天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

鹿児島県(霧島市)・鹿児島神宮

20160211鹿児島県(霧島市)・鹿児島神宮

次回、行こうと思ってたら看板が出てたので←方向音痴とも言う。

凄いね。

鹿児島って、薩摩って、九州って、そして日本って。

見るところ、いっぱいあるもんね。

だから、海外旅行に行きたいと思わない自分がいます。

死ぬまでにオランダには、一度、行ってみたいとは思ってる。

アムステルダム・アレナ(アリーナ)に。

安産、長寿、五穀豊穣の神社のようです。

基本情報
所在地:〒899-5116 鹿児島県霧島市隼人町内2496
電話:0995-42-0020

【Official Site】





























鹿児島神宮
鹿児島神宮(かごしまじんぐう)は、鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある神社。式内社(大社)、大隅国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
別名として大隅正八幡宮とも。

祭神
 主祭神
 ・天津日高彦穂々出見尊(山幸彦)
 ・豊玉比売命 - 天津日高彦穂々出見尊の后神
 相殿神
 ・帯中比子尊(仲哀天皇) - 八幡神を合祀した関係による
 ・息長帯比売命(神功皇后) - 同上
 ・品陀和気尊(応神天皇) - 同上
 ・中比売尊(仲姫命) - 応神天皇の皇后。同上
 ・太伯 - 句呉の祖。国内では唯一当社でのみ祀られる

歴史
創始は社伝によると「神武天皇の時に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮を神社としたもの」とされるが、不詳。当社の北西13kmの地点には、穗穗出見尊の御陵とされる高屋山陵がある。
欽明天皇の代に八幡神が垂迹したのもこの場所とされる。当社を正八幡と呼ぶのは『八幡愚童訓』に、「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女は七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたと言う。継体天皇の代のことであると言う。」との記載がある。 八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。
信頼できる史料での初出は、醍醐天皇の時に編纂された『延喜式神名帳』に「大隅国桑原郡 鹿児嶋神社」とあるもので、大社に列している。その高い社格から桑幡氏、税所氏などの有力国人をその神職より輩出した。平安時代に宇佐八幡が九州各地に別宮を作ったのに伴い、当社に八幡神が合祀されたともされている。それ以降、正八幡宮・大隅八幡宮・国分八幡宮などとも称される。
戦国時代から江戸時代には、地元の大名である島津氏の尊崇を受けた。
1874年(明治7年)に神宮号宣下及び近代社格制度において官幣中社に列し、1895年(明治28年)に官幣大社に昇格した。戦後は神社本庁の別表神社となった。

主な祭事
・初午祭 (はつうまさい、旧暦2月の初午の日に近い日曜日)
・御田植祭(おたうえさい、旧暦5月5日)

文化財
重要文化財(国指定)
・色々威胴丸 兜、大袖付 - 島津貴久奉納、東京国立博物館寄託
・色々威胴丸 兜、大袖付 - 島津貴久奉納、鹿児島県歴史資料センター黎明館寄託
・紺糸威鎧 兜、大袖付
・刀(無銘、伝 則重)
・刀(銘 相州住秋広 明徳三) - 明徳3年の作。鹿児島県歴史資料センター黎明館寄託
上記のうち刀2件は、第二次世界大戦後、進駐軍に接収され、所在不明となっていた。うち、秋広銘の刀はアメリカのオークションに出品されているのが発見され、2003年に神社が買い戻した。伝則重の刀は所在不明である。

鹿児島県指定有形文化財
・本殿、拝殿、勅使殿 - 島津重豪建立
・鹿児島神宮文書(『正八幡宮神官命婦職補任状』・『正八幡宮執印下文』・『酒井季時 正宮修理職補任状』・『酒井 為春正八幡宮修理所職補任状』)




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社