天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史25

勝本浦郷土史25

志賀山能満寺
 風土記に記す、当寺は本来比丘尼所、筑前博多より比丘尼来て始めて寺を造立す。開山昌牧尼、その弟子昌廓比丘尼以上二代にして比丘尼相終所也。其後比丘尼所空所にして、これある故、神岳山十八世頼辨法印、前肥州隆信公の御時、彼寺申請、真言宗開起、始めて寺屋敷の御判申請者也。其前判寺にあらざる所也、右の通り其前比丘尼寺の時より、我等一代中事紛れなき、此能満寺の由来の所、後代のため神岳山二〇世法印進誉、これを記す所なり。(以上寺記)
 斯く記す如く慶長五年(一六〇〇)頃博多から比丘尼が来て、今の鹿の下東の寺崎で毎日阿弥陀の称号を唱えて、月日を送っていた。庵の一世を昌牧と言う、弟子を昌廓といった、ある時対馬藩主義智公が、江戸幕府への往返の砌(みぎ)り、時(し)化(け)のため船を勝本港に数日滞留し給う時、旅の疲れを休めんとして船より上り、かなたこなたを散策し、彼の比丘尼の庵に腰かけ休み給うた。それが縁となって、其の後対馬国守が船を寄せられる度毎に、彼の比丘尼は船まで行きて安否を伺い、又殿様もこの庵寺で休憩する事を楽しみにされていた。
 義智公が元和元年(一六一五)亡くなられた時、比丘尼二人は連れ立って対馬に渡り、義智公の霊前に御焼香せん事を願った、第二十代義成公は、奇特な事よと事の外よろこばれて心よくおゆるしになり、その上に御布施として白銀数枚を下された、比丘尼帰りてその白銀を以て、一寺を建て、対馬国守の霊牌、前対州大守石翁宗大居士と謚を安置して供養した。令嗣これを聞き俸銀を与う、其文曰く、自寛永十三年(一六三六)為扶持方、一年に米三石達之候間、於博多蔵本毎歳右之通、被請取者也。
 寛永十二年十月十三日押字
 壱岐国勝本能満寺
 尼寺は二世限りで空所となったが、神岳山十八世頼辨法印が松浦藩主に、能満寺の申請を出して、真言宗として始めて寺屋敷となった。元和三年(一六一七)神皇寺十一代良辨大和尚が、第一世代能満寺住職となった。
 寛文十二年(一六七二)対馬藩主義貞公が、寺の修繕費として白銀十枚下され、これによって寛文十二年、志賀山の傍に改築して、寺を遷したとあるが、遷した寺屋敷が調査したが不明のため、比丘尼堂を改築したと見るべきである。
 寛文十二年七月鐘をかけたと記されている。その後寛保元年(一七四一)志賀山現金比羅神社下を掘り開いて寛延元年(一七四八)七ヶ年の歳月をかけて、志賀山の新地に寺院を遷した。
 志賀山能満寺について、壱岐名勝図誌に次の如く誌されている。
 本尊虚空蔵菩薩長八寸三分、弘法大師座像長九寸三分、祠堂本尊、子持観音像長八寸二分、客殿 末向 梁四間半 桁五間。
 廊下 竪一間、桁九尺、庫裡、梁四間、桁五間半、境内、寺地竪十二間二尺余、横十二間二尺余、寺産高、六升五合。
 勝本町史には寛政十一年(一七九八)壱岐国人別帳に神岳山末寺可須村能満寺、恵法法師四五歳、小憎一人あり、弘化二年(一八四五)には檀徒数百四〇軒とある。今より約一五〇年前である。

