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島の象徴【猿岩】

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島根県(出雲市)・出雲大社


20171102

神聖ですね。そして広大ですごい。
 
良縁とは男女間のみならず、とありましたが煩悩の多い僕は(笑)

二度あることは三度ある?いえ三度目の正直です!

なんか音が違うのに気づき巫女さんに尋ねると二拝四泊一拝と聞き再度やり直す小心者で

す。

確か宇佐神宮もそうだったと記憶してます。

しかし女性はすごいね。

トイレに入ると女性が数名出てきたから僕が間違ったのかと引き返そうとすると『ごめん
なさい、間違ってないですよ』と(笑)

感謝です。

二拝四泊一拝


基本情報
所在地:〒699-0701 島根県出雲市大社町杵築東195
電話:0853-53-3100


【Official site】

























出雲大社
出雲大社(いずもおおやしろ、正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ)
は島根県出雲市大社町杵築東にある神社である。式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格
は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。

名称
古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。正式名称は出雲大社サイトには「いづもおおやしろ」、出雲大社東京分祠サイトには「いずもおおやしろ」とある(前者は新旧仮名遣いが混在、後者は新仮名遣い)。一般的には「いづもたいしゃ」と読まれ、複数の辞書・事典でも読みがなは「いずもたいしゃ」となっている。

概要
二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格すると、2002年(平成14年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級を拝受している。また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがある。

祭神
大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。
1142年(康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記された。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではない。
そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神様としてあらわれるほどに、全国的な信仰をあつめるようになった。

祭神の別名
三諸神(みもろのかみ)古事記での表記
杵築神(きずきのかみ)文徳実録での表記
国造神(くにつくらししかみ)大隅国風土記での表記
大穴六道尊(おおなむちのみこと)土佐国風土記での表記
大国魂命(おおくにたまのかみ)日本国風土記での表記
所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)
大地主神(おおとこぬしのかみ)
大国魂神 古語拾遺での表記
大穴持命(おおなもちのみこと)出雲国造神賀詞と出雲国風土記と伊予国風土記での表記
宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)
大穴道神(「おおなむちのかみ)古事記での表記
廣矛魂神(ひろほこみたまのかみ)
大国玉神(おおくにたまのかみ)日本書紀での表記
倭大物主櫛甕玉神(やまとおおものぬしくしかみたまのかみ)
国作之大神(くにつくらしのおおかみ)
国作坐志大穴持命(くにつくりまししおおむなちのみこと)出雲国造神賀詞での名。
出雲御蔭大神(いずもみかげのおおかみ)
国堅大神(くにかためまししおおかみ)
国占神(くにしめたまいしかみ)
出雲大神(いずものおおかみ)
芦原志拳呼命 播磨国風土記での表記
兵主神(ひょうずのかみ)
農耕祖神(たづくりのおやのかみ)
幽冥事知食大神(かくりごとしろしめすおおかみ)
縁結神(えんむすびのかみ) ・福神(ふくのかみ)・天下地主神(あめのしたとこぬしのかみ)・大国作神(おおくにつくらししかみ) 出雲や出雲大社での神名。

社名
天日隅宮(日本書紀)
杵築宮(釈日本記)
出雲宮(八雲御抄)
厳神之宮(日本書紀)
出雲大神宮(日本書紀)
杵築大神宮(和漢三才図会)
所造天下大神宮(出雲国風土記)
大社杵築大神宮(国花万葉記)
杵築大社(延喜式)
出雲国大社(享保集成総論録)
日本大社(真言宗正林寺蔵版木)
天日栖宮(出雲国風土記)
出雲石(石同)之曽宮(古事記)。

歴史
創建
出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。
大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴命に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)
崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)
垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)
659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)
伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。
また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。

祭神の変化
出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主神であった。
やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていたことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊であった。14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、1666年(寛文6年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。
さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした。また、江戸時代初期には社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していた。
ところが、杵築大社(出雲大社)内は仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微したため、寛文7年(1667年)の遷宮に伴う大造営の時、出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された。これに併せて祭神は須佐之男命から、古事記や日本書紀などの記述に沿って大国主大神に復した。

