天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

勝本浦郷土史142

勝本浦郷土史142

 勝本町が他町村にさきがけて、体育娯楽、観光を兼ねてゴルフ場を計画したのは、昭和五六年であった。ゴルフ場は多くの土地を必要とする事から、土地の買収は容易でなかった。又建設について、運営についても、議会も慎重に検討し、先進地の視察等して研究し、五七年四月、土地の買収については町が行い、建設並びに運営については、第三セクター方式で進める事を確認した。
 五八年十月、株式会社壱岐カントリークラブが設立、六三年三月ゴルフ交流センター竣工、現在では十三ホールであるが、十八ホールとすることで、完成を目指して進められている。現在も順調に運営されている。

第五節 史跡(適所に記されているので簡明に記す)
武末城趾(勝本城)
 天正二〇年、約四〇〇年前、豊臣秀吉が朝鮮出兵に際し、急造した城で、大手門等の石跡が残り、当時を偲ぶ事ができる。

聖母宮
 仲衰天皇の代に、朝鮮出兵にまつわる、神功皇后を主神として、仲衰天皇、応仁天皇を祀る。勝本町の氏神として漁民、農民の信仰は深い。

新城神社
 元軍の来襲に際して、大軍を迎え防戦したが、衆寡敵せず。この地で一族と共に自刃した、当時の守護代、平景隆を祀る。

源蔵神社
 義人百姓源蔵が、当時の代官の悪政に義憤して、農民を救わんとして、将軍に直訴したが捕らえられて送還され、百間馬場で処刑された。百姓源蔵については内容が戯曲化されているので省略した。

朝鮮通信使迎接の地
 神皇寺は、朝鮮通信使の迎接地として、歴史的に有名なところであるが、現在では廃寺となって、昔の寺地もすべて民家となって、通信使の跡を偲ぶものは神皇寺の本尊阿弥陀堂の前面の通信使上陸の跡の神皇寺の渡頭と朝鮮通信使跡の標柱が残されている。

お茶屋々敷石塀
 四代土肥市兵衛は、大きな邸宅を建て、今に残る長さ一〇〇余米、高さ七米の大石塀を築いた。この石材は串山の北岸、口細より採石したものである。現在アホー塀といわれる程に無用化しているが、土肥鯨組の豪勢を知ることのできる貴重な史跡でもある。

鯨組土肥家の墓
 土肥鯨組は我が国における、鴻池、三井に次ぐ三大富豪といわれる程になったが、末裔奮わず、能満寺上大師堂の前に、大きな墓が数基こけむして、昔の土肥家の豪勢を残し、時代の変遷を偲ぶ事ができる。

河合曽良の墓 
 俳人芭蕉の十哲の一人河合曽良は、巡国使の随員として壱岐に渡り、病のため勝本中藤家にて没し、中藤家の墓地に曽良の墓がある。城山公園には「春にわれ乞食やめても筑紫かな」の句碑がある。その麓に「ゆきゆきて倒れ伏すとも萩の花」の句碑が新たに建立された。

掛木古墳
 壱岐の代表的な古墳史蹟であり、郡内にはこの種のものが多くある。頑丈な巨岩を積み重ねた岩窟である。玄室には石棺等があり、古墳時代の権力者の墓といわれている。自分達の子供の頃は鬼の岩屋と呼んでいた。

第六節 自然景観(適所に記しているので簡単に記す)
城山公園
 勝本浦の全景を眼下に見おろす、標高七八・九米のところに在り、前方に串山半島、名烏島、若宮島、辰の島の景観を眺め、その沖合遥かに遠く、対馬全島を雲霞の中に眺望し、眼を転ずれば勝本を半円に包む、周囲の連山を一望の中に眺望できる、景観の地である。

若宮島
 外敵警備のため、遠見番所と烽台を置いた所。千把の滝の展望台あり、若宮灯台及び海上自衛隊壱岐警備所がある。遠く対馬及び玄海灘の島々を眺める事のできる景勝の地である。

辰の島
 海の穏やかな遠浅の続くすぐれた海水浴場である。高さ五〇米の蛇ヶ谷断崖、上より下を見れば、足のすくみを感じ、足の震えがとまらない程である。天然記念物に指定されている、海浜植物群落は有名である。

勝本総合公園
 壱岐最大の治水ダム(一一〇万トン)がある。周辺は美化され、総合運動場、壱岐ゴルフ場に隣接し公園化され、神岳山金蔵寺の霊地でもある。

串山見る目浦
 串山見る目浦は、古代見る目の関と壱岐防衛のため、防人の置かれた歴史的なところとされている。又風土記に「世にも類なき佳景の地なり」と記される程の景勝の地でもある。遠くにかすかに玄海に浮かぶ筑紫の島及び対馬を眺望できる。

湯の本湾
 湾内に多くの島が点在して、自然の美を形成している。湾内は澄みきって青く、特に夕陽の眺めは絶景で、その美しさは溜め息が出る程である。壱岐ではただ一つの温泉地で、従って温泉旅館も多く、国民宿舎壱岐島荘がある。
 お湯を利用して老人ホーム、特養ホーム等の老人の憩いの場でもある。近年湯の本も温泉町として美化され、温泉、釣り等、観光に最適である。

第七節 宿泊施設
観光客壱岐での降客数(平成二年に調査したもので現在とは異なる)
 壱岐における観光客の数は、実数は把握し難い実状である。航路には海空路があるが、海路にしても乗客名簿に観光、私用、公用と書くようになっているが、実際には書く人は少ないので、実際の観光客の数を知る事は至難である。ホテル、旅館、民宿を調べる事はできるが、他の親類縁者の家に泊まる客も多く調査し難い。この統計では、大体における観光者の統計を記したものに過ぎない。実数は把握し難いが、多くの資料によって調査されたものであるから、実数に近いものと思われる。(観光を目的とした客数)

第二二章 勝本浦年中行事の今昔
第一節 概要
 勝本浦の年中行事の今と昔を思うと、終戦後僅かに五〇年間に大きく変わっている事に今昔の思いを感じる。年中行事には、お正月、お盆、お祭り行事の外に文化行事、体育行事、お節句、又国が定めた式祭日の諸行事、町村活性化のために行われる勝本いち、ペーロン、港祭り、花火大会等多くあるが、正月お祭りお盆お彼岸等の諸行事は、神仏に対する信仰心によって、長い間に培われてきたもので、お盆に迎え火を焚いて祖先を迎え賄う心、どんなに漁があっていても、沖止めして定められた祭りを行う敬神崇祖の美しい行事は、超近代化した今日といえども簡素化される事はあっても、因習として風化されることなく踏襲されている。日本の経済が大きく成長して、お互いの生活も豊かになった事もあって、冠婚葬祭の簡素化を叫びながらも、結婚式等は都会並みに派手になった面もあるが、正月やお節句お盆等は、合理化簡素化された面も多くある。その反面町の行事や、各民主団体の行事で、成人式、還暦祝い、町民運動会、マラソン、駅伝、身障老若人会の各運動会、文化行事、花火大会、勝本朝いち祭り等新しくくわえられたものも多くある。
 すべての行事は時代によって支配され、新しく生まれるものは生まれ、時代に受け入れられないものは、話し合いによって改善又は廃止されてゆくが、因習は一朝にして改められるものではないが、僅かの間に多く改めるべきものは改められている。茲では主に終戦後における、行事の変化を記したものである。今日の時代の人が全く知らない行事も、大正昭和の始め頃は多く行われていた。
 



 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社