天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

二一、勝本の古い話・妖怪談

二一、勝本の古い話・妖怪談

 

名烏島のエベス様

昔、江戸時代に松尾右衛門なる人が平戸の殿様から名烏島を拝借した。そこで右衛門は半農、半漁を営んで生活をしていたという。たしか私が子どもの頃、名烏島の南側にイモ畑か麦畑があったことをおぼえている。右衛門は慶応年間に没したが、右衛門の子貞吉もまた島で生活をした。貞吉は、自分の仕事をするかたわら、海岸線を毎日見て回った。磯辺にはいろいろなものが流れ着いたが、特に時化(しけ)の後では多かった。

ある時化の翌朝見回っていると、水死体が漂着していた。ひとまず役所に届け出、調べが終わるとねんごろに葬ってやった。こんなことがあると必ずといってよいほど、お恵み(アテガイ)があった。

ある朝磯辺に、七人の死体が漂着しているではないか。いつものように手続きをすませ、葬ったのである。その後しばらくしてから、今度は七頭の鯨が磯に打ち上げられていた。家族だけでは処理することができず、風本浦(勝本)の人達の協力で切りさばき、本土に運搬し大金を得たという話である。

仲折の松尾芳雄さんは、貞吉の孫にあたる。松尾さんの門名を「島」という。先祖が島に居住していたから、誰いうことなく「島」なる呼称をつけたのであろう。

現在でも、水死体(エベスさん)を拾うと、「(しあわせ)がよい」といわれる。

 

エイの話

魚の中で、最大のものはなんだろうと、よく論議されるが、古老たちは、口を揃えたようにエイだと答える。

そこで、巨大なエイにまつわる実話二題を聞いたまま書いてみる。

明治か大正のはじめごろの話である。西村某なる人が、ある日オイオ曾根(十八立ちの東方)に漁に行った時のことである。錨を入れて漁をしていた時、突然船が動き出した。見れば何物かが錨綱を引っ張っている。方向は下沖へ(対馬の方)。西村さんはびっくり仰天、あまりの恐しさに呆然となった。しかし、どんなにあがいてもどうにもならない。しばらくは運を天に任かせていた。

ふと放心状態からさめてみると、まだ船は船首から海中にのみ込まれんばかりの状態でぐんぐん引っ張られている。せめて綱でも切れてくれればと念じてはみたが、それもだめである。現在の動力船であれば、どうなるか試してみようぐらいの余裕はでたかもしれない。ところが、当時は和船であるから、うっかり舵から手を離すとひっくり返りそうで動けない。

時間にしてどのくらい過ぎたのだろうか。突然綱が途中から切れて、船は止まった。西村さんは、九死に一生をえた思いで島影遙かな、対馬海峡より長時間かかって無事に帰港したのである。

この後、勝本浦はこの西村さんの体験談でもちきりだった。この犯人について、サメ(フカ)、海亀など意見続出したが、結局はエイの仕業ではなかろうかということになった。たぶん西村さんの錨が、エイの鼻穴にでもひっかかったのであろう。この異様なものに驚いたエイは、必死にはらいのけようと泳ぎ出したのかも知れない。幸いにして当時は綱が現在のように強靭でなかったのが、せめてもの救いだった。それにしても海中には、私たちの想像もつかぬ恐しい巨大な怪物がひそんでいるのかもしれない。

松尾某なる人が、神の前で舟磯をしていた時のことである。

アワビ、サザエ、魚突きなどの漁で、かなりの水揚げがあったので帰り仕度をしていた。しかしその日は、あまりにも海中がきれいなので、大小さまざまの魚の群に見とれていた。ところが磯辺より離れた仲江の砂底に、ぽっかりと大きな穴が二つあり、ヤズが出はいりしているのに気がついた。周辺は一面の砂底なのにと不思議に思った彼は、帰るのも忘れて見とれていた。よく見ると、二つの穴の周辺の砂底がやや盛り上っている。

しばらくしてヤズや小魚が穴の周辺から突然姿を消したと思うと、海底に大変化が起った。海底は今までの静寂を破り、砂を巻き上げ波がたちさわぎ、舟もガブリ出したのである。しかし肝っ玉の太い彼は、この真相を究明すべく目を離さなかった。そして砂塵の中を泳ぎ回る巨大なエイを見たのである。大きさは、畳三、四枚ぐらい、自分の舟以上に大きく感じたという。仲江のような浅い所にあんな巨大なエイが住んでいようとは夢にも思わなかった。海中は、ほんとうに未知の世界だと述懐された。

