天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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富山県・富山市20171026

富山市役所


基本情報
所在地:〒930-8510 富山県富山市新桜町7番38号
電話:076-431-6111


【Official site】

富山市
富山市(とやまし)は、富山県の中央部から南東部にかけて位置する市である。富山県の県庁所在地であり、国から中核市の指定を受けている。

概要
富山県の県庁所在地で、同県の中央部から南東部に位置する。2005年(平成17年)4月1日、富山市(旧市)、上新川郡大沢野町、大山町、婦負郡八尾町、婦中町、山田村、細入村の7市町村による新設合併によって現在の富山市が発足した。
この合併により、全国の都道府県庁所在地の中では2番目に広い総面積を持つようになった(全国の市では11位)。また、富山県の29.24%の面積を占め、一つの市町村が県に占める面積の割合としては全国一である。市域は富山県域に対して南北にわたっており、日本海と南側の県境いずれにも接している。広い総面積に対し、可住地面積比率は38.2%で、市域の約6割が林野地となっている[1]。また、市街化区域面積比率は5.8%であり[1]、環境モデル都市の選定を受けてコンパクトシティを目指した都市計画を進めている。また、環境未来都市、国際会議観光都市、国連エネルギー効率改善都市、レジデント・シティに選定されている。市内の多くは立山黒部ジオパークに、南東部は中部山岳国立公園に指定されている。同市は2011年よりインドネシア・バリ島で小水力発電施設の設置事業を推進するなど、国際的な環境事業に力を入れており、2017年2月2日には日本の中核都市としては初めて国際協力機JICAと人材交流や技術協力などの協定を結んでいる。
合併により、「越中富山の薬売り」で知られる富山城の城下町として栄えた地域(「薬都」と呼ばれることも)、浄土真宗の古刹聞名寺の門前町として発展した地域、立山信仰の登山者たちの宿場町として人々が行きかった地域など、多様な地域が包含された。ライフラインの本社や支店が置かれ、商業・工業面において富山県の中心のみならず北陸地方の拠点都市としての機能も担っている。地形も変化に富み、水深約3,000mの富山深海長谷から標高2,986mの水晶岳までさまざまな動植物が生息し、ホタルイカやライチョウ(雷鳥)などが観光資源化されている。ホタルイカが水揚げされる富山市から魚津市にかけての富山湾沿岸は、特別天然記念物に指定されている。
方言は富山弁である。

地理
地形
富山県の中部から南東部に位置していて、県の総面積の約3分の1を占める。市の北部から中部には神通川・常願寺川などの川によって形成された沖積平野の富山平野が広がる。中西部にはなだらかな呉羽丘陵が横たわり、南部には飛騨高地が、南東部には雄大な北アルプス立山連峰が聳える。森林セラピー基地に認定されている。富山平野の北側には、豊富な魚介類の宝庫である富山湾が広がっている。
山:水晶岳(富山市最高峰)、薬師岳、野口五郎岳、黒部五郎岳、烏帽子岳、赤牛岳、三俣蓮華岳、北ノ俣岳、鷲羽岳、白木峰
川:神通川、常願寺川、井田川、松川、いたち川、熊野川、白岩川、上市川、和田川
湖沼:黒部湖(黒部ダム)、有峰湖(有峰ダム)、田尻池

地名の由来
「トヤマ」の地名は、室町幕府直臣の吉見詮頼が、応永5年5月3日に「越中国外山郷地頭職」を観勝寺に寄せた寄進状[2] が初見である。外山郷は、越中守護所放生津(現・射水市)があった射水郡の東端である御服山(呉羽山)の東麓(射水郡からみて外側)に位置する。この地形から、「外山」の字が当てられたとする説がある。「富山」字は戦国時代に初見されるが、江戸時代は「富山」「外山」の両方が使用されている。また、慶長年間以前に成立したことが確実な文献史料のタイトルに『富山之記』がある。この他には以下のような説がある。
立山連峰を仰ぐことができ、山に富んでいることから富山(とやま)と呼ばれたため。
元々は藤居山(ふじいやま)という地名だったが、富山寺(ふせんじ)[注釈 3] という寺院があったのでに次第に富山(とやま)と呼ばれていったため。
富山城が築城された際に、外山から縁起よくするために富山に改名された。ただし富山城は江戸初期まで「安住城」「安城」と呼ばれていた、とする説もある。
深山に対して外山(とやま)と呼ばれたため。

市街地
富山市中心部周辺の空中写真。1975年撮影の10枚を合成作成。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。
昭和の第二次世界大戦後に市街化区域内は土地区画整理され、東西と南北に碁盤目状に延びる道路と、富山駅を起点とした5本の放射状道路により構成された計画都市となっている。一方、古い町並みの残る八尾地域は「越中おわら風の盆」で全国的に知られ、多数の観光客が訪れる。

