天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史32

勝本浦郷土史35

 

第四節 田の浦

捕鯨納屋

 田の浦は昔捕鯨基地として有名であったが、捕鯨がなくなってしてからは、塩谷部落の勢力が伸びて、現在では田の浦としての部落名はなくなった。すべてが塩谷公民館の傘下となっている。田の浦は浜田ともいうとあるが、今日では浜田の地名を知っている者はほとんどいない。田の浦の捕鯨納屋は、箱崎の恵比須の納屋場と共に、西日本でも指折の納屋場として知られ、大村の深沢組、生月の益富組、勝本の土肥組、原田永取組が百五〇年間の長きにわたり使用したもので、漁期には毎日八五〇人から一千人の人々が働いていた。その頃の田の浦の盛況振りが窺えるのである。

 壱岐名勝図誌にも、この浦年々冬より春に亘りては、鯨組を出して賑わしきところなりと記している。赤滝より塩谷方向にむかって、勘定納屋、西大納屋、東大納屋、骨納屋、臓物納屋、轆轤場等縦六二間、横二三間、納屋場の石垣は現在でも一部分が残されているが、三百八〇間と記されている。その他使用船隻、人員等は捕鯨の章に記す。

 

赤滝防波堤と泊地造成と浚渫工事

 昭和三九年、博多瀬戸の浚渫残余金を県に申請して、赤滝南防波堤が串山に向かって五五米が築堤され、四九年には赤滝より串山にむけて更に三五米が延長され、計九〇米となった。四九年より五一年にかけて、田の浦にマイナス三米の荷揚場岸壁九〇米が施行され、泊地六、七二〇平方米が、塩谷湾の土砂を浚渫して、泊地の埋立に利用された。

 又串山側から七〇米の防波堤が築堤された事によって、塩谷漁民の繁船も容易となり、最も安全な港となったのである。

 明治三一年に千葉県より海藻類、主にカジメを原料とした沃度製造工場が田の浦に進出して、一時盛況を呈した時もあったが、しばらくして工場は閉鎖された記録が残されている。

 田の浦地区急傾斜対策工事は、延長一三〇米法面積一、九〇〇平方米は、昭和五九年着工、昭和六三年に完成した。

 

第五節 赤滝

高潮対策と漁民住宅

 赤滝は往昔、勝本港湾に防波堤等の施設がなかった頃、西の風波を真正面にうけて、風波の少し激しい時でも通行できなかった事は前述したが、そうした長い間の風波の浸食によって、滝のように急傾斜となったものと思われる。土壌も、田の浦の手前の方は特に赤褐色である事等から、赤滝と呼ばれるようになったものと思うが、壱岐名勝図誌には、赤岩と記されているが、当時は赤岩と呼ばれていたのであろう。赤滝は近年まで家もなかったので、部落の名称ではなく、一搬的俗称が現在では部落名になったのである。昔は築出しから田の浦までの通路で、人が通れる位の赤線であったのであろう、道路も狭溢で西側は直下海に臨み、瀬が多く、東側は急傾斜の丘陵で、狐狸がいるといわれる程の淋しいところとされていた。大正二年に初めて築出より田の浦入口の間に護岸が出来て、幅員二・五米位の村道ができたが、それでも西の大風の場合には、田の浦塩谷の人々は、町の崎を登って、塩谷に往来していたので、可成り長い間不便を強いられていたのである。昭和三六年から三九年にかけて、新町海岸から、赤滝までの高潮対策事業によって、赤滝の旧道路から約三〇余米沖合に、高潮対策護岸工事と、道路が完成した事によって、赤滝だけ道路の残り四、三六五平方米の土地が造成された。当時勝本町は、漁民の後継者の住宅難に困っていた。建てるにも場所がなかったのである。幸いに埋立てた地盤に瀬が多く、岸盤地帯であったので、早速昭和四一年漁民住宅A住宅、三階建て鉄筋コンクリート構造にて二四戸建造、続いて四三年同構造にて、B住宅二四戸と中間に公民館平家建一棟と、山手に漁民の諸道具の倉庫を建設した事によって、若い家を持たない漁民に一大福音としてよろこばれたのであった。