 

長四郎悲話

勝本浦湯田町の海岸通りに、近くの人々からねんごろに祭られている供養塔がある。この塔には「素光幻真童子」と長四郎の戒名が刻まれている。

今から一五〇年前といえば、封建制度がととのい、士農工商というきびしい身分制度がひかれていた時代である。武士は苗字・帯刀をゆるされ、他のものに対して絶対の権力をもち、いばっていたものである。浦の人々は、武士のいうことならどんな無理でもきかねばならない。逆に武士は、無礼なことをされるとかってに民衆を切り殺しても罪にはならない。まことに不合理な時代であった。

ある日のこと、城代家老の行列が本浦を重々しく通っていた。人々は、道のそばに土下座して行列の通りすぎるのをじっと待っていた。そこへ地命寺坂から釣竿を片手に走り下った七歳のいたいけな童子は、行列のくるのもわからぬままに、その先頭を横切ったのである。そのため家来達は、「おのれ不届な奴」と怒り騒ぎ童子の後を追いかけた。そのけんまくの恐しさに、童子は釣り場の瀬の端にうずくまったのである。そこへ追いついた家来は、無惨にも童子の首を切りその身体を海中へ蹴飛ばしたという。

浦の人々は、この非業の最期をとげた長四郎のために、沖の瀬に供養塔を建立し、毎年子ども角力などを催し、その霊をなぐさめてきた。

ところがその後、この塔にまつわる奇妙なできごとがおきた。それは勝本に人港してくる他所の船が、オモテの綱をかけるのに、この沖の瀬の供養塔を何も知らずに利用するのである。すると必ずといってよいほど、その船に事故が発生した。その都度、浦人は他所の人々にこの塔の悲話を説明した。そして他所の人々が綱をといて手厚く供養をすると、どうにか出港ができたというのである。

その沖の瀬も、やがて護岸工事で旧製氷所の一角となったため、現在地に供養塔を移転し、土地の人々の熱心な信心をうけている。

 

ものいう牛

この話は明治四〇年頃、実際にあった不思議な話である。戦後漁民の生活状態はすっかり変り、燃料も石油、ガスとなり、薪、炭などは使わなくなった。しかしそれ以前は、せっせとどの家でも薪用の枯木取りをしていた。遠くは赤土田付近まで出かけたし、小舟持ちは近くの島々(名鳥、若宮、辰の島)に取りに行ったものである。Mさんもその一人である。時々小舟を出して、夫婦で島に出かけた。ふだんは夫婦二人で行くのだが、その日は珍しく三人であった。そのひとりは、腕に入墨をしているいなせな若い衆であった。

辰の島人口(向って左側)に舟を繋ぎ、薪取りをはじめた。無我夢中で取り続け、しばらくしてふと気がつくと、大きな牛が自分達の近くをゆっくり回りはじめていた。辰の島に牛を放牧したことはなし、ましてこのような牛がいる話も聞いたことがない。Mさんは、何か無気味な思いがした。やがて牛は、若者のそばで静かに止まった。そして不思議なことに、この牛がしゃべりだしたのである。「自分はこの島に長く住むものである。なにもあなた達に危害を加えようと、出て来たのではない。お願いに来たのである。あの人達は、何時もこの場所に来て薪を取っている。けれどもあまり木を伐られると山が浅くなり、わたしの住む所がなくなってしまう。だからこれからは、あまり来ないようにしてほしい」

あまりにも不思議なできごとに三人は声も出ない。それからは、どうして小舟に乗ったのか、どのようにして港に帰ったのか、全く覚えていないという。我が家にたどりつくと、さっそく御神酒をもって金毘羅様のうしろから辰の島に向って祈った。「今後再び行きませんから、どうかかんにんしてください」と。

「今までにこんな奇妙で恐しいできごとはなく、それからは二度と島に行くこともなかった」とM老人は静かに語ってくれた。

 

