要

総事業費 三四七一万円

内訳 国庫補助金一〇三一万円

県費補助金 六八七万円

公庫融資 一三一〇万円

地元負担金 四四三万円

当初の計画にしたがい第一壱漁丸、第二壱漁丸は運航されていたが、活魚輸送の方が箱輸送よりも運搬経費が高くついたため、郡内漁協でも勝本漁協、箱崎漁協が専用利用することになった。両漁協も京阪神直送はほとんど止め、一部の活魚を箱立鮮魚と積み合わせで福岡、唐津に出荷していた。活魚船としての利用度は一割程度であった。したがって運営面で赤字増加となり、郡内漁協長会で協議の結果、昭和四二年九月末日に勝本漁協と箱崎漁協が各一隻ずつ引き受けることになった。勝本漁協買取りの第二壱漁丸は一〇二〇万円で、当時船長ほか船員四名とともに勝本港に回航された。勝本では活魚船としてではなく、鮮魚運搬船として、時には遭難救助活動船として利用された。船舶事業としての収支は毎年赤字決算であったが、組合員に対する間接利益は大きかった。昭和五一年三月、第二壱漁丸も老朽化により、福岡の「寿石油店」に、六一三万円にて売却処分された。

 

冷蔵庫施設完成

昭和四〇年一二月、勝本浦新町埋立地に三〇㌧冷蔵庫が完成した。

当時は、動力漁船三五八隻で、魚種もブリ、イカ、タイなどが主体であった。漁獲物は鮮魚運搬船で福岡、唐津に共同出荷していたが、離島としての立地条件により、運搬船の配船および氷の供給が円滑にいかずに、残量は地元において入札になっていた。また三月から八月までは大型船六五隻が巻落操業を行なっていたが、イワシ、サンマなどの餌料購入の際の保管施設がなかった。そのため大量保管ができず、高値の餌を使用していた。そして時には餌の入手ができず、出漁を中止することも再三おこった。昭和三八年以後の構造改善事業で、短期蓄養施設事業の生簀網、二三個設置の餌用イワシの確保が困難となった。

以上の事情のため、総事業内容が次のとおり決ったのである。

冷藏庫工事概要

場所 勝本浦一〇一番地先

冷藏能力 三〇㌧

面積 七二・九平方㍍

総事業費 四一〇万円

内訳 国庫補助金 一八五万円

県費補助金 二〇万円

町費補助金 七五万円

自己負担金 一三〇万円

 

()(なが)島の定置事業について

定置事業の実施については、従来いろいろと論議がされてきた。組合としても、何か自営事業を行ない、利益を得ることにより、組合員の手数料を引き下げ、負担を軽くしたかった。そこで大洋漁業または県水産試験場に漁場調査を依頼したところ、「定置漁場としては適所だ」との回答を受けた。総代会や総会でも一部の反対者があったが、将来に夢を託して実施することで決議がされた。昭和四〇年一二月より下漁場定置事業として、従業員は立石郡一頭領ほか一八名で、浦海(うらうみ)を基地として開始された。

以前はブリ網が行われていた場所でもあり、組合員の期待は大きかった。

しかしながら、その後七年間継続されたが、次の頁のとおり伸び悩み状態で中止された。

 

有線放送施設

勝本浦(塩谷地区除く)を主体に、昭和四一年五月より有線放送が開始された。五〇㍗の増幅器で勝本浦八ヶ所にスピーカーを取り付け、組合の通達事項などをそのつど放送することになった。

組合の放送施設は総工事費一八万円で完成したが、同年九月塩谷町公民館より放送施設の延長の要請があり、二か所に増設された。

本施設は、昭和五〇年八月新施設ができるまで利用されたが、その間住宅ブーム、宅地造成などで、配線の切断が多く、組合の担当職員の頭痛の種であった。

 

第一製氷所完成

以前、氷は福岡・唐津より鮮魚運搬船で仕入れていた。その結果、各船への氷配分回数も割当制をするなど不便を生じていた。その頃、漁船の大型化にともない二番イカの水揚げが増加してきたため、構造改善事業により製氷所を建設することになった。昭和四三年九月四日に着工し、昭和四四年三月三一日に完成した。

