天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

四、鯨伏いさふし村の漁業

四、鯨伏(いさふし)村の漁業

 

兼業漁家

鯨伏村は、海岸線が比較的長いにもかかわらず、漁業が充分な発達を遂げることはできなかった。それは漁業によってのみ生計を維持する者が極めて少なく、兼業が大部分であることも原因の一つである。このことは海岸地区の住民が集約的小規模農業経営であって、その余剰労力が、漁業として結びついていることを示すものである。

 

鯨伏村漁業組合の起り

従来鯨伏村の漁業は、沿岸漁民の自給自足程度であったが、湯ノ本と湯ノ浦には網漁業が操業されると、地域の住民が集団で漁業に従事することもあった。明治四一年に、原周蔵氏が発起人となり、鯨伏村漁業組合を結成し、専用漁業権を申請認可され、資源の保護、水産物の増殖が行われることとなったのである。やがて漁業の秩序が樹立され、増産の一途をたどり、保護養殖等の関係もあって、適時採取等で自然に増殖され、自家消費の域を越える生産となった。従って、これを販売に回すようになり、商人個々に売り渡して現金化され漁家所得の増となった。

 

鯨伏村漁業組合の沿革

一、鯨伏村漁業組合、明治四一年結成、組合長原周蔵

二、鯨伏村漁業会、昭和一九年改組、会長原周蔵

三、鯨伏村漁業協同組合、昭和二四年改組、組合長安永久行

四、鯨伏村漁業協同組合発足以来、沼津漁業協同組合と漁業権の全面的入会協定を結ぶ。

 

漁業のあらまし

①フクメの養殖

湯ノ本湾の木落(きおとし)海岸に、壱岐支庁水産課の指導により、フクメの養殖が計画された。フクメの包子を石に吹きつけて投石したのが、養殖の始まりで、結果は相当の成績をおさめて、各地区に流行し関心をあつめた。

②ナマコ養殖

湯ノ本湾のナマコは、自然の繁殖にまかせていたのを、昭和の初期、湯ノ本チョーニヤ(地名)に、ナマコの養殖が計画された。湯ノ本・湯ノ浦漁民によって、石を船で運び投石をして其の繁殖を計り、結果は良好であった。

③アサリ貝の養殖

昭和七年、湯ノ本湾内、特に若宮(にやく)海岸に、アサリ貝養殖のため稚貝を放流した。これが海岸線に沿い繁殖して、今なお地元で採取されている。

④カキ養殖

昭和三六年から三七年にかけ、壱岐支庁水産課の指導を受け、湯ノ本地区の青年部による、カキの養殖がチョーニヤで実施されたが、成果が良くなかったので、継続されなかった。

⑤湯ノ本の漁業

(イ)キンチャク網(綿糸)

湯ノ本・湯ノ浦に、キンチャク網が各々一統ずつあった。シラス(小イワシ)、チュウジョウの小羽物の引網で、地区の漁民が総動員でこれに従事し、漁獲物は地元並びに郡内消費用として広く販売された。大正の初期には、シラスが豊漁で、ホシカ(シラスの生干し)として稲の肥料にするため、福岡県方面に積み出されていた。

(ロ)秋の大網(セモンウチ又は追い込み網ともいう)

専用漁場として、勝本近海ではサマダ、メゼ、鯨伏海岸では()(なが)(しま)、沼津海岸では島外(しまんそと)(ほお)()(うら)、森ノ浜などがあった。その網代(あじろ)(漁場)に網を張って、石を積んだ小舟群が、魚群を包囲して、石を投げて網の中に追い込んで、ミト(袋)で魚を捕った。

主にムツ、カマス、アジ、イワシを漁獲して、塩干しにして、郡内に販売した。この塩干魚は、鮮度、塩の量、及び塩につける時間によって、製品の味が違ってくる。だから塩干魚といっても、品質及び味の良し悪しがあるので、製法は他人にはなかなか教えなかった。

(ハ)岩石網(がんせきあみ)

二隻の小舟で、魚のいる場所に、網を建てまわして引きあげる漁である。主としてイサキ、ムツをとって郡内に販売された。

(ニ)水イカ網

一隻引きで建てまわし、地に引きあげて漁獲するのである。主として地元で販売消費された。

(ホ)引きたおし網

小イワシ及びチュウジョウをとるため、夜間に操業された。

(ハ)四張(よつば)り網(主としてボタツをとる)ボタツは別名カジキリ、学名をスズメダイという。

一隻で瀬の前に網を敷き、魚が網の上に乗ったところを引きあげる漁法で、漁民の間にかなり利用された。これはボタツの習性を、利用したものである。ボタツという魚は網を引きあげると網の外側には逃げずに、真下に泳ぎ、網に乗った魚は全部とれるしくみである。鮮魚としては郡内。塩魚としては博多、大村方面へ出荷販売された。

