天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本浦郷土史18

勝本浦郷土史18


永取家の蔵書
 水取家には鯨に関する書画陶器等あるが、その中から次の書を記す。
永取家の苗字目錄、紙本墨一六・〇㎝×四六㎝。
元治元年 子甲
永取
五月吉日 白文方印
元治元年(一八六四)平戸藩主松浦家が、原田家に鯨が永く取れるようにと「永取」の苗字を与えた。それを記念して書き記したものである。七四翁乾斉の白文方印は、前記平戸松浦家第三五代藩主、松浦熈公である。
永取家苗字由緒書、紙本墨書本裝一枚包裝紙一枚、本紙十二・五㎝×二二四㎝、包裝紙表墨書。
當君公 電津挪音
御書 御取次仕
文治元年
子六月朔日拝領御下
本紙墨書
原田屋 永取之苗字願、被下置候旨めで度弥御座候、而嘸(さぞ)かし難有候事奉存候、何卒此勢二大漁永取仕度相析候事御座候以上。
五月廿八日
 包装紙と本紙は別に考える必要はないが、本紙は永取家が今後も鯨が永く取れるように、祈るという意を述べたものである。
鯨鰤霊過日鑑、紙本墨書折れ本一冊、十八・五㎝×七・四㎝、安政六末歳巳後、
鯨鯨郡霊離苔得説回向過去日鑑。
併漸読部数記録干背面。
洛要法三十祖之法続。
栗嶺学肆之謫侶、宝厳日寅識之。
但楽麦特大乗経典乃至、不麦餘経一偶、
安政六年(一八五九)から文久三年(一八六三)にとれた、鯨を記録する鯨の過去帳である。
その他永取家の家系図等あるが、都合により省略する。

納屋唄
 壱岐名勝図誌に納屋手唄が記されて、往時の鯨納屋の様子を知る上に参考になるので茲に記す。音調は不明であるが、角力甚句のような音階で勇ましく唄ってもよさそうである。当時祝宴等で盛んに唄われたのであろう、当時の鯨組の納屋作業状態の息吹が強く感じられる。この唄の内容は、鯨の種類、肉の名称、組の役職、作業の分類、道具等を物づくしに唄にしたものである。この唄の中には鯨組の特有の言葉が多くあり、むずかしい字で記されているので、分かりにくい所が多くあるので、振仮名をつけてあるが、他は判読していただきたい。
 それ組は、冬浦春浦勢(せ)美(み)座(ざ)頭(とう)長(なが)須(す)児(こ)鯨(くじら)花出しや、子供連(つれ)魚(うお)白長須、挾(はさみ)子特に立(たつ)羽(は)立(だち)、七尋物に雑(ぞう)物(もつ)や、扨(さて)々(さて)名所は数多し、觜(はし)囀(さえづり)に山(やま)臚(かわ)、衣(ころも)黒(くろ)皮(かわ)敷(しき)胴(どう)身(み)、赤身臓(ぞう)骨(ほね)筋(すじ)髭(ひげ)や、立(たつ)羽(は)尾(お)刷(ばい)毛(け)鞘(さや)握(にぎ)り、喉(のど)輪(わ)たけりに具の花(もと)から肝まで捨(すた)りなし、旦那手代に別当役、張役、若衆見習は、勘(かん)太(だ)郎(ら)追と最初也、親に役人、惣支配、責子の羽(は)差(ざ)しに持(もつ)双(そう)や、涼し沖番水主の者、舳(へさき)押(おし)双海行列は、山見て注進天秤と、摩の模様に依るぞかし、手柄仕勝の羽矢方、十二の銛(もり)※1は大事なり、剣切り手形課して、頭(あたま)漕(こ)ぎより浜までは、誠に勇み動なり、浜は大納屋西東、勘定納屋、道具納屋、仮治屋、大(でー)工(く)に釜(かま)がかり、大切り小切り煎(せり)粕(かす)や、魚切り部屋の飯(めし)焚(たき)や、田島の納屋の前細(ぜー)工(く)、小取り日雇に立番や、夜廻り不寝の太鼓番、轆(ろく)轤(ろ)場(ば)虎(こ)落(らく)内札は、坪場魚棚苔(こけ)塵(ちり)や、呉竹抗に縄筵、船は碇(いかり)帆(ぼ)梶柱、持双柱八挺櫓、手柄褒(ほー)美(び)の羽(は)差(ざし)哥(かな)、関東胡(ご)摩(ま)の詰出(いだ)し、道具浜売り仕替物、実に蓬(ほう)萊(らい)の山ぞかし。
※1 金へん+守
 鯨組のはざし唄は多く唄われているが、納屋手唄は余り見当たらないそうである。解読するのにむずかしい字が多くあるが、納屋作業の状態を知るうえに必要なことである。

