天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

勝本浦郷土史31

勝本浦郷土史31

第十章 勝本の浦づくり
第一節 概要
 勝本浦は壱岐郡ではもちろん、県下でも最大の漁業部落である。勝本に初めてきた人は、先ず漁船の多いのに驚くのである。塩谷から仲折を経て外港まで海岸線三・二キロに亘り、見渡す限り漁船でぎっしり埋め尽くして、その数約六五〇隻である。山裾を掘り崩して、又海岸を埋めて、海岸線に沿って浦づくりがなされているため、海岸線完成前まで帯状の一筋の道が蜿蜒と続き、その道路の両側に玄関が向き合って、これ又ぎっしりと家が建ち並んで、左右に一片の花木を植える余地もない。
 こうした立地条件が、勝本の漁家が他の漁村の生活と異にしているといえる。他の漁村の多くが半農半漁が多いが、勝本浦漁民全部が漁業専業である。それでも昭和中過ぎまで海の魚は無限といわれる程に、よい漁場に恵まれ、漁種も豊富であった。漁場が外海であるため、時化その他による休漁が多く、豊かな生活といえないまでも、その時代に相応した生活をしていたが、終戦後底曳網等の濫獲と、海水汚染、海流の変化等によるものか、沿岸の魚も急減して、濫獲を避け魚族を守るため、古くから網漁業を禁じ、一本釣り漁業を守り続けた勝本の沿岸漁業も窮地に陥り、特殊船団の県外イカ獲り漁も一時は好魚に恵まれたが、総てが危惧されている。又在来の漁業者もこれより以上の投資はできない状態に追い込まれ、若い者は将来の漁業に見切りをつけて島を離れ、出稼ぎに行く者も多くなり、人口も著しく過疎化している。
 こうして漁業不振が長く続くと漁業は基幹産業であるだけに、他の農業商業に与える影響も多く、大型スーパー等の進出による小売業者の痛手も深刻のようである。商人も競争の時代に入って久しいが、経営の建直し等によって何とか堪え抜いているが、最近の黒瀬の商店街も以前に比して一入淋しくなった感がする。基幹産業である農業漁業も、いつ好転するか見透しは暗い。明治二六年、今より丁度百年前、当時の壱岐郡長三富道臣は、元来本都の第一の商業地は勝本浦にして、戸数五〇〇戸連担せり。港内水深く碇泊に便なるを以て、船舶常に輻輳せり。郷ノ浦は戸数三百余戸、勝本に次ぐ商業地なりと記される程に、明治時代まで水産業はもとより、商業交通共に壱岐では最も重要な地位をしめていた。勝本は大陸との北の玄関口であるだけに、壱岐の他の浦に比して早く浦づくりが進んでいたのであるが、百年を経て壱岐の様相は一変した。
 昭和中過ぎに至り海空港路も南に偏し、郷ノ浦の重要港湾に次ぐ地方港湾に指定されながら、四港のうち勝本港のみが汽船の着かない淋しい港となった事は残念な事である。これ偏に戦後一時的に膨れた水産業に偏重せし所以であろうか。工業も大正末期まで沃度制造あり、酒造業も五軒ありて、年間醸造高も本郡でも最高を占めていたが、時代の推移で協業化して一軒の酒造工場もなくなった。精米業者も醤油製造も二軒宛あった。水産加工業者も造船業者も十軒余宛あった。近年では百人を雇用するアツキナイロン工場も懸命に誘致したが、これも閉銷した時代の変遷といえ工業も一変した。観光もブームとなり、産業として壱岐では大きく取り上げられて施設もなされつつあるが、離島である厚い壁は取り払う事はできない。
 近年の暗い面を記したが、昭和三〇年以降の勝本の浦造りは、日本の経済的好況と、離島振興法の恩恵によって、飛躍的に発展し、港湾も塩谷湾、外港、タンス湾、繋船岸、又塩谷から仲折まで海岸道路の開通、串山、天ヶ原、馬場崎の開発等著しく進展を遂げている。ここで挫折してはならない、凡ゆる方途を尽くして、以前の自然の海に戻すように努力しなければならない。又汽船の閉港も大きな痛恨事であるが諦めてはいけない。勝本町が一団となって政治に取り組んで行けば、不可能な事ではない、可能である。以上勝本浦の概要を記したが、これより各部落公民館単位に特記すべき事を記して、勝本浦づくりの全体像を細分化して探って見る。