明治以降
1871年(明治4年)に官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった。

施設
本殿
玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。本殿内北西には御客座五神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)が祀られている。大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている。これは本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているため、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになるためと考えられる。天井には7つの雲の絵が描かれている。現在の本殿は1744年(延享元年)に建てられたもので、高さは8丈(およそ24m)と、神社としては破格の大きさである。
本居宣長が『玉勝間』に引いたところによれば、かつての本殿は現状の倍ほどもあり、中古(平安時代)には16丈 (48m)、さらに上古(神の時代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)であった、という伝承があるとされる。同じ出典にある、「金輪造営図」と併せて想定される姿は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものになる。上古については流石に神話と看做すとしても、16丈あったとすると東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より大きかったということになる。
この説については賛否両論あり、肯定する意見としては、平安時代に源為憲によって作られた「口遊」で数え歌に歌われていること(雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎、というものであるが『雲太、和二、京三。今案、雲太謂出雲国城築明神神殿。和二謂大和国東大寺大仏殿。京三謂大極殿、八省。』を元にしており、その後に続く数え歌を考慮すると、高さの順を表したものではなく、神社(神)、寺院(仏)、住宅(人)の順との説もある)や、複数の記録により、複数回倒壊していることがわかっていること(「百錬抄」「左経記」「千家家古文書」「中右記」「北島家文書」などに記録があり、平安中期から鎌倉時代初めまでの200年間に7度も倒壊している)といった傍証が挙げられている。上古32丈についても、山に建てたものについて、その標高を述べたものと附会すれば、不自然では無いという意見もある。高層建築が必要とされたのは別天津神の祭祀と関係があるとする説もある[14]。一方で、前述したように明確な文献が『玉勝間』と江戸時代まで下ること、証拠とされているものがいずれも傍証にとどまること、32丈説や後述するプロジェクトなどで想定している「山」が、そもそもただの山ではなく神域であり工事が入ることなどめっそうもないといった点が否定要素である。
建築学的な可能性としては、福山敏男と大林組によるプロジェクトにより検討され、成書『古代出雲大社の復元』(初版1989)として出版されている。
2000年、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。古代社殿の柱ではと騒がれ、16丈説があたかも確認された事実であるかのごとく報道されたりもしたが、結局、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも1248年(宝治2年)造営の本殿である可能性が高いとされている。
2008年の「仮殿遷座祭」以降、本殿の屋根等の大改修が行われており、2013年5月には御祭神を仮殿から改修が完了した本殿へ再び遷座する「本殿遷座祭」が行われた(平成の大遷宮)。出雲大社の遷宮は概ね60 - 70年毎に行われている。

荒垣内摂社
※「荒垣」とは本殿鎮座地の四囲にめぐらした石垣と塀で、大社ではこの内側をいわゆる「境内」としている。

本殿瑞垣内
大神大后神社(御向社、みむかいのやしろ) - 式内名神大社(同社坐大神大后神社)。大国主の正后・須勢理毘賣命を祀る。
伊能知比賣神社(天前社、あまさきのやしろ) - 式内社(同社坐伊能知比賣神社)。大国主が亡くなったときに蘇生を行った蚶貝比賣命・蛤貝比賣命を祀る。
神魂御子神社(筑紫社、つくしのやしろ) - 式内社(同社坐神魂御子神社)。大国主の妻で宗像三女神の一人、多紀理毘賣命を祀る。
門神社(もんじんのやしろ) - 廻廊八足門内の両側にあって本殿を守護する宇治神(東)・久多美神(西)を祀る。

本殿瑞垣外
出雲神社(素鵞社、そがのやしろ) - 式内社。父(または祖先)の須佐之男命を祀る。本殿の真後ろ、八雲山との間に唯一鎮座する社。
釜社(かまのやしろ) - 素戔嗚尊の子の宇迦之魂神を祀る。
氏社(うじのやしろ) - 2つあって、出雲国造家祖神の天穂日命(北)と17代の祖で出雲氏初代の宮向宿彌(南)を祀る。御神座は本殿のある東を向いて、西を向いた主祭神に対面するようにしつらえてある。
十九社(じゅうくしゃ) - 東西に2つあって八百萬神(やおよろずのかみ)を祀る。神在祭の際、神々の宿舎となる。

