天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本浦郷土史106

勝本浦郷土史106

 

飼付の全廃を呼んでゼネストを行う
 このような事情から漁業者の子弟は、同盟休校及び税の不納を短期間であったが実施を余儀なくされた。漁船は連日出通せず、不平不満やり方なく漁民感情はその極に達した。その頃都会より帰勝していた血気の青年三名は、勝本浦の現状を見るに忍びず、勝本の大勢の青年を動員して、蓆旗を押し立て、飼付全廃をスローガンに、勝本浦中を労働歌を歌い叫んで浦中を練り歩いて示威運動を行った。筆者等も始めて見るデモである。首謀者三人は社会主義思想者と見られ、警察に連行された、その時代は軍部が政治に介入し、社会主義者は注目されていた頃である。このような勝本浦の動きを重視した郷ノ浦警察署は、毎日多数の刑事を勝本に派遣して警戒した。昭和四年九月二三日、壱岐郡ブリ飼付会社の重役会議が郷ノ浦清月館で開かれた、勝本の漁民総代及び沖世話人は、その会議に出席し勝本漁民の窮状を訴え、生活救済資金を要請する事を決めた。これに対し勝本浦西部青年会は、集合して協議、その交渉を不満として、この際強硬なる交渉に出て、全廃に持ちこむべきであるとして、当日青年一同は各町より漁船一隻宛出して、郷ノ浦の会場に乗りこみ、重役会議に青年会として交渉し、是非飼付全廃に全力を尽くすことに決定、明けて二四日、西部青年会員は、七隻の船に約二〇〇名の青年が乗りこんで郷ノ浦に出航した。午前十時頃郷ノ浦に入るが、会議は午後からという事で、船に待機していたところが警察の知るところとなり、各町の青年会長及び副会長は、全員本署に連行され、取り調べをうけた。後に残る青年達は、清月館に押し寄せる途中で、警察署員に阻止され、小ぜり合いはあったが、結局船に追い返され、何等目的を達する事は出来ず、帰勝したのである。会長、副会長十数名が本署に連行されたので、統率する指導力がなくなり、どうする事も出来なかったのである。


 

第二製氷所(改め第一製氷所)
 四三年製氷所建設当時の漁船勢力に比べ、漁船数も五〇年には六三五隻と殖え続け、船型も漁業近代化により大型化して、漁場も沿岸より沖合へと進出する船が多くなり、従って漁獲量も倍加していった。また、流通面でも魚価を上げるには、鮮度の保持が重視された。勝本漁協においても、昭和四三年には、五トン以上のイカ漁船が六五であったが、四七年には、二〇四隻と三倍以上の増加率となった。中央突堤も四七年に完成し、汽船の接岸も九郵が着岸できないという事で、漁業組合の拠点とすべく、国県の許可もできた事から、中央突堤の先端を候補地として、昭和四九年度構造改善事業として、第二製氷所の建設に四九年より着工して、五〇年三月に完成した。製氷機種は、近代的な製氷機と評価されている。石川県漁連のノースター砕氷機を設備した。製氷能力日産四五トン、製氷貯氷能力一八〇トン、面積三八九平方米である。

第三製氷所(改め第二製氷所)
 昭和四四年、第一製氷所、日産十五トンを、旧製氷所跡に再建して、昭和五〇年に第二製氷所を、中央突堤突端に、日産四五トン製氷所を建設、計六〇トンの製氷能力になったが、ブリの不漁によるイカ漁の激増、漁船の大型化による氷の需要も大きく伸び、又、第一製氷所と第二製氷所が離れていることから、氷の受渡し等に不便であることから、昭和六三年三月、全自動式日産四五トンを、中央突堤東側に建設した。第二製氷所と併せて、日産九〇トン製氷能力となった。従って第一製氷所は閉鎖し、第二製氷所が第一製氷所となり、新設された製氷所を、第二製氷所と呼称するようになったのである。

第十節 漁業協同組合事務所・荷捌所漁村センター中央突堤に完成
 勝本漁協創立以来、最も画期的又有効的な建設事業は、九郵の接岸施設として築造された、築出の中央突堤に、幸か不幸は別として、九郵が汽船を接岸出来ないと拒絶された為に、全面的に漁協の使用が可能となった。棚からボタ餅とは、この事であろう。定期船が寄港するかしないかは、勝本町民挙げての活性化の素因でもあった為に、町理事者も議会としても、又商工会、公民館連合会も、定期船の接岸に懸命の努力が続けられたが、結局は八〇年の歴史に終局を告げて、事実上閉港となった。これは今後町民の損失を余儀なくされる結果となったが、勝本の基幹産業である漁業者の為には、大きな福音ともなったのである。当時としては、町の一大事業であり、町理事者、議会のこの中央突堤に対する期待は大きく、県及び国に対して、度重なる要望、陳情して、認められたものである。九郵にも接岸を強く要望する間に、昭
 昭和十一年、勝本漁業協同組合結成されるや、昭和十二年一月、魚類の共同販売事業を開始すると共に、漁船の漁具船具の購買事業を希望する声が大きく、昭和十三年一月開始したが、この時代すでに、勝本浦にも漁船漁具店が三軒あり、新しい優秀品が次々とできてくる割に、組合の漁具船具は、個人の専門店には、価格の競争は出来ても、次々に改良されてゆく改良品には、組合員の要望には添ってゆく事が出来ず、仕入れた商品は、年々改良品に押されて売れなくなり、在庫品として残っていた。その上に売掛金も出来る等、順調な経営は出来なかった。そのために、組合員より以前に注文を受け、予約のみを取り扱う共同購入の形式をとり入れたが、間もなく戦いも激しくなり、中止のやむなきに至ったが、終戦後二八年、青年部が結成され、購買品を取り扱うようになったので、組合の漁具船具の購買事業は、閉鎖されたのである。

