天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史85

勝本浦郷土史85

隊のような存在と見られたのであろう。しかし船の性能、乗組員は優秀で、イカの取扱いも、他県の大型船をしのぎ、鮮度のよいイカを多量に水揚げするので、何処の港でも評判はよかったのである。特殊船の収入は勝本漁民の羨望する事になり、十九トン型の特殊船は次々と増えていった。そして夏冬操業するようになった。四七年には出漁船数も増加して、漁協役職員も入漁交渉で忙しくなり、又積極的に奔走した。漁港の都合で、金沢や新潟に、全船入港はできないので、山形県の各港に分散して入漁したのである。四九年には、北海道函館港に十隻入港した。昭和四九年イカ運搬船組合から、特殊船は独立して、県外イカ釣船組合が発足した。加入隻数は五四隻(うち登簿漁船三隻を含む)操業規約等もでき、それをもとに運営並びに操業を実施して今日に至っている。

中型船団の県外出漁
 壱岐対馬沖のイカ資源が著しく減少したため、十トン前後の中型船も、四七年六月、県外出漁を試みたのであるが、前以て県の入漁許可も取らずに出演したため、金沢、新潟、酒田方面に流転した。そこで漁期を完えて帰り、早速船団代表は、漁協役員と共に、各市場と漁協及び各県庁に入漁交渉し、四八年六月許可を得て、中型各船は、遠く山形県豊浦から、佐渡ヶ島方面にまで出漁した。当初は好成績であったが、イカ資源の減少に伴い、他県船の大型化が更に進み、この漁場付近には、大型船が多数集まった。従って中型船では対抗する事ができず、加えて能登半島、佐渡ヶ島周辺に、イカの回遊が減少したために、僅か二、三年にして、中型船の県外出漁のマメイカ漁は、諦める事となった。代わりに夏期における、福岡県、山口県沖の、剣先イカ漁がさかんになった。イカ獲り漁業者にとっては、四〇年代は順調に過ぎようとした。しかし最後の四九年になって事態は一変し、厳しい五〇年代に突入した。それはオイルショックによる、油の高騰に始まり、水銀汚染問題による、魚価の暴落、続いて起こった二〇〇海里問題での、日本漁船の締め出し、更に年々増大するイルカの食害問題、外国漁船の領海侵犯、他県船の密漁等、悪条件の連続であった。このような厳しい条件の中で、イカ漁は減少の一途をたどり、四九年五〇年は、まめイカも絶滅したのではないかと心配される程、漁獲高は減少した。そのため特殊船の存続も危ぶまれる事態となったのである。ところが、五一年頃からまたイカが獲れ出して、漁民をホッとさせた。その後も特殊船の危機が叫ばれながら、今日迄順調な漁獲を揚げているといえよう。勝本の漁船による、イカは剣先イカ、まめイカ共に、順調に伸び、昭和四八年頃まで、イカ漁とブリ漁の漁獲量は、相半していたが、昭和五一年からは、続くブリ漁の不漁のため、イカ漁が量的にも、金額面においても、はるかに優位に今日まで続いている。

第十五節 鋼飼付事業の再開と定置網
ブリ飼付事業再開
 七里ヶ曽根ブリ飼付事業は、昭和五年に開始し、十一年間勝本漁民にとってはかつてない好景気をもたらしたが、終戦後、対馬周辺の佐須奈、小茂田その他の漁場にて、鰤の飼付を再開して、年々相当な成績をあげていた。
 勝本漁協としても、過去の七里ヶ曽根のブリ飼付事業の夢去り難く、事業再開の機運が高まり、昭和二六年の組合総会で決議し、八月より漁協の自営事業として再開した。しかし成績はあまりかんばしくなく、二六年と二七年継続して操業したが、欠損金を出したため、二八年には閉鎖した。

手長島の定置網事業
 勝本漁協の定置網事業については、従来よりいろいろ論議がされてきた。壱岐で箱崎漁協が定置網事業により、組合の運営も安定している事等もあって、勝本漁協としても、平素組合員より水揚手数料の引き下げ等の要望があり、何か自営事業を行い、利益を得る事により、組合員の手数料を引き下げ、負担を軽くしようと、大洋漁業又は、県水産試験場に漁場調査を依頼したところ、湯の本の手長島沖合が、定置網漁場として適所であるとの回答をうけた。総代会や総会においても、組合の自営事業は避けるべきであるとの、一部の反対者もあったが、夢を託して実施する事で議決された。昭和四〇年十二月より、下漁業定置網事業として、従業員十八名にて、浦海を基地として開始された。
 以前大正から昭和の初期にかけて、ブリ飼付漁業が、湯の本の資本家によって操業された事もあって、組合役員も従業員の期待も大きかった。しかし、七年間継続され、漁不漁もあったが、七年間の総水揚金、六三、〇七六、〇六一円に対し、支出六一、九八七、二四七円で、差別利益金一、〇八八、八一四円で、共通管理費に六、〇〇〇、三一〇円を引けば、四、九一一千円の純損金となり、五〇〇万円近くの欠損金を出したため、四七年には閉鎖された。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社