勝本山能満寺
 現能満寺の地に、醫王山三光寺があった事は前述したが、三光寺が廃寺になるに及んで、志賀山能満寺が三光寺跡に、明治四年に移転して、山号も志賀山能満寺から、勝本山能満寺に改山して今日に至ったのである。慶長年間(一五九六ー一六一五)より、鹿の下東にそして志賀山麓に、最後に三光寺跡の、風光明媚な勝本浦坂の高台に移転した。
 勝本山能満寺は、第三〇世法師志賀教寛師(後に志賀照林に改名)の住職以来である。入母屋造り桟瓦葺、柱間延長十二・九〇㎝、側面柱間総長一三・七〇㎝、明和年間(一七六四ー一七七二)に鯨組土肥氏の寄進により建立された。唐破風の玄関屋根を持ち、破風飾り(懸魚)の鳳凰と蟇股の牡丹の彫刻が華やかさを増す。
 大工頭梁は宮大工土肥家の第四代助次郎教寛である。
 明治三〇年第三一世法師斉藤盛応の代に、護摩堂が建立され、大正七年代三二代法師亀井盛現師の代に、檀信徒の浄財で本堂の大修理と位牌所の増改築が行われ、大正十五年第三四世代法師桑田盛賢師の代に、奥の院大師堂の本殿の増改築の計画成り、昭和二年の春完成した。
 又明治十八年庫裡と共に再建された表門は、老朽のため平成元年十一月一部彫刻品を残して解体再建された。かくして能満寺は七百数十戸の檀家をもつ、壱岐でも最も檀家の多い寺となった。

慈尊堂(位牌所兼納骨所)
 勝本は壱岐で墓地面積が最も多く、墓地が浦部の高台にあって、観光面からも整理されなければならなかった。昭和四五年町村組合事業として、火葬場が建設される事により、従来の土葬が火葬になるに及んで、納骨堂の施設の要望が高まり、昭和五三年当時の能満寺総代会では、この至難な問題と取り組み、護摩堂を取り壊して、三階建ての位牌所兼納骨堂を、昭和五四年十一月に完成し、十一月二七日に慈尊堂として落慶式が挙行された。
 慈尊堂は鉄筋コンクリート三階建て、工事費一億六千万円位牌所兼納骨所約八〇〇戸分となっている。
 従来の位牌所は檀徒の能満寺に対する過去の功績により、位牌所の場所も大きさも差がつけられていたが、檀家全部が同一平等の位牌所納骨所となり、位牌所の構造も場所も貧富の区別はない思いきった改革であったといえる。

能満寺の文化財
 文化財としては町指定をうけているものに、銅造夜巡牌、銅造梵鐘、半托釋迦尊者像、梅の古木がある。その他能満寺の古書籍、宗義智の位牌がある。

銅造夜巡牌(文化財の章に写真は貼付)
 勝本町史には次のような説明が加えられている、表には令、裏には大嵩衛指揮使用巡牌、鬲※1字弐千参百伍拾捌と記されている。大嵩衛とは、山東半島北岸の登州府に属する、軍監役所である。本品はこの役所が周辺の鎮撫のために発行した、中国軍団の通行手形ともいうべきものである。この巡牌に関する入手経路を示す記録はないが、壱岐の地理的条件対外関係から考えて、壱岐倭寇(海賊)の戦利品と考えてよさそうであると記されている。
※1鬲の冂の中が米

梵鐘
 現在の能満寺の鐘楼の鐘は、三光寺が現能満寺の場所にあった頃の、正徳二年(一七一二)今より約二八〇年前に、鯨組の頭梁土肥市兵衛が寄進したものとされているが、調べて見ると市兵衛の外に、篠崎庄右衛門、小林藤兵衛、川谷久兵衛、田嶋助次郎等の太文字が刻まれ、其の他多くの名が刻まれている事から、以上五人が発起して、多くの檀家の浄財によって、寄進されたものと見るべきである。

