天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史84

勝本浦郷土史84

の対抗上、これも長続きせず、暫くは燭光自由の時代も続いた。
 発電機によって、イカは獲れるようになったが、機械の音は高く、発電機は故障が少なくて、回転が安定した機械でなければということもあって、折りからのデイーゼル化に拍車をかけることとなった。この頃から次第に増灯競争が始まったのである。表に二個、船尾に一個の、勝本船で制限された方式で、何処に行っても勝本船と判る如くよく守られ、対馬に行っても制限された方式で、イカもよくとれていたが、対馬船その他の船が、大燭光になるに従い、その明るさは三個位では、近くの大きな燭光に寄せられて、イカは移動してしまうのである。こうした事から、制限された燭光も問題となり、段々増灯されるようになった。他に負けてはならないと思う、人間としての根性は当然のことである。又近年、昭和六〇年頃から、猶一層強力な放電灯が流行し、この放電灯を取り付けないと、人並みの道はできないとして、
多額の金を工夫して据えつけている。結果的に漁民の生活は、こうした機械化によって、増収になっていったが、無理して借金して設備して、返済期日がくると、多くの漁家が返済に苦労しているようである。瓦斯ランプやバッテリー時代より、生活はたしかに向上している。世のすべてがこうして機械化されてきたのである。勝本の漁民だけが、旧態然とする事は許されない事であるが、しかしこれでよいのであろうかと、第三者的に考えることがある。それは自動操舵機の普及である。人間のかわりに、機械が舵を取ってくれるという、便利なものが登場し、多くの船に装備された。しかし、この自動操舵機は、目的場所に一直線に進むだけで、障害物が前面にあっても、これを避けることはできない。かえって機械を頼り過ぎて、油断すると、大事故になりかねない。すでに勝本漁船にも、残念ながら、大小この操舵機による事故が、多く発生している。全国的にも、海難事故発生の原因として、自動操舵機が挙げられている。機械に頼り過ぎる事も心配しなければならない。

特殊船団
 昭和四〇年代は、スルメイカ漁の最も盛んな時季であった。それは漁法の著しい進歩と、漁船の大型化等によるものである。当時日本全国、イカの資源は無尽蔵であると考えられた程で、イカは多かった。イカの価格も他の魚に比べて安定していた。長い年月ブリ釣りを得意としてきた勝本漁民であったが、逐次イカ漁に転換せざるを得ない状況となって来たのである。しかし、五トンから十トン位の船で、郡外船と一緒に操業して見ると、集魚灯の違いは大きく、太刀打ち出来ない状態であった。従来イカ運搬船組合では、日和見をして安全操業につとめていた。しかし荒天時、勝本では沖止めしている時に、郡外船はイカを大漁して、勝本漁協に水揚げするのであった。同じ漁民として、これ程口惜しい思いをする事は耐えられない事である。大型船を造り、沖止めされない、自由に操業したいと考える人達が多くなった。このように考えを持った人達が集まって、大型船による、イカ漁の自由操業を訴えた。しかしこのような少数の意見に、耳を傾ける人は少なく、日和見による安全操業という意見が強く、長い伝統の壁を破るのはむずかしい事であった。しかしそうした少数の人の熱意は昭和四二年、二月の総代会において、十五トン以上を特殊船制度として、認める事となった。そして五月の総会で、条件付きながら承認された。この時は該当船はいなかった。其の後十五トン以上の船であれば、イカ運搬船組合の一員であっても、定期沖止め以外は、自由に出漁出来るようになった。昭和四三年、勝本の特殊船第一号の末吉丸が進水した。第二号に日の出金比羅丸、次に島本清勝丸が進水して、三隻の特殊船は、冬期はイカ漁、夏季は撒落し操業をして、成績もよく、水揚げも増大した。
 このような事から、次第に特殊船は増えたのである。ところが冬期のイカ漁はよいが、夏季には漁を他に切替えねばならなかった。この頃対馬では、大型船は夏季には山陰方面に出漁して、境港や、能登半島付近の漁場で、イカ漁をしている事が判り、昭和四五年調査研究して、方々に出漁許可を依頼したが、県外入漁は当時容易な事ではなかったが、四五年に試験操業の名目で金沢の大野港に入港が認められた。これが認められるまでには、長崎県水産課や勝本漁協という、大きなバックがあったから、むずかしい交渉も成立したのであった。そして四五年六月、十隻の船団が盛んな見送りをうけて、勝本港を出港した。これが今まで県外出漁した事のない勝本漁船の県外出漁の始まりであった。母港を遠く離れて、長期間の船住まいであり、しかも乗組員の大半は若い青年である。幾日も沖で操業して、満船して入港する解放感から、上陸地で間違いでも起こしたらと、船長はこの事を最も心配したのである。事実北陸や山陰の港に入り、土地の人達の話では、以前他県の船が入港し、その乗組員が不始末をした事が、何処の港でもあったという。ところが勝本の船団の行動は、このような不始末はなく、反対に入港地ではいづこも好評を得たのである。勝本では特殊船と呼ぶ程に、大型の十九トン型も、日本海に集まるイカ釣り漁船の中では、最も小型船で、他県では見られない特殊なイカ釣り漁船であった。つまり日本海の直只中(大和堆)まで来る、特殊な小型船という事で、北陸方面では特殊船と呼ばれ、特異な存在であった。戦時中の特攻




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社