 三〇有余年を過ぎた今日までいまだに家が空いた事は少ない。又この海岸保全事業による高潮対策が前方海岸に出た事によって、西の大風の場合でも、安心して通行出来るようになった。長い間山越えを余儀なくされていた塩谷住民も、波のしぶきをかぶる事もなく、通行でようになったのである。

 かくして赤滝には一軒の住宅もなかったが、四八戸の住宅が出来た事によって、赤滝部落として公民館が新しく誕生したのである。昭和三八年赤滝南側より串山にむけて、五五mの防波堤が完成、その後四九年に三五mの防波堤が延長され、計九〇mとなり、塩谷湾の防風防波に大きく便利を与えた。

 

大砲仕掛場所があった

 嘉永初年頃から異国船が度々勝本沖に出没して、島民浦民も不安の中に動揺した。壱岐に於ても全島に大砲が据えつけられ、天山流砲術家、可須の仲融の牧山忠平父子が指導に当たった。勝本浦に於ても、赤滝、馬場崎、中折に安政元年(一八五四)、大砲仕掛場所をおいた。安政五年には三百匁、箇一挺、打手五人と記されている。赤滝浜の今後の構想として、町としては沖合に外港目出の防波堤が完成すると、西の風波もある程度防げることから、赤滝海岸に繁船できるように、繁船防波堤を造り、赤滝漁民の繁船場築堤の構想が計画されている。家の中から自分の船の安否を窺い知ることが出来るように、便利になることが期待される。

 

第六節 町の崎

雑種地を開いて住宅を建てる

 町の崎は字番地は仲触に属している。終戦前は一軒の家もなかった雑種地である。終戦と同時に外地よりの引揚者等によって、極度の住宅難のため、勝本町は場所を物色して住宅を建設しようとしたが、浦部の町並には敷地がなく、昭和二八年頃から三五年にかけて、町の崎を拓いて木造平家建二一戸(南裏側を含む)を建設した。町は字名の通り、町の崎住宅と呼称した。従って部落名も町の崎として独立したのである。勝本小学校が旧校舎(現保育園)にあった明治四〇年、旧校舎の運動場が狭いため、町の先の表谷平五郎所有納屋空地を、第二体育場として使用相談承諾のあった記録が残されているが、明治四一年八月には現小学校校舎地に新築されていることから、僅かの間の体操場であったのである。

 

眺望佳景の地旅館みやま荘

 昭和四〇年頃は、観光客も壱岐では十数万より二〇万人となり、深山𣳾氏は予見して町の先雑種地を町より買い求め、旅館みやま荘を建設。数百隻連珠する港内漁船と美しい三島の自然を眼下に見おろして、水平線上遥かに対馬をかい間見ることのできる眺望佳景の地とあって、宿泊客も多く、増築を重ね、高台の白亜の塔は勝本浦の全景に美観を呈している。

 又近年みやま荘の上の古城跡も、深山氏が買受け整地して、深山氏の住居が建築され、往古の古城の面影を尚一層濃くしている。

 又町営住宅二一戸も、昭和四七年に入居者に払下げられたので、漸次新しく改造され、立派な住宅が建ち並び、昔の面影はない。

 

第七節 築出町

 いずれの郷土史にも築出の地名の由来として、朝鮮通信使の使者を遇するため埋築されたと記され、筆者も近年まで何の抵抗もなくそう信じていた。しかし、朝鮮通信使の章を纏めるにあたり、疑義を感ずるようになった。この事に就いては朝鮮通信使の章に記しているので省略する。

 