気候
日本海側気候で、旧富山市域は豪雪地帯、市域南部の大山・八尾・山田・細入地域は特別豪雪地帯に属している。 北陸地方の他の地域と同様、緯度の割りには太平洋側と比べると気温は温暖で、年間降水日数が多く特に冬期は多量の降水を見る。 富山平野は富山湾に面しているが、能登半島で日本海からの海風が遮られ、南側に飛騨高地などの山脈が連なり南〜南西の風が卓越しやすいなど内陸性ともいえる気候の側面を持つ。 以上のの地形的な特徴により、冬の季節風が比較的弱いものの、夏はフェーン現象の影響を特に受けやすく高温となる。
冬は雪や雨の日が続く。年平均降雪量は383cmで、都道府県庁所在地としては青森市、札幌市、山形市に続く多さである。1日で数十センチメートル以上の降雪量を記録する"ドカ雪"も珍しくなく、年平均最深積雪は62cmと青森市、札幌市に続く多さである。これには前述の地形的な特徴も原因となっていて、能登方面から吹く弱い北西風と、金沢市方面から吹き込み南側の山地を回りこんでから吹き降りる南風が富山平野で収束しやすいことによるものである。 冬季の過去最深積雪は1940年1月30日に観測された208cm。近年は暖冬化により積雪が減少傾向であり、1986年2月6日の117cmを最後に1m以上の積雪は観測されていない。21世紀に入ってからの最深積雪は2012年2月17日の95cmである。 真冬日は年平均1.2日と少なく、最低気温の平年値も関東地方の郊外都市部より高く約0℃で、積雪後北海道・東北地方のような恒常的な凍結状態にはならない。
夏は日本海を台風や低気圧が通過した際に著しいフェーン現象が発生し最高気温が37℃以上になることがあり、2000年7月31日には最低気温が30.1℃と、いわゆる超熱帯夜を記録している。年平均熱帯夜日数は6.4日。

隣接している自治体
富山県
射水市
砺波市
滑川市
南砺市
中新川郡:上市町、立山町、舟橋村
岐阜県
高山市
飛騨市
長野県
大町市

歴史
黎明の時期
富山市街地に相当する神通川下流域は、複合扇状地の恩恵により、大化の改新よりも前から、北陸道における農作地として存在していた。
神通川西岸には、古代氏族である射水臣氏が有力氏族としており、この射水臣氏は、国造である大河音足尼を出した伝統的氏族として知られる。呉羽山にある古墳群は、この射水臣氏の血統の祖であると考えられている。天平期においては、現在の富山市東部(上飯野から天正寺を経て西福沢の丸山に向かう一帯を基線とする)は東大寺の階墾田「大藪庄」と呼ばれていた。また、更に東部において、現在の滑川市を中心とした地域は「堀江荘」と呼ばれた。
平安期に入ると、新たに伊勢神宮領弘田御厨(富山市広田地区)、長講堂領新保御厨(富山市新保)、新熊野社領立山外宮(富山市太田若しくは吉岡)などの荘園が立荘された。
また、北陸道における駅として、磐瀬(富山市岩瀬)、水橋(富山市水橋)が配置されていた。そのうち水橋は、「枕草子」において「わたりは、しかすがのわたり、こりずまのわたり、水橋のわたり」として記されている。

荘園の拡大と御家人
律令制度において、貴族社会を根底から支える貴族私有地制度「荘園」は拡大し、白河・鳥羽・後白河の三代院政期において、さらに増加した。当時、実質院分国であった越中国において、藤原顕隆の勧修寺一族の遠戚である宮道氏が留守役として下向していた。
白河法皇が死去すると、在地において知行国として荘園を管理する体制が現れた。堀江荘は藤原顕隆一門(勧修寺氏)が、般若野荘・宮川荘を藤原公能一門(徳大寺氏)が、高野荘を藤原実行一門(三条氏)が支配した。勧修寺氏の留守役である宮道氏は堀江荘や太田保(富山市太田)を私領支配し、その分家筋である太田氏や蜷川氏の祖となった。その他の荘園も、同様に在地の私領支配へと移っていった。
源頼朝の知行である鎌倉時代になると、南部に広がる太田保が北陸道大将軍に任ぜられた幕府の御家人、北条朝時(名越)所領となった。これは、平氏の知行もなかなか受け入れず、木曾義仲に与し、源義経の逃亡路となったという、幕府にとって都合の悪い越中国の国人達を牽制したものである。その一方で堀江荘における宮道氏は荘園を安堵され、太田氏も太田保を除く開発領を安堵されており、在地の者に対する御家人への道を残している。
このころ、名越朝時の被官として後の新川郡守護代家である千葉一族椎名氏が入部し、在地に土着した。

