天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

勝本浦郷土史148

勝本浦郷土史148

 

も決まったように家族中の新しい下駄が並ぶ。下駄は正月には必ず新調される物とされていた。当時も雨が降るとぬかるみになるので、下駄は生活必需品であった。

一月ー二月
神社参拝
 朝暗い中に起きてお雑煮を食べて新しい下駄を履いて神社に参り、家内安全、海上安全、大漁を祈念する人も多かったが、近年では神社に参拝する人も少なくなったようである。

新年の挨拶廻り
 壱岐では年賀状の交換が遅かったので、主な親類縁者の挨拶廻りを習慣としていた。昭和三〇年頃から名刺交換会の形で一堂に集まり、新年の挨拶をして簡単な酒肴を準備して、僅かな時間で済ませるようになったが、それも長く続かず、部落別に集まって祝酒を飲み、海上安全と大漁を祈願して散会していた。昭和五〇年頃は年賀状が普及して僅か親類縁者だけ行くようになったが、平成の今日では新年の挨拶に廻る人も、ほとんど無くなったようである。

お膳かき
 若い嫁さんの居る家では、実家の両親にお膳かきといって出来るだけのご馳走を用意して、木製の黒塗りの椀を高膳に乗せて、実家の床の間に据え、両親はお膳の上座に座して、両親は娘の孝養に感謝して食膳につく。昔はこうした善意も行われていた。仕事始め、乗り始め、配り始め、書き始め
 仕事始め、乗り始め、配り始め、書き始め仕事始め、乗り始め、配り始めの風習は、昔より多く行われていた。勝本浦でも各種仕事始めを例としていた。漁業者は必ず船の乗初として、万船飾をなし、羽奈毛の観音様に朝早く参拝した。商売人は初売出をする。職人も儀式的に形式的に簡単に仕事始めをする事を例とした。百姓は鍬入れ、醸造家は蔵開き、配り始めは嫁の実家や別家した者は、実家に大きな餅を一重配る。書道をしている人は書き初め、すべてのものの一年の始まりである勝本の漁家では大漁満足の大福帳を造り、床の間に下げるを例とした。時代の流れは僅かの間に大きく変わって、事の始めの感覚は大きく変わっている。

船祝い
 昭和三〇年頃までは漁船の数もそれ程多くなかった。船子(ワツカシ)がいたので正月二日は、船頭方はワツカシ親類友人を招待して、船祝いが盛大に行われていた。三味線太鼓を交えての船祝いであった。其の後漁家のほとんど皆船を所有するようになり、お客に招待する人も皆船主となって、特殊船舶以外は親子乗りか、船長一人が多いため、盛んであった船祝いも自然のうちに廃止となったが、乗り初めは少し残っているようである。

百々手講(現存)
 百々手の意味は、多くの矢を射る事から百々手といわれるのであろう。テレビで見ていると一〇八本の矢を射るところもあるようであるが、勝本に於いては各戸に配るから多くの弓と矢を造るが、実際に神前にて射るのは宮司が二本と、宿元と次の宿元をうける四人だけである。的の円板の周囲の三頭の鬼の字を書き、その的の中心を射る。三頭の鬼が射たれて逃げる想図で、魔除け厄払いの意義をもつものである。
 勝本浦には多くの講があるが、その講の始まりともいわれる。
 勝本浦の百々手講も、西部八町の聖母宮の百々手と、鹿の下三町の志賀神社で行われる百々手講だけと考えていたが、各部落にもそれぞれ百々手の祭事のあることを知った。
各部落の百々手講も神社で行事をするか宮司が部落に出向してするか内容は同じである。

聖母宮百々手講
 西部地区八町の百々手講は、正月四日鹿の下東より順に当番町を定め、当番町が主に当番町の役員及び次の当番町のお箱を受ける者本人と、その部落の年長者二名、西部公民館長全員、計一七、八人出席して百々手の行事が行われる。そして当年の宿元から次の当番町の宿元にお箱が渡される。これをお箱受けといっている。お箱を受けも決まったように家族中の新しい下駄が並ぶ。下駄は正月には必ず新調される物とされていた。当時も雨が降るとぬかるみになるので、下駄は生活必需品であった。

一月ー二月
神社参拝
 朝暗い中に起きてお雑煮を食べて新しい下駄を履いて神社に参り、家内安全、海上安全、大漁を祈念する人も多かったが、近年では神社に参拝する人も少なくなったようである。

新年の挨拶廻り
 壱岐では年賀状の交換が遅かったので、主な親類縁者の挨拶廻りを習慣としていた。昭和三〇年頃から名刺交換会の形で一堂に集まり、新年の挨拶をして簡単な酒肴を準備して、僅かな時間で済ませるようになったが、それも長く続かず、部落別に集まって祝酒を飲み、海上安全と大漁を祈願して散会していた。昭和五〇年頃は年賀状が普及して僅か親類縁者だけ行くようになったが、平成の今日では新年の挨拶に廻る人も、ほとんど無くなったようである。