自然悪条件の地

 築出町は、昭和三九年高潮対策工事が完成するまでは別図のように遠浅で、大潮の時は潮干狩ができる程で、到底船がつけられる所ではなかった。満潮で西北の風が荒れると、その波しぶきは裏の防波壁を越して家の屋根を覆い、しぶきは道路を洗い、道路も通行困難であった。そのため海底より約四米、地面上より約二米位の石壁が積まれ、沖や浜辺を眺めるために、四〇糎位の覗き穴が設けられていた。

 

中央突堤の完成

 昭和四七年築出の浜一帯に、高潮対策に乾いて中央突堤が完成した。事によって風波を防ぎ、最も惨めであったところが、最も恵まれた地域となった。当初の設計では、中央突堤の北側は、九州郵船の接岸施設として計画され、南側に漁業組合の荷揚場、荷捌所が計画されていたが、汽船の接岸に危険性があることを理由に、汽船が着かなくなった。使用目的を変更して漁業組合の専用地として有効に利用され、以前沖に投錨して長年漁船の繋船に不自由していたのであるが、大変便利となった。

 勝本浦は諸種の行事の構成から、東部中部西部の名称があったが、東部の本浦が最も早く開けた部落といわれている。その東部とは築出だけでなく、新町、湯田、坂口も含まれて東部という。勝本浦部の青年会の中でも、本浦東青年会(築出、新町)は、文政八年(一八一八)と最も早く創立されている。今より約百八〇年前である。

 又百々手講を調べて見ると、築出の古い講箱の裏には慶応二年(一八六六)と記され、西部の聖母神社の百々手帳は、最初が明治九年(一八七六)となって、築出の百々手が十年早いようである。当時は築出新町は合体して本浦東部と称していた。

 築出の本道は何処よりも狭く、自動車の入れない程の道であったが、海岸通りが出来た事によって、又漁業組合の基地となった事で賑いを呈している。本道の中間の東側に、町内の崇拝するお厄神祠がある。築出も公民館の必要に迫られていたが、昭和五八年お仮殿の隣の、以前青年会場を二階建として、新町と共同して一階、二階を分けて地区公民館として利用している。

 

第八節 新町

 新町という部落名には、特別の意義は感じられない。新しい町と解する外にないが、新しいという事は、どこの部落を対象として新しいのか不明が残る。勝本は昔本浦が早く開かれたといわれているが、どこの部藩が最初に開かれたかも不明である。

 自分の知る大正当初頃は、浦は東部、西部に大別されたり、行事によっては東部、中部、西部に大別されて諸行事は行われていた。東部とは塩谷を含めて田の中までを東部とし、黒瀬三町と琴平を中部とし、以西は西部に属していた。こうした事は行事によって時に変化していた。消防やお祭りの船競争は、西部東部に分かれ、その後消防は三部制となり、小学校は一部から六部制であったが、今日では十二部制である。このようにその行事によって、その時代によって適当に変わっていたのである。

 

お茶屋屋敷

 新町をいうに、お茶屋屋敷はその代表的なものである。鯨組の全盛時代は、四代目土肥市兵衛である。壱岐郷土史に、土肥氏の豪奢として次のように記されている。明和四年(一七六七)九月、土肥兵衛勝本の本浦を開拓して邸宅を構う。その本館の棟木に、唐破風を組み、表座敷、大玄関、中門及び大門を設け、大門の左右に番屋あり、台所前脇裏屋等に至るまで備わざるなし。然して屋根は柿葺きを用い、室内の彫刻金銀を散り嵌め、結構頗る宏壮華麗を極む。この工事約三年の歳月を費せりといわれている。市兵衛、又、巨額の財貨を投じ、京都大阪地方より数多くの婦女を購い来りて、之を本館内に居住せしめ、人目を聳動せり、按するに本文記述は、当時

 

