天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本浦郷土史19

勝本浦郷土史19

第七章 徳川時代の壱岐及び勝本の警備

押役所を置く

 壱岐郷土史に延宝八年(一六八〇)勝本に押役所を置くとあり、松浦藩は領内各地に押役所を設けた。壱岐北部の勝本港にも、外地の朝鮮及び対馬に対する警備のため、延宝八年(一六八〇)六月坂本触六二番地、現在川尻の裏山に位置するところの、現長峰氏宅の所に、押役所が置かれた。今より三一〇年前である。当初は二〇数名の武士と次に記す武具に守られていたが、宝暦十年(一七六〇)壱岐武具方帳定格が定められ、武具警備員とも増員され、番頭、馬廻り役、徒士、足軽、船手等二百人余をおいて、壱岐の陸海の警備は厳重を極めたとある。又これと同時に勝本の若宮島、郷ノ浦の武の辻󠄀に、遠見番所をおき、辺要の警戒を厳にした。

備考 若宮島武の辻󠄀は、遠見番所なり、本表によれば人員二〇〇名と、船二艘を準備せるも、この外に城代直属の馬廻り以下の侍、一五〇名内外なりとある。

 上記の警備表は享保六年(一七二一)頃の警備統計である。右記の警備表は、平時の編成にして、之に城代付の侍及徒士組以下一切を通算すれば、其の数約五百人内外に達す。之を現時の軍隊編成に比すれば、約一ヶ大隊に当たるを以て、戦術上の小単位とするに足らん。(壱岐郷土史より)

 

武具定格

 宝暦十年(一七六〇)九月、壱岐国武具方定格帳を定む。

 天明九年(一七八九)書き上げによる。(松浦家文書)

備考 仮に本表の武器一個を一人負担とすれば、約百五七人持となる。十匁八匁銃六二挺、鍵十六筋、棒捻二〇八本、鳶口五〇挺、具一個、按ずるに本表の武士弾薬等を以て、諸士徒士等約四百余名に充当し事変に備う。又多からずとせず、然れ共、之を兵器の発達せる敵国と鉾を交ふるに想到すれば、勝敗の数逆目賭るべからず。(下略)壱岐郷土史より

 この表を見ても壱岐郡の警備は、充分だとは考えられないが、当時松浦藩が壱岐北部勝本を重要視していた事が伺われるのである。押役所は一六八〇年より明治二年まで、約一八八年間おかれていたが、其の間安永六年南京船の勝本に入港して騒然としたが、其の後嘉永二年(一八四九)に至り、異国船度々壱岐近海勝本沖等に現れるや、全島騒然として警備につき、一八五八年には出動。命令が発せられ、警衛の人数松浦藩より来島している。

 押役所には教練場があって、勝本押役所付足軽、若宮島遠見番付足軽等が、中尾丹弥の指揮のもとに、稽古場において軍事訓練をうけていた。西斧右衛門、土肥甚右衛門を始め、勝本組先手支配士等が出席していた。

 明治二年二月押役所は廃止され、按撫使に改称され、次いで接撫使も廃止された。按撫使の館は明治四年七月廃止の後、その館の正門はこれを解体して、黒瀬の長島俊光邸宅の庭園の入口の門として移転したが、昭和四七年漁業組合が買収して、邸宅を解体した際に、芦辺町梅の木ダム付近の篠崎八之助の別宅に移ったという。近年まで長峰宅入り口の数段の石段の上に、外門が残されていたが古くなり、昭和五六年保存するために改造された。今日花川に行く本道から外門入り口まで、三七米、幅員四米の道路が一直線に往時の武家屋敷の跡を偲ばせている。

 