鎌倉幕府の滅亡と守護大名の台頭
越中国守護北条朝時(名越)は、執権北条氏における有力庶流の血統であったため、北条氏嫡流の弾圧を受け続けた。そして、名越時有の代になると、六波羅探題が壊滅、在地武士の離反にあって最後は一族79人が放生津城にて割腹し、最期を遂げた。時近くして、鎌倉において、北条高時が自害、鎌倉幕府は滅亡した。
南北朝時代に入り、観応の擾乱で活躍した越中守護桃井直常は、太田保布市の興国寺周辺を拠点として反幕府運動を展開した。直常は一時幕府に帰順したこともあるが、斯波氏との対立により再び越中に下向して反抗した。桃井氏は長沢(富山市長沢)などで抗戦を繰り返したが、1371年(応安4年)に砺波郡五位荘の合戦後、直常は消息不明となり、斯波氏による越中掌握が進んだ。一方、神通川と常願寺川に挟まれた地域に広く拡大した太田保は、室町幕府管領細川家領となり、太田保北部に柳町(富山市柳町)などの町が誕生する。斯波氏と細川氏は幕府内で対立関係にあり、斯波氏が越中守護として桃井氏を没落させた後も細川氏は太田保を所領し続けたため、桃井氏の残党や国人は、太田保に逃げ込み、細川氏の庇護を受けた。この頃、太田保領内に富山郷が現れる。
1377年(永和3年)、越中国人の謀反が起き、守護斯波氏と合戦になった。その破れた越中国人を管領細川頼之は太田保で保護し、そこに斯波氏が攻め込むと言う事態に至った。激怒した細川頼之は代官篠本氏を派遣し斯波氏と対峙させ、事態は一触即発の状況となった。この状況が続き、やがて京における細川追い落としの動きが強まり、細川頼之は管領を罷免され、斯波義将が管領となった(康暦の政変)。ところが、細川氏は太田保を手放さずにいたため、ついに越中国守護は斯波氏から畠山基国に譲られる。以降160年にわたり、越中国の守護は最後の畠山稙長に至るまで、畠山氏の世襲となる。

分郡守護代の台頭
当時の越中は、新川郡を椎名氏が、射水郡・婦負郡を神保氏が、砺波郡を遊佐氏が「守護役」から発展した分郡守護代として被官していた。守護代の下には「又守護代」や「郡使」などと呼ばれた国人たちがいた。
越中守護畠山持国の跡目争いから生じた応仁の乱の際には、これら分郡守護代達は畠山政長の臣下として従軍した。なかでも神保長誠は政長自決の後、政長の立てた将軍足利義材を越中放生津に迎え、将軍公権を二分する幕府政権(越中公方)を構えるに至った。この際も、越中新川郡の椎名氏などを含む諸国の畠山守護代たちは足利義材の受け入れに協力し、義材が越中を離れるまで分郡守護代達の足並みは揃っていた。だが、要であった政長を失った畠山氏は各地の国人たちを束ねることができず、求心力を失った。越中においても各分郡守護代が力を増し、細川氏の庇護を受けた本願寺による一向一揆も力をつけるなど、歴史の幕は次なる権力闘争へと移っていった。

城下町の形成
富山城
戦国時代以降、婦負郡・射水郡分郡守護代であった神保長職によって太田保北端を流れる神通川の自然堤防上に富山城が築城され、城下町としての富山町が発展した。織田信長により越中平定を命ぜられた佐々成政が入城し、一向一揆や越後上杉氏との戦いの拠点となった。
当時、佐々成政によってなされた治水事業は河川の氾濫を制えて、以降の下流域全体の発展に至った。

江戸時代
江戸時代に入ると、南部に土方氏の布市藩が成立した。その後布市藩は能登に移封され、加賀藩初代藩主前田利長が富山城を隠居地とした。1609年(慶長14年)に富山城が焼失したため、利長は高岡へ移った(慶長富山火災)。なお、この火災で城下町のほとんどが焼失したとする説があるが、これは元禄年間に記された『三壺聞書』に由来する説であり、当時の史料によれば城は全焼したものの城下町は比較的軽微な被害であったとみられている[3]。
その後、利長養嗣子となった二代藩主前田利常が隠居する際、その子前田利次に越中54万石のうち婦負郡一円の地と富山を含む新川郡の一部10万石を分封し、富山藩が成立した。
この分封により、富山城下は富山町として現在の富山市中心市街区が整備され発展した。また、富山藩二代藩主前田正甫(利次の子)が製薬を推進したため、薬の製造と販売を一括して行った上にそれを顧客の自宅に配置するという特殊な業態を創造し、それを中心とした産業が発展した。
中世以来三津七湊の一つとして栄えた岩瀬地区では北前船などの日本海航路の拠点として発展した。

