天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

勝本浦郷土史16

勝本浦郷土史16

 

勝本における迎接
 朝鮮通信使は慶長十二年(一六〇七)より、明和元年(一七六四)まで一五七年の間に、十一回勝本に寄宿している。香椎村郷土史、勝本郷土史、壱岐郷土史、勝本漁業史共に、四回の通信使の来島を記しているが、壱岐国史には七回、勝本町史にはその後の研究によって欠落を補い、十一回の来島が詳しく記されている。対馬島史には対馬における、易地聘礼と共に十二回が記されている。勝本港は往時自然の良港ではあったが、西及北風には弱く、必ずしも完璧な良港とは言えなかった。しかし西部の正村湾は可須と称し、勝本では最もよい船付場であった。そのため松浦藩主は、壱岐城代に命じて、最も安全な正村湾を埋め立て、造成して通信使の館を造ったのであるが、当初から信使の迎泊館を建造したものでなく、始めは龍宮寺の寺領二五〇坪内に、迎接館が建てられていたのであろう。壱岐国史に(必要なところだけを抜粋して記す)
 慶長十二年(一六〇七)到泊壱岐島風本浦とあり、元和三年(一六一七)には、申未則到一岐島風本浦、館舎之傍、有聖母祠、其里名、聖母坊云々、必是古跡、而無人知者、館舎の傍に聖母神社があって、聖母坊云々とあるのは、おもうに、神仏合体の頃であって、お寺の僧侶が神社を司っていた頃もあったから、聖母坊と謂ったのであろうか。
 第三回目の寛永元年(一六二四)には、到泊一岐島之風本浦、即下館龍宮寺、寺前一古廟、名曰聖母祠、聖母即山神名也、島人頗山宗信祈祷云、周辺村落五〇余とあり、龍宮寺とは神皇寺と名称する以前の寺名である。
 明治の初年まで正村に神皇寺があった(本書寺社の章神皇寺参照)
 龍宮寺の前には一古廟とは、朝鮮中国では寺堂を廟と呼んでいた。兹では聖母神社といって、壱岐島民の信仰の深い神社である。周囲の村落は五〇余とあるが、当時勝本浦が五〇余戸とは少なすぎる、正村湾だけであろうか。
寛永二〇年(一六四三)第五回には、日落後一岐島風本浦、浦内人家、五、六〇戸、新創一大舎、以為使臣所館とある。この年巳に使臣宿舎として、一大館舎が造られた事が記されている。
 九回目の享保四年(一七一九)の海游録には、七月十九日此一岐州風本浦矣、一岐州迎護船又百余隻、艘堅一旗、旗以青黄紅三色、(中略)風本浦一名勝本、(兹で始めて勝本の字句が登場する事に注意)
 在一岐島之西一偶、所以言壱岐、称浦風本云、(中略)為使行築館、千山下結構百余間、(中略)制造精巧、三使行上下諸人所居、皆一架之内とある。通信使を迎えてくれる船は、百余隻にも及び、皆船には旗を立てている、旗は青黄赤の三色である。風本浦という所で一名勝本ともいう。壱岐の島の一隅で所をいえば壱岐、浦でいう場合は風本浦という。山の下には結構な百余間の精巧な家を造り、三使臣上下みんないる所である。ここで全員皆一緒に宿泊した事が記されている。特に四回目は新館造百余間とあり、五回目にも新大舎創立とあるから、第四回の寛永十三年(一六三六)には、神皇寺より川尻に至る、二千五百坪の埋め立て地を造成して、建物を建てたものと考えて間違いなさそうである。

通信使の饗応に贅をつくす
 寛永二〇年(一六四三)には、平戸藩主松浦鎮信は、自ら勝本に来りて朝鮮信使の饗応をしている。壱岐郷土史には次の如く記されている。
 正徳元年(一七一一)通信使第八回目に、当時松浦氏の壱岐における饗応に要せし調度の中に左の数行あり、以てその一端を窺う事ができる。
 但し滞在両三日間に要せしものであると記されている。
 一、やまいも 千五〇〇本
 一、鶏卵 一万五千個
 一、鮑(あわび)二千貫 七、五〇〇キロ(七、五トン)
 一、米 五〇石 四斗俵(一二五俵)
 一、清酒 十五石 一升瓶(一、五〇〇本)
 一、鯣(するめ)五千斤 三、〇〇〇キロ(生いかにして約十五トン)
