天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本浦郷土史105

勝本浦郷土史105

 斯くして、勝本漁業協同組合が設立されるや共同販売事業のための、荷捌所及び、組合事務所の建設、十三年には船具漁具類の購買事業、石油類の共同販売事業、スルメの共同加工事業、十四年には、石油類購買部事務所の建設、水産倉庫の建設等、次々と組合員の要望に応えて、設備を充実していった。
 又、昭和十三年には、運搬船の建造を計画した、その頃は夏いか釣りの、無動力船も数多くいた、その和船を魚場まで曳航したり、ときには救助船としての必要があり、共同曳船及び、救助船という名目で、県に申請して補助を受けた。
 昭和十三年十二月着工、十四年四月進水、しかし昭和十八年太平洋戦争激化中に、軍部より徵用をうけ、南方へ航行中、台湾付近で爆撃をうけ、沈没したのである。乗組員の平田鶴太郎船長外、四名が戦死された。
 漁業協同組合設立以来、急速に種々の事業を開始し、順調な経営を続け、事業も進展しつつあった。しかし十六年より、太平洋戦争に発展し、世相も一変した。戦争により、召集徵用等、多数の青壮年者は、戦場に出て行き、漁業者はほとんど老齢者のみとなった。従って漁船の大半は、売却する等して、勝本の漁業の様相も変転したのである。
 昭和十九年に、国家総動員法の発令となり、勝本漁協にも、昭和十九年五月解散命令が発令せられ、保証責任勝本漁業協同組合は解散した。

勝本町漁業会となる
 昭和十九年度に、漁業協同組合解散されるや、早速漁業会組織の指令が出された。漁業会結成の計画は、早急に行われ、十九年六月に設立し、総会が開催された。七月に認可され、八月に登記を完了し、国家総動員法に基づいて、大政翼賛政治による、国への協力機関として、勝本漁業会は発足した。役員は全員(官選となり、)会長には勝本町長吉田覺太郎、理事に町助役永元久造、漁民側より立石幸吉、平畑福次郎、松尾常太郎の三氏が任命された。
 昭和二〇年、八月戦争は集結し、召集徴用に出て行った組合員も、徐々に帰郷し、漁業に従事したが、漁船は少なく、中古船等を探し求めての出漁である。その上漁具はもとより、燃料その他の資材も不足し、困難な時代であった。漁業会としても、事業以外に、国の指令によって、物品の配給機関として、漁業用資材はもちろん、其他衣程品、日用品まで配給していたのである。あらゆる物質は欠乏し闇取引が横行した。特に引揚者は住むに家なく、働くに職なく、仕方なくするめいか、ブリ等の魚を、福岡等に警察の目を逃れて、二倍三倍の値に売って闇商売をして、生活する者が多かった。
 ブリ二、三本かくして福岡まで、往復運賃を払っても、どうにか貧しい生活を支えて行くことができた。その位に都会の物質は欠乏したのである。お金はあっても品物が無いのである。
 漁業会としても集荷した魚を、公定価格で売っても、組合員の利益は僅かである、闇値を知っている組合員の不平不満に、漁業会としても仕方なく、横流しして少しでも多くの利益を得ようとした。組合の共販体制も崩れ、船で直接福岡まで持って行く者が、多くなったからでもある。
 仕方なく組合としても、闇値にて仲介業者と取引して、計算方法は一度公定価格で仕切り、闇値の差額は、出荷奨励金の名目で、後で総代を通じて支払ったりした。闇値で売買した事が発覚して、組合長は何度も警察に呼び出され、留置されて取り調べを受けた事もあったという。

充電所の設置
 漁船の集魚灯は、昔は薪を金網に乗せて焚いていたが、それが石油ランプになり、大正の中期頃よりガスランプを使用するようになった。ガスランプは昭和二〇年頃まで続いた。終戦後バッテリーが普及した、バッテリーを充電する店も、勝本で二、三軒あっだが、漁業会で充電所の設置の要望が強く、充電事業を設置することになり、建物は名鳥島の旧兵舎の払い下げをうけて、仲折の弁天西側に設置した。昭和二三年事業を開始し、順調に経営していたが、昭和三〇年頃より、集魚灯として発電機が導入され、各船に急速に発電機を揺えつけるようになったので、昭和三二年充電所は閉鎖された。

漁業協同組合として再発足
 昭和二四年、勝本漁業会にも、ついに解散指令が出され、再度漁業協同組合が設立される事となった。漁業会としても、直ちに整理に着手して、精算委員会を設け、余剰金は組合員に配分する事にして、その配分金は、組合員としての出資金に充当した。続いて協同組合の設立委員会を結成して、委員長には、村川幸平氏を推薦した。昭和二四年八月十一日、漁業協同組合設立総会を開催、組合長に平畑福次郎を選出し、茲に勝本町漁業協同組合は再発足した。同年八月三一日、県水産指令、第二三九四号をもって、認可され、十月十日には登記を完了し、十七日に第一回出資払込みを完了した。

