天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

勝本浦郷土史4

勝本浦郷土史4
 

第二六章 勝本の灯台・・・・・・・・・・677
第一節  概要
     航路標識の種類、若宮灯台、勝本港西防波堤灯台(こしき瀬防波堤)、勝本港辰の島灯台、手長島灯台
第二節  導灯
     勝本港第一号導灯(前灯後灯)、勝本港第二号導灯(前灯後灯)
第三節  照射灯
     鞍馬滝鼻の亀瀬照射灯
第四節  女の一念灯台を改善す大野二三四女史
第二七章 壱岐の風水害・・・・・・・・・・687
第一節  概要
第二節  風水害史年表
第三節  風水害による被害状況
     永仁の大地震、文禄の大地震、文政の台風、明治三八年突風被害、明治三八年の大津波災害、大正六年の大洪水、大正十年九月の大洪水、昭和初年頃の波浪、ルース台風、昭和四〇年の突風災害、昭和五三年台風十八号壱岐を直撃、昭和六一年台風十三号の被害、昭和六二年台風十二号の被害、平成三年の豪雨災害、平成三年台風十九号の被害
第二八章 勝本浦部戦没者・・・・・・・・・・701
     勝本浦部戦没者名簿
第二九章 人物伝・・・・・・・・・・707
第一節  概要
     原田元右衛門(二代)、中上長平、志賀照林、原田卯八郎、松尾万吉、本土徳衛、深水貞吉、吉田覺太郎、斉藤政平、土肥恵三、未松眞人、山本隆夫、原田薫
第三〇章 勝本町主要年表・・・・・・・・・・723
あとがき・・・・・・・・・・797

第一章 古代、中世の壱岐
第一節 壱岐の地層
 宇宙は今より約一五〇億年前に創造されたといわれているが、壱岐の島はいつ頃からどんな地変が起きて、今日のような形態になったか、知る由もない事ではあるが、地表や地下の層によって、大体の事は地質学によって推定できるようである。推定では数億年前、今日の壱岐は海の底であったともいわれ、その後想像もできない地核の変動によって、大陸と陸続きになったり離れたりして、今日に至っているといわれている。今日でも世界は接近したり、遠退いたりして常に動いている事は、多くの学者の定説となっている。
 又地球の全体の温度が上がって、海水にも又環境にも変動が起こりつつある事も、学者も警告をし、各国もそれに対応しようとしている。
 勝本町史には壱岐の島を構成している層は、第三紀古層であって、第三紀新層と生成時代をほとんど同じくする、玄武岩が数回噴出して殆ど全島を覆っており、湯の本附近にはこの玄武岩中に、噴出した石英粗粒面が随所に見られ、これが脈岩をなしている。その方向はいまだに調査不十分であるが、南方方向に近いものとされている。
 勝本町の地質についてその概要を述べると、第三紀(漸新世ー中新世)の勝本層を基盤として、その上に安山岩質乃至、玄武岩質溶岩類の火山岩に広く覆われていると記されている。
 玄武岩層は少なくとも十層が認められ、三百万年前から数万年までに、大規模な火山活動があった事が認められている。
 壱岐は白山火山脈層である、最後の火山活動が、壱岐の現在の地形となり、表土となっているのであろう。それとも壱岐の随所に時を隔てて、小さな火山活動があったのであろうか、こうした地層については自分等の多く及ばないところである。

勝本層
 壱岐の地層に勝本層と呼ばれる層がある。勝本層は三千万年前頃堆積して出来た層とされ、これが壱岐島の基盤をなす層で、砂岩、頁岩およびその互層からなっている。黒崎ー筒城を結ぶ北西ー南東線によく見られ、勝本町では勝本港周辺、名(な)烏(がらす)島(とう)、若宮島、辰の島北部海岸一帯、湯の本港沿岸にも多く露出しており、美しい又険しい海食崖を形成している。勝本浦周辺では城山公園の入口北側の断層や、串山入口にも広く横臥摺層が観察され、保育園下道路南側にも一部が見られる崩れ易い層である、以前役場附近の山を掘り割って、道路としたもので、今でも堀切りと一般では呼称されている。この層が西に傾いているために、掘切られた道路の西側は、完全に残されて露出しているが、東側は崩れてその表土は海に流され、文化会館を含めて大内商店間は、人でも登れる位に傾斜して崩れ取られ、範囲に地層の表岩を手にとって見ることができたのは、まだ記憶に新しい事である。
 こうしてみると、壱岐は三千万年前に考古学上、壱岐の島が已に存在していたのである。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社