荒垣外摂末社
神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ) - 式内社。神産巣日神を祀る。(出雲市大社町杵築東182)
阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ) - 式内社。子の阿遅鉏高日子根神を祀る。(出雲市大社町遥堪1473)
大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ) - 式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔嗚尊の孫の御年神を祀る。(出雲市大社町杵築東)
大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ) - 式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)
大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ) - 式内社。天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。(出雲市大社町鷺浦102)
上宮(かみのみや) - 素戔嗚尊・八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の会議所となる。(出雲市大社町杵築北)
下宮(しものみや) - 天照大御神を祀る。(出雲市大社町杵築北)
出雲井社(いずもいのやしろ) - 岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)
因佐神社(いなさのかみのやしろ) - 建御雷神を祀る。(出雲市大社町杵築3008)
湊社(みなとのやしろ) - 櫛八玉神を祀る。(出雲市大社町中荒木)
大歳社(おおとしのやしろ) - 素戔嗚尊の子の大歳神を祀る。(出雲市大社町杵築北)
祓社(はらいのやしろ) - 祓戸四柱神を祀る。参道大鳥居の東側にあり参拝者が前もって身心を祓い清める社。(出雲市大社町杵築東195)
野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ) - 参道大鳥居の西側、神苑相撲場の北西にあり相撲の始祖野見宿禰命(第13代出雲國造 襲髄命(かねすねのみこと))を祀る。


拝殿
室町時代の1519年に尼子経久が造営。名工の坪井大隅守が華・青龍・松竹梅など豪華絢爛で高く評価したが、1953年5月27日午前1時ごろ本殿が72年ぶりの正遷宮奉祝期間中に鑽火殿(さんかでん)から出火、拝殿まで及び姿は消えてしまった。原因は鑽火殿で餅をつき終わって酒を飲んでいたことから残り火の不始末だった。
日本全国の崇敬者から寄付金1億円を集めて、復興事業として、高松宮宣仁親王を総裁として、設計を担当したのは神社建築学の福山敏男博士、1959年に完成した。

庁舎
江戸時代の初期建築だったが、1953年5月27日午前1時ごろ鑽火殿(さんかでん)から出火し、拝殿とともに姿は消えてしまった。その後建築家菊竹清訓のより1961年11月に着工、1963年5月に竣工。この年第15回日本建築学会賞を受賞した。
コンクリートの亀裂など老朽化が進み、安全な問題があるとして建て替えになることが決まった。この決定に対しては2016年3月に日本建築学会など4団体が保存を求める要望書を提出。同年9月にはUNESCOの諮問機関である国際記念物遺跡会議の20世紀遺産国際学術委員会が庁舎に対して危機遺産警告を出し、建て替え計画の中止と、修繕や保存の検討を行うよう要望するなど波紋が広がったが、庁舎保存を求める建築らに対し、「コンクリート本体と金属部の劣化が進み、安全性を確保できない」として、建て替え通り、大遷宮事業が終わる2018年度末までに新しい庁舎を立てる方針。

神楽殿
神楽殿 - 拝殿の西側、荒垣外に位置する神楽殿(かぐらでん)は明治12年の出雲大社教創始の際に、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来する。正面破風下に張られた長さ13m、周囲9m、重さ5tの大注連縄は日本トップクラスである。神楽殿では婚礼なども執り行われている。
国旗掲揚台 - 神楽殿南側には高さ47mの国旗掲揚台があり、日本国内で最大の日章旗が掲げられている。旗の大きさは畳75枚分、重さは約50kgに達する。通常は朝掲揚され夕方に奉降されるが悪天候時にはこれを行わない場合がある。
「一月一日」歌碑 - 神楽殿東側には唱歌「一月一日」の歌碑が建っている(同唱歌を作詞した千家尊福は出雲大社第80代出雲国造である)。