お膳かき
 若い嫁さんの居る家では、実家の両親にお膳かきといって出来るだけのご馳走を用意して、木製の黒塗りの椀を高膳に乗せて、実家の床の間に据え、両親はお膳の上座に座して、両親は娘の孝養に感謝して食膳につく。昔はこうした善意も行われていた。仕事始め、乗り始め、配り始め、書き始め
 仕事始め、乗り始め、配り始め、書き始め仕事始め、乗り始め、配り始めの風習は、昔より多く行われていた。勝本浦でも各種仕事始めを例としていた。漁業者は必ず船の乗初として、万船飾をなし、羽奈毛の観音様に朝早く参拝した。商売人は初売出をする。職人も儀式的に形式的に簡単に仕事始めをする事を例とした。百姓は鍬入れ、醸造家は蔵開き、配り始めは嫁の実家や別家した者は、実家に大きな餅を一重配る。書道をしている人は書き初め、すべてのものの一年の始まりである勝本の漁家では大漁満足の大福帳を造り、床の間に下げるを例とした。時代の流れは僅かの間に大きく変わって、事の始めの感覚は大きく変わっている。

船祝い
 昭和三〇年頃までは漁船の数もそれ程多くなかった。船子(ワツカシ)がいたので正月二日は、船頭方はワツカシ親類友人を招待して、船祝いが盛大に行われていた。三味線太鼓を交えての船祝いであった。其の後漁家のほとんど皆船を所有するようになり、お客に招待する人も皆船主となって、特殊船舶以外は親子乗りか、船長一人が多いため、盛んであった船祝いも自然のうちに廃止となったが、乗り初めは少し残っているようである。

百々手講(現存)
 百々手の意味は、多くの矢を射る事から百々手といわれるのであろう。テレビで見ていると一〇八本の矢を射るところもあるようであるが、勝本に於いては各戸に配るから多くの弓と矢を造るが、実際に神前にて射るのは宮司が二本と、宿元と次の宿元をうける四人だけである。的の円板の周囲の三頭の鬼の字を書き、その的の中心を射る。三頭の鬼が射たれて逃げる想図で、魔除け厄払いの意義をもつものである。
 勝本浦には多くの講があるが、その講の始まりともいわれる。
 勝本浦の百々手講も、西部八町の聖母宮の百々手と、鹿の下三町の志賀神社で行われる百々手講だけと考えていたが、各部落にもそれぞれ百々手の祭事のあることを知った。
各部落の百々手講も神社で行事をするか宮司が部落に出向してするか内容は同じである。

聖母宮百々手講
 西部地区八町の百々手講は、正月四日鹿の下東より順に当番町を定め、当番町が主に当番町の役員及び次の当番町のお箱を受ける者本人と、その部落の年長者二名、西部公民館長全員、計一七、八人出席して百々手の行事が行われる。そして当年の宿元から次の当番町の宿元にお箱が渡される。これをお箱受けといっている。お箱を受けも決まったように家族中の新しい下駄が並ぶ。下駄は正月には必ず新調される物とされていた。当時も雨が降るとぬかるみになるので、下駄は生活必需品であった。

一月ー二月
神社参拝
 朝暗い中に起きてお雑煮を食べて新しい下駄を履いて神社に参り、家内安全、海上安全、大漁を祈念する人も多かったが、近年では神社に参拝する人も少なくなったようである。

新年の挨拶廻り
 壱岐では年賀状の交換が遅かったので、主な親類縁者の挨拶廻りを習慣としていた。昭和三〇年頃から名刺交換会の形で一堂に集まり、新年の挨拶をして簡単な酒肴を準備して、僅かな時間で済ませるようになったが、それも長く続かず、部落別に集まって祝酒を飲み、海上安全と大漁を祈願して散会していた。昭和五〇年頃は年賀状が普及して僅か親類縁者だけ行くようになったが、平成の今日では新年の挨拶に廻る人も、ほとんど無くなったようである。

お膳かき
 若い嫁さんの居る家では、実家の両親にお膳かきといって出来るだけのご馳走を用意して、木製の黒塗りの椀を高膳に乗せて、実家の床の間に据え、両親はお膳の上座に座して、両親は娘の孝養に感謝して食膳につく。昔はこうした善意も行われていた。仕事始め、乗り始め、配り始め、書き始め
 仕事始め、乗り始め、配り始め、書き始め仕事始め、乗り始め、配り始めの風習は、昔より多く行われていた。勝本浦でも各種仕事始めを例としていた。漁業者は必ず船の乗初として、万船飾をなし、羽奈毛の観音様に朝早く参拝した。商売人は初売出をする。職人も儀式的に形式的に簡単に仕事始めをする事を例とした。百姓は鍬入れ、醸造家は蔵開き、配り始めは嫁の実家や別家した者は、実家に大きな餅を一重配る。書道をしている人は書き初め、すべてのものの一年の始まりである勝本の漁家では大漁満足の大福帳を造り、床の間に下げるを例とした。時代の流れは僅かの間に大きく変わって、事の始めの感覚は大きく変わっている。

船祝い
 昭和三〇年頃までは漁船の数もそれ程多くなかった。船子(ワツカシ)がいたので正月二日は、船頭方はワツカシ親類友人を招待して、船祝いが盛大に行われていた。三味線太鼓を交えての船祝いであった。其の後漁家のほとんど皆船を所有するようになり、お客に招待する人も皆船主となって、特殊船舶以外は親子乗りか、船長一人が多いため、盛んであった船祝いも自然のうちに廃止となったが、乗り初めは少し残っているようである。