第一製氷所工事概要

場所 勝本浦一〇五の二番地

製氷能力 日産一五㌧製氷

貯氷能力 四五〇㌧

面積 四一六平方㍍

総事業費 三八八〇万円

内訳

国庫補助金 六三二万円

県費補助金 四二一万円

町費補助金 五一〇万円

自己負担金 二三一七万円

 

勝本漁協一W海岸局完成

勝本でも、トランシーバー漁船が増加し、従来一〇〇㍉が海上使用の許可出力であった。ところが、不正メーカーなどが漁業者に五〇〇㍉トランシーバーを売りつけていた。そのため漁業者を対象に、電波管理局より厳しい取締り指導を受けた。これは始末書を提出し一件落着したのであるが、今後の方針として漁場の混信状態を解決するため、一W海岸局の設置計画を進めることにした。

そこで昭和四六年一一月には五〇〇㍉無線機を海上使用できるよう陳情した。しかし電波法が国際法だけに不可能との回答であった。組合としては、昭和四六年までに三回実施していた無線免許国家試験を、昭和四七年度に二回実施して、約二五〇名の資格者を育成した。そして昭和四七年一二月勝本漁協一W海岸局の誕生をみた。

海岸局施設概要

施設能力 一W海岸局(二六MC)

総事業費 一〇二万三〇〇〇円

内訳 県費補助金 三〇万六〇〇〇円

町費補助金 二〇万四〇〇〇円

自己負担金 五一万三〇〇〇円

なお海岸局の運営については、各町無線の船団長で行うことになった。当初の加入隻数は次の通りである。

(加入種別) (加入隻数) (年会費)

1 一W船舶局 一四三隻 四〇〇〇円

2 箱崎加入局 三六隻 二〇〇〇円

3 二五W所有者 五二隻 二〇〇〇円

4 一〇〇㍉所有者 二四九隻 一〇〇〇円

 

勝本漁協青申会の発足

漁船の大型化にともない、イカ一本釣りの日本海出漁で水揚高も増加したが、毎年納税時期の三月になると税務知識不足のため困惑していた。白色申告であったこともあり、納税者の最高額は六〇万円前後であった。そこで漁協の指導や再三の会議の開催などにより、勝本漁協青色申告会を発足するに至った。

青色申告会の目的および事業

第四条 本会は青色申告制度を普及して申告納税制度の確立を図るとともに、納税維持の向上に努め、あわせて漁業経営の合理化と税務署ならびに納税者間の融和を図るをもって目的として次の事業を行う。

⑴ 青色申告の前提となる記帳ならびに指導を行う

⑵ 税務に関する法規ならびに取扱い事項の伝達

⑶ 漁業経営に関する指導ならびに相談

⑷ その他、本会の目的達成に必要な事項

以上の主旨に基づき、昭和四九年六月に一五㌧以上の船主を対象に初総会を開催した。船主および協業者を含め七一名の会員で、会長に山口正義氏、副会長に中村岩夫氏と島本栄氏とを推薦した。九州管内の漁業者による青申会は珍しい存在であった。

 

第二製氷所完成

昭和四三年当時の漁船勢力は、二㌧から三㌧が主体となっていたが、漁業近代化により昭和四七年には、三㌧から八㌧階層が主体をなし、漁場も沿岸より沖合へと進出していった。壱岐郡内漁協の全体漁獲量をみても昭和四〇年には八七二七㌧だったのに対し、昭和四七年には一万五八八二㌧と二倍に増加していた。また流通面でも魚価を上げるために鮮度の保持が重要視されていた。これに対する壱岐郡内の氷供給状況は、箱崎漁協日産二五㌧、勝本漁協日産一五㌧の合計四〇㌧であった。これでは漁船の大型化にともなう壱岐漁民の漁獲物鮮度保持ができず、福岡、唐津より鮮魚運搬船での海上搬入で氷の供給をしていた。勝本漁協においても、イカ一本釣り漁船が急激に増加し、昭和四三年には六三隻(五㌧以上)だったのが、昭和四七年には二〇四隻(五㌧以上)と約四倍の増加率であった。

そこで、近代的な製氷機と評価されている石川県漁連のノーススター製氷機を勝本でも設置することになり、昭和四九年度構造改善事業で着工され、昭和五〇年三月末日完成した。したがって、勝本漁協の日産合計㌧数は、第一製氷所と合せて待望の六〇㌧となったのである。