その他
出雲大社教の千家国造館
出雲教の北島国造館


文化財
出雲大社の文化財一覧。

国宝
出雲大社本殿(附 内殿1基、棟礼1枚)(建造物) - 江戸時代、延享元年(1744年)の造営。明治33年(1900年)4月7日に国の重要文化財(当時の特別保護建造物)に指定。昭和27年(1952年)3月29日に文化財保護法に基づく国宝に指定。
秋野鹿蒔絵手箱 1合(工芸品) - 鎌倉時代初期の作。昭和27年3月29日指定。

重要文化財(国指定)
出雲大社 21棟1基(建造物) - 平成16年(2004年)7月6日指定。次の社殿21棟および鳥居1基を一括指定。
楼門
神饌所 2棟
玉垣
摂社大神大后(おおかみおおきさき)神社本殿
摂社神魂御子(かみむすびみこ)神社本殿
摂社神魂伊能知比売(かみむすびいのちひめ)神社本殿
摂社門神社本殿 2棟
八足門(やつあしもん) - 蛙股の「瑞獣」や流麗な「流水文」などの彫刻は左甚五郎の作と伝えられる。
観祭楼及び廻廊
西廻廊
瑞垣
摂社素鵞(そが)社本殿
摂社氏社本殿 2棟
末社釜社本殿
末社十九社本殿 2棟
宝庫
会所
銅鳥居 - 寛文6年(1666年)の長州藩3代藩主毛利綱広の寄進。
赤絲威肩白鎧(兜・大袖付)(工芸品) - 室町時代、応仁・文明頃の作。昭和28年3月31日指定。
太刀 銘光忠(附 糸巻太刀拵) - 鎌倉時代中期の作、豊臣秀頼の寄進。明治42年9月21日指定。
紙本墨書後醍醐天皇宸翰宝剣代綸旨(三月十七日)(古文書) - 鎌倉時代、元弘3年(1333年)か。昭和10年4月30日指定。
紙本墨書後醍醐天皇王道再興綸旨(元弘三年三月十四日)(古文書) - 鎌倉時代、元弘3年(1333年)。昭和10年4月30日指定。
紙本墨書宝治二年遷宮儀式注進状(建長元年六月)(古文書) - 鎌倉時代、宝治2年(1249年)。昭和10年4月30日指定。
銅戈1口、硬玉勾玉1顆 神魂伊能知奴志神社境内出土(考古資料) - 弥生時代。昭和28年2月14日指定。
島根県出雲大社境内遺跡(旧本殿跡)出土品(柱根6点、礎板1点、鉄製品38点(手斧、釘、鎹など)、土器25点)(考古資料) - 平成22年6月29日指定。

重要美術品(国認定)
銅製鰐口(工芸品) - 慶長14年(1609年)銘。昭和17年12月16日認定。

選択無形民俗文化財(国選択)
出雲の火鑚習俗 - 昭和50年12月8日選択。

島根県指定文化財
有形文化財
出雲大社境外社 6棟(建造物) - 平成22年4月16日指定。
神魂伊能知奴志神社本殿
大穴持御子玉江神社本殿
大穴持御子神社本殿
上宮本殿
上宮拝殿
出雲井神社本殿
紙本金地著色舞楽図 6曲1双(絵画) - 昭和47年3月31日指定。
鉄砲 清堯作(附 銃箱)(工芸品) - 江戸時代、慶長17年(1612年)の作・寄進。昭和38年7月2日指定。
杵築大社舞楽用具 101点(工芸品) - 江戸時代。昭和49年12月27日指定。
二重亀甲剣花菱紋蒔絵文台、硯箱 2具(附 外箱1合)(工芸品) - 江戸時代、寛文7年(1667年)の4代将軍徳川家綱の寄進。昭和53年5月19日指定。
内訳:甲州硯2面、金紋入黒塗軸笠付筆3本、金紋入黒塗軸墨さし2本、金紋入黒塗軸刀子1本、紋入黒塗軸錐1本、亀甲紋形金銅水滴座金1箇
紙本墨書出雲大社文書 237通36冊4帖(古文書) - 長寛2年(1164年)から明治にかけての文書。昭和50年8月12日指定。
出雲市指定文化財[編集]
史跡
出雲大社参道の松並木 - 昭和60年3月6日指定。
天然記念物
命主社のムクノキの大樹 - 平成3年3月19日指定。