梅の木
 梅の木は可成り古いようであるが、まだ花を咲かしている、樹齢は不明であるが二〇〇年以上は経っているであろうといわれている、かなりいたんでいる古木である。

宗義智公の霊牌
 能満寺の位牌所が昭和五四年に改築されたが、以前の位牌所は本堂の後方左右と護摩堂にあったが、本堂の後方に特別に大きく、能満寺歴代和尚の位牌所があり、その左右に寺の為に尽くしたいわゆる昔の勝本の有志家の位牌所があった。その中に本堂を寄進した、土肥鯨組の代々の位牌所が特別多く設けられてあった。その土肥家の位牌所に、高さ六七糎の大型の位牌が安置されていた。
 位牌には前対州太子石翁宗虎大居士神儀と記し、元和元年卯正月三日享年四八歳と記してある。義智公の霊牌名は、対馬島史には法真※1萬松院殿石翁宗虎大居士とあるが当初は対州太子石翁宗虎大居士であったのであろうか、この位牌は比丘尼が対馬藩主二〇代義成公より、お布施として貰った白銀により一寺を建て、義智公の霊牌を安置して供養した。霊牌が志賀山能満寺から勝本山能満寺と受け継いで、今日まで三百数十年供養されてきた能満寺ゆかり深い霊牌である。位牌所改築後義智公の霊牌も置くところがなくなり、能満寺の位牌所の上に無造作におかれているが、歴史的にも由緒ある位牌でもあり、町の文化財として指定されている事から、適当なところに安置保存する必要があろう。
 前対州公万松院殿の霊牌には、毎年香佗料が能満寺に届けられていたが、明治四一年頃以後は途絶えていると、香椎村郷土誌に記されている。
※1言偏に真

奥の院大師堂
 第一代原田七之助に二子があった。嫡子は襲名して二代原田七之助可敦となり、次子を原田元右衛門宣知と称して、正村蔦屋の元祖である。二代七之助可敦(永取家の祖)と元右衛門の兄弟は、捕鯨を業とし共に神仏の信仰厚く、神岳山本宮寺に杉一万二千本を植えて寄進した。
 奥の院建立縁起に寛隆法師木像銘にいうとして、
 当山霊所遂建立、功曄偏所以可敦(七之助)宣知(元右衛門)加深志然而、命数有期、二子趣黄泉、鳴呼離情の涙、経日不正、聖霊為菩提奥の院、営位牌者也、爰有可敦之、原田源吉種宗、原田元右衛門種国、為酬茲恩、子々木像諸於、堂内安置、雖※1固辞不許依永為、歸壇之契、縁応求許刻者丐。(木像とは位牌の事であろう)原田元右衛には二人の子があったが、共に早世された事を命数有期、離情の涙は日が経っても禁ずる事が出来ず、奥の院にて菩提を祀った事が寛隆法印によって記されている。神岳本宮寺は、明治維新に廃寺となりよって、能満寺に奥の院建立の議起こり、神岳山本宮寺の大師堂と、八八ヶ所の全部を能満寺奥の院周辺に移したのである。
 これひとえの原田元右衛門の発願によるものであった。
 能満寺奥の院に原田七之助可敦、譲心院忠山良義居士と、原田元右衛門宣知秀山良徹居士の位牌がある所以である。
 能満寺奥の院お堂は、昭和六年春勝本信者の浄財によって、再建されたものである。奥の院大師堂桁行三間半、梁行三間半、同本殿桁行三間、梁行二間半銅板葺とある。平成四年四月十九日、三度各信者の浄財と、他町の篤志家の一部寄附によって、大師堂は改築された。桁行梁行共に従前通り、猶大師堂改築と同時に、小学校運動場下より相撲場上を通って、奥の院に通じる道路延長約七〇米、幅員二米が造成され、相撲上屋も銅板葺で同時に建立された。
※1口の下に虫

護摩堂
 護摩堂は能満寺西の坂の能満寺入口の右上にある。勝本の人は美濃の谷と呼んでいる人も多いが、実名は護摩堂である。
 護摩堂は以前は、能満寺本堂の東側の現納骨堂位牌所の場所にあったが、慈尊堂(位牌所納骨堂)建立の際解体された。
 勝本幼稚園が小学校横に移転して、運動場が不必要となった事で、寺及総代会では町役場と交渉して、昭和五五年十一月護摩堂を新しく建立した。それまでは四九日の法要が済むと、瀬戸の美濃の谷に一家親類お参りに行き供養していたが、現在ではこの堂にお参りして供養している。護摩堂は奥行九米間口四・四米、平屋建、瓦葺である。本尊は不動明王である。
 この不動明王の尊像は、勝本浦新町石井庄助作とされている。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社