第二製氷所工事概要

場所 勝本浦中央突堤

製氷能力 日産四五㌧製氷

貯氷能力 一八〇㌧

面積 三八九平方㍍

総事業費 一億五二〇六万円

内訳 国庫補助金 二七一三万円

県費補助金 一八〇八万円

町費補助金 一八〇八万円

自己負担金 八八七七万円

 

天が原上架施設完成

漁船の上架は、勝本浦造船業者が所有する施設で行われていた。ところがそれだけの施設では、時化の時や月夜の間、十分処理能力がなく特殊船などは福岡や他町村へ回船する状況であった。小型船は、しかたなく凪の時、沖止めして上架することさえもあった。

さいわいにして、昭和四九年度の地方港湾の利用計画の中で、天が原斜路用地として二一〇〇平方㍍が、造船所用地として二八〇〇平方㍍が確保できた。そこで、昭和五〇年度、構造改善事業で斜路工事が実施された。上架施設の運営にあたっては、塩谷湾内で造船をしていた中村、石井、大久保、土肥の四業者が塩谷湾海岸通り工事のため本施設横に移転されることにより、一部管理委託をすることになった。これは昭和五〇年一一月末に完成し、組合員の船据えも自由に利用できるようになった。

斜路施設概要

場所 勝本町仲触藪田

上架能力 斜路五線(一線の長さ七〇㍍)

面積 二六九四平方㍍

総事業費 四五三九万円

内訳 国庫補助金 一八一五万六〇〇〇円

県費補助金 一三六一万七〇〇〇円

町費補助金 六八〇万八〇〇〇円

自己負担金 六八〇万九〇〇〇円

 

上漁場ブリ定置の開始

組合事業も自営を行うことで販売手数料の引き下げ、または指導事業の強化を目的として当初は、昭和四八年より五〇年まで七里ヶ曾根において、ブリ餌付事業を行なったが多額の欠損金を出し中止した。

この損失金(六八〇〇万円)を取り返すために次の方法として実施された自営事業が、天が原のシケン滝長瀬沖の親族定置である。

頭領(下村繁木)副頭領(川谷力雄、豊坂守)をリーダーとして、八名の従業員で昭和五一年春より開始した。初年度は、試験操業で順調な水揚げであった。

昭和五二年からは定置網の有効利用で実績を上げるため、総会で下漁場の本宮山折柱沖漁場の同意を得て、同時二ヶ所操業を試みた。新漁場での定置敷込みのこともあり、地区外の漁船が定置に飛び込んだり、ロープ切断事故が再三おこり定置従業員を苦しめた。一回の事故修理でも一〇日間から二〇日間を必要とするだけに水揚高を左右する。

定置事業は、三月から五月が盛漁期でありこの間に事故が再三に渡り発生したのも、別添資料の欠損金を出した原因でもある。

昭和五四年六月まで天が原の斜路用地横を基地として行われたが中止となった。

なお、ブリ飼付事業の欠損金は、この間に発生した外国船座礁による油流出事故補償金で埋め合せができたのは幸いであった。

 

漁網倉庫新設

昭和三九年頃よりイルカの回遊が激増し漁獲減少が問題化して、その被害は生産量をはるかに上回るものと思われた。

壱岐近海、特に勝本冲は好漁場であるだけに、イルカは格好の餌場として漁場を荒しまわった。

そこで勝本漁船による簡易発音機を使用しての追込み方法を採用し、イルカを追込むことにした。これが最も捕獲可能であった。そして昭和五一年度構造改善事業において、網収納施設を建設することにした。

これには、漁船で辰ノ島沿岸まで追込んだ場所で使用する追込み網と、辰ノ島入江に追込んだ後で使う仕切網とを収納するのである。また同時に、定置網も収納できる倉庫である。

漁網倉庫工事概要

場所 勝本浦中央突堤

施設能力 イルカ網 六統

定置網 三五〇反

面積 一六五平方㍍

総事業費 五五九万円

内訳 国庫補助金 二二三万六〇〇〇円

県費補助金 一六七万七〇〇〇円

町費補助金 八三万八〇〇〇円

自己負担金 八三万九〇〇〇円

 

組合本館事務所落成

従来漁協事務所および荷捌所は、勝本浦の鹿の下東(勝本郵便局用地)にあった。当時の集荷状況は、漁船の大型化と漁船数の増加にともない、鮮魚集荷場所もその日の水揚げに応じて変更していた。本部であった鹿の下事務所のほか、中央突堤先端の空地、第一製氷所前面棚、および鮮魚運搬船の両舷受け取りと、いろいろ集荷場が変わるという困難を生じていた。従って作業の不便、時間のロス、経費の割高など不利な点が多く、同時に鮮度低下を招いていた。