中上長平さんの肝ったま

①百間馬場の話

百間馬場は、勝本と郷ノ浦をむすぶ国道のそばにある。昔は広い松林があり、馬場もあったことからこの名がついた。また近くには、死刑場もあった。『壱岐郷土史』には、「百姓源蔵の処刑此の年(文政三年)可須村百姓源蔵罪ありて百間馬場に斬らる。……」源蔵の死刑後は、怨念が残り、草木も生えないといわれるほど、淋しくて恐しい場所であった。

長平翁が若いころの胆力を物語るエピソードとして、百間馬場の話がある。ある日いつものように若者達が集り雑談をしていたが、たまたま、肝試しの話に移っていった。「少しぐらいの淋しさでは面白くない」と次第に話は発展し、ついに「刑場の生首を見てくる者はいないか」ということになった。しかし昼でも恐ろしい百間馬場の刑場に、しかも夜中、六キロの道のりを歩いてさらし首を見物に行く者は誰もいない。そこへ、名のりでたのが長平である。

やがて日暮れと共に長平は出かけた。「本当に行くのだろうか。昼でも淋しいところなのに。ひとつ見届けてやろう」そこで数人がそっとつけて行く事になった。見え隠れにつけて行ったところ、長平は、途中の茶店に寄って、何か買物をしている。やがて何か懐に入れて歩きはじめた。数十分後、百間馬場の刑場に着いた。しげみの陰からうかがうと、まっ暗な中で長平はしゃがみ込んでしばらく何かしているようすである。やがて立上り、手を合せおじぎをすると、スタスタと帰りはじめた。

長平が去ったあと、獄門台に行ってみると、さらし首にまんじゅうが供えられ、御丁寧にロにも一つくわえさせてあった。若者達は、これらのまんじゅうを取り捨て、急いで先に帰り、なにくわぬ顔をして待ち受けていた。帰って来た長平に「何か証拠を置いて来たか」と問うと、まんじゅうのことを話したので、翌日みんなで行くことになった。

さて翌日例の場所に行ってみると、証拠のまんじゅうなど何一つなかった。この有様に長平は驚くどころか、落ち着きはらい、やおらみんなにいったものである。「口の奥を見てごらん」みんなは不審の面もちであったが、首をおろし、口中を改めると、はたしてまんじゅうが一個入っていた。長平は、はじめからみんなの魂胆がわかっていたので、意表をついて口中にわざわざ入れていたのだという。暗夜にひとり、淋しいところでこの肝の太さと、すぐれた洞察力には、一同恐れ入って声も出なかったという。

 

②エベッサンの話

漁村では海難者を埋めて、エビス神とすることが多い。勝本の方言で、水死体を「エベッサン」と呼ぶ。これを見つけてひそかに葬ってやれば、漁の成績がよくなり「シアワセが良い」といっている。

明治二年のことである。イカ引きに出漁した中上長平は、御手洗(みたらい)湾の勝手口(かってんくち)で、六つの水死体を見つけた。度胸のある長平もさすがに六人というエベッサンの数には驚いた。だが見過せない。ところが生簀(いけす)のセコがじゃまになって、積むことができない。セコをこわす道具もない。「ヨーシ、一度うちへ帰って道具をとってこう」そこで水死体にむかって、

「エベッサン!このままでは、おしたちを乗せられんけん、道具ば取りにいっぺんうちへもどっちまた来るけん、そけちょっと待っちょかんせ」と言いおえて、急いで海上をひきかえした。家に帰った長平は、道具をとりそろえると、兄にエベッサンの話をした。

「ちょっと手伝ってくれ」

「俺はそんな恐ろしか仕事は、しいきらんばい」といった兄は、姿をかくしてしまった。

長平が再び現場にもどってみると、六人のエベッサンは言いつけどおり、流れもせずもとの場所に浮いていた。長平は、うつぶせの死体の顔を一人ずつ確かめた。その顔には、「長平さんよくもどってきてくれた」と言いたげなほほえみが感じられた。さっそく、生簀のセコを切りとって、一人一人を船のトリカジ側から、「軽うならんせ」と言いながら引きあげた。

それから、博多瀬戸の小串までいき、六人を手厚く埋葬し終わった頃には、すでに東の空が明るくなりかけていた。長平三十歳の血気盛んな頃の話である。現在、串山半島の北側に、自然石でねんごろに祀られた六人の墓がある。