第九節 製氷事業
 勝本漁業組合が設立されるや、事業計画に基づいて、製氷所の建設を計画したが、港湾内には適当な場所がなかったので、湯田の浜に大きな浅い瀬があった。長四郎碑がその瀬の上に建ててあった。干潮時にはかなり海上に表出する瀬であった。その碑を他に移して、その瀬一帯を埋め、敷地約四〇〇坪を造成し、一日十トンの製氷所と、三〇〇トンの貯氷庫を、昭和十一年四月に建設し、漁業用の氷の安価をはかった。それまでは、漁業用の氷は、福岡、唐津方面より、運搬船にて搬入していた。これによって、販売事業特に、銅付事業に多大な貢献をしたのであるが、日支事変に次いで、太平洋戦争が激烈となり、漁船の数も減少もしたが、燃料の石油もなくなり、製氷事業も休業せざるを得なくなった。戦時中の遊休施設は、軍部より徵用される懸念があると、県より注意を受け、止むなく昭和二〇年三月、長崎県北松浦郡漁協に売却した。その後、長らく製氷事業は行われず、昭和四三年、現在の十五トン第一製氷工場が出来るまで、不自由な時代が続いた。

第一製氷所
 先に昭和十一年に、湯田の浜の瀬を利用して埋立工事を行い、十トンの製氷所と、四〇トンの貯氷庫を建設したが、都合により売却した為に、戦後においては、非常な不自由な時代が続いた。組合としても以前のように、氷は福岡、唐津より鮮魚運搬船にて仕入れていた。その結果、氷も配分回数も、割当制にする等、漁民にとっては、大変不便であった。その頃は、漁船数も四三〇隻を数え、漁船も大型化して、イカ等の水揚げが増加し、氷の需要が多くなった為、構造改善事業により、製氷所を建設する事になった。場所は以前の湯田の浜の埋立地とし、昭和四三年九月に着工して、翌四四年三月三一日完成した。
 製氷能力は、日産十五トン製氷、貯氷能力四五〇トン、面積四一六平方米、総事業費三、八八〇万円、内国庫補助金六三二万円、県補助金四二一万円、町費補助金五一〇万円、自己負担金二、三一七万円である。

第二製氷所(改め第一製氷所)
 四三年製氷所建設当時の漁船勢力に比べ、漁船数も五〇年には六三五隻と殖え続け、船型も漁業近代化により大型化して、漁場も沿岸より沖合へと進出する船が多くなり、従って漁獲量も倍加していった。また、流通面でも魚価を上げるには、鮮度の保持が重視された。勝本漁協においても、昭和四三年には、五トン以上のイカ漁船が六五であったが、四七年には、二〇四隻と三倍以上の増加率となった。中央突堤も四七年に完成し、汽船の接岸も九郵が着岸できないという事で、漁業組合の拠点とすべく、国県の許可もできた事から、中央突堤の先端を候補地として、昭和四九年度構造改善事業として、第二製氷所の建設に四九年より着工して、五〇年三月に完成した。製氷機種は、近代的な製氷機と評価されている。石川県漁連のノースター砕氷機を設備した。製氷能力日産四五トン、製氷貯氷能力一八〇トン、面積三八九平方米である。

 

結して、七里ヶ曽根に、ブリの飼付をやるというような、智恵というか、対抗手段は考えられなかったのであろうか、只実力行動によって、飼付全廃を叫んで、児童の登校拒否、税の不納や、町内をゼネスト等の、示威行動をした。
 反面実力者に頼り、支庁、県庁、飼付会社に、勝本の漁民の窮状を強く訴えたが、県としては一度許可した事業である、勝本漁民の苦しみは十分察知しながらも、簡単に全廃するのは不可能として、七里ヶ曽根にブリ飼付漁を許可する事にした。昭和五年九月、早速香椎村漁業組合とは別に、純漁民による、勝本ブリ飼付組合を創立して、操業を開始した。これが勝本漁業協同組合という、自らの手によって、創設した組合組織の始まりであり、世の趨勢でもあったのである。

壱岐ブリ飼付組合との対立
 大正の中期より後期にかけて、鹿児島県で開発された新しい漁法であるブリ飼付は、その好況が伝えられ、忽ち日本国中に広まった。壱岐においても壱岐郡ブリ飼付漁業株式会社が設立され、事業を開始したが、それは壱岐の資本家だけによって組織されていた。免許範囲も壱岐の近海のほとんどに渡り、勝本町内の沖合火棚曽根も、鯨伏村の沖合のナンカケ曽根も範囲に入り、ただ七里ヶ曽根が残るのみであった。七里ヶ曽根は昔からブリの他魚類の宝庫といわれていた漁場であるが、盛んに撒き餌して魚を一定の場所に寄せるため、七里ヶ曽根のブリ等もほとんど餌付けされ、こうした状態の中で出漁してもブリは全くとれず、飼付会社の豊漁を傍観するばかりであった。特にその時代七里ヶ曽根の秋の夜釣りは、勝本の漁業の八割を占めていた。
 漁民は苦境のどん底に立たされ、生活は日々に苦しくなり、毎日飼付会社の豊漁を目前に見せつけられる勝本漁民の憤選は甚だしく、漁民でない資本家の組織する飼付会社に、壱岐の漁場の殆どを許可した、県当局の不明を恨んだ事は無理もない事であった。そして会社を設立してそれに加入し重役の地位にある、勝本浦の有志家に対する反感の声は、巷に満ち激しい漁民の怒りは爆発の危機を孕んでいた。当時の漁民総代沖世話人は、毎日集会を開き飼付の全廃運動を企て、その当時飼付会社の部外者であった篠崎清吉、原田元右衛門両氏




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社