天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

勝本浦郷土史29

勝本浦郷土史29

第三節 気象
 壱岐の気候は概ね海洋性気候であって、北西部を流れる対馬暖流の影響をうけて、冬季も比較的暖かである。夏季は南西風が多く、冬は北西風が多い。春一番と俗にいわれるが、こうした冬から春先の季節の移り変わりの時季に、最初に吹く強い南風の呼称である。壱岐郡郷ノ浦町元居の漁民が、古くより言い伝えて生み出したものとされている。そして春から夏へ移る間に、日本特有の梅雨期がある。これは冷たいオホーツク海気団と太平洋気団との前線帯が、日本の南岸に停滞するためであるとされている。やがて太平洋気団が勢力を強めて、日本上空を覆ういわゆる夏季となる。大陸気団の一部が移動性高気圧となって秋となる。夏から秋に移行するこの時季には、熱帯低気圧の発生による台風が多くなる。壱岐はこうした季節的変化が極めて順調に推移しているといえる。
 別表は、平成二年度における壱岐消防署による気象観測状況を記したものであるが、壱岐の気象はそのまま勝本の気象ともいえる。時折時雨が降るが、郷ノ浦方面は降って勝本が降らない事もあるが、年平均雨量等に大した変わりはない。
 壱岐は気温も温暖で、時には最高気温が三〇度を越える時もあるが、平均気温が三〇度を越えたり、氷点下になることは少なく、降雪も年一度あるかないか位である。筆者の子供の頃は、降雪も年間幾度かあり、雪だるまを造ったり、雪合戦した事も記憶にあるが、気温も昔より暖かくなったようである。
 以前は集中豪雨も年に幾度かあり、道路を洗う事もあったが、以前のように豪雨も少なくなった感がする。在浦ともに道路も側溝も完備して、水の流れがよくなった事、家の構造がよくなった為であろう。道路に水が溢れたり、家の中に水が流入するような事もなくなった。台風は四月頃より発生し、台風の数も年間少ない時でも二〇数回、多い年で三〇号を越す事もある。又壱岐を直撃する台風も度々あるが、近年気象学の発達によって、数日前からテレビ・ラジオ等の度重なる気象通報により、事前に船も厳重に繋船したり、安全なところに避難し、又勝本湾も人工による港湾の防風防波工事が進み、台風・季節風による災害も少なくなった。
 台風の瀬度の発生は、七月から九月頃に多く、冬期は季節風が強く荒れる事が多い。