 

無縁墓

海難のために死亡した身元不明人を、無縁仏またはエベッサンと呼んでいた。和船時代には、海の事故が多かったのであろう。今日までいろいろな言い伝えがある。

当時の漁民は、エベッサンを日にあててはいけない。大勢の人目にさらしてもいけないといわれていた。沖で拾えば、船頭の着物を上にかけたといわれ、岸で見つければ、できる限り小人数で埋葬したそうである。

人知れず内密に葬ることは、エベッサンに対する最大の供養であり、海に生きる漁民の勤めでもある。そうすることによって、海上安全や漁について「おかげ」があると、信じられていたのである。反対に、見つけたエベッサンを拾わずに見捨てたりしたら大変なことで、ひどい災禍におそわれることを覚悟しなければならなかった。

人知れず埋葬するということは、身元の確認ができず、故郷では困ったであろうが、音信、交通の全く不便な頃であってみれば、是非もないことであろう。それに信仰上の理由も大きかったと思われる。死人を日にあてないということは、今日の念仏講でもいわれ、古墓から出てきた遺骨は絶対に日にあてないよう努める。

勝本に無縁仏をまつるお墓の数は多い。長い年月の間にお墓の整理も行われたらしく、まとめてあるところも見かける。このようなお墓は、いつも新しい草花や水、お菓子などが供えてある。みんなが墓まいりの途次、必ずこのようなお墓に参り、冥福を祈る習慣がある。

また、海からあがらない無縁仏の供養が、盆の一七日に行われている。供養の行われない以前では、いろいろと海での怪しいできごとがあったといわれるが、供養するようになってから止んだという。現在では海難事故の人などあまり見かけなくなったが、見つけると早速関係すじに届け出るこというまでもない。

 

海の不思議

この話は、大正一〇年に民俗学者の折口信夫氏が来島され、採話されたものである。そして昭和四年「壱岐民間伝承探訪記」に発表されたものの一部である。

「この島の船頭(かた)(清音)は、盆と大晦日とには、船は出さぬ。たびから来た人などは、盆の十三・四の二日には出す事があっても、それさえ、十五・六の二日には、一艘も出なくなる。そういう間は、浜に在る石を、いしゃげ(石上げ)でもしているくらいのものである。十五日の晩は、戻りの晩と言う。この晩に船を出そうものなら、それは、不思議な事がある。柄朽(ひしゃく)をくれと言うもののあるのも、この晩と大晦日の夜と、二晩にある事である。盆の船幽霊は、ほっこくゆうれぇと言うのだ、と言う人もある。確かに、烏賊(いか)約上(つら)げたのに、はな槌をすくうたり、かしをすくうていたなど言う話もある。

しきゆうれぇ(本居では、しゅぎきゆうれぇ)と言うものに、出会う事がある。旧師走の二十九日の夜などに、船を出すと、よくある事なのである。ただの晩でも、雨などの夜には、これつく事がある。単に、しきとも言う。

水層の波動が、一部分だけ色あいを変えてくるので、ある処だけが、白っぽく見える。これに会うと、舟にぴったりひっついて動くために、そこらが白くなる。そうかと思うと、舟の下を通る。両側もまっ白になる。何とも言えぬ妙な臭いがする。舟の中も明るくなる程である。やや暫くの間これを漕ぎぬける事は出来ぬ。湯の元の坂谷嘉助と言う人の経験では、二十分位は続くと言う。年よりなどはたびたび出会うので、馴れているが、若い者などは、非常に恐れて仕方がない。それで、去年も困った事だ、と本居のりょうしは言うた。海の中で死んだ人のする事であろう。しきがつくと、らんぷをつけると消える、と言うた人もある。そうでもせなければ、しきがつくと、魚がとれないのである。これは、しきゆうれぇと言うてよいのか、何とも知れぬが、やはり師走二十九日の晩に、よくある事で、わけのわからぬものが、(ふか)のごとあるふうになり、(さば)のようになったりして、表にきり廻り、(とも)に廻りする。

