天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史26

勝本浦郷土史26

地命寺
 印鑰神社の前の石段登りつめた所に、地命寺という寺がある。香椎村郷土誌に、仏閣名妙峰山地命寺、宗派真言宗、位置地命寺坂、本尊地蔵菩薩、本寺は神岳山末寺である。神岳帳にいう、本浦地命寺開基は知らず、一にいう寺本尊地蔵、家敷畑一舛、隆信公の御判あり、一にいう地命寺神岳附法相続、第一世、橋件師快善、二世、快教、この間真言中絶、而禅宗、二代王岩天岩という者住み、三世真言中興、権大僧都法印暹栄、寛永十七年(一六四〇)庚辰寂。
 堂宇戊向瓦葺、梁行九尺、桁行二間、庫裡瓦葺、梁行九尺、桁行二間、寺地縦八間、横五間、一畝十歩、墓なし、山一反二畝、寺領一畝、宝物本尊仏像是宝物、古文書なし、信徒今は僅かに講中特信の者が、古寺を預かり朝夕礼拝を続け、毎年二、三回宗祖大師信者講員が集まりて、説教を聞き、毎年七月二四日大祭を営んでいる、しかし寺という資格はない。
 壱岐名勝図誌には在地命寺坂、本尊地蔵菩薩像、長九寸、客殿兼庫裡縦十間、横六間寄畠一畝ありと記す、しかし現在では檀徒もなく、寺として格もなく、堂宇だけが淋しく存在している。憶うに真言中興の代には、大僧都法印暹栄が寺僧としていたことを考えると、暹栄が入寂したのが今より三五〇年前であるから、その頃は可成りの寺であった事も考えられる。建物等については、壱岐名勝図誌と、香椎村郷土誌とは発刊に七〇余年の差異があり、その間改築された事も考えられる。享保二〇年(一七三六)には恵兆という住職がいて、生徒五〇人位に習字読み書き等を教えていた事が、壱岐島明治文化史に記されてある。

鯖大師教会
 塩谷の少し上の方に鯖大師教会があった、昭和二二年に開基した教会である。
 宗派 真言宗 智積院派。
 位置 勝本町仲触四四五番地 
 本尊 波切不動明王立像。
 開山 丸尾盛諒師、前往僧 平井盛昭。(第二代)
 丸尾盛諒は明治十三年十二月一日、壱岐郡香椎村五〇四番戸現勝本町東触に生まれた、幼くして勝本能満寺に入り、京都の本山智山派の中学で学んだ、勝本能満寺出身の大先輩、志賀照林の孫弟子にあたり強い教化をうけた。明治三六年八月朝鮮の木浦に渡った盛諒(二三歳)は、真言大師寺を開き、布教を開始した。
 その後朝鮮仏教界に重きをなしていた盛諒は、昭和二一年十二月終戦により、壱岐に引き揚げてきた。盛諒の目に映った故郷の勝本は、戦争後の人心不安と不漁に喘いでいた、盛諒は勝本の人々の心の平安と生活の安定を願って、四国の阿波の鯖大師を勧請して布教活動を開始した。
 昭和二八年十一月宗教法人として認証されたが盛諒は、昭和三二年に没し、平井盛昭がその後を継ぎ、寒行等が行われ主に塩谷の人に熱心な信者があったが、平井盛昭も平成三年逝去され、後歴者がなく本尊は塩谷の大師堂に併祀され教会は閉鎖された。

塩谷大師堂
 御本尊は木像弘法大師像、高三五糎別に波切不動明王像がある。この大師像は勝本浦新町石井茂氏の曾父、石井庄助氏の刻名がある。石井庄助氏は勝本における貴重な彫刻家で、多くの仏像を残している。
 石井氏は明治時代の人で、昭和九年七〇有余歳で没しているが、この本尊も明治中頃の作と考えられるが、堂の創建は不明である。大師像を献納した時が、創建の年とする事には、異議があろう。現在の大師堂は昭和五四年三月建造替えされたもので、奥行五・五米、間口四・五米である。その以前は現在のお堂の前に在ったようである。
 昔は島外の人で明法道人という行者が堂に在って、法灯を守り続けていたとの事で、堂の裏墓地には、普通の墓石と異なった墓碑があり、石塔には戒名はなく下の台座に、横書きに教師試補明法道人と刻してある。
 西国二〇番四国六〇番の札所で、毎月二〇日信者相寄って勤行が行われている。

