天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

勝本町漁業史

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勝本漁業史 一七、漁民からみた勝本港

町名のおこり 勝本浦は、大昔は今の本浦ばかりであって、鹿の下や正村は海であったという。そのため、本浦から聖母神社に参拝するには、船に乗って郵便局の浜(昭和八年当時の郵便局、現玄海商店)に渡り、乗越(のりこし)を経て川尻(かわじり)に出て平(てえら)より参拝しなければならなかった。 川尻(勝本浦では井戸のことを川という)とは、聖母川の尻という意味で、元正天皇の時の養老元年(七一七)神殿再興の時に掘っ...

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第五章 漁業組合の発展 一、組合の誕生

第五章 漁業組合の発展一、組合の誕生勝本漁村の歩み 明治以前の勝本の漁業については、鯨組による捕鯨に関する記録しか残っていない。明治以降は、原始的な一本釣り漁業が中心で経過してきた。第二次大戦前後から全国的に経済が高度に成長し、大資本家によるあぐり網、機船底曳網等資本漁業が盛んになってきた。しかしその反面、沿岸漁業は不振となり、漁村の疲弊は深刻となった。漁民の中にはやむなく他の職業に従事する者も出...

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第五章 漁業組合の発展 一九、燃油

一九、燃油燃油 和船から動力船になり、欠くことのできなくなったのが燃油である。使用した油も焼玉の初期は軽油を、後期はA重油を、戦時中や戦後はBC重油と思われるものをヤミ買いなどで利用した。最近では、豊かで安い油があると安心していたら、価格や供給の面でも大嵐が吹きはじめた。漁民と油はいつも切り離せない問題である。以下、油の歴史をたどってみる。 大正期の動力船は、有水焼玉であったから、燃料は軽油であっ...

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第五章 漁業組合の発展 二〇、船の備品

二〇、船の備品潮帆(しおぼ) 潮帆また海帆(うんぼ)は、海中に丈夫な綿布で作った四角な帆を入れて、船を風に立てて潮の流れとともに流す道具である。 夜釣りの項にある亀十さんの例でもわかるように、明治一〇年頃には「くびり石」をぶら下げて流していた。また和船の項にあるように、夜半に大風にでもなると一晩中でも櫓で「ねらえ」ていたという。タイ一本釣りでも一人がねらえて釣っていたといわれているから、潮帆が普及...

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第五章 漁業組合の発展 第四章 イルカと漁業

第四章 イルカと漁業一、イルカによる被害被害の表面化 壱岐周辺を回游するイルカの種類は、バンドウイルカ、ハナゴンドウ、オキゴンドウ、カマイルカ、コビレゴンドウ、マイルカの六種である。そしてこのイルカの頭数については、昭和四〇年、壱岐・対馬海域のイルカを調査した長崎大学水産学部の水江助教授によれば、その数約三〇万頭。また水産庁調査研究部(青山、小笹の両氏)では約三二万頭と推定されている。 勝本の漁業...

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勝本漁業史 一六、自衛監視

一六、自衛監視自衛監視 勝本の漁民は、ブリ・タイ・イサキなど釣操業の大半を七里ヶ曾根漁場に依存している。この大事な七里ヶ曾根漁場は、昭和三九年一二月の天生丸事件(唐津魚市場構内に事務所を置く天生水産所属の天生丸旋網(まきあみ)船団が、七里ヶ曾根において旋網操業をし、大量のブリを唐津魚市場に水揚げした。これに対し勝本漁協では役員・総代・ブリ一本釣組合等で陳情団をつくり、天生水産事務所に陳情を行なった...

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