はざし唄
 はざしとは刃刺し、羽差し、波座士ともいわれ、捕鯨の重要な役割で、海にとびこんで鯨の急所に剣を突き刺す最も危険な仕事であったので、その刃刺しにちなんで唄われたものであろう。
 はざし唄は、最初西彼杵郡瀬戸方面の鯨組の間で謡われたもので、それが次々に各鯨間に伝わり、壱岐でも鯨組と共に、漁民部落でも唄われるようになった。芦辺町でははざし保存会があって今に受け継がれ、平成七年十一月には県地域文化章に選ばれている。
大正の終わり頃まで、勝本浦の老人間の宴会には必ず最後にヨイヤサー歌が唄われていた事を記憶している。部落の老人の上手な太鼓のバチ捌きで、上手な人の声に合わせて合唱して、皆手を叩いて唄の最後には、アアヨイヤサー今年しや大漁アラヨカホイとしめくくる。
 はざし唄もこのヨイヤサー節ではないかと思われる。現在では、はざし唄にせよ、ヨイヤサーにせよ、この祝唄を知っている人は勝本浦にはいないが、東触の老人間には、最近までヨイヤサーが残されていた。
 箱崎の恵比須浦は捕鯨の基地であっただけに、棚江には今日まではざし唄が歌い継がれている。捕鯨の歴史をはざし唄で伝承することもよい試みである。又西被杵においても、はざし唄が歌い継がれていることが、近頃のテレビで放映された。
 兹※1に記すはざし唄は、納屋場歌と異なり、鯨捕りの勇壮な状況を歌にしたものであるが、方言が多く使われているので、判りにくいところもあるが、注釈できるところは自分なりに注釈を加えた。
※1異字体
 さても見事な旦那衆の網よな、勢美が寄り来る、子持ちは寄せてくる、勢美の大かち大がけしよう。親爺船かよなかばに寄せよ。
 子持ちは寄せくる、鼻毛の沖よ、采を振り上げていよみを招く。
 みとは八重張りそのわきや二重、沖の手網は皆一重。
 ともにとまつるおもてにしるし、勢美はじゃれものいよみとさいて、みとに被せて剣で刺してよろづでとめる、持双にかけて漕げよとよいなら漕がねばならぬ、田の浦浜に納屋のろくろに網つりかけて、勢美を巻く程暇もない、
 目出度や旦那衆の網、しあわせよかろうよ よかほい。
 あすはよい凪、沖まじや出さぬ、磯の藻陰で大がけしよ、
 魚ぞ魚ぞと名鳥山見、沖の鯨船目も見せぬ、
 沖のかもめをせみかと思うて、勢美は後より子を連れて、
 明日は旦那衆は大がけしよ。
 勢美とは勢美鯨のことで、鯨の種類では最も優種とされている。勢美の大がちとは、群(むれ)をなしている事をかちをつくるといわれている。
 大がけしようとは、賭けごとはいつの時代でも流行していたのであろう。子鯨は追わなくても、自然に親鯨のところに寄ってくる、采(さい)配(はい)※1者は采(ぜい)※1振りと普通いわれるが、捕鯨も采(ぜい)※1を振って指揮していた。いよみ意味は不明であるが、みどとは網の意味であろう、網を被せると鯨が暴れるので、網を破られないように三重四重に被せていたという。
 勢美は暴れるから、剣で刺すと血がほとばしるので、苫(とま)を覆せて刺したのである。納屋の轆(ろく)轤(ろ)とは、鯨に縄をかけて、ろくろで廻して鯨を陸に引揚げる道具のこと。(苔とは葦(あし)で編んだむしろのことであろう)当時鯨は遠くまでゆかず、辰の島、自然の島陰の藻際まで回遊していた事が判る。又鯨の見張所が若宮島にあった事は聞くが、名鳥島にも見張所があったのである。
※1 原本に記載されている采は異字体




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社