新町弥勒堂
 新町のお仮殿の隣に弥勒堂がある。元正村の神皇寺にあったとされる弥勒菩薩像が安置されている。この弥勒菩薩像は、室町初期の十四世紀のものとされている、外に十三世紀のものとされる、チベット産の浮き彫り仏頭があり、共に町指定文化財となっている。
 こうした仏像は、明治維新の仏教受難時代、正村の神皇寺にあったが、神皇寺が廃寺になるに及んで、放置されたものを、新町に安置されたものといわれている。又弥勒堂には嘉永元年(一八四八)今より一四五年前の銅造鉦皷がある。(勝本町末指定文化財)
 又木造弘法大師像もあるが、これも新町の石井庄助の彫刻とされている。お堂は本尊の弥勒菩薩像が、正村の神皇寺に在った物とされているところから、明治の初年頃創建されたものと解されるが、古くなった事から平成四年、内部の大改造が行われている。

坂口地蔵堂
 坂口登り口の左の方に地蔵堂がある、本尊は銅造誕生仏立像で、高さ三〇センチで高麗初期十世紀ー十一世紀頃の物とされている。
 李朝の初期朝鮮では、日本の明治の初期と同じく、排仏毀釈が行われた。多くの仏像が破棄された時代があった、当時の日本では反対に造寺造仏の風潮が高まっていた。この時代に日本の交易者は競って大陸の仏像を手に入れようとした、正規なルートで求めたものもあったが、海賊等によって大陸から輸入された仏像も多くあったのである。
 坂口の地蔵堂の銅造誕生仏の入手経路については明らかでないが、坂口町に祀られた事については、次のような伝説が残されている。
 ある時坂口町の小島長三郎という人の夢枕にお地蔵さんが立たれた、不思議に思った長三郎さんは、夢で見た場所に行き土を掘って見た、ところ土の中に埋まっている地蔵さんを見つけた、地命寺に近いところであったという。長三郎さんは掘り出した地蔵さんを、大事に抱いて家に運んだ、そして翌日から坂道の空地に石垣を築き始めたという。そして石垣の上にお堂を建てお地蔵さんをお祀りした。
 坂口地蔵堂の入口左側に、御影石にて開祖小島長三郎之碑と記した記念碑が建立されている。

黒瀬観音堂
 本尊は十一面座像四寸五分、同聖観音五寸五分である。壱岐名勝図誌には観音堂(在勝本浦黒瀬)堂主神皇寺とある。観音堂建立年を調査中、堂前の石燈篭には刻銘は見られなかったが、手洗鉢には献納寛保三年三月と刻まれていた。寛保三年は西暦一七四一年で、今より約二五〇年前である。この頃観音堂が建立されたと考えて大差はないであろう。神皇寺住職が、聖母神社の別当職を兼ねた神仏混合時代であり、志賀山に能満寺建立に着手した時代でもある、又勝本土肥鯨組が田の浦を捕鯨基地とした時でもある。その昔鯨組に関係のある上品な老女が、堂守をしていたという記録も残っている。
 昭和六二年に以前の小堂を公民館に併設するために改造された。

正村阿弥陀堂
 明治の初年まで正村には、神皇寺というかなり知られたお寺があった。その寺領は今日の坂本触一番地より、六番地の長さ三〇間、奥行八間余の二五〇坪である。本尊は銅像阿弥陀如来立像で、朝鮮より渡来したもので新羅統一、七世紀頃のものとされている。秘仏であるためか閉帳施錠され、本尊を拝することはできなかった。神皇寺は松浦藩主より特に崇敬されて、壱岐巡見の際は必ず止宿されていたが、明治維新神仏分離令が制定され、全国的に排仏棄釈の時代を迎えた。造寺造仏、神仏混合の時代もあって、寺が地域的に多かった為でもあるが、こうした時代の揺り返しでもっあったといえる。勝本浦においても、三光寺神皇寺地命寺等が廃寺となった。かくして神皇寺は廃寺されたが、その後現在のところにお堂を建て、本尊である阿弥陀仏を、遷座したものである。
 現在では近隣の年老いた婦人によって、時折勤行がなされ、老婆の憩いの場ともなっている。又一時は公民館にも併用されていた、なお本尊阿弥陀像は勝本町文化財に指定されている。