昭和四九年より壱岐と福岡間にフェリーが就航した。これにより大型保冷車が導入できるから、輸送コストも安くなると同時に鮮度保持の点でも便利になった。

そこで、一元集荷および保冷車が導入できる荷捌所建設が急務となった。当初は勝本港中央部の中央突堤に五〇〇平方㍍程度の計画であった。また九州郵船の勝本入港は、繋船の困難および経営コスト高を招き廃止となった。その用地を含めて一三二一平方㍍を利用することになった。ここに勝本漁民の一〇〇年の大計でもあった荷捌所、事務所および勝本町事業主体の漁村センターが、昭和五二年三月に完成した。

本館事務所概要

場所 勝本浦中央突堤

荷捌能力 毎日三万三〇〇〇㌔

面積 二三二三平方㍍

荷捌所 一二七〇平方㍍

事務所 五一八平方㍍

センター 五三五平方㍍

総事業費 二億四九〇七万円

内訳 国庫補助金 三三三三万円

県費補助金 二二二三万円

町費補助金 三〇六一万円

自己負担金 九三七七万円

(ただし、漁村センターは町の事業主体で総事業費六九一三万円であった。)

 

勝本漁協()り市場開設

勝本漁協の鮮魚の販売方法は、組合に集荷した鮮魚を組合荷捌所で入札、浜売り、その後は集荷した鮮魚を関東、関西に直送販売をする。時代の変化につれ、販売方法も浜売りから、直送販売と変わっていった。

長年鮮魚、干魚、貝類の全面組合集荷で共販を目標に努力し、また組合員の協力で、徐々に一元集荷に近づいたものの、一〇〇㌫集荷はできず、組合の要望に答えることができなかった。ある時期はブリの漁はあっていても、漁協の荷捌所には一本のブリも水揚げされないこともあった。正月前の組合荷捌所の現場は寒くひっそりしていた。またその前を鮮魚運搬車の荷台に、積み上げられた鮮魚が、郷ノ浦の市場へ運搬され、販売された。このような事態を打開するために、前々から鹿ノ下の組合荷捌所は狭く何かと不便であり、新事務所の建設が計画され、それの完成に伴い組合員の要望で競り市場開設が、具体化され始めた。

組合内部で課長会、役員会と検討され、賛否両論が出た。狭い島内に二つの市場が両立するか、直送体制に逆流ではないか、はたして仲買人が何人集るか、競り時間の問題、鮮魚の預り、魚代の精算、職員の人選と慎重に検討され、結論をまとめ、各町部落への説明と懇談会が始められた。

各町内、強い要望があるが不安である。色々と問題点の提供を受け再度組合内部で細部にわたり協議された。

香椎組合長、小畑専務も特に競り開設には熱心であった。また競り市場の成功へと熊本担当理事を始め各町より一名の委員が選出され、競り協力委員会が発足し、総代正副議長を含め二五名で構成された。初代の委員長は白石一郎氏で、具体的に競り時間、競り開始月日、自由販売魚種、組合員の内規、仲買人の規程を決め、各町より要望事項がだされ、委員会で活発に意見が交換された。組合内部では、市場開設に必要な事務手続、知事の認可、販売業務規則、細則を作り、仲買人の募集も行われた。地元消費魚については魚価が高いということで、島内の仲買人を対象に募集したが、問題がおこった。今までなかった郡内の仲買組合ができ、勝本漁協の競り市場には参加しないということであった。

募集の結果八〇名程の仲買人が集まったが組合の競り市場が始めてなら、仲買人全員も始めてであった。多量の鮮魚が処理できるかと不安で心配された。仲買人の最高人員は規則では一三〇名まで、八〇名の参加で出荷仲買人、加工仲買人、地元小売仲買人、小売仲買人としてランク付けされ、契約をしていった。

いよいよ競り開始日を昭和五二年八月八日と決定され、競り人の職員も福岡魚市場に一〇日間勉強に行き、簡単な技術を習得した。八月八日は福岡魚市場の青柳部長の協力を受け、二五〇箱の鮮魚を販売し、どうにか初日が終ったという気持だった。こうして勝本競り市場が開始された。