明治時代
1871年(明治4年)8月29日(旧暦7月14日)の廃藩置県により、富山藩領は富山県(旧県)となり、加賀藩領は金沢県(第一次)となった。同年12月31日(旧暦11月20日)に富山県は金沢県礪波郡・新川郡の編入と同時に新川県へ改名した。1873年(明治6年)9月6日には新川県の県庁が魚津から富山城址に移転した。1876年(明治9年)4月18日に新川県は石川県に編入されたが、1883年(明治16年)5月9日には石川県から新川県が分離され、富山県に改名された(現行の富山県の発足)。以来、富山は富山県の県庁所在地となった。
1889年(明治22年)4月1日の市制施行の後、臨海部を中心として機械工業や化学工業による工業化が進んでいた。1899年(明治32年)に官営鉄道北陸線(現:あいの風とやま鉄道線)が開通し、江戸時代から続く日本海航路の拠点である岩瀬港や、甲信越地方・東海地方とを結ぶ交通の要衝として発展していた。
岩瀬港周辺では廻船問屋が栄華を極め、特に大きな廻船問屋は馬場家、米田家、森家、畠山家、宮城家の五つの問屋であった。なかでも馬場家はその八代目の妻である馬場はるが旧制富山高等学校の設立に尽力し、現在の金額で総額160億円もの寄付を行い、富山市初の名誉市民となっている。
また、売薬業においても江戸時代から着々と積み重ね、大きく成長した薬問屋が隆盛していた。中でも荻原氏、中田氏、金岡氏、密田氏、松井氏などが特に大きな富山市在地の問屋として知られていた。彼等の中から、北陸銀行初代頭取である中田清兵衛や、北陸電力の前身となる富山電灯の創業者である金岡又左衞門が生まれている。

昭和時代
1928年(昭和3年)に、県施工の「富山都市計画事業」(運河・街路・土地区画整理事業の3本柱)が採用された。富山駅の北側と神通川河口の東岩瀬港とを直結する富岩運河により工業地帯を形成、116万立方メートルの運河開削土砂を得て、約117ヘクタールの旧河道(神通廃川地)を埋立て、新市街地を造ろうという一挙両得の計画であった。
1936年(昭和11年)には神通廃川地の埋立地で、日満産業大博覧会が開かれ、この時期に、富山県庁や富山電気ビルデイングなどの近代建築が建ち並び、富山市の都心部となるに到った。 現在、屋形舟や桜並木で市民の愛着を得ている松川や、宮本輝の小説『蛍川』や同名映画で有名ないたち川は、神通川の旧河道の痕跡である。
この開削埋め立て計画は 或る都市計画エンジニアの人生について にあるとおり、富山県の都市計画富山地方委員会技師、赤司貫一によるもので、白井芳樹(元富山県土木部長)が著した「都市 富山の礎を築く」〜 河川・橋梁・都市計画にかけた土木技術者の足跡 〜2009年技報堂出版や「昭和初期の富山都市圏における土木事業と三人の土木技師」(都市計画 55(4), 94, 2006年8月25日号)などに詳しく記されている。なお、都市計画地方委員会は、道府県ごとに設置され、赤司貫一は内務省から送りこまれた都市計画担当の技師である。赤司は十年間富山に勤め、立案から事業の概成まで、一貫してたずさわった。
第二次世界大戦の末期、1945年(昭和20年)8月2日の富山大空襲によって、死者2,275人を出し、市街地の99.5%が焼失する被害を受け、城下町としての入り組んだ町並みや面影は破壊された。

昭和(第二次大戦後)
1950年(昭和25年)、戦後の焼け野原になった富山市において都市計画が策定された。富山駅を中心とした放射状道路と碁盤目の直交した道路によって構成された近代都市計画が推し進められた。戦前から存在した港湾設備や重化学工業や機械工業の復興が行われ、高岡市、新湊市(現:射水市)などの臨海部を占める地区と一体となった工業地帯を形成した。更に工業の発展とともに需要の高まりを見せた電力供給のため、河口域には大規模な火力発電所が整備された。そうして富山市は高度経済成長期を駈け抜けた。
1955年頃から1970年代にかけ、イタイイタイ病が発生。これは、四大公害病の一つで、岐阜県の三井金属鉱業神岡事業所(神岡鉱山)による鉱山の製錬に伴う未処理廃水が神通川に流入、下流域である熊野、神明(旧富山市)、婦中(旧婦中町)で発症する人が現れた。