第二節 天ヶ原
壱岐名勝図誌による天ケ原
 今より百四〇年前の壱岐名勝図誌による天ヶ原と、今日の天ヶ原の現況は、大きく様変わりしているが、昔日の天ヶ原を知るために、壱岐名勝図誌による天ケ原を記して見よう。牧内より櫛山に往来の通路なりとして、この原東西に海ありて、東は滄海、西は曲江、南は牧内の馬込に限り、北は楠山に限り、東西一町余(一〇八・〇m)、北二町三八間(二八四m)、この原に遊びて四方を眺望するに、東は滄海渺々秋天晴明にして、煙幕な時は筑前(博多)の地方見え、南は牧口坂、赤岩、寒水、西は曲江甚だ深く釣する小船、秋の木の葉を散らしたる心地して、北は櫛山くすしくも松樹蒼々として、立つつき最も佳景の地なり。
 牧野天ヶ原の門なり東西三町ばかり(三二四m)、南北二町十六間(二四四、九m)、むかし牧ありにや馬込という所あり、その外大高瀬小高瀬という地ありといえどもさせる子細なし。故に省きつとある。地名としてはかなり古いもので、自然の中に呼称されたもので、特別に意味を持つものではないようである。東側小高い斜面は、昔も今も変わりなく、樹木のあまり育たない野原である。北東は前述の滄海を見渡せるところから、呼び易い天ヶ原と呼ぶようになったのではなかろうか、牧内から櫛山に往来の通路なりとあるが、小学校の修学の遠足は、ここに草スキーを楽しんだ思い出の場所であるが、道という道はなかった。干潮の時は浜伝いに簡単に通れたが、満潮の時には山裾の瀬や石を要心深く渡ったものである。たしかに眺める海は広く開け、櫛山の松は蒼々として佳景の地であり、青草食む牛が頭もあげずに牧歌的な風情のあるところであった。
 小学校の頃は北部の児童は、学期末又は学年末の修学遠足の場として、草スキー等して楽しんだところである。又勝本小学校が以前志賀山能満寺跡(現保育園)に校舎を建てたが、敷地が狭く、運動場もなかったので、平素の軽い運動は校舎の前面を運動場としていたが、年に一度の運動会は、明治二六年頃から上の校舎ができるまで、明治四一年までの十五年間は天ヶ原を運動場として利用していた。

天ケ原の開発
 天ヶ原の開発計画は、串山の開発と併せて、斎藤町長時代から考えられていた。昭和三五年から三六年にかけて、玄海の荒い波の浸食を護るために、二二六米の防潮堤が築堤れた時に、運搬車の道路が仮設され、又勝本浦の塵芥捨場として、埋立を兼ねて利用するため道路が出来て往来に便利になった。
 昭和三六年二月二二日、天ヶ原先端の防潮堤築堤の折に、中広形鋼矛三本発掘されて、貴重な物として現在勝本町教育委員会、那賀中学校、壱岐郷土館にそれぞれ保管されている。
 この銅矛は祭祀品として使用されたものの如く、この地で勝本の集落が昔あったか、壱岐国を単位とする組織の共同祭祀が行われたのではと推測がなされているが、天ヶ原は東触と串山の接点の窪地にあり、東北風をまともに受けるので、この地に昔集落があったとは地理的に考えられないが、近くの串山側に見る目浦がり、昔見る目関があったとされている事等考えると、古代の生集団が串山と小串山の中間にあった事は考えられる事であろう。
 天ヶ原の団地の造成は、昭和四七年に二八、九七四平方米が造成された。その内訳は住宅用地に一〇、六二六平方米、漁民アパート用地として一、〇六五平方米、道路用地に一、五〇二平方米、総合グランド用地に九、三二九平方米、児童公園用地に一、五七八平方米、緑地に一、六〇二平方米、造船用地四、二三三平方である。住宅分譲地八〇戸は、昭和五〇年一月分譲され、当時は浦部においても豊漁に恵まれていたが、家を求めるにも土地がなく、従って分譲申込みも多く、抽選にて定める程であったが、その後不漁により、期日までに建築することができず、町の方に買受地の返還する者が相次いだが、返還された土地も買受けた人があって現在六〇数戸が建設済みである。アパート団地は、五二年と五九年に第二種町営住宅二階建十六戸が建設されている。住宅間の道路も縦横に整備されている。総合グランドも便所、休憩所、照明装置等が施され、あらゆる面に有効に利用されている。緑地児童公園も必要な施設がなされている。天ヶ原縦貫道路は、入口より運動場まで四八〇米の直線の立派な道路が新開地を誇っている。こうして六〇数戸の家と町営住宅十六戸建設された事によって、勝本浦でも塩谷に次ぐ綺麗な新開地の大部落となったのである。現在では防風堤も造成されている。
 又勝本の漁船の上架施設は、仲折の上架施設だけでは収能できなかったために、造船用地と上架施設の充足は急を要する事であった。
 天ヶ原開発は、これらを含めて行われ、四七年に造船用地と共に上架施設七〇米が完成し、漁業組合が管理して、特定の業者に委託運営せしめている。又この新開地にスナック等、夜の盛り場が数軒集中している事も特徴である。近年串山の開発が観光面にレジャーに見直され、大型施設が設定される時は、天ヶ原は串山の玄関として、大きく栄えてゆく事であろう。昭和五五年頃まで塩谷公民館に属していたが、その後世帯も膨れて、天ヶ原公民館として浦部でも塩谷に次ぐ大きな部落となり、平成五年公民館を新設した。