国の登録有形文化財
彰古館 - 平成27年11月27日指定[26]。
宇迦橋大鳥居 - 平成27年11月27日指定[26]

関連文化財
出雲大社并神郷図(絹本著色) - 国の重要文化財(古文書)。個人所有。鎌倉時代。昭和47年5月30日指定。

出雲国造家
出雲国造は、天照大御神の第二御子の天穂日命(あめのほひのみこと)の神裔である。
第十二代鵜濡淳命より祭祀以外に出雲国の政治も兼ねる事になる。
第十三代襲髄命(野見宿禰)は相撲の祖と称えられる。
第十七代宮向国造の時に出雲臣姓を賜る。
第二十五代廣嶋国造は出雲国風土記を編纂。
第三十一代千国国造の時代から、地方政治の面から退き、祭祀のみ携わる事になる。これより国造新任時や遷都時には朝廷参向し天皇の大前にて神賀詞を奏上する。
第五十三代孝時国造は後醍醐天皇に神剣一振献上[27]。
出雲大社の祭祀者である出雲国造家は、南北朝時代に「千家」と「北島」の2家に分裂し、その祭事は幕末までは両家が二分して行っていたが、明治以降から現在までは千家家が執り行っている。
またそれぞれ大国主大神を主祭神とする宗教団体として、千家家が出雲大社教、北島家が出雲教を主宰している。
出雲大社教との一体化[編集]
1951年(昭和26年)4月に出雲大社と教派神道の宗教法人出雲大社教は一体化され、出雲大社の職員は出雲大社教の職員を兼務し、出雲大社宮司は出雲国造として出雲大社教を総攬し、出雲大社教の教務本庁は出雲大社の教務部として活動している[28]。
祭事[編集]
1月
元旦 - 大饌祭(大御饌祭)
3日 - 福迎祭
5日 - 説教始祭
旧暦元旦 - 福神祭
旧暦1月28日 - 杓子祭
2月17日 - 祈穀祭
4月1日 - 教祖祭
5月
14日 - 例祭(大祭礼) 勅使参向 この祭りにのみ神職は正服を着装し奉仕する
15日 - 例祭(大祭礼) 二之祭
16日 - 例祭(大祭礼) 三之祭
6月1日 - 凉殿祭(真菰神事)
8月
5日 - 爪剥祭
6-9日 - 出雲大社教大祭
14日 - 神幸祭(身逃神事)
旧暦10月
10日 - 神迎祭
11日 - 17日 - 神在祭(御忌祭)
11月23日 - 献穀祭・古伝新嘗祭
12月
15日 - 謝恩祭・勧農祭
20日 - 御煤払
23日 - 天長節祭
31日 - 大祓・除夜祭

出雲大社の最大の特徴として日供祭が挙げられる。日供祭は通常どの神社でも朝と夕に神様に食事を差し上げる祭りをやるのだが、出雲大社では毎日宮司が自らこれを行う建前である。大概の神社では当番で一人にて奉仕するものであるが出雲大社ではあくまでも大国主命のお祭りは天穂日命が行うという神代よりの掟に従い宮司が7、8人の神職を従えて奉仕するのが基本であるが、実際にはしばしば代理の神職により奉仕される。
出雲大社には琴板(こといた)という楽がある。杉板製で、長さ約79センチ、幅約24センチの箱型を呈するもので、裏側に約11センチの穴があいている。弦は張ってなく、約71センチの柳の枝の撥で打って演奏する。的射祭、古伝新嘗祭、国造百番舞、国造三番舞で奏でられる。タマフリ、タマシズメの意味などがあるという。非常に原始的な古い楽器で重要である。
祭事では、出雲笛(いずもぶえ)を用いる。献饌時には「フルヘユラトフルヘ」と吹くが、これは「布瑠倍由良止布瑠倍」であり、十種神宝に由来する。出雲笛は竹製桜皮巻の横笛で出雲地方で作られ、実に神秘的な音色を奏でる。