もっとも、これに似た物で、対州に行くと、せぼうと言う魚のようなものがいる。形は、海豚(いるか)と違わぬように見える。今はいる事を聞かぬが、十四、五年・二十年前にはいた。賀谷(がや)湾などにあった事である。おろしてあるりょう船の(いかり)を、頭に載せて、舟を沖の方へそびいて行く。これをあいてにするとわるいから、何ともせぬ事にしてあった。

対州では又、何とも知れぬ物が来て、舷に頭を乗せて、船にのり上がろうとする。一度、こんな話がある。人の乗っていぬ舟が、沖中あったので、あれは、それにやられたに違いないとて、ある剛気な男が、「今夜は、おれあの舟の処に(かか)ろう」と行ってかかっていると、果たして出て、どうにもならぬので、船を戻すと、表に行けば表に来、艫に行けばどうに来る。やっとの事で還ったが、これは(かわ)(うそ)のする事だろうという。

又、幽霊ぶねが出てまよわす。舟の近くを、あかしを焚いて、わいわい通り過ぎる舟があるから、ものを言いかけても応えない。この舟について行くと、瀬にのりかけて船をわるのである。

何百年経たへんみい墓と言うのが、湯の元の辺にある。その中から、あかりを焚いて舟の出る事がある。それが出ると、その晩か次の晩には、しけが来る」(原文の歴史的仮名づかいは現代仮名づかいに改めた)

 

色幽靈

今日では、そんな馬鹿げた話があるものかと一笑にふされそうだが、昔の人に聞けばいろいろと不思議な話が多かったようである。現在でこそ亡者に出会うなどということは、殆どないが、昔は亡者に沖で出会った人は数知れないという。

ある体験者の話を紹介しよう。四五年ほど前、彼が二五歳ぐらいだった時だという。五島青方の手前で青砂という所に、発動機船で兄弟でチャーターに行った時のことである。旧盆前で、海は鏡のようで俗にいう髪の毛も動かぬよい凪で、その上どんより曇ったムシ暑い夜であった。

彼は、なにげなく機関室の前で海上を眺めていた。すると、瀬に一番近い所を通過しようとした際、風ひとつないのに船首(オモテ)の方から、とても冷たい風を左ほほに感じたのだった。それと同時に海の上を船首の方から船尾にかけて、青白いものが、ザァーと小音をたてて通り抜けた。次の瞬間大きな声で「馬鹿野郎中に入れ」と怒鳴ったのは、ブリッジで舵をとっていた兄であった。彼はびっくりして機関室に飛び込んだ。兄はこの現象を、魔ものであると悟ったのだった。彼は機関室のホイルの側で身振いが止まらず、夜明けを一日千秋の想いで待った。東の空もしらみ、やっと目的地の港にたどりついた時は、生きかえった心地がしたという。

この様子を浜で船団長に話したところ、色幽霊の出た地点は、以前一度に五〇人ぐらいの遭難者が出たところで、その場所を通った船は、必ず色幽霊に出会うということであった。四五年後の今日に至っても時々あの時のことを想い浮べ、身の毛がよだつ思いであると語った。

 

船幽靈

昭和二三年秋、場所は玄界灘、対馬下県郡黒島沖で船幽霊に会った人の話を紹介する。

九月に入ると勝本の漁師が首を長くして待ちわびるのが、対馬よりの二番イカの便りである。イカきたるの朗報に喜びいさんで、対馬に向け出港したのである。出漁の当日は、午後一〇時頃より雨がポツリポツリ降り出す空模様であった。

当時は発電機はなくバッテリーで、静かな操業であった。

夜も次第に更けた頃、Mさんはイカとりの合間にふと機関長の方を振りむいた。機関長は、しきりに前方の海面を注視しているのである。魚か何か浮いているのではないかとMさんもその方向を眺めると、一隻の船が浮いている。機関長が大声で呼びかけても答えはない。この船はただぼーと、淡白く浮かんでいるだけであった。Mさん達の船と並んだかと思うと、じわりじわり後退して見えなくなり、しばらくするとまた並ぶという具合であった。不思議なことは次々と起るものである。夜明けが近づくに従い、雨は激しさ増し、イカは海面に真白く浮きあがってはげしく釣れだした(港に帰ってから聞いたのだが、他の船では雨はあまり強くなく、特別にイカも獲れなかったという。結局Mさん達だけの現象のようであった)。しかし、あれだけ釣れていたイカが一瞬の間にぴたりと獲れなくなった。海面はぬぐい去ったようになり、ハッとして我に帰り、前方を見ると船影はないのである。Mさん達は、複雑な思いで港に帰ったというのである。

