天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史90

勝本浦郷土史90

カが少し大漁すると、組合もその処置に困った。特に漁が幾日も続くと、加工業者も整理出来ず、徹夜の仕事であるだけに、疲れもあって、沖止めを組合に申し出る事もあった。それでも自家加工をする者は稀であった。婦人部によって、出来る限り、自家加工を奨励した事によって、大多数の漁家が加工するようになった。そして漁業組合にて一元集荷する事によって、組合の歩金も入り、漁士も安心して出漁する事ができたのである。剣先するめの自家加工も、馴れない故もあって、当時は製造の品質もわるく、京阪神方面でも漁連の入札も、他漁協に比してよくなかったが、婦人部で研究にとり組み、自家加工体験発表会等を実施したり、組合の集荷の際の検査を厳しくしたりして、指導する事によって、品質も向上していった。

婦人部の漁協及び信用部に対する協力
 漁協婦人部が設立されて四〇年を経過した今日、漁協の運営も青年部、婦人部の協力と、県町の協力、組合役職員、漁民一体となっての協力によって、当時とは雲泥の相違があり、素晴らしく発展向上した。そしてあらゆる施設が完備した。壱岐の他の組合は赤字であるが、勝本の漁協は、毎年僅かであるが、黒字が続き、順調な運営を続け、信用部の運営も婦人部の協力によって益々発展し、預金高も単協では県下一といわれている。するめの値段も、外国品の輸入等によって、著しく下落し、その反面いかの生鮮食品として、需要も多くなり、今日ではいかを加工する必要もなく、鮮魚として全部搬出される時代に変容した。こうなると、婦人部の今日迄尽くしてきた事業の主なるものは、事完れりの感がしないでもない。大きな業績を残して、今後婦人部は何を為すべきであろう。新しい発想の下に、新しい展開を模索しなければならない。貯蓄観念は定着したが、船家等の建造借金を抱えて、その元利金を支払ってゆくのに、窮々としている家庭が多い。福祉が充実してきたので、飢える人はいないが、やりくりに悩み苦しんでいる人は、以前より多くなっている。神武岩戸景気を凌ぐ好況の時代もあった。如何にして漁家の生活の安定を計るか、青年部、婦人部と共に、掘り下げて研究し、今後の活動に取り組む必要があろう。然しそれは、今までの過渡期を青年部、婦人部が、自分達の力で、改善に取り組んだように努力しても、直ちにむくいられる問題ではないであろう。海の資源は無限の時代より、有限枯湯の時代へと、進みつつある。乱獲、工場排水、家庭の洗剤使用も、その原因であり、水温の暖水化も大きな原因であろう。
 家庭の洗剤使用、食用廃棄物の海中への投棄は、婦人部の最も心すべきことであろう。

第十九節 勝本漁業年表(判り易く勝本主要年表別に記した。(主な所は重複している)

寛永 元  深沢組田の浦にて鯨組を創業、網代は辰の島羽奈毛に固定していた。
享保 年間(一七一六ー一七三六) 勝本漁家にマグロ網案出ありと、壱岐郷土史に記せり。
元文 一  勝本土肥市兵衛、独立して捕鯨組を組織する。
天文 一  勝本土肥組、益富組、隔年毎に田の浦及び恵比須に捕鯨をなす。
天保 一一 八 原田光右衛門(二代)捕鯨業を許され、一四年間捕鯨業を経営する。
嘉永 七  原田七之助(五代)捕鯨業を許可され、元治元年(一八六四)藩主より、献金の功により、永取姓を賜り、以後永取姓を名乗る。
明治 一〇 年頃マグロ漁が盛んであった事が記され、磯立網もこの頃からである。明治の初年ブリの夜釣りが家室船から伝えられたという。
   三〇 年頃はヤズ漁が盛況、サンマ細も明治の中頃から導入されたようである。
   三五 中上長平翁は羽魚の流し網、マグロ流し網を考案する。
   三五 石油ランプが発明されたのは明治五年頃であるが、漁船用として勝本で使用されたのは明治三五年頃からである。
   三七 旧一 一六日勝本浦の漁船七量遭難して以後、日和見旗立制実施される。
   四〇 壱岐漁業組合発足(初代組合長白川助太郎)、当時は組合員に漁業者は少なく、壱岐の資本家が組合員で、漁業者は従業員であった。
   四一 鯨伏村も原周蔵氏が発起人となって、漁業組合を結成、認可される。
大正 初  大正の初期には、湯の本にシラスが豊漁、イリコと肥料に製造された。大正年間、薬用として沃度製造が盛んで、馬場崎に中上沃度製造、タンスに田口沃度工場があって、一時は盛況を極めた。
   九  勝本浦に始めて動力漁船が建造される(焼玉エンジン)鹿の下東和合丸。その頃の和船数約二三〇隻。大正の末期にイワシ網盛漁、船数三〇余隻、主として羽魚網業者。
昭和 元  この頃より壱岐ブリ飼付漁業会社により、ブリの飼付漁業が始まり、勝本の漁民、ブリの不

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社