 今日この数字を見る限り、両三日に要せし物量としては、想像もできるない物量であるが、それにだけに員数も多かったのである。勝本寄港の第八回における通信使は四七五名であるが、対馬島史には「朝鮮信使の江戸に至るや一行殆んど五〇〇名、対州藩亦之と同数を以て同伴す」とある。
 それに地元の接待人、手伝人を入れると、相当の数であったのである。
 米五〇石とあるので、参考までに、員数を逆計算して調べて見るに、五〇石は四斗俵一二五俵、三日滞在して一日四二俵は一六八〇升となり、昔の人は大食していたので、一日一人一升食べてたとして一、六八〇人となる。又酒にしても十五石は、一升瓶詰めにして一、五〇〇本、一日五〇〇本一、五〇〇人として、一人当たり一日に三合余りであり、卵にしても一日五、〇〇〇個、一、五〇〇人として一日約三個平均である。又次の宿泊地まで航行中の仕出しも必要であったであろう、要するにそれだけの物量を消費するだけの、人員がいたという事になるから、一、五〇〇人位の人員であったと思っても大差はないであろう。如何に通信使の饗応接遇に腐心し当時の勝本の賑わいが騒然たるものであったか窺い知る事ができる。
 通信使一行の中に製述官(書記のようなものであろう)中維翰の記録にも、対馬勝本相の島における接待の事が次の如く記されている。
 風本浦にとどまる事一句、日饌の供給が甚だ盛んで、対馬の三倍程度位であった。又壱岐よりも相の島の方が接待はよく、新築された館舎は千間近いと記され、馳走も壱岐より更に倍すると記述されている。対馬は地勢に恵まれず、大した物産もなく、財政的にも恵まれていなかったようである。諸候それぞれに迎接に力を入れた事が窺える。
 先述したように、朝鮮通信使節は国賓である。使節の江戸往返の途中、その宿舎にあたる各藩は総力を挙げて歓待する事を指示もあり、こうした事から通信使を迎送する事は、途中の諸大名にとっても、宿舎接待警固等容易ではなかったのである。
 通信使の勝本滞在が長くなると、当然ながら多額の出費につながる。通信使の勝本足止めの原因は逆風であり、海が荒れる事であった。
 そこで松浦藩主は、郷ノ浦の有安触の爾自神社で順風祈願を行った。
 同社の境内にある東風石大明神が神功皇后にまつわる風の神であったからだといわれる。壱岐郷土史にはこの事について次の如く記している。
 「享保四年(一七一九)十二月、朝鮮通信使将軍吉宗襲職礼聘の帰途、逆風のため、勝本に碇泊する事数日に至るを以て、国主より有安爾自神社に命を伝え、順風祈願を行わしむ。又延享五年(一七四八)三月、又は宝暦五年(一七五五)十二月使節滞泊により、順風祈念の挙あり。按ずるに松浦氏が信使の接遇にもて余せしは上述せり。兹に順風祈願の挙ある又その間消息を知るに足れりと、」祈願の表向きは通信使一行の船に追風が吹き、無事に目的地に着く事であった。しかしその反面は通信使一行の勝本滞在の日が、一日でも短い事を願う気持ちがあったからである。宝暦十三年には通信使の勝本入港の前に、前以て祈願が行われたにもかかわらず、往路の滞在が最も長い二〇日となっている事等も、皮肉なものであった。こうした悩みには沿道の諸大名だけではなかった。幕府においても、巨大な出費に頭を抱えていたのである。通信使一行は四百数十人から五百人位であったが、警固接待其地幕府の江戸における登場人物は、二千人に及んだといわれている。これ等の費用は巨大なものであり、その外に、現在の国宝級の文化財的な、名匠の名画銘器等贈ったのである。又朝鮮国王も、朝鮮人参、虎の皮の敷物等を献上した。
 又地方諸大名も相当の贈り物をしたのである。
 新井白石は若年であったが、漢学に通じ将軍の信任も厚く、この衝に任じられるや、朝鮮信使の待遇を簡素化せんとしたが、対馬藩主側にも使節団側にも相容れられないところがあった。将軍に言上して将軍の命として、簡素化を実行しようとした。当時一回の通信使を迎えるのに要した金額は、幕府だけでも百万両以上であったが、六〇万両に減じたと記されている。