政長の写実に係るものなれば此の記帳虚飾を交えず、その建築の如き松浦氏の領分内に於ては、一族御家門社寺等の中にも、その比を見ざる大工事なりといえり。

今猶土肥家の豪奢を、俚俗に伝えている。故なきにあらず、而しその末路振わず、今や僅かにその残址を勝本港内の一隅に留むるのみと記してある。現在長さ一〇〇米余、高さ七米余の俗称(アホー塀)だけが、往時の豪盛を物語っている。この塀に要した石材は、串山半島の北岸「クチボソ」より取り寄せ、工事の設計監督をした者は、新町の大工頭梁、十三代の土肥靖明氏の先祖、三代伝助氏で、今もその平面図が残されている。又土肥市兵衛は、日本における鯨王と呼ばれ、多くの金品を藩主に献上し、鴻の池、三井と共に、日本の三大富豪といわれ、勝本浦づくりの為にも、その他公共の為にも、大きな行跡を残している。

 

公共建物の建築

 大正、昭和の当初頃、お茶屋屋敷には遊廊等があり、繁華な時代もあったが、売春が禁止され、又西北の一隅には北星クラブによるテニスコートが一面設けられていた。昭和二七年勝本町は、ここに町立養老院を設立(収用人員三〇名)したが、昭和三八年町村組合の経営となり、同年公立壱岐老人ホームが、湯の本に開所されるに及んで、養老院を閉鎖改造して民間の住宅とした。昭和四二年、勝本診療所をこの一角に建設した。昭和四七年住宅難解消のため、四階建中層耐火構造によって、八戸が建設され、翌四八年に同構造による四階建八戸と、医師住宅平家建一戸が建設された。その折基礎調査のため、ボーリング調査した折に、貝殻類が多く見られた事によって、この附近はお茶屋屋敷を建てる時は、山の麓の海岸を埋立てられた事が認められた。昭和四〇年四月、お茶屋屋敷下道路の角に壱岐郡農業協同組合勝本支所設置、四五年十二月に農協物品倉庫二二四平方米建設、昭和四九年三月勝本浦五二番地を農協が買収し、勝本支所事務所落成、鉄筋コンクリート二階建、延坪四二七平方米、今日では新町は農協勝本支所の拠点となっている。

 

(かり)殿()

 新町と築出の境にお仮殿がある。聖母神社例祭の十月十日より十四日までの行宮所である。このお仮殿の浜には、明治二四年八月建立の石の鳥居がある。鳥居を中心にして浜の方に長さ三〇米余、幅約五米位の突堤があった。突堤の突端には階段があって、小船の乗降場でもあり、お祭りの折のお潮汲み場であった。その突堤の両側が一の浜、二の浜に分けられ、競争船が漕ぎつくや跳びおりて、仮宮の方に走り神官の持っている幣帛を早取った方が勝者となるのである。昭和三七年海岸道路ができたことにより、一の浜、二の浜も埋められ、突堤もなくなった。お鳥居も現在の位置より約三〇米位岡のところにあったが、道路の都合で浜の方に移転された。昭和の中頃まで十月十一日、十二日は、お仮殿浜にて芝居が奉納されて賑やかであったが、テレビ等の普及によって田舎廻りの役者も来なくなり、他の余興に切り替えられて、お祭りも淋しくなった。

お仮殿の隣りに弥勤堂宇の項に記す。

 

古城

 新町の上の山手に古城がある。地方の人は(ふじ)(しろ)ともいっている。(ふる)(しろ)が藤城に訛ったものである。倭寇(海賊)の頭目がこの城に住み、沖を通る船を襲ったともいわれるが、一説には防人の番城であったともいわれている。現在はみやま荘の住宅が綺麗に建ち、昔の古城の跡をしのばせている。又お仮殿の隣りは、新町築出の青年会場であったが、新町築出に公民館の必要に迫られ、青年会場を解体して、二階建の公民館を昭和五九年に建設して、一階と二階を分けて両町の公民館として使用している。 

 尚新町の急傾斜対策事業は、お茶屋屋敷を含めて、延長一四〇米法面積九六〇平方米を、昭和五五年に着工して、五八年三月完工した。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社