出雲大社に関する古典抄録
天地の初発-修理固成、美斗能麻具波比、禊祓、三貴子、大国主大神の御神系(古事記上)。
御神名(日本書紀神代上)。
御修練-手間山焼石の御難、如矢の御難、蛇の室の御試練、大野の鏑矢の御試練、八田間の大室屋の御試練(古事記上)。
幸魂奇魂(日本書紀神代上)。
国土経営の大業-国つくりの大任、八十神を平け給ふ(古事記上)。・成れる所・成らざる所(日本書紀神代上)。・国づくり (古事記上、出雲国風土記出雲神戸の条、播磨国風土記上鴨里の条並びに米更岡の条、万葉集三五五並びに一二四七)。・療病・禁厭の法を定め給ふ(日本書紀神代上、古語拾遺)。・温泉を創め給ふ(伊予国風土記)。・酒をつくり給う(播磨国風土記)。
国避りと幽政の主宰(古語拾遺)。
大宮の創建(出雲国風土記)。
出雲国造神賀詞(延喜式)。

交通
最寄駅:一畑電車大社線・出雲大社前駅
西日本旅客鉄道(JR西日本)出雲市駅から一畑バス出雲大社連絡所行または日御碕行
2017年4月現在、最寄りの停留所には正門南側にある「正門前」(JR出雲市駅からの運賃は大人500円)とその一つ先の神楽殿西側にある「出雲大社連絡所」(JR出雲市駅からの運賃は大人520円)がある。標準所要時間はゆめタウン出雲前経由便がJR出雲市駅から出雲大社連絡所バス停まで約36分、イオンモール出雲前経由便が約27分。島根ワイナリー経由便を除く全ての便が大鳥居の下をバスが通過する。
一畑電車電鉄出雲市駅から出雲大社前駅まで川跡駅乗換で24分(運賃は大人490円)。休日は一部直通便もあり。
2012年4月1日から、一畑バスと中国JRバスの運行する夜行高速バス「スサノオ号」が東京駅、渋谷から出雲大社までの運行を開始した。
かつては徒歩15分の位置に大社駅が存在していたが1990年に大社線の廃止により廃駅となった。(ただし、ホームや駅の掲示などすべて当時のまま残されている)

周辺情報
日御碕 - 人工的に加工されたと推測される石群などが海中にあり古代の神事の遺跡ではないかという推測もある。
日御碕神社 - 出雲大社の祭神 「大国主命」の 「祖神さま(おやがみさま)」にあたる 「素戔嗚尊」や「天照大神」を祭る。日御碕神社・社家の「小野家」は、戦前は出雲大社の千家・北島両家や、石見一ノ宮の物部神社・社家の「金子家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。
出雲日御碕灯台 - 日御碕の突端に立ち、日本一の灯塔の高さを誇る石造灯台。
島根県道29号大社日御碕線 - 出雲大社(出雲市大社町)と日御碕を結ぶ海沿いの道。冬は、海が時化る(しける)と「潮被り」の道となり、安全に「冬の日本海」を体感できる コースとなっている。晴れると、出雲神話の舞台である、稲佐の浜や三瓶山が見渡せる。 さらに西方には世界遺産・石見銀山の鉱脈を形成した、大江高山火山群を遠望できる。
国道431号 - 出雲大社の前を通る国道。
経島(ふみしま) - 「経島ウミネコ繁殖地」は、国の天然記念物。日御碕神社のすぐ裏手にあり、冬季はウミネコたちの鳴声や、鄙びた風情の漁港に冬の日本海の風情を体感できるスポットとなっている。
稲佐の浜
一畑寺
鰐淵寺
島根県立古代出雲歴史博物館 - 出雲大社の東隣にあり、中央ロビーには、2000年に出雲大社境内から出土した、古代・中世高層神殿 巨大柱「宇豆柱」(鎌倉前期)や、大社東方200mにある、命主社背後の古代祭祀遺跡(真名井遺跡)から出土した銅戈・勾玉(重要文化財)も展示されている。
出雲全日本大学選抜駅伝競走 - 出雲大社前の正面鳥居前(勢溜)が本競走のスタート地点となっている。
ご縁横丁 - 2012年8月31日に出雲大社前にオープンのみやげ物販売の横丁。

★壱岐の新鮮アジと甘塩ウニ★