天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史82

勝本浦郷土史82

少しているが、売値の高騰によって、数字的には保たれているのであろう。特に近年は、漁不漁の差が、個人別に大きく生じつつある事は、設備投資にも原因もあるが、魚種の減少特にブリの減少した事に左右され、憂慮すべき事には変わりはない。

第十一節 網漁業
羽魚網
 漁業には大きく分けて網漁法と、釣漁法に分類されようが、勝本漁民によって、昔より行われている網漁業には、羽魚網、イワシ網、サンマ網、アゴ網、磯立網等がある。羽魚漁は、明治の中頃まで、銛突法が行われていたが、明治三〇年、勝本の中上長平翁が、羽魚網を考案してより、各地に羽魚網が普及し、勝本でも盛漁年は、地元船二五隻、三見船二二隻を数えるに至った。勝本の二五隻の中、塩谷が十隻位で、他は漁民でない地元の有産階級の人達が、事業主であった。乗組員は一隻八、九人であった。羽魚網も、明治三五年頃から始まり、昭和十五年頃にはその姿を消してイワシ網に移行した。

イワシ網
 イワシ網は、明治の末期より操業を始め、相当水揚げがあり、盛漁期は、大正末期であった。船数も三〇隻位で、主として羽魚網漁業者であった。よく満船して入港していた。時にはイワシが網にかかり過ぎて網があがらず、網を捨てて帰る事もあった。獲れたイワシの処理は、ほとんど焚いて油を取り、締粕として、油は食料油に精製し、締粕は肥料に用いられた。
戦時中は人手不足で中断されたが、終戦後復活し、価格も鮮魚として出荷され、魚価もよくなったが、その後下降をたどり、昭和三五年頃には全く不漁となり、イワシ網も中止せざるを得なくなった。

サンマ網
 サンマ網が勝本に導入された年度は不明であるが、かなり古くより操業されていたようである。網の反数も三〇反から五〇反前後を投網していた。昭和となってから、網もナイロン時代となり、漁船も動力となり、船型も大きくなり、網数も一〇〇反以上を積み、増産へと移行したが、サンマが安くなり、採算合わず、イカ釣りに移行していった。イワシ網もサンマ網も塩谷が主体であった。

アゴ網
 勝本では飛魚の事をアゴと呼ぶ。アゴ網が勝本に導入された年代については、明治時代というだけで、年代は不明である。アゴ網は、夜張り、昼張り、引網の三様がある。導入されてから、長い間、夜張りを主体とした。
 戦後ナイロン網が普及されると共に、夜張りから昼張り操業となった。しかし、アゴの価格が安く、日本海方面にイカ釣り操業が盛んになり、イカ漁へと移行していった。

磯立網
 磯立網は全国至るところに、操業されている漁法である。勝本における本漁法も、早くより操業され、明治三〇年頃より一層盛んになっている。
 磯立網はあくまで地元地先権内にて、雑魚を対象とする許可漁業であり、年中操業され、他の漁業のように、漁不漁の変化が少なく、堅実な漁法である。現在勝本漁協で、漁業権を有している者は、沖建て十八隻、地建て十七隻である。地建は周年操業であるが、沖立は他の漁業の関係上、毎年三月より八月までと定められているが、日本海のイカ漁が盛んになり、沖立網は効率のよいイカ漁に転換して、今では、高年層による、地立専業となっている。こうした網漁業は昔より今日まで、ほとんど塩谷が主で、他の地区では行われていない。

第十二節 延縄
ブリ及びタイ漁業
 明治、大正時代の勝本の主要水産物であるブリは、延縄によって、多く水揚げされていた。しかし、ブリの延縄も、潮が小さくなると、魚の食いが悪くなる。そこで延縄船は潮時によって、タイの延縄に切り替えたりして、合理的な操業をしていた。昔は無動力船であっただけに、厳しい天候の支配を受けながら、船頭の優れた経験と勘によって、操業されたのである。
 タイの延縄は、ブリの延縄の船頭方が、同じ船、同じ乗組員によって、ほとんど操業していた。その頃、




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社