天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

勝本町漁業史

勝本町漁業史page002 序にかえて

序にかえて勝本町漁業詩作成委員長 熊本平助勝本漁民である私達が、久しく待望していた『勝本町漁業史』がようやく発刊のはこびとなりました。昭和五十三年に本史が企画され、その編集委員長に私が就任しました。しかし実際の作業は、中上史行先生をはじめ、横山順壱岐郷土館長を中心に、町内有志の方々のご努力とご協力を得て、長崎県下では初めての『漁業史』として、組合員の大きな期待の中でその作業は進められてきました。こ...

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勝本町漁業史page001 序にかえて

序にかえて勝本町漁業協同組合 組合長理事 香椎二一郎今回、関係各位のご協力を得まして『勝本町漁業史』が発刊されるはこびとなりましたことは、組合員の皆様方とともにご同慶にたえません。 私たちの郷土であります勝本は、東は玄界灘、西は対馬海峡に囲まれた壱岐島の北端に位置し、大小七百隻の漁船を有し、沿岸漁業の基地として発展しています。今日のこの漁業の隆盛は、数千年という長い歴史の流れの中で、先人達が幾多の...

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勝本漁業史 第三章 ①~漁業の進展~

第三章 漁業の進展一、磯漁の推移海と海底 海の広さは、地球表面の約七〇㌫をしめ、陸地の二倍以上である。この海の大部分は深海であり、また大洋である。海は海岸からだんだんと深くなっていくが、水深二〇〇㍍ぐらいまでのところは、陸地からの堆積物がつもってなだらかな傾斜になっている。これを大陸棚と呼んでいる。 大陸棚は大陸や島の周囲を取り巻き、この水域を沿岸とか浅海と呼んでいる。この大陸棚は変化に富み、浅瀬...

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勝本漁業史 第三章 ②~漁業の進展~

二、網漁の発達羽魚網 明治の中頃、山口県三(さん)見(み)村を始め各地域では、羽(は)魚(いお)の銛突漁業が盛んに行われていた。『壱岐島民俗誌』には、これを次のように記している。「羽魚突き=今は機械船を用うるが、昔は帆でマギッて突いた。羽魚は風クンダリ泳ぐ習性があるので、斜めにマギリながらツマグロの銛で突くのである。ツマグロとは突いて矢縄を引くと、先は中で開いて抜けるようになり、柄だけ抜けて来る銛...

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勝本漁業史 第三章 ③~漁業の進展~

三、釣漁の変遷一、漁場恵まれた漁場 漁場とは水産物が良く繁殖する所をいう。魚類が群集する所は海岸に近い浅海で、水深二〇〇㍍をこえるとまれになるといわれる。また寒暖二流の合する所、潮流の荒い所などにもよく群集している。 勝本で漁場といえば、誰でも異口同音に「七里ヶ曽根」と答えるであろう。他に勝本漁民が利用する漁場としては平曾根、ナンカケ、十八立、赤瀬割附近、火棚、アラ曾根、正月曾根等の曾根があり、と...

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勝本漁業史 第三章 ⑤~漁業の進展~

三、漁船概況 漁業が成立するには、その時代やその土地の漁業に適合した漁船を持ちすぐれた乗組員を得ることが第一の条件である。この大事な漁船を持つには次の要件が必要である。 1、構造、設備はつとめて堅固、簡素とし荒天にも満足に使用できるもの。 2、航海中高速度が得られること。 3、荒天の中でも安全に操業しうること(ガブリが少ないこと)。 4、魚倉の容積が大きいこと(漁船の進歩によって防熱、油倉、水倉の...

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勝本漁業史 第三章 ⑥~漁業の進展~

四、勝本浦の発展につくした人々 原田元右衛門翁は情け深く、大胆で知略のある人であった。天保一四年(一八四三年)勝本において捕鯨業をはじめた。他に趣味とてなく人のためになら自らの金を使ってもよい、というのが趣味かもしれなかった。文化年間(一八一〇年頃)藩主松浦公が土地一〇〇石を勝本の共有地(請地)としてあたえようとした。しかし当時勝本は鯨取りに忙しく生活も楽であったから、みんなは請地をもらってもその...