百々手講(現存)
 百々手の意味は、多くの矢を射る事から百々手といわれるのであろう。テレビで見ていると一〇八本の矢を射るところもあるようであるが、勝本に於いては各戸に配るから多くの弓と矢を造るが、実際に神前にて射るのは宮司が二本と、宿元と次の宿元をうける四人だけである。的の円板の周囲の三頭の鬼の字を書き、その的の中心を射る。三頭の鬼が射たれて逃げる想図で、魔除け厄払いの意義をもつものである。
 勝本浦には多くの講があるが、その講の始まりともいわれる。
 勝本浦の百々手講も、西部八町の聖母宮の百々手と、鹿の下三町の志賀神社で行われる百々手講だけと考えていたが、各部落にもそれぞれ百々手の祭事のあることを知った。
各部落の百々手講も神社で行事をするか宮司が部落に出向してするか内容は同じである。

聖母宮百々手講
 西部地区八町の百々手講は、正月四日鹿の下東より順に当番町を定め、当番町が主に当番町の役員及び次の当番町のお箱を受ける者本人と、その部落の年長者二名、西部公民館長全員、計一七、八人出席して百々手の行事が行われる。そして当年の宿元から次の当番町の宿元にお箱が渡される。これをお箱受けといっている。お箱を受けも決まったように家族中の新しい下駄が並ぶ。下駄は正月には必ず新調される物とされていた。当時も雨が降るとぬかるみになるので、下駄は生活必需品であった。

一月ー二月
神社参拝
 朝暗い中に起きてお雑煮を食べて新しい下駄を履いて神社に参り、家内安全、海上安全、大漁を祈念する人も多かったが、近年では神社に参拝する人も少なくなったようである。

新年の挨拶廻り
 壱岐では年賀状の交換が遅かったので、主な親類縁者の挨拶廻りを習慣としていた。昭和三〇年頃から名刺交換会の形で一堂に集まり、新年の挨拶をして簡単な酒肴を準備して、僅かな時間で済ませるようになったが、それも長く続かず、部落別に集まって祝酒を飲み、海上安全と大漁を祈願して散会していた。昭和五〇年頃は年賀状が普及して僅か親類縁者だけ行くようになったが、平成の今日では新年の挨拶に廻る人も、ほとんど無くなったようである。

お膳かき
 若い嫁さんの居る家では、実家の両親にお膳かきといって出来るだけのご馳走を用意して、木製の黒塗りの椀を高膳に乗せて、実家の床の間に据え、両親はお膳の上座に座して、両親は娘の孝養に感謝して食膳につく。昔はこうした善意も行われていた。仕事始め、乗り始め、配り始め、書き始め
 仕事始め、乗り始め、配り始め、書き始め仕事始め、乗り始め、配り始めの風習は、昔より多く行われていた。勝本浦でも各種仕事始めを例としていた。漁業者は必ず船の乗初として、万船飾をなし、羽奈毛の観音様に朝早く参拝した。商売人は初売出をする。職人も儀式的に形式的に簡単に仕事始めをする事を例とした。百姓は鍬入れ、醸造家は蔵開き、配り始めは嫁の実家や別家した者は、実家に大きな餅を一重配る。書道をしている人は書き初め、すべてのものの一年の始まりである勝本の漁家では大漁満足の大福帳を造り、床の間に下げるを例とした。時代の流れは僅かの間に大きく変わって、事の始めの感覚は大きく変わっている。

船祝い
 昭和三〇年頃までは漁船の数もそれ程多くなかった。船子(ワツカシ)がいたので正月二日は、船頭方はワツカシ親類友人を招待して、船祝いが盛大に行われていた。三味線太鼓を交えての船祝いであった。其の後漁家のほとんど皆船を所有するようになり、お客に招待する人も皆船主となって、特殊船舶以外は親子乗りか、船長一人が多いため、盛んであった船祝いも自然のうちに廃止となったが、乗り初めは少し残っているようである。

百々手講(現存)
 百々手の意味は、多くの矢を射る事から百々手といわれるのであろう。テレビで見ていると一〇八本の矢を射るところもあるようであるが、勝本に於いては各戸に配るから多くの弓と矢を造るが、実際に神前にて射るのは宮司が二本と、宿元と次の宿元をうける四人だけである。的の円板の周囲の三頭の鬼の字を書き、その的の中心を射る。三頭の鬼が射たれて逃げる想図で、魔除け厄払いの意義をもつものである。
 勝本浦には多くの講があるが、その講の始まりともいわれる。
 勝本浦の百々手講も、西部八町の聖母宮の百々手と、鹿の下三町の志賀神社で行われる百々手講だけと考えていたが、各部落にもそれぞれ百々手の祭事のあることを知った。
各部落の百々手講も神社で行事をするか宮司が部落に出向してするか内容は同じである。

