天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史78

勝本浦郷土史78

営に悩んでいた。当組合も、資金の運営に困り、漁業者の水揚げ代金の支払いにも支障を来すようになった。従って、借入金に頼らざるを得なくなり、県信連、十八銀行、九州相互銀行、勝本農協等に依頼したが、各機関共に、組合の経営状態には警戒して貸付を渋り、申し訳的に僅かな金額しか貸さなかった。その当時、農協信用部は、三〇年の歴史を持っていた。貯金残高も郡内では一位であった。農協信用部がこのような経営状況の中で、漁協もできない筈もなかったのであると思われるが、何時の時代でも金融機関の争奪は費しかった。十八銀行は、毎日外務員を派遣していた。福岡銀行、九州相互銀行の両出張所も黒瀬の中央にあった。そうした中に漁業協同組合は、創業して日猶浅く、こうした金融機関と対抗して、信用部を創設するまでには、いまだその機が熟していなかった。仕方なく、地元の個人より、月二分又は、二分五厘の高利にて、金を借りて運営する状態であった。その当時の組合の役職員も今日と違って、大変苦労したものである。当時、月二分以上の利息を払って、組合運営をしても僅かの手数料で、堅実な運営ができる筈もなかったが、そこまで追い詰められていたのである。このような時であっただけに、早く信用事業を着手しなければならないのであったが、開始して軌道に乗るまでには、考える以上にむずかしい問題が多くあった。それは、預金するにしても、貸出しするにしても、相手を信ずる事が最も要求されるのが金融業であり、預貯金する人の心理でもあるが、水揚代金の仕切りも心配しなければならない組合に、信用部を開設しても、他の金融機関の預貯金を鞍替えする事は容易に考えられない。

強力な貯蓄運動の展開
 それでも昭和二八年、県信連等の支援もあって、信用部事業は誕生したのである。この事業には、熱心な経験者を必要とした。時の町長斉藤政平は、勝本農協の理事として、農協の貯蓄奨励に活躍していた。岩谷末太郎氏を主任として起用する事を組合にすすめ、その態勢ができたのは、二八年九月であった。昭和三〇年には、前の漁協(今日の郵便局)川崎嘉一郎所有の敷地を譲りうけ、三一年事務所を増築して、信用部を一新して「漁業者の貯金は漁協へ」のスローガンを掲げて戸別訪問、各部落の懇談会等、強力に貯蓄運動を展開した。こうした事から漁業者のための、自分達の信用部であるという組合意識が高まり、貯金も順調に伸びていった。間もなく、福岡銀行も九州相互銀行も支店を閉鎖したため、その影響で急速に、漁協信用部貯金も増加するようになった。これは漁協信用部が急速に伸びたために、九州相互銀行も福岡銀行も、制圧したことを意味するものである。
 昭和三五年、国において、沿岸漁業整備促進法が実施され、組合員の漁船建造及び、設備資金の貸付等、比較的に簡単に借り入れが出来るようになり、このために漁船も、次第に大型化、スピード化されるようになり、水揚げも逐次上昇していった。しかし、その反面には、漁家の経済は矢張り、板一枚下は地獄という、昔からの譬のように、危険な仕事であるだけに、生活面にも漁民の一荷捌きという、無計画な生活が多く見られた。

漁協婦人部の活躍
 そこで漁協婦人部の活動を利用して、月給制が実施されたのである。その内容は、漁業者の水揚げ代金を、一応全額信用部の預金に振り替え、それを毎月金額を定め月給として、生活費に支払う制度であった。これこそ漁民の生活改善の一大変革であると、自分も当時思った程である。しかし、急速なる景気の上昇と、漁民に月給制はなじめず、収入のあった時は消費し、収入の少ない時は質素な生活に我慢する、昔からの培われた慣習は根深く残り、直すことはむずかしく、月給制も一時はよろこばれた時代もあったが、自然消滅という結果に終わってしまったが、月給制の折の婦人部の日記帳の方法、月給制の頃の無駄な金は使えない、始末しなければならないという、月給制の頃の婦人部の教育は実を結び、貯蓄心を涵養し、預金は年毎に高くなり、僅かに二〇年足らずにして、県下でも優秀な漁協信用部となったのである。
 昭和四六年には、勝本町も地元に信頼される信用部が誕生した事により、勝本町も十八銀行指定金融機関を廃して、勝本漁協信用部本町の指定金融機関として指定し、名実共に勝本町の金融機関としての使命と責任を持つようになった。昭和四七年には、寿楽荘(長島邸)二二〇坪を買収して、四九年現在の漁協信用部と、漁民センターと駐車場を、勝本中央部に建設したのである。内部の近代化に於いては、昭和四八年に電算機の必要に迫られ、高度な電算機を導入した。しかし、六年後には多様に複雑化する金融状勢に対応するため、昭和五五年に単協独立の、コンピューターの導入を実施した。昭和四七、八年頃から、日本海のイカ漁が盛んになり、益々漁船は大型化され、平成元年には漁船数も七〇〇隻を越え、信用事業も貯金高は七四億円を越え、貸付金は四九億円とそれぞれ急速な伸長を遂げている。斯うした発展は、役職員のたゆまぬ努力は勿論であるが、漁協婦人部、青年部の協力も大きな力となっている。しかし




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社