平成(旧富山市)
1996年(平成8年)4月1日、富山市(旧市)が中核市の指定を受ける。

平成(現富山市)
2005年(平成17年)4月1日、富山市(旧市)、上新川郡大沢野町、大山町、婦負郡八尾町、婦中町、山田村、細入村の7市町村が新設合併して、現在の富山市が発足した(平成の大合併)。新設合併のため、改めて中核市の指定を受ける。
2007年(平成19年)2月8日、富山市の中心市街地活性化基本計画が第1号として認定される。436ヘクタールが対象で、病院や介護施設、商店を中心部に集約し、高齢者らが次世代型路面電車などを核に、車に頼らず暮らせる環境づくりを進める計画。バス路線の支援事業やJR高山本線の増便事業、富山ライトレールなどの公共交通機関支援事業を実行している。
2007年(平成19年)3月25日午前9時42分ごろの、能登半島地震の地震で市内では新桜町・婦中町笹倉地区で震度5弱、石坂・八尾町福島・今泉・上二杉・花崎・山田湯・楡原地区で震度4を観測した。
2015年(平成27年)3月14日、北陸新幹線長野 - 金沢間が開業し、東京を始めとする首都圏・関東地方とのアクセスが飛躍的に向上した。
2016年(平成28年)5月15日・16日、第42回先進国首脳会議「伊勢志摩サミット」のG7富山環境大臣会合が富山市で開催された。G7及びEUの環境担当大臣や関係国際機関の大臣等が国際社会が直面する主要な環境問題に関する意見交換をするなど、「富山物質循環フレームワーク」が採択された。しかし、8月から9月にかけて市議会の自民党議員が偽造領収書を用いて政務活動費を不正に受領していたことが発覚した。民進党系議員の中からも不正行為者が判明し、9月20日現在で10人が議員辞職を表明している。

行政
政策
公共交通を活かしたコンパクトなまちづくり
郊外型、拡散型のまちづくりが進んだ結果、富山市は車での移動には便利であるが、車がないと大変不便な街になった。このように、人口・都市機能が市域全般に広がった状態では、道路の整備やごみの収集などの公共サービスのコストが増加する傾向がある。さらに、人口が減少し、三位一体の改革で国からの交付金や補助金が減少すると、社会の維持が難しくなる。
そこで、富山駅を中心に放射状に伸びる鉄軌道や幹線バス路線の各駅を拠点にまちの整備が進められている。このようにすることで、車がなくても便利で、さらに公共サービスのコストを抑えることができるとしている。そのため、次のような施策が行われている。
まちなか居住推進事業 - まちなかでの住宅取得費用や賃貸住宅の家賃への補助を行い、都市地区への人口回帰を促す。2006年(平成18年)、中心市街地の人口は増加に転じた。
富山ライトレールの開業 - 利用者の減少が深刻な問題となっていた富山港線を一部路面電車化して本数を増やし、またバスの周回時刻に合わせるなどして利便性を向上させた。
富山地方鉄道富山市内軌道線に環状線を新設することで、LRTの新型車両により富山駅周辺と中心商店街とを結んでいる。
高山本線(活性化)社会実験 - 運行本数を増やすとともに、各駅でフィーダーバスの運行や無料駐車場(パークアンドライド)を設置することで、利用者の増加を図る試み。
中心市街地活性化基本計画 - 人口減少・少子高齢社会に対応した、多様な都市機能がコンパクトに集積したまちを実現するために策定する。国の1号認定が下り、補助金を受けられることになった。
現在、20年後の都市の将来像を描くために、都市マスタープランを策定中で、市民の声を集めている。

行政機構
2007年(平成19年)4月1日現在の職員数は4,374人。2010年度までに4,311人以下に削減(2005年時点より5.1%の削減)することを進めている。同規模の都市と比べると市民1人当たりの職員数はまだ多い。現在、民間委託・民営化を進めたり、PFIの活用を行っている。地区センターでは、各種申請、書類の発行が行えるようになっている。(2006年11月25日現在)

経済
経済においても、富山市は富山県の中心地である。
富山経済は、廃藩置県後の明治期の富山県においてその基を築いた。代表的なものには、北陸最大にして地方銀行全国第二位の北陸銀行や、全国と比較して安価な水準の電力を供給する北陸電力の本店が富山市に所在し、富山県及び北陸の経済活動の基盤を形成している。
また、富山県の経済を側面から支えている「富山大学」は、富山市民や団体の寄付行為によって生まれた旧制富山高等学校や富山薬学専門学校の流れを汲んでいる。

