天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本浦郷土史96

勝本浦郷土史96 

結して、七里ヶ曽根に、ブリの飼付をやるというような、智恵というか、対抗手段は考えられなかったのであろうか、只実力行動によって、飼付全廃を叫んで、児童の登校拒否、税の不納や、町内をゼネスト等の、示威行動をした。
 反面実力者に頼り、支庁、県庁、飼付会社に、勝本の漁民の窮状を強く訴えたが、県としては一度許可した事業である、勝本漁民の苦しみは十分察知しながらも、簡単に全廃するのは不可能として、七里ヶ曽根にブリ飼付漁を許可する事にした。昭和五年九月、早速香椎村漁業組合とは別に、純漁民による、勝本ブリ飼付組合を創立して、操業を開始した。これが勝本漁業協同組合という、自らの手によって、創設した組合組織の始まりであり、世の趨勢でもあったのである。

壱岐ブリ飼付組合との対立
 大正の中期より後期にかけて、鹿児島県で開発された新しい漁法であるブリ飼付は、その好況が伝えられ、忽ち日本国中に広まった。壱岐においても壱岐郡ブリ飼付漁業株式会社が設立され、事業を開始したが、それは壱岐の資本家だけによって組織されていた。免許範囲も壱岐の近海のほとんどに渡り、勝本町内の沖合火棚曽根も、鯨伏村の沖合のナンカケ曽根も範囲に入り、ただ七里ヶ曽根が残るのみであった。七里ヶ曽根は昔からブリの他魚類の宝庫といわれていた漁場であるが、盛んに撒き餌して魚を一定の場所に寄せるため、七里ヶ曽根のブリ等もほとんど餌付けされ、こうした状態の中で出漁してもブリは全くとれず、飼付会社の豊漁を傍観するばかりであった。特にその時代七里ヶ曽根の秋の夜釣りは、勝本の漁業の八割を占めていた。
 漁民は苦境のどん底に立たされ、生活は日々に苦しくなり、毎日飼付会社の豊漁を目前に見せつけられる勝本漁民の憤選は甚だしく、漁民でない資本家の組織する飼付会社に、壱岐の漁場の殆どを許可した、県当局の不明を恨んだ事は無理もない事であった。そして会社を設立してそれに加入し重役の地位にある、勝本浦の有志家に対する反感の声は、巷に満ち激しい漁民の怒りは爆発の危機を孕んでいた。当時の漁民総代沖世話人は、毎日集会を開き飼付の全廃運動を企て、その当時飼付会社の部外者であった篠崎清吉、原田元右衛門両氏の協力をうけ、支庁県当局に陳情を重ねたが、一度許可した県の意志は固く、漁家の生活は益々悪くなるばかりであった。

飼付の全廃を呼んでゼネストを行う
 このような事情から漁業者の子弟は、同盟休校及び税の不納を短期間であったが実施を余儀なくされた。漁船は連日出通せず、不平不満やり方なく漁民感情はその極に達した。その頃都会より帰勝していた血気の青年三名は、勝本浦の現状を見るに忍びず、勝本の大勢の青年を動員して、蓆旗を押し立て、飼付全廃をスローガンに、勝本浦中を労働歌を歌い叫んで浦中を練り歩いて示威運動を行った。筆者等も始めて見るデモである。首謀者三人は社会主義思想者と見られ、警察に連行された、その時代は軍部が政治に介入し、社会主義者は注目されていた頃である。このような勝本浦の動きを重視した郷ノ浦警察署は、毎日多数の刑事を勝本に派遣して警戒した。昭和四年九月二三日、壱岐郡ブリ飼付会社の重役会議が郷ノ浦清月館で開かれた、勝本の漁民総代及び沖世話人は、その会議に出席し勝本漁民の窮状を訴え、生活救済資金を要請する事を決めた。これに対し勝本浦西部青年会は、集合して協議、その交渉を不満として、この際強硬なる交渉に出て、全廃に持ちこむべきであるとして、当日青年一同は各町より漁船一隻宛出して、郷ノ浦の会場に乗りこみ、重役会議に青年会として交渉し、是非飼付全廃に全力を尽くすことに決定、明けて二四日、西部青年会員は、七隻の船に約二〇〇名の青年が乗りこんで郷ノ浦に出航した。午前十時頃郷ノ浦に入るが、会議は午後からという事で、船に待機していたところが警察の知るところとなり、各町の青年会長及び副会長は、全員本署に連行され、取り調べをうけた。後に残る青年達は、清月館に押し寄せる途中で、警察署員に阻止され、小ぜり合いはあったが、結局船に追い返され、何等目的を達する事は出来ず、帰勝したのである。会長、副会長十数名が本署に連行されたので、統率する指導力がなくなり、どうする事も出来なかったのである。しかしこの事件は当日は何の効果もなかったが、子供の同盟休校や納税不納の申合せ等を含めて、大きな社会問題として、世の注目を集める事となり、県としても既免許場の内火棚曽根とナンカケ曽根等三カ所をその後解放したが、さかんに撒き餌をやる飼付には及ばず、結果的にはブリは飼付けられたと何等変わらず、勝本の不漁は続いた。結局漁民総代沖世話人の交渉により、救済資金として三〇〇〇円の贈与をうけて、その一部を飼付全廃運動資金として使用し、残りを漁業者の生活資金に配分した。その後再度県当局に飼付全廃を陳情したが、県としては、飼付は有望な新規漁法として許可したものであり、全廃は大勢より見て不可能であるとして、全廃には応じてくれなかった。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社