天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史33

勝本浦郷土史33

五、延繩

ブリ
ブリは古くからわが国の人々に親しまれてきた由緒ある魚で、文献の上では五〇〇年前(室町時代の明応年間)に飯魚(ハマチ)という名で、すでに現われているという。全長約一・五㍍で、体は紡錘形でやや側扁し、全身を小円鱗がおおっている。背部は暗青色、腹部は白色で、体側中央を不明瞭な黄色の一従帯が走っている。ブリの生息域は、北は北海道から南は台湾近海に至る温帯域で、黒潮及びその分派(対馬暖流を含む)の影響を受ける沿岸水域である。朝鮮の東岸、南岸にも分布するが、黄海側にはあまり分布していない。
ブリは古来、沿岸定置網の代表的な対象魚であったが、近年は沿岸域の汚染や荒廃、資源の減少などのためあまり振るわなくなった。それでも、三陸沿岸、房総沿岸、相模湾、駿河湾、熊野灘、土佐湾、日向灘、富山湾、若狭湾、山陰沿岸、五島列島、対馬方面などではブリ定置網漁がなお盛んである。またブリは、海中の瀬や島の周りにつく性質を持っている。しかも西南日本では殆ど周年生息するので、一本釣りによって漁獲されることも多く、その量は近年殆ど定置網のそれに匹敵するようになった。アメリカの西海岸では、ブリは遊漁(釣り)の対象となっている。
ブリは成長するにしたがって呼び名が変っていくので、俗に「出世魚」といわれめでたい魚とされている。呼び名やその順は地方によって異なるが、数例をあげると、千葉県下では、ワカシ(ワカナゴ)、イナダ、ワラサ、ブリの順に呼び名がかわる。三重県下では、アブコ、ツバス、ハマチ、イナダ、ワラサ、ブリとなっており、高知県下では、モジャコ、ワカナ、ツバス、ヤズ、メジロ、ブリの順である。
近縁種に、ヒラマサ(ヒラス)とか、カンパチ(アカバナ)があり、分布は両種ともブリとほぼ同じで定置網や釣りで漁獲される。

ブリの稚魚
二、三月頃東支那海中部・南部で、また四、五月頃九州西方海域で孵化した稚魚は、黒潮と対馬海流に運ばれて一部は太平洋側に、一部は日本海に入りそれぞれ北上する。そのカラヌス、パラカラヌス、ユウカラヌス、テモラ、オンケアなどのプランクトンを食べて次第に大きくなる。そして全長二㌢ぐらいになると、ホンダワラ類を主とした流れ薬に付き始め、それといっしょに各地の沿岸域へ寄ってくる。全長四、五㌢になると、カタクチイワシのような魚類を食べ始めるが、一方共食いも始まる。この期の稚魚は黄褐色の地に、五—十一条の金属光沢に輝く赤褐色の横縞があり、成魚の色彩、斑紋とは全く似ても似つかぬものである。
全長一五㌢にも達すると、ほとんど藻につかなくなる。流れ藻の下についている頃のブリの稚魚をモジャコといい、ハマチ養殖業の重要な種苗となっている。流れ藻を離れたブリの幼魚は、次第に群を作ってカタクチイワシ、アジ、サバ、スルメイカなどの餌生物を求めながら沖合いの表、中層を北上回遊する。この大きさのブリの若魚を、イナダという(勝本ではヤズという)。
秋、冬の頃になって海水温が低下し始めると、三陸沖や北陸沖から南下回遊を始める。このときに各地の沿岸定置網に入るのである(寒ブリ)。そして翌年三月—四月ごろまで定置網漁は続く(彼岸ブリ)。