農業・水産業
富山県は全国で最も農耕地における稲作率が高い県である。富山市郊外にも水田が広がる。
西部の呉羽地区では後述のナシ畑が広がっている。また、山間部の一部ではブドウの生産が行われている。
水産業は、海岸部西部の四方と東部の水橋に漁港がある。また、かつては神通川にマスが遡上しており、それによってできた名産が鱒寿司(ますのすし)である。

農業・水産業[編集]
富山県は全国で最も農耕地における稲作率が高い県である。富山市郊外にも水田が広がる。
西部の呉羽地区では後述のナシ畑が広がっている。また、山間部の一部ではブドウの生産が行われている。
水産業は、海岸部西部の四方と東部の水橋に漁港がある。また、かつては神通川にマスが遡上しており、それによってできた名産が鱒寿司(ますのすし)である。
名産品[編集]
農産物
ナシ(梨)
富山市の果実生産の97%(2,702t)を占めるナシは、富山市の全耕種出荷額の9%を担っている。また、県内出荷量の70%を占め、県内のナシ生産の中心である。全国の出荷量に対しては0.8%を占めている。
富山市では西部の呉羽・老田が産地であり、ここで採れるものは呉羽梨(くれはなし)と呼ばれている。隣接する射水市小杉・大門地域で作られるものも同様に、呉羽梨と呼ばれる。
呉羽の農業は、もともと稲作が中心であった。しかし、呉羽の多くを占める呉羽丘陵は水の便が悪く、日照りが続くと田が干上がってしまう土地柄だったため、1920年代からナシ作りがはじめられた。現在呉羽丘陵にはナシ畑が広がっている。
イチジク
南部の大沢野地域において盛んに生産されている。
ブドウ
西部の婦中地域の山間部で主に生産されている。観光ぶどう園が多く、ワインの醸造も行われている。南部の八尾地域黒瀬谷地区でも、わずかながら生産されている。

コシヒカリの生産が盛んに行われている。中でも市西部でとれる米は「八町米(はっちょうまい)」という名前でブランド化されている。
海産物
シラエビ(県内では主に「シロエビ」と呼称)
ホタルイカ
ブリ(寒ブリ)
バイ
ズワイガニ
菓子
鈴木亭 - 1877年(明治10年)創業。「杢目羊羹」は県木立山杉の年輪を模した富山の伝統銘菓。皇室献上羊羹。
月世界本舗 - 1897年(明治30年)創業。「銘菓 月世界」は、暁の空に浮かぶ淡い月影のイメージから名付けられた。
竹林堂本舗 - 1790年(寛政2年)、富山藩より拝命した「竹林堂」。富山饅頭の代名詞。
磯野屋 - イチジクを使った菓子を得意とする。2002年(平成14年)菓子博で外務大臣賞受賞。
ボン・リブラン - 富山県東部に起源を持つ菓子本舗。「富也萬」「甘金丹」などで知られる。
本鋪勝屋 - 銘菓「立山一万尺」

満寿泉(ますいずみ) - 桝田酒造店(東岩瀬町)
吟醸酒作りに早くから取り組んだ。1972年から鑑評会の金賞受賞の常連組。
風の盆 - 福鶴酒造(八尾町西町)
嘉永年間(約150年前)創業。全国新酒鑑評会では、1992年に初出品で金賞を受賞。
富美菊 - 富美菊酒造(百塚)
1916年(大正5年)創業。
おわら娘、風の盆恋歌、おわらの里 - 玉旭酒造(八尾町東町)
1808年(文化5年)創業。
よしのとも - 吉乃友酒造有限会社(婦中町下井沢)
1877年(明治10年)創業。
鷹泉 - 鷹泉酒造株式会社(上滝)
1926年(大正15年・昭和元年)創業。
三笑楽 - 三笑楽酒造株式会社(上梨)
1880年(明治13年)創業。
鱒寿司