第四節 道路
島内交通路線
 交通には海上交通、陸上交通、空輸等に分かれるが、海上交通については港湾との関係で、十三章博多壱岐航路のところに詳記しているので、茲※1では勝本浦を起点として、島内路線について記す。
 勝本の陸上交通の主要線は、勝本ー郷ノ浦線、勝本ー芦辺線、勝本ー湯の本線の三線である。三線とも旧くより里道として在ったであろうが、当初は泥土で其の後砂利敷となったのである。コンクリート舗装やアスファルト舗装になったのは近年の事である。
※1異字体
 昭和二四年に村道であった郷ノ浦ー勝本線、芦辺線共に県道に編入された。県道に編入されるには、改修工事が必要であったのであろう、郷ノ浦ー勝本線も明治十九年以来、県道に編入されるための改良工事が計画されていたが、改良工事については香椎村に於ても当時は工事費の半額は村費負担であった為に、容易に着工できず、明治三一年六月より着工している。延長は十五・五キ口である。四年後の明治三五年に完成している。現在では農機具を使用する事で、道路は農業を経営するには道路の改良は欠く事の出来ない最も重要な施設とされているが、当時は道路に対する農民の認識を得る事は容易でなく、反対論者は同工事の中止を計画して、竹槍・蓆旗を立てて村民を煽動したために、民心極度に悪化したが、村長を始め改修論者は自治擁護のため、敢然と起って本改修工事を断行したとある。
 芦辺線は明治四一年七月着工されているが、三軒茶屋から瀬戸浦に迂回せしめんとする計画変更に、香椎村は反対意見の陳情書を提出する等の騒ぎが起きたが、迂回せずに済み、大正三年勝本ー芦辺線(約十一キロ)は完成している。そして大正六年八月勝本ー瀬戸線は県道に編入されている。大正七年勝本ー湯の本(旧線)は測量と同時に工事を開始しているが、大正十年頃に完成している。
 町道本宮線は、昭和三〇年の町村合併前より改良工事が行われていたが、事業費の二〇%が各戸負担であったために反対論者も多く、工事の進渉も難工し、理事者も苦労されたようである。
 勝本ー湯の本線が昭和六〇年頃から改良拡幅されているが、幅員が狭く急カーブが特に多いのは、当時農民の土地執着が強く、買収が非常に困難であった事を示すものである。
 昭和四四年、皇太子同妃殿下御来勝に備えて、勝本より湯の本まで、全線砂利敷き舗装をアスファルトの簡易舗装に改装した事により、車輌の通行も多くなり、人家も多く、旧湯の本県道より距離も近いことから、旧湯の本線を廃して、本宮線を勝本ー湯の本線への県道の昇格を申請したところ、昭和五〇年四月認下あり、旧湯の本線のバス路線を廃止した。
 昔の島内交通は徒歩又は渡船、馬、駕籠であったであろう事は想像に難くない。勝本の田の中の尼子玄雄医師も、馬に乗って往診されていた。壱岐に人力車が使用されたのは、明治十五年とされている。郡立病院に二台、私設では郷ノ浦に二台、勝本・芦辺に各一台あったとされている。明治二一年には壱岐にも馬車・自転車が普及している。自転車が日本に渡来したのは明治元年とされているが、二〇年後に壱岐に普及したのである。明治四〇年七月には、郷ノ浦ー勝本間に定期馬車が開通された。勝本にも三台あったとされている。筆者の子供の頃は、坂口に吉田馬車屋があった。後に現在の黒瀬の国道沿いの中上電気店のところに、吉田タクシーがあった、その前身である。
 壱岐に初めて自動車を走らせたのは、石田の赤木要次郎という人で、六人乗りの自動車を購入して、壱岐島中を乗り廻して皆を驚かせた。大正六年十月のことである。大正七年十二月には壱岐に自動車株式会社を設立、壱岐交通の矯矢である。(社長赤木要次郎)
 大正十一年には壱岐一周馬車も開通している。その頃は自動車も大型バスとなり、壱岐一周トラックもできた。
 郵便物も印通寺ー唐津間を和船が通っていた。ひどい荒天でない限り運搬していたという。後に印通寺運送会社が出来て発動船となり、その後壱岐唐津の人達の出資によって、壱岐唐津運輸会社となり、後九州郵船に買収されて今日に至っている。
 郵便車も専用トラックとなり、郵便局を通って郵便物・小包等を受授していくようになった。こうして多くの人が徒歩で郷ノ浦を往復し、旧制中学生は、寄宿舎外の人は毎日下駄を履いて中学校に通ったのであるが、今日では勝本浦でも自家用車の無い家は僅かとなり、道路を歩く者は車に気兼ねして歩く時代となった。
 勝本に汽船の初就航は明治二七年であるが、郷ノ浦に定期船のある。初運航は明治十八年七月とされている。当時は、月に一回か二回壱岐に運航していた、明治時代より大正初年頃の勝本浦は、壱岐では最も人口も多く、商家も多く、物品の購販売は郷ノ浦を凌いていた。沼津方面から勝本浦まで陸路では遠いが、海路が早かったが、外海は波が荒れて、いつでも自由に行けなかった。そのためウロミ渡し(浦海)という方法がとられた。船で鯨伏村本宮の浦海まで渡り、そこから陸路勝本に運ぶのであった。湯の本湾の内海であるから、風波も少なく一人で漕いで渡ることが出来たのである。こうした事は芦辺でも同じであった。芦辺からは瀬戸に渡る渡海船があった。最近まで芦辺瀬戸方面から勝本に担いで商に来る人が多かった。それだけに勝本は当時栄えていたのである。沼津・田河方面から米の商に来るにしても、勝本浦では一斗に五合位の量(はかり)出しがないと、売りにくい状態であったとされているが、それは現在でも変わっていないようである。米屋で買っても同じ料金なら、行商から買うと量り出しは儲かる勘定である。
 