第三節 塩谷
地名
 塩谷の地名は嘉永元年(一八四八)、今より約百四八年前頃、竹田勇左衛門という人が塩谷を埋築て塩田計画をしたが実現できなかった。それより塩谷の地名となったと伝えられているが、今より二百八〇年前頃の誠心地図に勝本浦、塩谷浦、田の浦に田地があった事が名記されてあるところから、その以前から塩谷の地名があった事がわかる。
 塩田計画をしたが実現できなかったのでは地名として残すには影が薄い。勝本漁業史には昔塩を焼きし所なりとあり、誰かがいつの時代にか製塩の地であったところに真実性がある。
 憶うに、深沢組が田の浦に鯨組を創業したのが宝永元年(一七〇四)より永取家が廃業するまで約百六〇年間は、田の浦の納屋場が使用された。納屋場の長さは田の浦より奥へ堅六二間、横二〇間とされ、現在の塩谷のかなり奥部まで納屋場が続いていた事になる。塩谷の地名が以前からあったとしても、塩谷部落が部落らしくなったのは、鯨組の廃業後と考えねばならぬ。それまでは田の浦納屋場として広く知られたのである。田の浦、塩谷浦は、赤滝を境にして一線を画していた。
 それは塩谷、田の浦が生活共同体でありながら仲触に所属しているからである。勝本浦の地籍番地は築出の端から始まっている。戸籍法が制定されたのが明治四年で、今より百二五年前である。それまでに町並が現在のように続いていたとすれば、地籍も当然塩谷から始まり、勝本浦に属していたであろう。以前は小学校も霞翠校に通学する者が多かった。主に田の浦地区が多く、塩谷地区は勝本小学校に通学した。田の浦も以前は時期的に使用する納屋場であり、住民は多くなかったであろう。

塩谷湾の開発
 塩谷、田の浦住民は、赤滝という西風難所のため、海が荒れると山越して長い間不自由をしてきたのである。そうした事も勝本浦と一体感になれなかった原因もあるであろう。昭和三六年に新町赤滝間に高潮対策事業にて護岸が完成以来、勝本浦と塩谷部落との一体不可分な関係がより鮮明になった感がする。塩谷湾は仲触の丘陵地と、串山に囲まれた細長い港である。西風に弱く又天ヶ原より吹きつける北風に弱く、良港とはいえなかったが、昭和八年鵜の瀬防波堤の完成によって、西の風波も半減し、昭和三九年赤滝よりの九〇米の防波壁堤と、串山側より四九年までに七〇米の防波堤の築堤によって、船の出入口四〇米を残し、又天ヶ原の防風堤と多くの住宅の建設によって、又最近の馬場崎の外港、目出の防波堤によって、完全に西の風波を押さえ、北の風を止めて、何れの風波をも防ぐ事ができる完璧な良港となった。昭和四九年より五一年にかけて、田の浦物揚護岸工事がマイナス三米の泊地浚渫、続いて四九年より五四年にかけて塩谷の奥部天ヶ原までマイナス三米の物揚場を備えた護岸と、道路六〇五米が完成した。良港とはいえなかった塩谷浦も、今日では壱岐郡の何処の港よりも、自然と人工によって完璧な繋船場となった。又塩谷は海岸線の完成まで本通りは道幅が狭く、車の交差も出来ない状態であったが、海岸線が開通した事によって、又天ヶ原串山の開発に並行して、車の通行量も以前に数倍して多く、スーパーの進出又は天ヶ原の新開地にスナック等、夜の盛り場が集中している事から、塩谷も賑いを呈している。

塩谷の網漁業
 塩谷はほとんど専用漁業者ばかりである。勝本の西部東部の一本釣り専業と異なり、網漁業者が多く、明治、大正、昭和の初め頃まで羽魚網イワン網船が多く、現在でも建網は塩谷に限られている。近年は一本釣りと遠隔地のイカ漁等に転換しているが、中高年者は建網に従事し、主婦も共に働く者が多く、したがって漁家の生活も裕福な部落である。
 塩谷には稲荷大明神、鯖大師教会、大師堂があるが、神社寺堂の項に記しているので略する。
 塩谷地区の急傾斜対策工事は、延長三三〇来法面積六、〇七〇平方米にわたり、昭和五三年より着工、五七年三月完工している。
 又塩谷の旧青年会場は、勝本浦では最も早く大正十五年に建築されて、長い間集会場として有効に使用されて来たが、田の浦と合して世帯数も部落としては最も多く広く、公民館の必要に迫られていたが、昭和五七年十二月、従来の青年会場の隣接地に新しく公民館を建設した。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社