延繩
延繩(のべなわ)漁法とは、多数の釣を付けた長い道具を、船を進めながら順次海中に投入し(浮繩や底繩あり)餌に食いついた魚は自動的に針にかかる様に仕組んだもので、手釣法を能率的に合理化したものである。日本の漁業史の上で延繩漁は、相当古いようである。しかし壱岐の漁民が実際にこれを使用し出したのはいつであったか、何も史料に残されていないのでわからない。ただそれ程古くはあるまいと考えられている。
勝本の場合、延繩の中ではやはりブリ漁が主流であった。家室船がタグリ、夜釣りの漁法を伝えてからは延繩は主に冬におこなわれ、春になると主にタグリをするようになった。山口麻太郎氏が昭和八、九年頃に、勝本浦で行なった聞き取り調査がある。それによると「明治二、三年頃までは船数も少なく、五、六艘だった。しかし明治三十四、五年頃には非常に盛んで百二十艘ぐらいいて、一夜に七万円もあげたこともあったという。しかし飼付漁業にかわってからは昔のように五、六艘になってしまった。餌もサンマ、イカだったのが、アジをいかしておいて使う「イケバエ」の法をやっている。なぜかこれをトーゴン流という」とある。
当時使用の延繩は幹糸(ムノウ)八尋間で枝糸(メヨマ)四尋、釣は六〇本、これが一桶分である。道具はすべて麻糸であり、釣針は自分の手作りである。この形のものは、最後まで改良されることなく使用された(古老達の自慢のものであった)。この長繩(ナガノウ)を四斤繩といい、これは海底に沈める底繩である。餌はイカ、サンマ等の切り身である。六人が乗り組み、盛漁期には豊後からも大勢の人が来ていた。
盛漁期は霜月、師走で、最も朝の下げ潮の速い時を選ぶ。またこの時分は北西の季節風が吹く時でもある。速い下げ潮(潮流の項にあるように三㌩以上の潮が行く)だから、ちょっと風があればサヤが出来るのは当然で、その中を押し出さないと漁場に着かない。サヤを抜けると(大体平曾根並び)波は少なくなるが、いくら寒くても掛声勇ましく他の船に負けまいと最後は裸になって櫓をこいだ。
繩の投入にも長い経験とカンのいるところで、船頭の腕の見せどころである。船上での支配はすべて船頭の一存ではあるが、トモ押しと相談する事も多かった(ながのう投入時の支配は、トモ押しにあるという説もある)。漁場に到着すると夜明け間近に投入し始め、最後の桶を大体「前の浜」附近で投げる頃、ようやく太陽が昇りはじめる。普通、この繩を八つ投入した。一桶約五〇〇尋、一導一・六㍍として計算すると、約八〇〇㍍であるから全部では約六四〇〇㍍となり、勝本、郷ノ浦間の約半分ぐらいの距離となるのである。地から沖に向って繩を入れてゆき、ぜんぶいれおわったあとで繩まわりをして再び地の方からあげるのである。ブリは、繩の沈む途中で食うものとされている。夜が明けてカモメの群が舞いブリが湧くようだったらしめたもので、大漁は間違いない。
しかし繩を揚げる時も大変である。潮時によっては下げ潮の速いさかりに揚げなければならない。先そびきの者は裸になり布製の手ゴー(指にはめるのを指ゴーという)をはめて後そびきの者と二人で(時には三人で)一生懸命に引張った。先そびきの者は海底から船迄の間に、大体何本ぐらいブリがくっているかわからないと一人前とはいえない。やがて下の方からヒラヒラと、次々に大きなブリが揚って来ると、船上に活気がみなぎるのである。大漁のことを「百釣(ひやくづり)」と呼び、五〇本以上釣れると「トモ押し」は「おしあげ」という特別手当、ブリ一本がもらえた。大漁をした時は「オモテ」に旗を一本立てて入港した。

石にもブリが
ブリの食いのよい時は、重り用の手(て)石(いし)にも食い付いてあがってきた。手石とは、にぎり拳ぐらいの大きさの金石(かないし)で中ほどをしばり、着脱のしやすいようにしたものである。繩を沈めるために所々の枝釣につける(大体一〇本に一個)。浮繩の場合は竹のタンポコ「竹筒」を同じように着けて使用し浮かせる。この手石は縁起が良いとされ、記念、御守りとして家の床の間、神棚によくかざられた。
あれから数十年経過し、古老達の話をもとに当時の船頭方を探すのだが資料を保存してある人はなく見つからないのは誠に残念である。

戦後の延繩
この漁法は、その後も続き、戦争中は一時種々の事情でおとろえたものの、戦後再びさかんになった。隻数も増加して(焼玉一〇馬力―一五馬力)呼子船のイカを生かして一本ずつ掛けてやるイカ一ぱい掛け漁法が伝わり、昭和三〇年代初め頃には最も盛んになった。
勝本における戦前のブリ繩は、「コスイ上品」であり、大体浜の方をやり、荒い瀬(曾根)の上などは乗りこえられないとされていた。特別製の瀬繩と称するものもあったそうであるが、これとて呼子船のものと比較すれば親子ほどの違いがあり、あんな大きな道具によくブリが食うものだと感心したものだった。戦後一四、五年もたつと、魚も少なくなり反対に船は多くなるといったことから、曾根の上が成績も良く、みんな七里ヶ曽根附近に集中するようになった(灯見重なりが最高の漁場であり競争でここにはえたものである)。
従って繩も荒い瀬に耐え得るべく、ムノウを大きくし間も枝も短かめ、釣数も五〇本とへらしていった。

二番繩
中上長平翁の項にあるように、従来日の出前に投入しないとブリは食わないものとされていた。これに疑問をもった翁は、いろいろと試験してみたのである。その結果、ブリが湧けば日の出以後に投入しても食うことがわかった、おそくても釣れたのである。しかし和船では朝の一番繩だけで精一杯、とうてい二番繩はやれなかった。
しかし二番、三番とやるようになったのは、やはり機械船になってからである。朝は不漁でも昼から釣れることもあって、これも動力船ならではのことである。

エサ取り
戦後の一時期、マメの生きがけとなったため、エサ取りが大変であった。五〇本づけを七、八桶やるとすれば約四〇〇本はいるし、二番繩、三番繩用ともなると最低五〇〇本はいることになる。沖止めの旗が立っても行かねばならず、すぐに取れる時はよいが、風波があるのに遅くまで辛抱するのは辛いことであった。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社