遠見番所と烽台をおく

 古く壱岐対馬筑紫に防と烽を置き、又壱岐に二関と十四所の火立場を置いた事は前述したが、徳川の代となり国内も平定し、外壓もなく、隣国朝鮮とは常に通信使が往来して親交を深め、比較的平和な時代が続いたが、平戸藩主松浦公は、外敵警備のため、(一六四一)に若宮島と武の辻󠄀に遠見番所と烽台をおいた。当時の防とは日本国全体の防備と関係がないでもないが、壱岐対馬筑紫等の国防の最先端にあるところの、防備監視の施設で崎守の意であった。防にしても関を置くにしても遠見番所にしても当時の崎守の意をもつものであるが、時代によって防と烽も方法等については異なっているが、しかし烽にせよ火立場にせよ、敵の侵攻来襲に備えて、高い所に火を焚いて夜は火の光により、昼は煙りによって危急を伝えるものである。途中次々に焚き継いで、太宰府までリレー式に知らせるのである。壱岐郷土史、壱岐国史、勝本町史にも異国船御手当用法条目が、五段に分けられて記されている。

 第一段は異国船を壱岐沖二〇里以内に発見した時は、若宮遠見番所は旗一本を立て、鉄砲二発を撃ち合図する事。同時に遠見番頭は、城代郡代押役所に注進して、郡代は

(はや)

(ぶね)で平戸に報告すること。

 第二段は十里以内に異国船を発見した時は、若宮島遠見番所は、旗を二本立て鉄砲三発を撃ち合図する事。番頭郡代は第一段と同じ。又島の海岸近くを船が通過したり、一地方を目指して船が入って来る時は、城代郡代押役所はもとより、海岸へ大筒(大砲)小筒、長刀の者を用意すること。

 異国船が平戸の方に向かうような時は、烽火を挙げ国中に知らせること。

 第三段は異国船が港に入ってきたり、碇をおろし繋船した時は、若宮島旗印三本立て鉄砲を三発、岳の辻󠄀は鉄砲三発を発して合図とし、番頭郡代は第一段と同じ、郡代押役は神社仏閣に通報し、郡代押役は現場に出張すること、異国船が掟をあげ船影が見えなくなれば、番頭はそれを見極めて注進すること。

 第四段は遠見番頭が異国船が乱暴をするように感じた時は、若宮島は旗印三本と布幟一本を立て、鉄砲を五発、岳の辻は鉄砲五発を発して合図とし、番頭郡代は第一段と同じようにそれぞれに注進する。

 城代は近くの寺へ早鐘でもって二度目の合図があると、神社仏閣は鐘太鼓で庄屋は竹具で壱岐中に異船の事を知らせること。

 同時に城代はもよりの村へ出張し、城代付の面々は二度目の合図によって、城代が出張っている場所に武器をとって駆けつけること。

 第五段は異国船の乱暴が激しくなれば、若宮島岳の辻の両遠見番所から次の合図を行うこと、島の西北で乱暴が激しくなった時は、烽火を一ヶ所から二口あげること、同じく島の東南地区の場合は烽火を一ヶ所から三口あげること、この場合を見つけ次第、全島の庄屋や小役の者は、神社仏閣に使を走らせ、鐘太鼓で島の人々に異変を知らせよ、そして壱岐島の守備隊員はもとより、馬廻り中小姓徒士その外壱岐全島にいる、社人、山伏陰陽師脇間百姓等、島民総動員態勢をとり、これを城代が下知するというものであった。

 安政元年(一八五四)には「浦方之申渡覚」が発布せられ、異常の折や急用の時は、漁民に加子役を申し付けた時は、直ちに水軍に組み入れられるようになった。

 こうして見ると今日の文化の、又兵器の発達に驚くのである。電話があり、電報があり、今起きた事は僅かな間に世界中に知らせる事が出来る、当時としては烽以上の事は出来なかったのである。

 

異国船来航に島民騒然とす

 嘉永二年(一八四九)正月二三日、異国船勝本沖に現れる、若宮島遠見番頭土肥甚右衛門これを急報す、城代山本甚五左衛門兵を率いて布気庄屋に出陣し、横田七郎左衛門、西林弥をして状況偵察せしむ、両者は次のように報告した。翌二四日の正午までは辰の島北方四、五里の海上を遊弋して、地方の模様を窺うものの如し、夜に入り沖の島(岩津島)対州間に蛍火らしきもの点々