しかし不思議なことは、そのあとも続いたのである。船は港に入る際に故障をおこし、そのあと二日間、全く漁ができなくなってしまったのである。そして帰勝後の秋の夜釣り(ブリ)にも漁が全くなく、あまりの不幸続きに数軒の法人(ほうにん)、お稲荷さんに参りお尋ねしたのだった。「何か海で拾ったでしょう、その拾いものに遭難した七人の霊がとりついている。それで行くところに行けずにさまよっている。至急にこれこれの方法でお祀りしなさい。そのまままにしていると、まだ災難が続きます」とのお告げがあった。いわれる通りお寺の和尚に事の次第を話して、供養したのであった。お祓いしてからは人並以上に漁があり、特に正月前の大事な時期に大漁し、すばらしい正月をむかえることができたのである。後で船主の語るところでは、古船の時に出漁中機帆船のブリッジと思われるものを拾って、あまり古くなかったので新しい船の切板(きりばん)すわり座等に使用したとのことであった。

海上では、思いもよらぬ不思議なことがおこるようである。今でもあの時のことを思い出すたびに、ゾーッとした思いにとりつかれるとMさんは語った。

 

無縁供養

無縁供養は、盆の一七日に行われる。無縁供養の起源については、九〇歳ぐらいの老人に尋ねても、自分達が物心がついた頃には、すでに行われていたという。だから相当古くから実施されていたものと思われる。

大正時代までは、本浦信者講と正村信者講が、東部西部を代表して、一年交代で無縁供養を行なっていた。しかし西部の正村信者講は旧講(紣谷組)新講(川上組)に別れたので、西部ではこの新旧二講が四年毎に当番となって、無縁供養を行なっている。

無縁供養とは、海陸遭難の有縁無縁の死者の霊を祀り、その冥福を祈り、併せて漁民の海上安全を祈願する供養である。文明が今日程進んでいなかった昔の人々は、少しでも変わった現象にあえば、海坊主だとか、色幽霊とかいっていた。これは死者の霊が成仏できずに、迷っているのだと考えていた。昭和のはじめごろ、盆の一六日にイカとりに行くと花筒(墓前に供える竹筒)ばかりとれるぞと、冗談まじりの話を聞いたものである。無縁供養をするようになってからは、不思議な事が少なくなったと古老達は話している。

無縁供養は、まず六人の坊さんによる「タンブツ」法要がある。この法要が終わると、信者による「じゅんれいもうし」という、勝本独特の読経が鐘の音とともに延々二時間も続くのである。供養の場所は海辺に設けられるのが通例で、最近東部は本部荷捌所、西部は弁天か第二集荷所で行われている。

昔は勝本漁民年間の沖止めといえば、正月一七日の観音さまと、この無縁供養と、一〇月一五日の漁祭りだけであった。こうした事を考えるとかなり重要な行事であったらしい。漁協でも昭和三〇年ごろから無縁供養行事に対し、補助金を出している。

また、浦の無縁供養とは別に、町内毎の念仏供養が毎年行なわれていた。最近では数か町で、盆の十六日に供養を行なっているが、これも無縁供養という。ただしこの供養には坊さんによる(タンブツ)法要はなく、地区の老人達によるささやかな念仏供養である。

 

灘の浜(天が原海岸)に大くじら

大正七年の春も近づいてくる霜月(旧一一月)の或る日のことであった。勝本浦の漁船(和船)は、前夜獲れたサンマを餌に用いて、灘の浜沖合十八立ち周辺を漁場としての、ブリ漕繩(こぎのう)操業に出漁した。

当時一七歳の三郎少年も、父(中上克三郎屋号和田屋)を船頭として乗組員六名の四丁()で博多瀬戸を漕ぎ出していた。ふと進行方向に目を向けると、先に出港した舟が一斉に灘の浜に向って突進している。直感的に「何事か起きた」ということで、三郎少年の乗る舟も急ピッチで後につづいた。

