天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

勝本浦郷土史17

勝本浦郷土史16

 


勝本館(やかた)について
 通信使の館については、製述官の記録を記しているが館の構造等については原田元右衛翁の研究による、勝本館の記録を、翁の病没直前拙宅まで届けていただいて、参考にするところが多かった。
 翁は勝本町文化財発掘に貢献され、勝本鯨組、朝鮮通信使の記録、松浦藩主来岐の記録、勝本押役所、鹿の下対馬屋敷の記録等を残しておられる。通信使館については、又構造の一部分について製述官によって新館造百余間、又は干山下結構百余間と記されているが、内部の構造については、原田翁の研究調査によって始めて明らかにされ、製述官申維翰の記録を立証するに足るものがある。それは最近新町の大工棟梁土肥家の蔵本の中から、縦六七cm、横一・七四mの正村通信使館の原図が発見され、当時の館の様子を知る上において、貴重な図面をかりて記す事にする。この図によれば、神皇寺の裏山(現在の正村町より川尻町の一部)一体の山の麓を掘り崩して、山の麓から海岸まで、(二五間余)長さ(百間余)すなわち(二千五百坪)の敷地が造成され、まず船付場、現在の神皇寺の渡頭(ととう)(現在の正村の阿弥陀さん前)渡頭に階段があった、そこから上陸すると、正面(八間)のところに大門が建てられている、次の手前(三間)のところには右側に番所、左側に堂々たる玄関が見られる。
 玄関に入ると通信使付対馬守御家老詰所の八帖の客間があり、その奥に案内役であって、総指揮の対馬藩主の休息所がある。次の通り廊下を隔てた奧の間には、国書の安置所が設けられていて、そのわきには正副従事官の三正使の客殿として、各々八畳の部屋があり、それに六畳の次の室がつき、回廊を隔てた左側には、六畳の坪の内と湯殿、用、物置が各々あり、正使の輿が置かれてある。
 正使の部屋は他の部屋と界を仕切って一区画とし、他との出入りを厳重に禁じられている。正面の大門を入ると右側は、対馬州番所と対馬州侍の中休所がある。左側にある内玄関を通して、八畳敷の通信使通訳の詰所、そのわきの箱置場を経て、十畳敷の通信使付役人及通訳下知人の詰所、その先に十畳の寄合いの間があって、各々格式毎の炊事場がおかれている。正面の大門に入ると、突き当たりは(四間半)の三正使以下上官軍官の、釜場がそれぞれにあり、その左側には廊下を隔てて、三二〇坪の料理所がある。その左側の次の間は、六畳の上判事の部屋、次は学士医師の八畳の間、廊下を経て上々官の八畳の室が三部屋、その先は八帖の軍官の間と湯殿、厠、炊事場が各々置かれている。
 廊下には紅氈を敷き、五歩毎に一燈を懸けて明るくしてある。界を仕切られた次の間は、上官次官の十五坪の賄所と、釜場待合所や供尾があり、次の二四畳の部屋は上官の間次の十八畳は次官の間、其の隣は下官の二〇畳の間等、各々湯殿に厠、釜場があるが、これらの人の出入口には裏門が設けられている。その隣は中官の部屋として、二〇畳と下官の部屋として二〇畳の間、これにも各々賄所、湯殿、釜場、厠がおいてある。
 図面はここで破れているから、全容を知る事はできないが、これまでの長さ六〇間である、残りの四〇間の構造については残念ながら不明である。
 享保四年(一七一九)七月、「申維翰の海游録によれば、「山の下に使館を築き、その結構は百余間曲々として道が通じ、障子を隔てて房があり、房には溶盟、茶湯、厠をおき、その造りは精巧である。しかし館の背後は絶壁の下で、前のひさしは浦岸に接しており、庭場がない。出入りには空が見えずうつうつとしている、毎朝京城の国主に対して、遥拝する望闕礼の儀式をする広場もない。二千五百坪もある大館舎であるが、何かにつけて随分窮屈な思いをした事が記されている。そのため安永五年(一七七六)には、猶二百五〇坪の敷地を拡張したけれども、その後通信使の迎接は、対馬の厳原で行うことに変更されたため、この拡張した土地は一度も使用される事なく、神皇寺と土肥鯨組に貸与され、土肥鯨組は、和歌山県の太地から傭った鯨組の刃差し等の、住宅として使用されたといわれる。壱岐郷土史は、朝鮮通信使迎接用地の埋築と題して、安永五年(一七七六)勝本浦、神皇寺前面、築出地処分の事あり、その面積百四〇坪を神皇寺預かりとし、百十坪土肥市兵衛頂かりとす、当時の文書左の知し。(松浦家文書)
御頂り地證文之覚
 拙寺門前、御築出之浜地之内、別紙絵面面数之通、当寺為修覆助勢奉願、御免被下置、確に受取申候、兼而朝鮮人来朝の砌り、御用之場所に付、其の節に至り建置候、家居不残取片付、御用之無間違、指出可申候、右御用地に相成候節、些役方之御世話に相成り候仕間敷候、此段後住代々堅違背仕間敷候、仍而證文如件。
 安永五申年 十一月
 神皇寺印
 飯野幸太夫外四名宛
 按ずるに朝鮮通信使一行住返、寄港の迎接用地として、新に埋築せし公有地を平素不用の場合において、神皇寺及び土肥家に貸与せしものならん、さるにても信徒送迎が、如何に仰々しかりしを察するべきなりと記されている。