富山駅の駅弁の調製元。「鱒寿司」を「ますのすし」の商品名で売り出したのはここが最初。
吉田屋
関野屋
川上鱒寿司店
青山総本舗
高芳
小林鱒寿し店(小林幸一)
味の笹義
大多屋鱒寿し店
高田屋
今井商店
工業[編集]
富山市は、日本海側屈指の工業都市である。
戦前より続く産業として、江戸期までさかのぼる事が出来る「くすりのとやま」に代表される製薬産業や、全国屈指の製造量を誇るベアリング等の工業機械製造業がある一方、昭和後期のエレクトロニクスやロボトロニクス関連産業の隆盛により、地域内で蓄積された先進的な微細加工技術によって精密工業製品や各種微細加工素材、精密自動車部品、高機能ロボットなどの製造業が台頭している。
これら工業の製造研究拠点としての発展を裏付けているものは、安価な電力供給と良質で豊富な工業用水を容易に得られる地理的条件、富山大学・富山県を中心とした産学官連携研究施設の充実、そして重要特定港湾「伏木富山港富山地区」や北陸自動車道、東海北陸自動車道等による太平洋側工業地域と環日本海側諸国への交通の利便性を兼ね備えた地域である事が挙げられる。

工場・事業所を置く企業
アステラス ファーマテック 富山技術センター(興人町):アステラス製薬グループの製造・研究拠点
シキボウ富山工場(西大沢)
富山化学工業富山事業所(下奥井)
日産化学工業富山工場(婦中町笹倉)
日本カーボン富山工場(高内)
日立国際電気富山工場(八尾町保内)
富士製薬工業富山工場・研究所(水橋辻ヶ堂)
富士薬品富山工場・富山第二工場(婦中町板倉)
保安サプライ富山工場(上赤江)
三菱ケミカル富山事業所(海岸通)
太平洋製綱富山製造所(下新日曹町)
昭和電工セラミックス富山工場(西宮町)

伝統工芸
越中和紙(八尾紙)
富山木象嵌
富山獅子頭
富山土人形
神通窯
富山ガラス工芸(富山市立富山ガラス造形研究所)

商業
旧来からの中心商業地は総曲輪(そうがわ)・西町(にしちょう)界隈である。しかしバブル期以後、富山駅周辺でマリエとやまや富山ステーションフロントCiCなど商業ビルの建設が相次ぎ、総曲輪・西町との客の食い合いが生じている。さらに後述する郊外型SC等の進出による打撃も大きく、年々総曲輪・西町のステータスは相対的に低下する傾向にある。総曲輪・西町では2006年3月に大手百貨店の西武富山店が撤退し、なおも求心力低下が危惧されているのに対し、駅周辺は新幹線が開通し、富山駅の高架化・区画整理事業が進行していることから今後も発展すると考えられる。
この状況を打開すべく、総曲輪・西町一帯では市のコンパクトシティ推進政策も相まって再開発計画が複数提案され、進行している。2007年9月に移転新築の百貨店の富山大和を核とした商業施設『総曲輪フェリオ』が開店した。富山大和旧店舗跡地(西町南地区)は、富山市立図書館、富山第一銀行本店、ガラス美術館が入居する複合ビル『TOYAMAキラリ』が2015年春に完成した。総曲輪西地区においては、シネマコンプレックスやホテルなどの複合商業ビル『ユウタウン総曲輪』が2016年6月に開業し、総曲輪・西町地区では約10年ぶりの大手配給映画館の復活となった。また、中央通りF地区や西町東南地区では、マンション主体の複合施設が完成している。それ以外では、旧富山西武跡一帯は、2018年度末を目途に商業施設・マンションで構成する再開発工事が進んでおり、西町・総曲輪北地区、中央通りD北街区おいても、複合施設とする再開発を検討中である。
中心商店街は総曲輪通り商店街と中央通り商店街である。この二つの商店街はアーケードで連続しており、二つを合わせたアーケードの長さは1kmにもおよび北陸最大の規模になる。反面、その長さゆえ集客効率が悪く、中央通り商店街の一部分でシャッター通りを生む一因となっている。
夜の歓楽街は桜木町である。北陸では、石川県金沢市片町地区に次ぐ集積となっている。
2000年、婦中地域(当時婦負郡婦中町)に大型のショッピングモール『フューチャーシティ・ファボーレ』がオープンした。また、市の環状道路である草島線及び国道359号沿いの新屋から婦中町速星にかけてはロードサイドショップの集積により一大商圏となっており、活況を呈している。そのため、中川原や掛尾・婦中大橋付近では、休日には大渋滞が発生する。


富山市内の、主なショッピングセンター、大型スーパーについては、以下の通りである。
フューチャーシティ・ファボーレ
総曲輪フェリオ
アピタ富山店
フェアモール富山(アピタ富山東店)
アピア
グリーンモール山室
ショッピングタウン北の森
大広田ショッピングセンター・ルミネス
マイ・プラザ
アリス・ショッピングセンター
マリエとやま
富山ステーションフロントCiC