 通信使を好まないという事ではなかったが、友好関係を持続してゆくためにも、巨万の出費を節減せんと考えたのである。大勢の信使が遠く危険を冒して、半年以上もかけて江戸への参上は、明和元年(一七六四)を最後として、その後は対馬藩主が幕府に代わり、通信使を対馬で迎接する、易地聘礼となり、簡素化されることとなった。こうした事で明和元年(一七六四)が勝本における最後の迎接となったのである。
 対馬島史に寛政二年(一八〇一)四月、幕府は朝鮮信使の易地行聘を議すべく、且つこの議の決するまで、藩主に在国すべしと命ず。是に於いて寛政十二年まで国主参勤をなさず、又朝鮮信使の江戸に到るや一行殆ど五〇〇人、対州藩亦之と同数を以て同伴す、前後の行程常に半年を要す、又その途次諸候の費用の多額にのぼる。幕府の費すところ五、六〇万両なり。幕府の財政困難の際、朝鮮信使を対馬にて受入れなば、大いにその費額を減すべきを以て、松平定信幕政の改革に当たりここに着眼せるなり。(対馬島史)
 朝鮮通信使の対馬における易地聘礼も、漸く両国の交渉が纏まり、文化八年(一八一一)三月、将軍家斉公襲職を賀するために、対馬の厳原に於て、易地聘礼が行われたのである。その後天保十四年(一八四三)幕府は、朝鮮聘使を大阪において行禮せしめんと対馬藩に命じたが、間もなく明治維新となり、大阪においては行われていない。

通信使製述官の記録(海游録)
 通信使一行の製述官申維翰(シンユハン)の残された通信使の記録は、体験した本人が直接記しているだけに信憑性もあり、対馬灘を渡る当時の事を生々しく、的確に又名文にて描き記され、当時の通信使の勝本における事を知る上に、興味津々として貴重な文献である。
 壱岐国史にも漢文にて原文のまま記載され、筆者等の無学の徒の満足に解読する事は至難であるが、長く中国にいて中国語を催かに勉強した甲斐あって、判読しても興味深く勉強する事ができた。勝本町史又は其の他文芸誌に、判り易く記されているので一部を転載する。通信使の第九回は享保四年(一七一九)七月十九日の明け方対馬を出発して勝本に向かった。途中の海上は座して隣船を見れば、波に浮き上がるものは、真っ直ぐに空を突き刺し、波間に下るものは帆のさえも、没し尽くすという大時化であった。波頭が船底を蹴ると、船底が裂けるが如く、船中の者は悉く船酔いのため嘔吐す、櫓工や倭の通事も悉く然り、起きては忽ち扶擁しあい、すがりついても立つ事もできず顚倒してしまう。(中略)しばらくして山の先端が毛ほどにあらわれ、次第に峰樹や人家が見わけられるようになってきた。茲において船中の者は雀躍して、「これは壱岐州の風本浦(勝本浦)だという。」勝本では百余の出迎えの船が一行迎えた。通信使一行は浦口に入って、全船が集結した後に上陸が開始された。午の刻を過ぎた頃であった、浦口は水深が浅くして入れない。船を横につらねて陸橋をつくり、その上に板を設けて左右に竹欄をなし、重純席(太く束ねた糸で幅んだ敷物)を敷き、まっすぐ使館までゆく、その清浄なることを観るに足る。岸をはさんで見物する男女は、山一面に族立(ぞくりつ)して紅衫を来た者が過半で、青や白の班爛衣(はんらんい)も混じっている。まさに春林に茂る百花が、媚顔を競っているようである。風本浦は一名勝本ともいう、壱岐島の西の一隅にあり、註(ここに始めて歴史書の中で勝本の地名が出てくる。)
 土地という場合壱岐とする所以である、浦という場合は風本という。
 肥前守に属して土地肥沃にして、且つ大穀が諸地方の中で、その最たるものである。大守源篤信は食禄五〇万石、ここから距ること百余里、平戸島を治める、奉行を遣して使行のため供奉をなす。
