天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史28

勝本浦郷土史28

第二節 地形
地形
 勝本町壱岐の北端に位置し、北韓三三度五一分、東経一二九度四一分のところに在り、面積は三〇四平方キロである。勝本浦は勝本町の最北端に位置して、東部は東触仲触に接し、中部は西戸触に接し、西部は坂本触に接続している。塩谷は仲触になっているが、漁業専業であるために、平素の諸行事は浦部と共にし、生活圏は浦部に属している。
 勝本浦は仲折馬場崎を除いて、山側の家は背後の丘陵を重たく背負って浦の地形も丘陵の海岸線に沿って塩谷から仲折まで蜿延三、三〇〇メートルの帯状の勝本浦特有の家並みを形成している。三日月状である。勝本浦づくりは海岸線に沿い、山の下の方を削り取り、岡側の家は建てられ、浜側の家は四米余りの道路を隔てて海岸を埋築してほとんどが浦造りがなされた為道路の幅員も狭く、その狭い道路の両側に覆い被さるように狭い間口の家が隙(すき)間(ま)なく建ち並んでいる。そこには一片の花木を楽しむ余地もない。在部より浦部、即ち町に行くにしても、町から在部に行くにはいずれの道も急坂を上り下りしなければならない。その坂は在部と浦部の境界でもある。こうした三、三〇〇メートルに及ぶ一筋道は、消防の面からも車社会である現今の交通の面からも、海岸道路の新設は急を要する事であった。昭和三四年から昭和五二年の間に、元棧橋中心に塩谷と仲折まで約二、三〇〇メートルの海岸道路が完成した。その他埋立造成工事は、串山は別にして一〇五、二〇〇平方米に及んで、勝本浦の地形を大きく変えた。勝本浦は小高い丘に囲まれた窪地である。海に面しているので平坦である。川という程のものはないが、在部の高所から流れてくる水を防ぐために、流れ川即ち側溝が大小十数ケ所海に通じている。最も大きいものは田の中の池の尻川で、川幅は一・八メートル、深さ一・五メートル位で、現在暗梁構造となって朝市の売場となっている。次に花川から流れてくる川尻のドンドン川である。新町湯田間の側溝も大きい。其の他黒瀬上方、つたや旅館の上からの側溝、塩谷の側溝等がある。

勝本浦の面積
 浦の面積は、今より約一三〇年前の壱岐名勝図誌には町居一六、四〇三坪、本浦より聖母浦(正村)までと記されている。本浦よりとあり塩谷、田の浦は字番地が伸触となっているので含まれていない事がわかる。最近香椎村郷土史を再度入念に通読していると、昭和六年四月一日現在の勝本浦の宅地面積、雑種地、畑、原野合わせて二三、八五三坪が判明した。これには塩谷も生活共同体として含まれていることがわかる。壱岐名勝図誌後昭和六年まで大きな埋立工事はなかったからである。壱岐名勝図誌の記す面積と、塩谷の面積を合せると二三、八五〇坪とほぼ合致するからである。しかしこれには道路は含まれていない。面積の種別が判然と記されているからである。道路は塩谷から仲折まで馬場崎を含めて本線だけで約三、五〇〇メートルであるが、塩谷・赤滝・築出・馬場崎は約一、三〇〇メートルであるが、道路の幅員は狭く三メートルとして三、九〇〇平方米、其の他新町より仲折までの本通りは約二、二〇〇メートル、幅員四・五メートルとして約九、九〇〇平方米、合計本通りの道路面積は一三、八〇〇平方米である。昭和六年香椎村郷土史による面積と、道路面積を合算すると九二、五一六平方米となる。昭和六年以後の勝本浦の埋立面積は、一〇五、一九九平方米となり、合算すると平成四年における浦の面積は約一九七、七一五平方米となる。勝本の本町通りの海岸側の家は、多くが埋立てによって形成されているが、一三〇年前の文久元年(一八六一)から昭和六年(一九三二)までの七〇年間には、記録的には埋立工事はなされていないから、昭和六年以降の町の開発埋立工事と漁協の埋立工事を積算すると、それが現在の勝本浦の総面積になるので、左表の如く埋立地の面積を調査して記した。この外に生活共同体として、町の崎・蔵谷・馬場崎等の新開地に約一、五〇〇平方米あるが、都合によりこの面積の中には含まない事とする。
 次に記す埋立地の数字は、あらゆる資料によって算出し、不明なところは実地測量して道路の幅員も人道・車道・荷揚場・網干場等入念に調査したつもりであるが、老いて手の届かない事もあって、推定で記した所もあり、万全なものではないが大差はないと思っている。勝本浦の大体の面積を、この数字によって知ってもらえばと思っている。参考までに記すが、勝本浦の一番地は築出の先から始まり、坂本触の一番地は正村の岡側の中間地より始まっている。旧馬場崎は勝本浦であるが、馬場崎の新開地は坂本触番地であり、赤滝は浦番地であり、町の崎は仲触番地であり、蔵谷は西戸触となっている。田の浦塩谷は仲触になっている。塩谷・田の浦・天ケ原・馬場崎の新開地は、従来より勝本浦でないとすると、同じ漁業専業部落で、昔より一筋道に繋る生活共同体、行事共同体も、字区域よりすれば浦部に編入する事に疑義もあり、戸迷いを感じる。本町の地籍調査は、昭和五七年に着手以来十余年になるが、漸く全体の六〇パーセントを終っている。
 浦部はまだ着手されていないので、正確な面積は判らない。地籍調査が終ったとしても、現在の字番地による面積は判明しても、生活共同体としての地籍を変更しない限り、浦部の面積はその他の方法で算出する外にないであろう。浦部の正しい面積が算出できない事は残念な事であるが、字番地を変更することも容易ではない。
 平成四年の浦の面積が約二〇万平方米となり、昭和六年の浦面積をはるかに倍以上も上廻って開発されていることに驚くのである。これは別表のように、塩谷から仲折の突端まで海岸線が造成されたこと、天ヶ原団地、馬場崎仲折の外港の緑地公園、中央突堤、漁協の上架、造船施設、田の浦の迫地の造成等が主なものである。現在赤滝浜に多年の懸案であった繋船場が増築工事中であるが、未完成のため面積の中に入れていない。又串山南北海岸も開発されているが、浦の面積より除外していることを付記しておく。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社