田間大師堂
 田間大師堂は、田間乗越の川上照光氏の住宅の一部屋を仕切りして、安置されている。本尊は勿論、弘法大師の尊像である。
 田間大師堂の起因は、明治の終わり頃、勝本浦西部には、信者講があった、それが岐れて新旧の信者講となった。田間大師堂は新の信者講である、普通川上信者講といっている。講中に不幸があった場合、野辺の送りのお供(とも)のお念仏、又は壱岐四国八八ヶ所順拝、又毎月の旧二一日は講中、主に婦女子によって、本尊前において勤行のお念仏が唱えられ、年に一度の大祭は、能満寺奥の院の例察日の旧三月二一日、講中集まって念仏の勤行をする。それとは別に講中で、希望者だけの大師講をつくり、二カ月一度位、廻り番にて、講中宅で男子だけの講があって、飲食を共にして、親睦を計ることを目的としている。

田間地蔵堂
 田間乗越に地蔵堂がある、本尊は石造座像地蔵菩薩像である。地蔵菩薩像座像高七〇糎、弘法大師像が併祀してある。
 堂宇 梁行四・五m、桁行三・六〇m、瓦葺。
 いつ頃建立されたか知った人はいないから、一〇〇年以上は経過していると思われる。昭和十九年三月に一般寄附により改造され、今日に至っている。
 近辺の老婦人等の信仰の対象として、又憩いの場となっている。近所の公民館内に死亡者があった場合、老人の葬儀の諸品を造る場合も利用されている。

羽奈毛の観音様
 辰の島の西端羽奈毛崎に、一見不思議な羽奈毛観音がある。
 この一帯は断崖となっているが、この断崖の裂け目の岩肌に、造られたものでもなく影の如き幻の如くに、くっきり観音さんが浮き出て見えるというのである。勝本漁民もこの観音様に触った者はいないであろうが、古くより羽奈毛のお観音さんと呼ばれて、漁民の信仰の対象となっている。羽奈毛崎付近は潮流が早く、潮と風が逆になる場合は三角波ができて、有名な海の難所として知られているが、不思議な事にここでは船の遭難事故は少なく、奇きし伝説が残されている。以前正月二日の乗始には、漁船は朝早く旗を立てこの観音様に初参りして、海上安全と大漁を祈念して帰る習慣があったが、今日では僅かな船が参るにすぎない。観音さんの例祭日は、漁業組合の中の一機関である沖世話人によって、全船沖止めにして、旧正月十七日に行われている。

仲折の波切不動
 仲折町の北側浜を少し離れた海中に、こしき瀬と呼ばれる風格のあるまるい瀬があった。壱岐名勝図誌には甑(こしき)小島と記され、瀬の上には小さな松が風波に耐えて一本生き続けていた。浦人はこれを姫小松と呼んでいた。(港湾の章甑小島参照)ところが外港建設中の昭和五五年、こしき瀬が地元にも何等相談なく除去されてましった。このこしき瀬の中腹の東側に、小さなお不動さんが祀られていた事を、知っている人も多くいなかったのである。
 西部の住民はこの景観の風格ある瀬の撤去を惜しんだ。撤去後仲折町漁民に災厄が続いた、仲折町民はこれはこしき瀬の撤去が崇って、禍をもたらす原因であるとして、平成元年八月こしき瀬のあった防波堤の突端に、浄財を集めて波切不動高さ二・五〇米を建立した。漁船が出漁した後に海上安全大漁を祈念する、主婦等の参拝する人が多い。
 八月十七日を例祭日として、一般漁民の参拝を呼びかけ、海難物故者の供養を行っている。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社