勝本浦の道路
 浦部は全体が小高い山に囲まれて窪地であるため、海岸通り完成前は塩谷から仲折まで、海岸に出る渡(と)頭(とう)は十数ヶ所位あったが、本通りは一筋道であった事は多くの人のいまだ記憶するところである。
 勝本浦においては明治三五年、黒瀬より仲折端まで里道改修延長四四七間(約八〇五米)、砂利敷き改修の記録がある。現在では町道というが、その頃まで里道と呼称されたのであろう。又大正二年には築出し田の浦間の村道も開通している。幅員は二・五米であった。同じく大正二年には、町の先里道改修工事が行われている。
 海岸通りは黒瀬が昭和三五年に完成、東部はその後続いて着工され、西部は昭和四九年より着工され五二年に完成した。
 海岸通りの完成については、港湾の海岸道路の項に詳記しているが、海岸道路の完成前の浦部の道路は、凡ゆる面に不便で、又危険であった。勝本浦において、道路がコンクリート舗装されたのは、黒瀬は汽船の発着並びに朝市の混雑等による瀕繁な交通事情により、旧棧橋が二五年に完成していることから、二六年頃には舗装されていた。琴平町以西は、三三年頃から鹿の下と西部の両面から進められた。昭和三九年頃には赤滝、塩谷、馬場崎の一部及び各部落の小路を残して一応完成した。自分の雑記帳には、二米から四米幅位の海辺に出る小路があって、繋船等の為だけでなく、あらゆる方途に利用され、その渡頭の片方には大小の側溝がある。又渡頭のあるところには、おおむね在部と通じる道路がある。塩谷の公民館附近の仲触から流れる側溝、田の浦の仲触から流れる側溝、お仮殿の上の急坂から流れる側溝は、大きな管を埋めて海に通じる。湯田と新町の境の側溝は、大きな側溝である。これは上の山から流れる水を、アホー塀に沿って造られている。地命寺坂の側溝は、上の方でアホー塀と、地命寺下に分水して流れるようにしてあるから、受け皿は小さい。坂口坂の側溝は、割に小さいが、田の中の池の尻の側溝は、勝本でも最も大きな側溝である。受ける範囲が多いからである。蔵谷の上の方の雨水は、すべて他の尻川に流れてくる。坂口の上の方の水も、池の尻川に流れる率が多い。昭和三五年、この池の尻の側溝も、本通りから浜の先端まで延長七〇米を、暗梁構造として施工され、現在では朝市の売場に利用されている。それまで溝と家との間に、一米位の狭い道路が浜まであった。黒瀬の上からの流れる雨水は、立石薬局の前から魚市場と松月の果物屋の間の小路の側溝に通じる。黒瀬の仲と西の間にも、上から流れる水を受ける側溝がある。今はどこの側溝もコンクリートで隠されて、道路となっている。琴平町の乗越よりの側溝も、西部の乗越よりの側溝も、大きいものではないが、川尻と田間の中間のドンドン川はかなり大きい。勝本では側溝の大きなところは川と呼んでいる。池の尻川、ドンドン川等である。正村等は山が低いので、浜に通じる側溝もないが、正村の神皇寺の渡頭は、朝鮮通信使の上陸迎接の為に、特別に広く造られたものであろう。仲折は背後に山がないから、側溝は不必要で、範囲の雨水は軒下の側溝を通して海に流れる。馬場崎は坂本平方面の流水をうけるが、直接海に落ちてゆく。こうして渡頭にある側溝は、浜に通じる交通の便と、水は低いところに流れる原理によって、勝本浦に集中して流れる雨水を、災害から護る為の昔の人の生活の智恵から造られたものである。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社