石油類の共同販売事業
 大正九年に始めて、勝本浦に動力漁船が建造されて以来、漁船の動力化は進んで、昭和十三年には、一四〇隻余となり、その中十二馬力以上十隻は、鮮魚運搬並びに商品輸送にして、漁船は一三〇隻余である。このような動力船の急増にともない、勝本漁業協同組合は、共同販売事業を開始したが、引き続き十三年三月、石油類の共同販売事業を企て、仲折の弁天の近くに営業されていた、原田元右衛門氏の、重油二五トンタンク一基と、石油倉庫一棟を譲り受け、事業を開始した。石油の仕入れは、対馬厳原町の新出光石油株式会社と契約し、取り引きをする事にした。同じく十三年に、長崎県漁連が、その西側に重油五〇トンタンク一基と、石油取扱所一棟を建設して、漁協に経営を委託した。それ以後は、燃油の仕入れも、新出光と県漁連の二カ所と取り引きをする事になった。昭和十四年六月には、石油部事務所と、当直室を建設し、事業も軌道に乗った。その後、年々漁船も増加、大型化したことにより、取扱高も倍増して、昭和四〇年には、県漁連と交渉して、現在の仲折の埋立地に、九〇トンタンク一基を増設した。

和四七年に敷地面積八、七六三平方米、約一億八〇〇〇万円にて、あれだけの広い突堤が完成したのである。
 当時、鹿の下の旧事務所、荷捌所は狭隘で、混雑して、車が入口にあると、リヤカーも出入りできない、出入口は一カ所あるだけである。鰤が大量にとれると、浜から揚げきらず、沖中取り、又は陸から篭に入れて、道路まで並んで溢れる事は再三であった。船は際限なく殖え、湯田の製氷所に棚を造って集荷所にしたり、旧棧橋の青天井にひるいかを揚げる事も再三であり、鰤も翌日まで船積みにして、持ち越される事態もあり、従って魚は弱り、安く叩かれるという事もあり、当事者の当時の苦労も大変なものであった。

配当金の口数も給料と同じ率にする、以上のような組織によって漁船六七隻のうち、六馬力以上約五〇隻を釣船として、一隻当たり六人乗組にて、一日二〇隻、二線張り、東より順番に出漁させる。但し次年度より一線張り、十五隻宛出演させる事になる。こうして昭和五年から、昭和十六年までの十二年間にわたり、勝本漁民にとっては、未曾有の好景気をもたらし操業していたブリ飼付期間は、全国的に不況の時代で、沿岸漁業は、特に不振の時代であった。だが勝本の漁民のみは、飼付の連日の大漁により、給料あり、配当金あり、飼付当番以外の自由操業も出来るようになり、その収入ありで、非常に豊かな生活が出来るようになった。
 こうして毎年豊漁が続いていた飼付事業も、昭和十五年頃より漁獲も減少するようになった、減少の理由として種々な風評もあったが、何より戦争のため、餌用イワシが入手が困難となった事があげられている。こうして昭和十六年、事業中止のやむなきに至ったのである。
 しかし勝本の飼付事業の実績が認められ、下関船喜商店、油政商店等と合同事業として、郡外各地数カ所に、世話人釣船舟子等を提供して、飼付漁業を操業しているが、内容は省略する。
 幸いにして、昭和五年より十年余に亘り、勝本漁民にとっては、未曾有の好景気をもたらした。
昭和七年四月、謙業組合の性質上、純漁村の純漁業者のみを以て、組織すべきであるという趣旨のもとで、香椎村漁業組合と分離して、勝本漁業組合を設立、初代組合長に、長島俊光を推選した。その折地先の漁業権の関係で紛糾し、磯のウニ、カゼ、海藻類の採取については、将来共に漁業者以外の者でも、採取出来るという条件で分離が成立した。

勝本漁業共同組合設立
 時代の趨勢に伴って、組合員の福利増進を計るためには、経済事業を推進すべきであるという、考え方が組合の幹部及び、組合員の中に根付いて、組合員の出資金制度によって、組織の運営を諮るために、組織の設定を樹立して、県に申請した。県の指導員が派遣され、設立委員を推選して、県の指導をうけて、昭和十一年六月に、保証責任、勝本町漁業協同組合の設立が認可された。出資金、一口三〇円の外に、保証金二〇円として、組合長に立石幸吉を推して、発足した。当時加入した組合員数は、三七四名、出資口数は四八六口である。早速事業を開始する事となり、同十一年に製水事業、続いて、販売購買事業、船舶、イカ加工等の事業に着手する事になった。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社