 朝鮮通信使と築出町
 香椎村郷土史、勝本町郷土史共に、正徳元年(一七一一)将軍家宣公の襲職を賀するため、朝鮮通信使が江戸に上京途中、勝本に寄港、使節待遇のため築出したとあり、勝本漁業史五二頁には築出町は、宝暦五年(一七五五)に朝鮮通信使迎接の地として、新に埋められた所であると記され、又同漁業史(三三八頁)には、築出町ができたのが承慶四年、(一六五五)朝鮮通信使迎接のためであったとあり、勝本町史には築出の字句は記されていない。
 こうした郷土史の記述は、それぞれ根拠があって記されたものであろうが筆者も近年まで何等抵抗もなく、それを信じていた。しかし朝鮮通信使の章を纏めるにあたり、郷土史の多くを丹念に再度通読して調査の結果、どうしても疑義を払拭する事はできなかった。筆者も史考も浅く資料にも限りがあるので、先人の説に逆らうつもりはない。疑義として残しておけば、又誰かがいつの時代にか、正してくれると思っているからでもある。
 通信使に同行した製述官の記録にも、館舎の周辺及び館舎の記録はあるが、築出らしい記録は全くない。人工の防波堤のない頃の築出の北西の風波の惨状を知り尽くしているからであろう。
 昭和八年鵜の瀬防波堤築堤前の築出は、西及び北風の場合、勝本で最も風波のひどく当たる地域で、人が安心して住めるところではなかった。実に気の毒な地域であった。特に幕府から要請した国賓である。常識では考えられない所である、郷土史も伝説か参考文献によって記されたものである、筆者の如き者が、自分の常識によって、歴史を肯定したり否定する事はできない、勝本の使館についても、多くの時間を費やして調査もした。通信使だけでも四百人から五百人である、対馬の厳原においても、岡山県牛窓町でも寺社を中心として、個人の住居に分宿している。勝本の場合そうした事も考えられるし、身分の低い者は船泊まりしたであろう事も考えられる。対馬藩の警護の主なる者は、それぞれ館舎中に指定されたが、他の対馬藩士は、鹿の下の対馬屋敷に泊まった事が、原田翁によって残されている。勝本においても最初から一大館舎が、神皇寺を中心に建てられたものではない。始めは竜宮寺(神皇寺)の寺領二五〇坪内に迎接館が建てられていたのであろう。寛永二年(一六四三)の第五回目に、新創一大舎、以為使臣所館とある。この年使臣宿舎として、一大館舎が造られた事が記されている。九回目の享保四年(一七一九)増改築されたのであろう、為使行築館、千山下結構、百余間、(中略)製造精巧、三使行、上下諸人所居、皆一架之内とあり、一行の居る所は皆屋根の中のひとつに在ると記されている。
 原田元右衛門翁は、朝鮮通信使について、調査された事を残しておられるが、翁の在世中築出について、筆者の疑点について尋ねたところ、筆者の説に同感しながらも、築出には接待の調度が用意された所ではとの事であったが、原田翁研究の新町土肥家所蔵の、正村使館設計図によると、廊下を隔てて三二〇坪の調理所がある、設計書通りに工事が行われたか疑点もあるが、製述官の記録と土肥家の設計図は、大体一致しているようである。これ以上の調理所が地を離れた不便な場所に、必要であったであろうか、懐疑心は際限がない、自分の常識を過信して、小さい勝本浦の伝説であっても、簡単に動かす事はできない。自分の疑義は疑義として、提言しておけば誰かが将来究明してくれるであろう事を願うのである。
 

 

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社