 山の下に使館を築き、その結構は百余間曲々として道が通じ、障子を隔てて房があり、房は洛盥(たらい)茶湯、厠(かわや)をおき、その造りは精巧である。三使臣を始め一行諸人のいる所はみな一つの屋根の内にあり。しかし地は狭隘深遠窮屈である。館の背後は絶壁の下で、前のひさしは浦岸に接しており庭場がない。出入にも天が見えず、うつうつたる感を拭い得ない。(中略)
 「風本浦に止まる事一旬、日饌の供給が甚だ盛んで、対馬の三倍程度である。(中略)土地の人で文事をもって訪ねて来る者はいない、(略)恨むらくはただ見物の男女が、三日間も解散しない事で山阿(やまかげ)にたむろして、露出(ろしゅつ)風炊(ふうすい)して、これ多くは遠方より粮食(ろうしょく)を擔いで来た者だという。二四日大雨と共に狂風が俄に襲い、岸上の樹木は皆折れ、館宇もまた傾き破れ、中下館の居拠は己に圧砕(あっさい)されてしまった。幸いに諸人は安全であった、余は孤舟にあって、病のため席を移し得ず、荒波の中に俯仰(ふげう)して自らを念(おも)う、余の一生の険しい道「奇の字の厄にあらざるはないかと」
 薄れ頃となり風定まり、諸侯は皆門までつき従いて、互いに慰めてくれた。浦を隔てて民家僅かに百余戸、玉蜀黍や豆が畑に満ち、或いは稲田に穂を出す、農家の婦女子は昼夜を整えて畝(うね)に出る、その服はみな班爛衣(はんらんい)であった。倭(わ)の言によれば土地が上々で、民がみんな農につとめ、餓える者はないという。
 海中の孤島とはいえ、形は釜を覆したようなところさえ、過半は開墾して、新穀がよく繁茂している。八月初一日辛丑、夜明けに雨濛々(もうもう)使館には庭がないので望闕礼(ぼうげんれい)(李王朝に対する礼拝)を行う事もできない。晚くなって晴れ、西南風に帆をあげて出帆した、対馬州、壱岐州の大小の諸船が連なる事数十里、青と白の帆色(対馬船は白、壱岐船は赤)が歴々として眠中に在り、まことに壮観である。(中略)風又止む、我が船の櫓人達も、壱岐の曳船の人達も、声を揃えて揖を漕ぎ、尺寸の行を以て数百里を進む。人皆その力が尽きてしまったとある。筆者註(距離を表すのに数十里とか数百里とあるが、昔の漢国の一里は、日本の七分の一位の距離であったことに注意。)
 八月一日には黒田領の相の島につく、新築された館舎は千間に近く、馳走は壱岐よりも相の島の方がよく、諸候はそれぞれに迎接に力を入れている様子がうかがえる。一行は江戸で国書を奉呈して、十二月十三日相の島から大時化の中に勝本に到着する。勝本では西風が連日続き、雪まで降り始めた。爾自神社では順風祈願の五日後の十二月二〇日、一行は勝本を船出して厳原に向かう、京城での復命は翌年の享保五年一月二四日であった。
 実に二ヶ年にまたがる二百六一日の大旅行であった。通信使の行程が長い月日を要して、朝鮮から対馬、ー壱岐、ー相島、ー下関より瀬戸内海に入り、安芸の蒲刈り、備後の鞆(とも)、備前の牛窓、播磨の宮津、兵庫、大阪と京都、江戸と特に海路では対馬海峡、玄海灘の潮流の変化の多い、難航路を帆と櫓揖(ろがい)による航海が、如何に至難な事であったか、各藩の当時者から考えると、迷惑な事ではあったが、通信使側から考えると、これ又多くの信使の命がけの大事業でもあった。こうして常に危険にさらされて、朝鮮より江戸まで往路十一回に及んだのである。
 製述官申維翰(しんゆはん)の記録を再度判り易く記す。
 対馬より壱岐までの描写は、体験者のみ知る恐怖であろう、当時正村湾は浅く上陸するにしても船を岸に着けることが出来ず、多くの船を横に並べて動捉しないようにして、その上に板をおき絨毯(じゅうたん)のようなものを敷き、竹の手摺を両方に造って、丁寧に取り扱っている。数百人の色彩豊かな信使の衣裳、それに対馬藩士の警備の武士等、一千人に及ぶ上陸風景は、今日当時を顧みて目に映ずるものがある。多くの見物人が正村湾をはさんで、正村の上の山及志賀の山であろう。又周囲に簇立した事は当然である。今日においてもそうした賑わしい情景は、見る事は出来ない。当時の勝本の人口は僅かであったにしても、何十年毎に来る通信使である、多くの人がこの平素見る事のない光景を見ようと、壱岐島全体から集まった事は、容易に納得できる。それに船の数は使節船、供奉船、警護船、漕ぎ船、数百隻に及んだであろう。色彩豊かな信使一行数百人、それに晴衣を着て、見物に来たであろう多くの土地の人々、将に春林に茂る百花が、一度に咲いたような賑わいを呈したであろう。