(ほう)彿

(ふつ)し、且つ砲声を聞き越えて二五日の朝に及びては、濃霧に阻てられ展望自由ならずと、甚左衛門時々の報告により、他に異常なかるべきと察し、二六日亀丘城に遷りて兵を解く。郡代志佐岡右衛門は長峰篠石辻に出陣して、西北海上の監視に任ぜり。この役国内の武士神職以下集る者五〇〇名に達す、按ずるに当時攘夷令下り、上下警戒を加うるの際なれば一、二の異船を発見するも、全島殆ど開戦の状態に変じ、中には水盃をして出陣せしものありとぞ。次いで二月四日同月十一日異船見え又出兵すること前の如し、三月二六日、三〇日の発見には、兵員を二分して、一番手二番手交互に警戒に勤めしむ、当時域代山本甚左衛門、郡代志佐岡右衛門、伊島忠兵衛、勝本押位長島加賀右衛門、若宮島遠見番頭土肥甚右衛門職にありと。

 また異国船応接の心得と題して、嘉永六年(一八五三)九月勘定奉行へ伝達、異国船渡来するあらば、各自自家を防衛するの決心を以て之に応ずべく、若し上陸者あらば穏和に待遇して帰船せしむべし。止むを得ずんば之を取り押さえ郡代又は頭分の指図を待つべし。

 「当年相模浦和に米国船来たり、又長崎に露国船来たり、これより連年通行あるべきに付、各用心をなすべし云々」と。

 又「異国船打撲令」として次のように記している、安政三年(一八五六)三月五日老臣伝達、異国船到来候へば無二念拂候様合沿命有之候事。接ずるに先に、撃攘令の下りしは、文政八年(一八二五)にありしが、天保十三年(一八四〇)に及びて、一度之を

(ゆる)くする所あり、安政元年より二年(一八五四―一八五五)の頃に及びては、進んで英露米蘭と条約を結びたれば、志士或いは開港を説き、攘夷を論じ、世論

(ごう)

(ごう)を致せり、次いで安政五年(一八五八)を経て、勅許を

()たずして、この条約を調印されたり、されば、この頃に於いて、攘夷の台命ありしとは

(いささか)信を措き難しと雖も、松浦氏は世論の

(すう)

(せい)

(かんが)み、勤皇攘夷の衷心より台命に仮託して、打攘令を下せしやも計られず、暫く旧記を録する所を掲げて疑を存すと。

 按ずるに当時攘夷論優勢にして、辺海諸候悉く是に構うる所あり、我又其の準備に吸々たるの状況は、前来慶次之を叙述せり。今やその細節を定め、以て緩急に応ぜんとす、陰雲惨憺の兆候見るが如しと。

(壱岐郷土史より抜粋)

 徳川三百年の間、多数の村人は、少数武士階級の壓制の下にあったとは言え、比較的平和な日々を送っていたといえるであろう。ところが徳川末期になって、壱岐の島人の心を強く動揺させたものは、何といっても異国船の来航であった。その後も相次いで、壱岐近海を航行する異国船の姿は絶えず、壱岐の島人たちは、それロシアだ、アメリカだと心を動揺させ、戦々恐々として日を送った。

 この事変に際して、天山流砲術家、牧山忠平父子が、壱岐の沿岸に大砲十数門据えて、壱岐国防に力を尽くした事は有名である。勝本浦の町の先、馬場崎、辨天先にも安政五年(一八五〇)三百匆玉、筒一挺、打手五人が置かれていた。その後も嘉永年間(一八四九ー一八五〇)に四回、一八五五ー一八五八に五回、一八六一年に一回と、次々に壱岐の周辺、勝本の沖合に来ている。その度に平戸藩よりは、人数を派遣して警戒に当たっている。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社