天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史91

勝本浦郷土史91

漁に苦しむ。
   二  勝本の漁船集魚灯に石油ランプに代わり瓦斯ランブ普及する。
   三  勝本浦における動力船五一隻、無動力船二七〇隻、計三二一隻。
   四  九 壱岐ブリ飼付漁業のため、七里ヶ曽根荒廃して不漁が続き、勝本の漁民総代、飼付総会に出席して、漁民の窮状を訴え撤廃を求める。
   四  勝本の西部青年会員約三〇〇名、ブリ飼付全廃を叫んで、郷ノ浦に押しかけ、交渉しようとしたが、警察署員に阻止され、目的を達し得なかった。
   四  この飼付全廃を叫んで、生徒の登校拒否、納税不納を申し合わせる。
   五  九 香椎村漁業組合とは別に、勝本ブリ飼付漁業組合を結成する。組合長大久保平三郎、組合員四五九名、漁船数動力船六七隻。
   七  四 長島俊光、香椎村漁業組合長となる。
   七  七年―一三年まで下関船喜商店、油政商店と組んで、郡外の済州島、対馬の西泊港、山口県の江崎、島根県の大浜港まで飼付漁業に進出する。
   一〇 四 香椎村を勝本町に改称のため、香椎村漁業組合を、勝本町漁業組合に改称。
   一一 四 湯田の浜を埋め、約四〇〇坪を造成、一日一〇トンの製氷所と三〇トンの貯氷庫を建設して、漁業用の氷の安価供給をはかる。
   一一 六 勝本町漁業協同組合設立認可、組合長に立石幸吉氏就任。
   一二 一 大久保兼之助氏方二階を事務所に、棚を荷捌所として、共同販売事業を開始。
   一二 六 長崎県漁業組合連合会に加入。
   一二 一〇 以前の事務所敷地に、川崎立石両家より九六・二坪の土地を譲りうけ、事務所、会議室、荷捌所を建設する。
   一三 三 石油類の共同販売事業を企て、原田元右エ門所有の二五〇トン重油槽並びに石油貯蔵庫買取。
   一三 漁具及び船具の購買事業開始。
   一四 共同曵船を企て、県費補助をうけ、翌一四年四月第一勝漁丸進水。
   一五 飾飼付事業開所以来盛況が続き、漁民の生活を潤していたが、一五年不通となり中止した。
昭和 一六 八 勝本ブリ飼付組合は勝本町漁業組合と合併する。
   一六   勝本における動力船一八六隻、無動力船一七〇隻、計三五六隻。
   一九 五 国家総動員法により、勝本漁業組合は命令により解散する。
   一九 七 翼賛政治による国の協力機関として、勝本町通業会発足する。
   一九   役員は官選となり、会長に町長吉田覚太郎氏が就任。
   一九 鯨伏村漁業会設立、会長に原周蔵氏が就任。
   二一 この年から再びイワシ網復活し三五年まで続いた。
   二二 二 平畑福次郎勝本町漁業会長となる。
   二三 四 集魚灯も瓦斯ランプより電化され、バッテリーの充電施設が必要となり、仲折弁天崎に充電事業を開始した。(三二年四月閉鎖)
   二四 八 勝本町漁業協同組合設立認可、初代組合長平畑福次郎。
   二五 この頃より動力漁船の建造多くなる。
   二五 三 漁業組合施設用地として、仲折古敷浦防波堤内側一、二〇〇坪を埋め、造船所、上架施設、機械修理工場等の漁協施設用地となる。
   二五 八 立石福太郎、勝本漁業協同組合長となる。
   二六 第二勝漁丸(一五トン)進水する。
   二六 八 七里ヶ曽根に再びブリ飼付事業を試みたが不漁のため閉鎖した。
   二七 二 勝本漁協婦人部結成、部員約三〇〇名。(初代部長 阿田スガ)
   二七 李承晩ライン宣言。漁業範囲制約うける。
   二七 勝本漁業協同組合は、長崎県モデル漁協建設の指定をうける。
   二八 六月 勝本漁協青年部結成、部員約三五〇名。(初代部長 松尾政太郎)
      一日
   二八 勝本漁業協同組合、再建整備組合の指定をうける。
   二八 勝本漁協信用部開設される。
   二九 煮乾しの原料のイワシの抄い網好成績で、浦中煮干しで活気を呈する。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社