主な企業[編集]
本社を置く上場企業
北陸電気工業(下大久保、東証1部上場)
コーセル(上赤江町、東証1部上場)
ほくほくフィナンシャルグループ(堤町通り、東証1部・札証上場):北陸銀行と北海道銀行の持株会社
北陸電力(牛島町、東証1部上場)
北陸電気工事(東田地方町、東証1部上場)
不二越(不二越本町、東証1部上場)
朝日印刷(大手町、東証2部上場)
日医工(総曲輪、東証1部上場)
ダイト(八日町、東証1部上場)
富山第一銀行(総曲輪、東証1部上場)
アイドママーケティングコミュニケーション(豊田町、東証1部上場)
田中精密工業(新庄本町、ジャスダック上場)
本社を置く非上場企業
インテック(牛島新町)
ウェルテクノ(興人町)
エーティーワークス(牛島新町)
大阪屋ショップ(赤田)
かね七(水橋畠等)
河上金物(館出町)
北日本物産(総曲輪)
グリーンステージ(二口町)
廣貫堂(梅沢町)
高志インテック(奥田町)
シー・エー・ピー(金屋)
セキノ興産(水橋開発)
大協薬品工業(水橋畠等)
大平洋ランダム(岩瀬赤田町)
武内プレス工業(上赤江町)
タケオカ自動車工芸(安養寺)
立山科学グループ
立山科学工業(大泉)
立山マシン(下番)
テイカ製薬(荒川)
とうざわ印刷工芸(神通本町)
東洋電子工業(向新庄町)
富山県流通センター(曙町)
富山スガキ(塚原)
富山電気ビルデイング(桜橋通り)
富山日産自動車(西新庄)
富山ファースト・ディーシー(掛尾町)
富山富士通(八尾町保内)
富山村田製作所(上野)
トンボ飲料(下赤江町)
内外薬品(三番町)
中田図書販売(大泉東町)
日産レンタリース富山(黒崎)
日本海ガス(城北町)
日本海石油(四方北窪字前島平均)
パートナー・クオリティースタッフ(布瀬町南)
阪神化成工業(小中)
北電技術コンサルタント(牛島町)
北陸エム・シー・オイル(丸の内)
北陸カード(新富町)
ホテルアルファーワン事業本社(上本町)
マンテンホテルグループ
マンテンホテル(本町)
大谷天然瓦斯(本町)
光岡自動車(掛尾町)
三菱ふそうバス製造(婦中町道場)
明文堂書店 富山本部(経堂)
山田写真製版所(太田口通り)
ヤングドライ(窪新町)
ユニゾーン(綾田町)
陽進堂(婦中町荻島)
リッチェル(水橋桜木)
菱北電子(晴海台)
梅かま(水橋肘崎)

支社・支店を置く企業
富国生命富山支社(桜橋通り)
日立製作所北陸支社(牛島町)
東芝北陸支社(神通本町1丁目)
関西電力北陸支社(東田地方1丁目)
古河電気工業北陸支店(牛島町)
神戸製鋼北陸支店(牛島町)
JFEスチール北陸支社(桜橋通り)
住友金属北陸支社(桜橋通り)
日新製鋼北陸支店(桜橋通り)
富士電機システムズ東日本支社北陸支店(桜橋通り)
前田建設工業北陸支店(牛島町)
三機工業北陸支店(総曲輪1丁目)
伊藤忠商事富山支店(牛島町)
三井物産北陸支店(桜橋通り)
三菱商事北陸支店(牛島新町)
三菱重工北陸支社(牛島町)
IHI北陸支社(桜橋通り)
フジクラ北陸支店(牛島町)
JFEエンジニアリング富山支店(桜橋通り)
電源開発北陸支社(桜橋通り)

教育
大学[編集]

富山大学杉谷キャンパス
国立
富山大学(旧富山大学、旧富山医科薬科大学、旧高岡短期大学)
私立
星槎大学 富山学習センター
桐朋学園大学院大学
富山国際大学

短期大学
富山短期大学

高等専門学校
富山高等専門学校(旧富山工業高等専門学校、旧富山商船高等専門学校)

高等学校
富山県立
富山県立呉羽高等学校
富山県立中央農業高等学校
富山県立富山高等学校
富山県立富山いずみ高等学校
富山県立富山工業高等学校
富山県立富山商業高等学校
富山県立富山中部高等学校
富山県立富山西高等学校
富山県立富山東高等学校
富山県立富山北部高等学校
富山県立富山南高等学校
富山県立水橋高等学校
富山県立八尾高等学校
富山県立雄峰高等学校
私立
富山第一高等学校
富山国際大学付属高等学校
不二越工業高等学校
龍谷富山高等学校
高朋高等学校
片山学園高等学校※中高併設
星槎国際高等学校富山学習センター




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社