 この記述の中で教えられる事は多い、その中で風本浦一名勝本ともいうとある。
 古書には風本の地名は多く見られる、十五世紀以前は干沙毛都(かざもと)又は、間沙毛都宇羅(かざもとうら)と書かれていた頃もあった。勝本の地名が国外の歴史の記述に出たのも始めてではなかろうか。通信使九回目の享保四年(一七一九)今より二八〇年以前に、巳に勝本の地名があった事を知る事ができる。
 製述官は土地の多くの人と接触し、多くの事を知り書いた事がわかる。見物人が野山に野宿して自炊し、三日間も帰らないのには困ったと記されている。別に困る事をする事もなかったであろうが、奇異に感じたのである、それ程に当時としては、賑々しい珍しい事であった。農産物については詳しく記している。七月中過ぎである、台風の季節である、暴風が襲い宿舎は倒れ、上の山の樹木が折れる程の大暴風雨である、かなり大きな台風であったのである、製述官は船泊まりしていた、病気のため上陸もできず、その当日の事を自分の人生の道中の珍しい奇の字の厄日であったと記している。浦を隔てて民家が百余戸とあり、浦周辺の農家の事である。当時の浦周辺の戸数は、通信使の度毎に五六〇戸とあり、当時の勝本浦の戸数と、人口の大体を知る事ができるが、その後の弘化二年(一八四五)の一二六年後には、勝本浦の戸数は三九一戸、人口二、〇六〇人の記録があり、当時の五六〇戸は少ないような気がする、浦の周辺とは正村浦だけを指したのか、本浦をも含めたものか知りたいところである。
 通信使の来朝は、その接待に莫大(ばくだい)な費用がかかったが、一行から受けた恩恵は計りしれないものがあったといわれる。殊に学術分野における、朝鮮の影響は大きく、江戸に着くまで各地で交歓会が行われ、各藩の医師、文人、僧侶らが馳せ参じて、対話と教授を求めたといわれる。文化や学問の先進国に接し、学ぶところが多かったのである。又漢詩や書画等の揮毫等、経済や歴史等について交歓がなされたという。第九次通信使(一七一九)に来日した申維翰(しんゆはん)は、著書海行録の中で、交流の様子を「ある時は、鶏鳴に至っても寝られずと当時の事を記しているが、壱岐では土地の人が文事を以て、訪ね来る者がなかった事は淋しい事であると、海游録に記述されている。当時壱岐の他村においても、そうした文人学者がいなかった事を意味する。為に朝鮮通信使についても、壱岐人による当時の記録が残されていないものと思われる。
 海遊録の筆者で、製述官として来朝した申維翰(しんゆはん)は、儒学者で詩文を能くした人である。製述官の任務は、文書の起草や、日本の文人たちとの交歓にあたるのが任であった。文化的接触が中心だった当時の外交では、製述官はもっとも重要なポストの一つで、そのために文才に優れた人物があてられたといわれる。
 宝暦十三年(一七六三)十一月十三日、勝本に通信使一行四百七二名が到着した。この年の一行も事件が多かった、同日洋上で正使の乗った船が、揖と船体を強風と荒い浪のためにいためた、一説には勝本へ着岸の時いためたという説もある。為に勝本で揖を修理しようとしたが、そうした技術もなければ材料もなく、正使は仕方なく宗対馬守の船に乗り、十二月三日勝本を出港する。二〇日の長逗留となってしまった、この二〇日の間に一行は、捕鯨見学等して楽しんで、勝本を出港して行ったが、今度は副使の船が、相の島の大波戸磯に座礁して、沈没するという事故があった事が記されている。

 

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社