当時の職員は競り担当が松島課長外三名、女子職員一名でスタートしたが、集荷、精算の面で販売課全員、目の回るような忙しさであった。ひとりひとりが一生懸命である。担当理事、担当職員も毎日、朝早くから出勤し、現場は活気に満ちた中で一日が始まる。

色々と問題が発生すると委員会で協議され解決処理された。五二年度決算では、二億三〇〇〇万、五三年度決算では七億七〇〇〇万、五四年度決算では一二億と勝本競り市場は順調に伸び、実績も上がって行った。

現在勝本漁協の販売体制は、競り販売、活漁販売、委託直送販売という三つの方法で、全国でもめずらしい体制である。組合員の選択で販売ができ、おのずと鮮度も向上し、漁家所得の増加に影響を与えた。

仲買人の方も五三年には勝本鮮魚仲買組合が設立され、初代会長には村川貢氏が選出された。組合活動も研修と協和と充実した組合ができ、毎年一回総会が開催されている。

競り事業が短期間で成功した裏には、委員会、組合員、仲買人が一丸となり、この事業に対する理解と協力の結果である。

勝本の市場は、毎日一〇〇〇箱から二〇〇〇箱の鮮魚が販売され、地元消費また県外各市場へと処理、発送されている。

 

青年部資材倉庫の設置

漁協青年部も、従来から事業の一環として購買事業を行なっていた。

しかしながら毎年の取扱数量、金額も増大し、数年前から資材倉庫の要請があっていたが適地がなく延びていた。今回の中央突堤の利用計画で、昭和五四年度事業として石井建設の施工で昭和五四年六月末に完成した。

青年部資材倉庫工事概要

場所 勝本浦中央突堤

面積 一〇四平方㍍

総事業費 五八〇万円

内訳 町費補助金 一七〇万円

自己負担金 四一〇万円

 

串山二〇〇㌔タンク新設

第二次石油ショックにより、昭和五四年度当初重油の㍑単価は三二円であったが、年度末には七九円と二倍半の単価上昇となった。その間一〇回にわたっての値上げであった。

県外出漁船にあっては下関と金沢港で重油不足をおこしたため、金沢港では休船状態にならぬよう勝本単価五〇円のとき九〇円の高値重油を五〇〇㌔確保し、出漁態勢を整えた。

このような状況に対応するため、勝本でも串山半島に、オイル二〇〇本の屋外貯蔵所と重油二〇〇㌔タンクを昭和五四年一二月完成した。

重油タンク工事概要

場所 勝本浦串山半島

面積 五〇〇平方㍍

総事業費 一五〇〇万円

内訳 町費補助金 五〇〇万円

自己負担金 一〇〇〇万円

 

製品倉庫の完成

従来するめ、海藻の集荷は箱倉庫などを利用して行なっていた。

中央突堤に荷捌所を設置しただけに、関連施設は集約する計画にもとづいて、昭和五四年度の構造改善事業で漁網倉庫の横に建設工芸博栄の施工で昭和五四年一二月に完成した。

製品倉庫工事概要

場所 勝本浦中央突堤

保管能力 九〇〇個(一〇㌔ケース)

面積 一六五平方㍍

総事業費 六五〇万円

内訳 国庫補助金 一九一万円

県費補助金 一二七万円

町費補助金 一三〇万円

自己負担金 二〇二万円

 

コンピューターの導入

勝本漁協も漁船の増加で、長崎県下一の在籍漁船港となり組合職員数も六十数名でその事務量も複雑化した。漁船操業でも機械化が進み無線機、魚探、ロラン、レーダーがなくては操業ができない時代となった。

事務の合理化と経費の軽減を計ることで昭和五四年六月より本機の導入について、視察研修会を重ねて約一年間検討協議がされた。富士通興業株式会社に依頼し組合本部に本機のファコム・V-八三〇を設置し、信用部に端末機ファコム・二七三〇を二台置き、昭和五五年五月二〇日より川上憲久室長外三名のスタッフで業務を開始した。

本機はリース制契約で、販売事業と信用部事業をセットし、今後逐次その他事務作業を開発組入れする計画である。

九州管内の漁協では初めてのコンピューター導入だけにプログラム作成にはスタッフの苦心があった。

 

文字数(スペース含む、含まない) 82




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社