聖母宮百々手講
 西部地区八町の百々手講は、正月四日鹿の下東より順に当番町を定め、当番町が主に当番町の役員及び次の当番町のお箱を受ける者本人と、その部落の年長者二名、西部公民館長全員、計一七、八人出席して百々手の行事が行われる。そして当年の宿元から次の当番町の宿元にお箱が渡される。これをお箱受けといっている。お箱を受ける者は、当番町の最年長とされているが一度受けた人は最年長者でも受ける事はできない。八年に一度廻ってくる当番町の中の最年長者であるから、当番町の宿元になる事は光栄に思って、有り難く宿元を引き受けるのである。
 最近までは宿元になると、下降のお祝いが町内全員出席して、御馳走が振る舞われていたが、現在では簡素化されて、下降も公民館等で簡素に行われている。
 聖母宮百々手講がいつ頃から始められたか、お箱の中の面付帳を丹念に調査した。面付帳は毎年に整理記帳されているが、最も古いもので明治九年一月吉日と記し、毎年一月四日と定められている。その年の宿元名、八町の公民館長名、戸数、集金金額、昭和中頃までは西部八町の戸主氏名が、全員記されていたが、最近では当番町の戸主氏名だけを記す事に改められている。
 明治九年の面付帳には、当日参詣した人は、天保銭一宛、不参加者は銅銭三文宛と記され、当日の必要品としては弓、矢、的、神酒、鈴一対、魚等の調度品が記されている。
 この古い面付帳には、鹿の下外八町の姓名だけでなく、琴平町前加賀里屋町の数名の名がある。明治維新まで浦使港幹の場所であった小金丸仙三郎(近年まで永田病院)と道路を隔てて斉藤大蔵、吉本梅三郎、中藤芳三郎、川本米太郎、和田屋等琴平町の人の名があるが、特別に西部の百々手講に加入されたのでなく、当時の西部と黒瀬の境界は、観音堂前の波頭から西が西部であったと古老から聞かされていた事と一致する。面付帳も明治時代は不明なものもあるが、大正八年後は今日まで、約八〇年間絶える事なく、面付帳は現存して、今より百数十年よりの世代の移り変わりを知ることができる、唯一の祖先の姓名録として残されている。

志賀神社百々手講
 鹿の下三町の志賀神社百々手講は、明治十二年正月からの面付帳があり、志賀山百々手定例記と記され、年々の各戸名と備品が記され、当初当初徴収金三厘が、後年八厘となっており、明治三〇年にはお初穂十銭と記されている。期日は当初より正月五日となっている。
 神事の内容、下降の酒宴は、聖母宮百々手と大して変化はないが、当番町の公民館が主催となっている。

黒瀬百々手講
 黒瀬三町は黒瀬の元警察派出所のところに、現在稲荷祠のところに神明神社があった。あの坂は神明坂とも呼ばれていた。小社ではあったが社屋も鳥居もあった。この神明神社で黒瀬三町の百々手講が、行われていたのであるが、都合で明治四五年御神体を聖母神社に併祀して、その後は黒瀬町における百々手講は行われていないが、正月には各戸主催って聖母宮の神明神社に参拝している。黒瀬東は一部の人が池酒神社を対象とした百々講に任意加入している。

田の中町百々手講
 田の中は池酒神社を対象として、黒瀬の一部と田の中の一部によって、正月五日宮司が出向して、百々手講行事が行われている。

坂口町百々手講
 坂口町は印館神社において、昭和四〇年頃まで例年百々手講が行われていたが、その後廃止されて今日に至っている。

湯田町百々手講
 湯田町は正月八日に当番宿元宅において、宮司が出向して行事は行われている。講箱面付帳には大正十三年と記されている。

新町築出百々手講
 新町築出ともに正月八日町内別に、町内に祀ってある皇大神厄神社を対象に、当番宿元において宮司が出向いて行事を行っている。新町の面付帳は昭和になってからのもので新しいが、築出の講箱の面付帳も昭和のものばかりであるが、講箱の裏には慶応二年と記されていることから、慶応二年には百々手講は已にあったものとと思っても間違いはないであろう。築出と新町は大正十五年頃まで共同体であった事から考えて、新町の百々手講の始まりは築出と同じ慶応二年であったと思われる。こうして講箱又は内容の記録から見ると、築出新町が慶応二(一八六六)今より一二五年前、西部の聖母神社

 

 

 

【長崎県壱岐市の概要】


壱岐市
壱岐市(いきし)は、長崎県の壱岐島を主な行政区域とする市である。壱岐振興局の所在地。

地理
2017年5月11日撮影。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
壱岐島は九州本土の福岡市から北西に約80km、佐賀県北端部の東松浦半島から北北西に約20kmの玄界灘上に位置する離島である。北西の海上に対馬が位置している。壱岐島の面積は133.82km2、南北17km、東西15km。有人島としては壱岐島の南西部の沖合いに原島と長島、大島が、北側の沖合いに若宮島の合計4島がある。また島周辺には19ヶ所の無人島がある。これらをまとめて壱岐(壱岐諸島)と呼ぶ。

市域全域が壱岐対馬国定公園に指定されている。

・有人島 : 壱岐島、原島、長島、大島、若宮島
・無人島 : 火島、阿瀬ノ島、机島、平島、児島、蛇島、牛島、アカガ島、名烏島、辰ノ島、手長島、黒ヶ                島、青嶋、赤嶋、名嶋、小島、金城瀬、妻ヶ島、小島[1]
山 : 岳の辻(たけのつじ、標高212.8m、郷ノ浦町)、久美ノ尾(ぐみのお、標高175m、郷ノ浦町)、男岳(おんだけ、標高168m、芦辺町)、女岳(めんだけ、標高149m、芦辺町)
・河川 : 谷江川、幡鉾川、刈田院(かりたいん)川
池 : 大清水池(勝本町布気触)