(ト)ブリ刺し網

手長島の三ツ瀬には、ブリの刺し網が瀬戸浦の馬渡某により設置され、明治時代から操業されていた。しかし網が麻糸であり、糸を細くすることを地元漁民が拒んだため、彼は使用権を放棄した。そこで地元の組合員の中から十数人が共同して、この操業をなし採算のとれるぐらいの成績をあげた。その後勝本町漁業協同組合に吸収合併、勝本町漁業協同組合が大敷網を設置することになったため中止した。

(チ)網漁の操業の小道具等

まねき(写真参照)

まねきとは白い布で作った独特の形をした、一種の旗である。湯ノ浦の場合では、明日大網を出すという場合には、網棚の先に高い竿をくくりつけ、黒崎の追い込み船への合図とした。漁場では魚群の様子などの状況を、各船に知らせる合図にも使用された。また大漁の時にはこのまねきをたてて入港したそうである。銚子大漁節には「まねをあげ」、茨木大漁節には「総まねたて来るにぎやかさ」と歌い込まれている。おそらくこのまねも当地のまねきもおなじものと考えられる。

ぜー(写真参照)

ーとは竹に赤布、白布を、はたき状にくくりつけた二本の棒である。大網漁等で指揮船に乗った大船頭が、この二本のぜーを振って、各船の指揮をしたという。当地では網引の時、旗を振って掛声を揃える人の事を「ー振り」という。

魚群探知機もなかった時代には、魚を探すために次のような方法も行われていた。漁期になると網元では、小崎の海士(あま)を雇い入れ、家族ぐるみ住み込みで、魚群を探させていた。また瀬の中を操業するときには、この海士たちが網の破損防止に協力したという。

月夜の晩にチュウジョウを探すためには、約竿を使う方法もあった。釣竿(ゴサン竹)のよくのびたものを、海中にさしこんで、竿にコツコツとあたる魚の手ごたえで、魚群の遊泳層と密度と魚の所在を知ったという。

大網(追い込み網)漁の使用船

網船=羽魚網船より少し小型 五丁()

みと船=六尋ぐらい 三丁櫓

追い込み船=四尋~五尋一尺

三丁櫓

⑥漁業協同組合婦人部のスルメ加工

婦人部では、勝本漁協から生イカを買い受けて、個人加工をしてみたが、その結果は良くなかったので一度だけで中止した。

⑦カツオ漁船の根拠地

大正から昭和初期にかけて、鹿児島県の本カツオ釣漁船団が、湯ノ本のシワキズを根拠地としていた。七里ヶ曾根(沖の曾根)を漁場として操業していた。漁獲したカツオは、シワキズで製造加工して他に移送していた。このためカツオ釣漁法を当地の漁師も見習うことができた。

⑧ブリの飼付漁業

大正から昭和の初期に、ナンカケ漁場を主として、ヒラスの飼付漁業が湯ノ本の資本家によって操業された。その餌用イワシは、五島方面から入手し、相当の漁獲があって漁夫も地元から乗組んで一時は盛んであった。しかしその後漁場が荒れるに従がって、採算がとれなくなり廃止になった。

沃度(ヨード)原草カジメ(アラメ)の採取

明治の終り頃から、坂本触のタンスに田口覚衛氏がどこから習得して来たのか、海草カジメを原料とする焼灰から沃度を製造するため、操業を始めた。主として本宮方面の漁民及び沼津漁民の一部に、原料カジメの採取を依頼していた。この採草は、炎天下の重労働であった。だが確実な現金収入の途として採取に努力した。カジメの原草を灰にして、医薬品の原料沃度及び副産物として、火薬の原料硝酸塩の製造工場を創設して隆盛を究めた。太平洋戦争がはげしくなるにつれ、海草類全般を原料として硝酸塩の製造に一層の馬力をかけ戦争資材の製造に努力した。地元漁民もその原料海草採取に懸命の努力をかたむけたが、太平洋戦争終結と共に終りを告げた。その当時の工場跡が今も一部のこっている。

⑩海草及びウニの共同販売

昭和一〇年頃、鯨伏村漁業組合は県の補助を受けて、()()(らい)及び浦海に水産倉庫(四間×七間)を建設した。主として本宮方面の海産物の集荷貯蔵を目的として、従来商人に個別に売り渡した海産物を、郡内の海産物問屋を集めての競争入札に改めた。品質の向上、規格の統一を計り、漁民の収入の充実に努めた。

ウニの販売については、長崎及び下関等に研究員を派遣して、品質の向上、取引価格の研究をさせた。集荷も一元集荷とし、販売も商人を集めて競争入札を行い、製品の市場価値をもとに経費を逆算して、適正な値段をきめ、取引も改善し一歩前進した。これが本宮海産物出荷組合の起りで、鯨伏村漁業協同組合が勝本町漁業協同組合に吸収合併されるまで、強力に推進された。

