天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

勝本浦郷土史86

勝本浦郷土史86

上漁場ブリ定置網
 組合も自営事業を行う事によって、その利益を組合の手数料の引下げまた指導事業の強化を目的として、昭和四八年から五〇年にかけて、七里ヶ曽根にブリ飼付事業を操業して、多額の欠損金を出して中止した。又昭和四〇年十二月より下漁業定置事業で、七年間にて約五百万円近くの欠損金を出して四七年に閉鎖した。斯うした経験を幾度か重ねて、組合の公営事業の困難な事を承知しながら、今迄の飼付又は定置の欠損金を取り返そうと、今度は天ヶ原四険滝長瀬沖に、親族定置を操業する事とした。頭領副頭領三名と八名の従業員で、昭和五一年春より開始した。
 初年度は試験操業で順調な水揚であった。五二年からは定置網の有効利用で実績をあげるため、総会で下漁業の本宮山折柱沖漁場の同意を得て、同時に二カ所の操業を試みたが、新漁場での定置敷込の事でもあり、地区外の漁船が定置網の中にとびこんだり、ロープの切断事故が再三起こり、定置従業員を苦しめた。
 一回の事故修理でも一〇日間から、二〇日間を必要とするだけに、水揚高を左右する定置事業は、三月から五月が盛漁期であって、この間に事故が再三に渡り、発生したのも、欠損金を出した大きな原因であった。昭和五四年六月まで、天ヶ原斜路用地横を基地として操業したが、閉鎖のやむなきに至った。

第十六節 磯漁
磯漁には魚介類の採取と、海草採取に大別される。

魚介類の採取
 魚介類にはアワビ、サザエ、トコボシ、ウニガゼ、ナマコ、アサリ貝等がある。以前はアワビも多く採取されて、加工して輸出されていたが、近年は採る人も少なく、全体的に資源が少なくなっているようである。
 主な魚礁は、漁協にて禁漁区とされ、禁漁以外で、特定の人が潜水衣を着て採取している。アワビ、サザエは、観光客が多くなり、喜ばれる事から、今日でも高級品で、値も驚く程高値にて、旅館民宿等に売られている。ウニガゼ類は、勝本に数軒の加工業者に漁協にて年毎に入札され、その値にて採取者と取引がなされ、加工業者にて加工され瓶詰めとして、土産用に、又都会の業者と取引され、高値にて売買されている。近年港湾の警備等による埋立や海岸保全工事によって、磯場の範囲が徐々に狭められ、素もぐり等による採取がなされている。今後磯場造りには町も、漁協も、力を入れなければならない重要な問題である。
ナマコは、魚類に入るか、貝類に入るか、棘皮動物に属するようであるが、近年市場に於いてもセリに於いても、ナマコは余り見かけないようである。少なくなったのか、取る人が少なくなったのか、海藻類が汚染の関係で少なくなっている事から考えると、ナマコも少なくなったのであろうか。以前は銛(もり)竿(ざお)すもぐり等で、多く採取されていた。中国料理には「ハイセン」と呼ばれて、欠かせない料理で、以前は輸出されていた時代もあったように聞いているが、現在では湯の本地区の特定の人が採取して、一般の人の取る人は少ない。
 アサリ貝は湯の本に多く産していたが、海岸の埋立等で、潮干狩りする場所もほとんどなくなって、アサリを採る人も余り見ない。
 勝本に於いては、二代原田元右衛門は、勝本に蛤の産せない事を憂いて、良種を求め沙汀に投じて、養殖をされたと誌されているが、以前は辰の島等にも蛤をよく見かけたが、近年ほとんど見られない。
 アサリ貝も以前は至るところの浜に、アサリ取りをした事を憶えているが、港湾が整備されて、アサリを取る所はほとんどなくなった。

海草類の採取
 海草類としては、ワカメ、カジメ、ヒジキ、モズク、テングサ、フノリ、アオサ等品種も多い。カジメは明治から大正年間には、薬用として利用され、沃度製造工場も、坂本触の田口沃度工場、馬場崎に中上沃度工場があって、採取する人も多く、原料も海底に多く繁茂していたが、それでも原料が不足して、島外から買い求めて一時は盛況を極めていた。
 第一次大戦終了と同時に、薬用沃度暴落のため、工場も経営困難となり閉鎖された。その後カジメ採集は、途絶えていたが、昭和二七、八年頃から、琴平町の土肥アンゴラさんが、終戦後のアンゴラ兎の飼育




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社