気候
 対馬と同様、暖流である対馬海流の影響を受けており比較的温暖な気候で、季節を問わず比較的湿度が高        い。春先に吹く南寄りの強風を春一番と呼ぶが、元々は壱岐市の漁師達が呼んでいた物が気象用語となっ。

隣接自治体
一島一市の為、陸続きの隣接自治体は存在しない。海を挟んで向かい合う対馬市、佐賀県唐津市、福岡県福岡市(西区・博多区)、糸島市と隣接扱いされることがある。


歴史
『古事記』に伊伎島と記され、国土誕生の際日本で最初に出来た大八島の一つとされる。
『魏志倭人伝』に、邪馬台国の支配下にあった一支国(いきこく)が存在したと記されている。→一支国
律令制下では壱岐国(いきのくに)として一つの令制国をなした。→壱岐国

近現代
明治
1871年(明治4年)
7月14日- 廃藩置県により、平戸県となる。江戸時代、壱岐が平戸藩の領地であったことによる。
11月14日 - 長崎県、大村県、島原県、平戸県、福江県が合併し、長崎県となる。
1872年(明治5年)2月 - 区制の施行に伴い、壱岐を第76大区、77大区、78大区の3大区とし、浦を村に合わせて22小区(22村)に区分。壱岐の自治制の基礎となる。
1873年(明治6年)12月 - 3大区を廃止・統合し、壱岐全島を第30大区とする。
1878年(明治11年)
10月
郡区町村編制法の長崎県での施行により、壱岐郡と石田郡の2郡となり、22村に分けられる。
壱岐石田郡役所が石田郡の武生水[注 1] 村に置かれる。
長崎県議会議員の定数が決定し、 壱岐郡・石田郡合わせて定員3名となる。
1879年(明治12年)- 第1回長崎県会議員選挙が行われる。
1882年(明治15年)- 県会議員の定数を変更し、壱岐郡2名、石田郡1名(合計数は変化なし)とする。
1883年(明治16年)- 佐賀と分県し、現在の長崎県となる。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、現在の市域にあたる以下の各村が発足。
石田郡 - 武生水村、渡良村、初山村、柳田村、沼津村、志原村、石田村
壱岐郡 - 香椎村、鯨伏村、田河村、那賀村、箱崎村
1896年(明治29年)4月1日 - 郡制施行により、壱岐郡と石田郡が合併し改めて壱岐郡が発足。同日石田郡消滅。
郡役所の名称が壱岐郡役所となる。

大正
1922年(大正11年)8月 - 壱岐総村組合を設立。
1925年(大正14年)4月1日 -【町制施行】武生水村⇒武生水町
1926年(大正15年) - 壱岐郡役所が廃止され、長崎県壱岐支庁が設置される。

昭和
1935年(昭和10年)4月1日 -【町制施行】香椎村⇒勝本町
1947年(昭和22年)11月3日 -【町制施行】田河村⇒田河町
1948年(昭和23年)4月1日 - 島内各町村の共同事務処理を目的として、壱岐郡町村組合が設立。
1955年(昭和30年)2月11日
【新設合併】武生水町、渡良村、柳田村、沼津村、志原村、初山村⇒郷ノ浦町
【新設合併】勝本町、鯨伏村⇒勝本町(新町制)
1955年(昭和30年)4月1日 - 【新設合併】田河町・那賀村⇒芦辺町
1956年(昭和31年)9月30日 -【編入】箱崎村を芦辺町へ
1958年(昭和33年)4月1日 -【編入】郷ノ浦町の一部を石田村へ
1961年(昭和36年)4月1日 -【編入】芦辺町の一部を石田村へ
1970年(昭和45年)8月1日 -【町制施行】石田村⇒石田町
1972年(昭和47年)4月1日 - 壱岐郡町村組合常備消防(壱岐市消防本部の前身)が発足。
1981年(昭和56年)4月1日 - 壱岐郡町村組合を壱岐広域圏町村組合と改称。

平成
2004年(平成16年)
2月29日 - 壱岐市合併に伴い、壱岐広域圏町村組合を解散。
3月1日 -【新設合併・市制施行】郷ノ浦町、勝本町、芦辺町、石田町⇒壱岐市
壱岐市発足時の人口は約3万4000人で市役所は旧郷ノ浦町にある。
2005年(平成17年)4月1日 - 長崎県の組織再編で、壱岐支庁が壱岐地方局と改称。
2007年(平成19年)4月1日 - パスポート事務が壱岐地方局から壱岐市役所総務課(郷ノ浦庁舎)に移譲される。
2009年(平成21年)4月1日 - 長崎県の組織再編で、壱岐地方局が壱岐振興局と改称。
2011年(平成23年)4月1日 - 壱岐島で1950年(昭和25年) 以来61年ぶりに学校の統廃合が行われ、中学校が10校から4校に減少。
行政
市長

初代    長田徹    2004年4月18日    2008年4月17日
2代    白川博一    2008年4月18日    現職
市議会
定数は16人(任期:平成29年8月7日~令和3年8月6日)
行政区域
壱岐全域を行政区域とする。

庁舎
合併直後は総合支所方式であったが、現在は事実上の分庁方式となっている。また合併時の公約であった、市内中央の亀石に本庁を置くと言う案は事実上消滅しており、一極集中への懸念から本庁は旧四町の役場と別に設けられたが、現在は旧郷ノ浦町役場が本庁となっている。
壱岐市役所 - 下記の4庁舎は、支所の役割も合わせており、証明書の発行や届け出などの市民サービスを行っている。