⑪真珠の養殖

真珠は国際貿易の輸出品として、早くから先進地においては養殖されていた。太平洋戦争終了後、湯ノ本湾はその適地として各方面から、属目される情勢となった。昭和三〇年の総会に真珠養殖の件が提案されて、川棚真珠の指導を受け、昭和三二年母貝養殖管理漁業権が許可され、湯ノ本湾の六郎瀬と黒石の二ケ所に自営事業として発足した。しかしその経験と資材の関係もあって、その行使権を川棚真珠に譲渡し、その従事者は鯨伏村漁業協同組合員及びその家族を充当することにし、母貝の養殖が開始された。

昭和三二年湯ノ本湾の畳瀬、平瀬、黒ケ島の区画漁業権を川棚真珠に許可され、湯ノ本湾における真珠の養殖事業は一層発展の一途をたどった。

その後伊志呂に事務所が開設されてから、事業はさらに拡充し、同時に真珠養殖工場として発足した。

⑫漁業者の衣類と雨具

漁業者の衣料は「ドンザ」(刺し子をした厚い着物)で、雨具は綿布に油を引いたものであった。

⑬海上船の灯火

イカ取りランプや夜間の照明には、箱ランプが昭和の初期まで使用され、以後ガスランプに変わり、今日の電気と発達してきたのである。

⑭鉾突漁業

小舟でアワビ、サザエ、ナマコを採る突き磯漁である。これは小用から箱メガネで海底をのぞいて獲物をとる者と、櫓をこいで舟をあやつる者(ネリ子)との二人で操業する。

海底を見ながら、舟を進める時にはネライ、左側へやるときはオサイ、右側へやるときにはヒカイという。ネリ子はこの号令に従って、舟を獲物の上にもって行くのである。

アワビを発見すると、アワビ竿という道具でアワビを起こし、メザシ鉾で突いて船内に引きあげるのである。深い場所では一〇㍍以上もあるところから採ることもある。発見及び採取の技術には上手下手があって、漁獲高にも差があった。この漁業は海藻類が繁茂すると発見が困難になるので、一二月、一月、二月の寒中の季節に行われた。

アワビの消費については、壱岐郡内にも多少の消費はあったが、その大部分は芦辺町八幡浦に業者がいて、売買契約を結んで買い集め、イケスに入れて遠く大阪・東京方面に機械船で直接出荷した。

この突磯漁業は、昭和の初期が最も盛んで、本宮方面では二十数隻も従事していた。腕前のよい者は、一家の収入を左右するくらいの所得があった。サザエ・ナマコは郡内消費にまわされていた。

⑮磯建網(夜間磯辺に網を張って魚が自ら刺さる漁法)この漁業は湯ノ本浦に主たる業者が数人と、本宮に数人がいて操業していた。

一統の網の長さが四〇㍍、高さが二㍍ぐらいあり、また深いところに建てるものには高さが四㍍もある。一人の業者で多い者は、四〇統ももっていたが、これには多額の資本を必要とするので、個人での経営はなかなか困難であった。この漁法は、夜間海岸近くに網を張って操業する関係で、風が出ると取り上げが急速にできない欠点があった。そのため網を張ると海岸付近に泊りこみ、天候を気づかうという苦労の多いものである。漁獲の魚は地元消費もしたが、郷ノ浦市場にも出すほどかなりの漁獲があり、業者の所得も相当あった。しかし人の修結にも技術を要し、新調も多額の資金を要したので、簡単には普及しなかった。

⑯裸もぐり漁業

従来裸もぐりは、旧藩時代から渡良の小崎漁民にお墨付という殿様の許可権があった。しかし明治三五年七月漁業法が公布され、昭和二四年一二月旧漁業法が改正された。そして全国的に漁業権(定置漁業権、区画漁業権、共同漁業権など)が制定されて以来、その特権も制約をうけることになった。しかし県当局は、郡内各漁協へ許可を与える際、小崎漁民の生活を考慮して、小崎の入漁を(こば)まないように指導してきた。そこで小崎漁民は、毎年各地区漁協と入漁交渉を行い、協定事項を厳守して共同漁業権内で、作業をするようになった。

裸もぐりも昭和三五、六年以来、ウエットスーツ(ゴム製の潜水服)を着用して、海中にもぐってアワビ、サザエ、ウニなどを採取するようになった。湯ノ本の一部と本宮の一部には期間中これを専業とする漁民もいる。その技術も次第に向上し、所得も増加して従事する者も数を増した。その漁獲物は、郡内消費に一部販売されていたが、大部分は芦辺町八幡浦の業者などと特約して販売し、遠く大阪方面にも出荷している。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社