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勝本漁業史 第三章 ⑦~漁業の進展~

五、延繩 ブリブリは古くからわが国の人々に親しまれてきた由緒ある魚で、文献の上では五〇〇年前(室町時代の明応年間)に飯魚(ハマチ)という名で、すでに現われているという。全長約一・五㍍で、体は紡錘形でやや側扁し、全身を小円鱗がおおっている。背部は暗青色、腹部は白色で、体側中央を不明瞭な黄色の一従帯が走っている。ブリの生息域は、北は北海道から南は台湾近海に至る温帯域で、黒潮及びその分派(対馬暖流を含む...

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勝本漁業史 第三章 ⑧~漁業の進展~

六、たぐりタグリ(クリヅリ) エバ(餌)をたぐりながらブリを釣る一本釣漁法で、タテヅリともいうが勝本では普通クリヅリと呼んでいる。明治初期、山口県の家室から漁に来ていた人々が伝えた漁法である。この漁法はその後勝本を本場として、隣村、在部方面にも伝わり盛んに行われた。 使用する道具は現在までいろいろ変ったが、手早くたぐってエバの動きを活発にし、ブリを誘って釣るという方法は変わっていない。同じエバで一...

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勝本漁業史 第三章 ⑨~漁業の進展~

勝本漁業史 第三章 ⑨~漁業の進展~八、夜釣夜釣 夜間集魚灯をたいてブリを集め、イカ等の餌でこれを釣る漁法である。別名夜ダキともいう。秋が漁期である。 明治初年に「たぐり」とともに家室船から伝えられたといわれている。その後、明治、大正、昭和の時代を通じ勝本漁民が、この夜約で貧しさから解放された例は少なくないという。 この漁法の創始について次のような出来事が伝えられている(漁業今昔の四回「夜釣の巻」...

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勝本漁業史 一四、各任意組合の結成①

一四、各任意組合の結成①1、底繩研究組合底繩研究組合 昭和三一年頃の勝本におけるブリ釣り漁は、沖の曾根(七里ヶ曾根)を主漁場とする焼玉発動機船が対馬近海まで出漁しているという状況であった。これに対し平曾根・ナンカケ・島のうしろ等の地まわりで操業するチャッカーモーター船を主体とする小型船は、速力においてもまた大きさにおいてもその性能は劣っていた。ことに曳繩においては速力の点で全く問題にならず、半分も...

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勝本漁業史 一四、各任意組合の結成②

一四、各任意組合の結成②4、カレイ釣組合カレイ釣組合 昭和五一年六月一日のことであった。箱崎、東部漁協所属の船団数十隻が、カナギ生がけ漁法で「地(じ)のへり」の漁場へやってきた。いうまでもなく自分達の地先の漁場のカレイを全滅させた後のことである。このカナギ生がけを大々的にやられると、漁場は荒廃する。 この事態をなんとかくいとめようと、カレイ釣業者二五名が漁協にあつまり、一緒に対策を練ったのである。...

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勝本漁業史 一四、各任意組合の結成③

一四、各任意組合の結成③日和見 日和見も、今まで勝本で行われていたが、漁場も広範囲に拡大し、不漁の時は寄港地も各地に分散するため、勝本のみではむずかしくなり、勝本、対馬、沖ノ島の三ケ所で、その地区の日和を見るようになった。 少なかった昼揚げも、この頃では盛んになり、多くの船が昼揚げをするようになり、翌日揚げは数隻を数える程度となった。夜に釣ったイカをその朝(午前一〇時迄)陸揚げして売り、又その晩イ...

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勝本漁業史 一四、各任意組合の結成④

一四、各任意組合の結成④特殊船組合発足 昭和四九年度、特殊船総会。本年度より前年度に決定された総会時期が、春に行われるようになった。本年は、四月八日(旧三月一五日)に行われた。二号議案で、誕生以来イカ釣組合内の一船団として所属していた特殊船が独立して、一任意組合を設立する事に決定したのである。 九月七日、燭光問題について、イカ釣組合役員と特殊船組合役員との話し合いがなされ、次のように決定して、プリ...

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勝本漁業史 一五、灯台

一五、灯台灯台 頭部に強力な灯器をもつ航路標識塔を灯台という。そして海岸または島などの高い所に石材や木材、金属などで塔を建て、その上に灯籠(とうろう)、照光器などをそなえ灯明をつけて航海者の目当とした。 航海者が昼夜ともに灯台を発見して、すぐ自船の位置を知ることができるように灯台は工夫されている。塔の形や塗色の別で昼間の標識にし、光の発射方式(不動、明暗、せん光などと、その組合せ)や、灯色(白、紅...

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