本庁(郷ノ浦庁舎/壱岐市郷ノ浦町本村触562)
総務部(総務課・財政課・管財課・危機管理課)、企画振興部(政策企画課・観光商工課・地域振興推進課)、市民部(市民福祉課・こども家庭課・保護課・税務課)、会計課、選挙管理委員会、郷ノ浦支所
パスポート窓口

勝本庁舎(壱岐市勝本町西戸触182-5)
建設部(建設課・建築整備課・上下水道課)、勝本支所、隣接する西部開発センター内に議会事務局・監査委員事務局がある。

芦辺庁舎(壱岐市芦辺町芦辺浦562)
保健環境部(健康保健課・環境衛生課)、教育委員会(教育総務課・学校教育課・社会教育課)、芦辺支所
石田庁舎(壱岐市石田町石田西触1290)
農林水産部(農林課・水産課)、農業委員会、石田支所
事務所 : 柳田事務所、渡良事務所、沼津事務所、志原事務所、初山事務所、湯本事務所、那賀事務所、箱崎事務所


経済
行政的には長崎県に属するが、長崎県本土への直接の交通は長崎空港行きの小型機で一日二便しかない。地理的にも距離が近く、フェリー等の便数が多い福岡県や佐賀県との経済的な繋がりの方が大きい(「交通」の項も参照)。壱岐市の郵便番号(811-5-)も、電話の市外局番(0920)も福岡に近いものになっている。


地名
市内の人が住んでいるか、住んだことがある場所の地名には必ず「浦」、「触」(ふれ)、「島」の何れかが付く。浦とは漁業、商業を中心とした地域で旧町村に置いて中心的な地域であった。触とは農業を中心とした地域で、郷ノ浦町本村触、諸吉本村触、山崎触、箱崎諸津触などの一部の例外を除き原則として散村形態を取る。島とは文字通り、壱岐島周辺の島である。現在妻ヶ島は町域名として残るものの、無人島となっている。

住所表記として用いられる「郷」の他に、行政上の単位で、自治会としても用いられる行政区の所属についても併記する。

郷ノ浦町(ごうのうらちょう)
壱岐市合併前に、旧石田村に編入した地域を除き町域名の前に郷ノ浦町。郵便番号は811-51で始まる。

旧武生水(むしょうず)町
片原触(かたばるふれ)
行政区: 小林、片原北部、片原東部、片原南部、片原中部、喜応寺ヶ丘
郷ノ浦(ごうのうら)
行政区: 前下ル町、先下ル町、築出、先町、元居、本町(南半)、亀川迎町(南半)
庄触(しょうふれ)
行政区: 庄南部、庄中部、庄北部
永田触(ながたふれ)
行政区: 永田、今宮、新道(東半)、𨕫ノ尾(一部)
東触(ひがしふれ)
行政区: 中尾、𨕫ノ尾(大部分)、古城(南半)
本村触(ほんむらふれ)
行政区: 紺屋町、大里、大神、本村西部、新道(西半)、本町(北半)、亀川迎町(北半)
旧柳田(やなぎだ)村
牛方触(うしかたふれ、柳田村時代は半城牛方触)
行政区: 牛方
大浦触(おおうらふれ、柳田村時代は半城大浦触)
行政区: 大浦
木田触(きだふれ、柳田村時代は物部木田触)
行政区: 木田
田中触(たなかふれ、柳田村時代は物部田中触)
行政区: 田中、古城(北半)
半城本村触(はんせいほんむらふれ)
行政区: 半城本村
物部本村触(ものべほんむらふれ)
行政区: 物部本村
柳田触(やなぎだふれ、柳田村時代は物部柳田触)
行政区: 柳田
旧志原(しわら)村
釘山触(くぎやまふれ)
行政区: 釘山
志原西触(しわらにしふれ、志原村時代は西触)
行政区: 志原西
志原南触(しわらみなみふれ、志原村時代は南触)
行政区: 志原南第一、志原南第二
大原触(たいばるふれ)
行政区: 大原上、大原下
平人触(ひろうとふれ)
行政区: 平人
久喜触(くきふれ)(石田村に全域編入、現在は石田町久喜触)
旧初山(はつやま)村
坪触(つぼふれ)
行政区: 坪の東部 坪の中部 坪の南部
初山西触(はつやまにしふれ、初山村時代は西触)
行政区: 初山西の南部 初山西の中部 初山西の北部
初山東触(はつやまひがしふれ、初山村時代は東触)
行政区: 初瀬 初山東の東部 初山東の西部
若松触(わかまつふれ)
行政区: 若松の東部 若松の中部 若松の西部
旧渡良(わたら)村
大島(おおしま)
行政区: 大島
長島(ながしま)
行政区: 長島
原島(はるしま)
行政区: 原島
麦谷触(むぎやふれ)
行政区: 干水、麦谷、神ノ木、宇土、船越
渡良浦(わたらうら)
行政区: 神田、渡良浦、小崎
渡良西触(わたらにしふれ、渡良村時代は西触)
行政区: 迫、渡良西
渡良東触(わたらひがしふれ、渡良村時代は東触)
行政区: 大東、栗岳、牧前、牧後
渡良南触(わたらみなみふれ、渡良村時代は南触)
行政区: 前目、漆
旧沼津(ぬまづ)村
有安触(ありやすふれ、沼津村時代は長峰有安触)
行政区: 日ノ組、田ノ頭、海曲、尾越、崎辺
小牧西触(こまきにしふれ、沼津村時代は黒崎西触)
行政区: 小牧、母ヶ浦
小牧東触(こまきひがしふれ、沼津村時代は黒崎東触)
行政区: 森、小牧東、横内(西半)
里触(さとふれ、沼津村時代は黒崎里触)
行政区: 里
新田触(しんでんふれ、沼津村時代は黒崎新田触)
行政区: 新田
長峰東触(ながみねひがしふれ)
行政区: 山口、野志和
長峰本村触(ながみねほんむらふれ)
行政区: 長峰本村、篠石、横内(東半)
勝本町(かつもとちょう)
全域町域名の前に勝本町。郵便番号は811-55で始まる。