目をこらしてよく見ると、灘の浜中央部に小山のようなものが見えた。刻一刻近づくと、それは背だけを水面に出した大くじらである。そしてあたり一面は血の海であった。少し沖の方には、タカマツ(シャチ)が群をなしているのが見える。海のギャングとまでいわれている大シャチの大群に襲撃され、巨体をあっちこっちを喰いちぎられ、逃げ場を失った大くじらが灘の浜に乗り上ったのだった。

これを発見した勝本漁船は、早い者勝ちで、くじらの背に舟を乗り上げるように着けた。海面に露出している部分に、各船携行している銛を(当時テントウ舟は大小二丁の銛を常に積んでいた)くじらの背に突き立て、手に手に刃物を持って鯨さばき(解体)が始まった。

舟はみるみるうちに約三〇隻程集まった。小さい和船とはいえ、集まってきた舟が蟻が蜜に集まるようにしても、くじらの頭の方は海中にあったという。長さがどれほどあったのかわからないが大きなくじらだったと、推察される。

当時、津々浦々では、くじら一頭上がれば(獲れたら)七浦うるおす、といわれた程の巨体で、其の肉、油と用途は広かった。その上、長期保存のできる海の幸で、しび四〇日、くじら九〇日といわれ、くじらは最も長期保存のできる獲物として、氷もない冷凍設備もないこの時代は、特に珍重されたのは当然のことであった。

大くじらは最初、頭の方をシケン(たき)の方向にむけて、巨体の背だけを水面に露出して横たわっていた。勝本漁船はその背にむらがり、稀にめぐり合った福の神の訪れに、正に欣喜雀躍(きんきじゃくやく)無我夢中であった。

そうするうちに、大くじらの頭の方が赤瀬の方に向きを変え、しばらくすると、少しずつ沖へと向きが変わり、次には巨体が動きはじめた。誰叫ぶとなく、「くじらが動き出したぞー」とけたたましい声がする。一同は我先にと、自分の船に逃げるように乗り移った。各船が打ち立てた銛は、立繩(たてのう)をつけたまま、しばらくは引かれるかたちとなり、くじらが海面からかくれる頃は、各船の銛はあっけなく抜けてしまった。くじらは消え去り、残された漁船団は、只夢のような出来事に呆然として瞬時は魂が抜けたようだったという。

シャチに喰いちぎられた肉片を拾った舟もいたが、和船の生間(いけま)(魚を生かすところ)には、くじらの肉が各船いっぱいだったという。このことからしても、いかに大きなくじらであったかがわかる。時の長老達は、このくじらを白長須くじらだと話していたという。又一旦逃げ場を失い、灘の浜に乗り上ったくじらが、人間に背中を切り取られ、苦しまぎれに最後の力をふりしぼり離礁した。このことはまさに断末魔のあがきであったのであろう。

しかしこの大くじらも一夜明けて、タナエ(八幡左京鼻のあるところ)の海岸に息絶えて打ち寄せられたというから、最大の福の神を迎えたのは、八幡浦一帯の人々であった。前日くじらの背の一部だけを頂戴した勝本漁民は、この便りを耳にして、口惜しさに地団太(じだんだ)踏んだというが、無理もないことである。

今日では、捕鯨法云々、拾得罪云々と法律に抵触する、ややこしい問題も起きてくるかもしれぬ。しかし当時としては、海岸に打ち寄せた獲物については、早く発見した者勝ちで、さして法の拘束を受けないのが習わしであった。

当時紅顔の中上三郎少年(明治三五年生)は、其の後中村三郎翁となり、新町に住まわれ、現在七八歳かくしゃくとして尚健在である。翁の想い出深い話の中で、くじらの背中は足が滑ってなかなか登れなかったこと。当時のテントウ舟には、藁で作った草履が積んであり、その草履をはいて滑らないようにと銛を杖がわりにして登ったこと。しかし、くじらの背中の上での作業は、なかなか困難を極めたということである。

大正九年、勝本浦にはじめて焼玉エンジンを取りつけた動力船が誕生した。それ以前は海上を静かに走る和船のみで、漁船の数も少なく対馬海峡は、くじらにとって棲息しやすい場所であったのであろう。約四十年位前までは、巨体を浮上して潮を吹きながら、ゆうゆうと冰いでゆくくじらの雄姿を、時として見ることができたということである。

(中村三郎翁 回想談より)




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社