旧勝本(かつもと)町
大久保触(おおくぼふれ、鯨伏村編入前は可須大久保触)
行政区: 大久保触
片山触(かたやまふれ、鯨伏村編入前は新城片山触)
行政区: 片山触
勝本浦(かつもとうら、鯨伏村編入前は可須勝本浦)
行政区: 築出、新町(大部分)、湯田、坂口、黒瀬東、上方(北半)、黒瀬仲、黒瀬西、鹿下東、鹿下仲、鹿下西、田間、川尻(東半)、正村、仲折、田中(大部分)、琴平(東半)、赤滝(西半)、馬場先(一部)
北触(きたふれ、鯨伏村編入前は新城北触)
行政区: 北触
西戸触(さいどふれ、鯨伏村編入前は可須西戸触)
行政区: 西戸触、蔵谷、田中(一部)、上方(南半)
坂本触(さかもとふれ、鯨伏村編入前は可須坂本触)
行政区: 坂本触、馬場先(大部分)、川尻(西半)、琴平(西半)
新城西触(しんじょうにしふれ)
行政区: 新城西触
新城東触(しんじょうひがしふれ)
行政区: 新城東触
仲触(なかふれ、鯨伏村編入前は可須仲触)
行政区: 仲触、天ヶ原(大部分)、塩谷、町ノ先、赤滝(東半)、新町(一部)
東触(ひがしふれ、鯨伏村編入前は可須東触)
行政区: 東触、天ヶ原(一部)    
旧鯨伏(いさふし)村
上場触(うわばふれ、鯨伏村時代は立石上場触)
行政区: 上場触、湯ノ浦(一部)
立石仲触(たていしなかふれ)
行政区: 立石仲触
立石西触(たていしにしふれ)
行政区: 立石西触
立石東触(たていしひがしふれ)
行政区: 立石東触
立石南触(たていしみなみふれ)
行政区: 立石南触、山神
布気触(ふけふれ、鯨伏村時代は立石布気触)
行政区: 布気触、湯ノ浦(大部分)
本宮仲触(ほんぐうなかふれ)
行政区: 本宮仲触
本宮西触(ほんぐうにしふれ)
行政区: 本宮西触、火矢ノ先
本宮東触(ほんぐうひがしふれ)
行政区: 本宮東触
本宮南触(ほんぐうみなみふれ)
行政区: 本宮南触、白滝
湯本浦(ゆのもとうら、鯨伏村時代は立石湯野本浦)
行政区: 湯ノ本浦
百合畑触(ゆりはたふれ、鯨伏村時代は立石百合畑触)
行政区: 百合畑触
芦辺町(あしべちょう)
壱岐市合併前に、旧石田村に編入した地域を除き町域名の前に芦辺町。

旧田河(たがわ)町
郵便番号は811-53で始まる。

芦辺浦(あしべうら、田河町時代は諸吉芦辺浦)
行政区: 芦辺浦日の出町、芦辺浦田町、芦辺浦向町、芦辺浦東部、芦辺浦東札場、芦辺浦平和、芦辺浦山口町、芦辺浦西部、芦辺浦西町、芦辺浦安泊、芦辺浦緑ヶ丘、芦辺浦吉ヶ久保
深江栄触(ふかえさかえふれ)
行政区: 深江栄、深江栄東、深江前目
深江鶴亀触(ふかえつるきふれ)
行政区: 深江鶴亀
深江東触(ふかえひがしふれ)
行政区: 深江東
深江平触(ふかえひらふれ)
行政区: 深江平
深江本村触(ふかえほんむらふれ)
行政区: 深江本村
深江南触(ふかえみなみふれ)
行政区: 深江南
諸吉大石触(もろよしおおいしふれ)
行政区: 諸吉大石、諸吉昭和町
諸吉仲触(もろよしなかふれ)
行政区: 諸吉須気、諸吉内坂、諸吉後目
諸吉東触(もろよしひがしふれ)
行政区: 諸吉山藤、諸吉山王、諸吉奈良
諸吉二亦触(もろよしふたまたふれ)
行政区: 諸吉二亦、諸吉高尾、諸吉辻林
諸吉本村触(もろよしほんむらふれ)
行政区: 諸吉本村、諸吉清水、諸吉外海、諸吉内海、諸吉大久保、八幡浦三軒屋、八幡浦西新町、八幡浦西町、八幡浦西中町、八幡浦東中町、八幡浦東町


諸吉南触(もろよしみなみふれ)
行政区: 諸吉南、諸吉今里
旧箱崎(はこざき)村
郵便番号は811-54で始まる。芦辺町となった時に、瀬戸浦を除き「箱崎」を冠称するようになった。

瀬戸浦(せとうら)
行政区: 瀬戸浦先の川、瀬戸浦南町、瀬戸浦仲町、瀬戸浦石橋町、瀬戸浦西町、瀬戸浦向町、瀬戸浦恵美須、瀬戸浦少弐、瀬戸浦津持、瀬戸浦桜木町、瀬戸浦新横浜、瀬戸浦新瀬戸
箱崎江角触(はこざきえすみふれ)
行政区: 箱崎江角
箱崎釘ノ尾触(はこざきくぎのおふれ)
行政区: 箱崎釘ノ尾
箱崎大左右触(はこざきたいそうふれ)
行政区: 箱崎大左右
箱崎谷江触(はこざきたにえふれ)
行政区: 箱崎谷江、箱崎谷江東
箱崎中山触(はこざきなかやまふれ)
行政区: 箱崎中山
箱崎本村触(はこざきほんむらふれ)
行政区: 箱崎本村
箱崎諸津触(はこざきもろつふれ)
行政区: 箱崎諸津
旧那賀(なか)村
郵便番号は811-57で始まる。

国分川迎触(こくぶかわむかえふれ)
行政区: 国分川迎
国分当田触(こくぶとうだふれ)
行政区: 国分当田
国分東触(こくぶひがしふれ)
行政区: 国分東
国分本村触(こくぶほんむらふれ)
行政区: 国分本村、国分開拓
住吉後触(すみよしうしろふれ)
行政区: 住吉後
住吉東触(すみよしひがしふれ)
行政区: 住吉東
住吉前触(すみよしまえふれ)
行政区: 住吉前
住吉山信触(すみよしやまのぶふれ)
行政区: 住吉山信
中野郷仲触(なかのごうなかふれ)
行政区: 中野郷元の口、中野郷惣清
中野郷西触(なかのごうにしふれ)
行政区: 中野郷西
中野郷東触(なかのごうひがしふれ)
行政区: 中野郷東
中野郷本村触(なかのごうほんむらふれ)
行政区: 中野郷本村
湯岳興触(ゆたけこうふれ)(旧石田村に約半分を編入、一部は石田町湯岳興触)
行政区: 湯岳辻里
湯岳今坂触(ゆたけこんざかふれ)
行政区: 湯岳今坂
湯岳本村触(ゆたけほんむらふれ)
行政区: 湯岳本村
湯岳射手吉触(ゆたけいてよしふれ)(旧石田村に全域編入、現在は石田町湯岳射手吉触)
石田町(いしだちょう)
湯岳興触の一部を除き、全て町域名の前に石田町。郵便番号は811-52で始まる。

旧石田(いしだ)村
池田仲触(いけだなかふれ)
行政区: 池田仲上、池田仲下
池田西触(いけだにしふれ)
行政区: 池田西上 池田西下
池田東触(いけだひがしふれ)
行政区: 池田東
石田西触(いしだにしふれ)
行政区: 石田西前、石田西原、昭和町
石田東触(いしだひがしふれ)
行政区: 石田東
印通寺浦(いんどうじうら、町制施行までは石田印通寺浦)
行政区: 君ヶ浦東、君ヶ浦西、田中、本町、祝町
筒城仲触(つつきなかふれ)
行政区: 筒城仲上、筒城仲下
筒城西触(つつきにしふれ)
行政区: 筒城西
筒城東触(つつきひがしふれ)
行政区: 筒城東北、筒城東南
妻ヶ島(つまがしま、町制施行までは石田妻ヶ島)
本村触(ほんむらふれ、町制施行までは石田本村触)
行政区: 本村
南触(みなみふれ、町制施行までは石田南触)
行政区: 南
山崎触(やまざきふれ、町制施行までは筒城山崎触)
行政区: 山崎
久喜触(くきふれ)(郷ノ浦町より全域編入)
行政区: 久喜
湯岳射手吉触(ゆたけいてよしふれ)(芦辺町より全域編入)
行政区: 射手吉
湯岳興触(ゆたけこうふれ)(芦辺町より約半分を編入、その為芦辺町湯岳興触が存在)
行政区: 興
教育
高等学校
長崎県立壱岐高等学校
長崎県立壱岐商業高等学校
中学校
壱岐市立郷ノ浦中学校
壱岐市立勝本中学校
壱岐市立芦辺中学校
壱岐市立石田中学校
※規模適正化で統廃合になった中学校は長崎県中学校の廃校一覧#壱岐市を参考。

小学校
壱岐市立盈科小学校(えいか)
壱岐市立渡良小学校
壱岐市立三島小学校
壱岐市立柳田小学校
壱岐市立沼津小学校
壱岐市立志原小学校
壱岐市立初山小学校
壱岐市立鯨伏小学校
壱岐市立勝本小学校
壱岐市立霞翠小学校(かすい)
壱岐市立箱崎小学校
壱岐市立瀬戸小学校
壱岐市立那賀小学校
壱岐市立田河小学校
壱岐市立八幡小学校
壱岐市立芦辺小学校
壱岐市立石田小学校
壱岐市立筒城小学校

 

 


 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社