天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

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勝本浦郷土史104

勝本浦郷土史104

隊のような存在と見られたのであろう。しかし船の性能、乗組員は優秀で、イカの取扱いも、他県の大型船をしのぎ、鮮度のよいイカを多量に水揚げするので、何処の港でも評判はよかったのである。特殊船の収入は勝本漁民の羨望する事になり、十九トン型の特殊船は次々と増えていった。そして夏冬操業するようになった。四七年には出漁船数も増加して、漁協役職員も入漁交渉で忙しくなり、又積極的に奔走した。漁港の都合で、金沢や新潟に、全船入港はできないので、山形県の各港に分散して入漁したのである。四九年には、北海道函館港に十隻入港した。昭和四九年イカ運搬船組合から、特殊船は独立して、県外イカ釣船組合が発足した。加入隻数は五四隻(うち登簿漁船三隻を含む)操業規約等もでき、それをもとに運営並びに操業を実施して今日に至っている。

中型船団の県外出漁
 壱岐対馬沖のイカ資源が著しく減少したため、十トン前後の中型船も、四七年六月、県外出漁を試みたのであるが、前以て県の入漁許可も取らずに出演したため、金沢、新潟、酒田方面に流転した。そこで漁期を完えて帰り、早速船団代表は、漁協役員と共に、各市場と漁協及び各県庁に入漁交渉し、四八年六月許可を得て、中型各船は、遠く山形県豊浦から、佐渡ヶ島方面にまで出漁した。当初は好成績であったが、イカ資源の減少に伴い、他県船の大型化が更に進み、この漁場付近には、大型船が多数集まった。従って中型船では対抗する事ができず、加えて能登半島、佐渡ヶ島周辺に、イカの回遊が減少したために、僅か二、三年にして、中型船の県外出漁のマメイカ漁は、諦める事となった。代わりに夏期における、福岡県、山口県沖の、剣先イカ漁がさかんになった。イカ獲り漁業者にとっては、四〇年代は順調に過ぎようとした。しかし最後の四九年になって事態は一変し、厳しい五〇年代に突入した。それはオイルショックによる、油の高騰に始まり、水銀汚染問題による、魚価の暴落、続いて起こった二〇〇海里問題での、日本漁船の締め出し、更に年々増大するイルカの食害問題、外国漁船の領海侵犯、他県船の密漁等、悪条件の連続であった。このような厳しい条件の中で、イカ漁は減少の一途をたどり、四九年五〇年は、まめイカも絶滅したのではないかと心配される程、漁獲高は減少した。そのため特殊船の存続も危ぶまれる事態となったのである。ところが、五一年頃からまたイカが獲れ出して、漁民をホッとさせた。その後も特殊船の危機が叫ばれながら、今日迄順調な漁獲を揚げているといえよう。勝本の漁船による、イカは剣先イカ、まめイカ共に、順調に伸び、昭和四八年頃まで、イカ漁とブリ漁の漁獲量は、相半していたが、昭和五一年からは、続くブリ漁の不漁のため、イカ漁が量的にも、金額面においても、はるかに優位に今日まで続いている。

第十五節 鋼飼付事業の再開と定置網
ブリ飼付事業再開
 七里ヶ曽根ブリ飼付事業は、昭和五年に開始し、十一年間勝本漁民にとってはかつてない好景気をもたらしたが、終戦後、対馬周辺の佐須奈、小茂田その他の漁場にて、鰤の飼付を再開して、年々相当な成績をあげていた。
 勝本漁協としても、過去の七里ヶ曽根のブリ飼付事業の夢去り難く、事業再開の機運が高まり、昭和二六年の組合総会で決議し、八月より漁協の自営事業として再開した。しかし成績はあまりかんばしくなく、二六年と二七年継続して操業したが、欠損金を出したため、二八年には閉鎖した。

 

した事から青年の資質の向上を計らんため、先ず手近な問題から研究発表会等を実施して、部員が自由に自分の意見を発表できるレベルに到達する事を念願とした。当初の部活動はどのように実施して来たのか、部活動の方向等を示した規約もあるが、省略し部活動の大要を記す。

事業班
 貯蓄の奨励、瀬戸の藻切り作業は当時海藻が多く、船の航行に支障が多かっただけに、当時の船主に大変喜ばれたものである。
 又春のワカメ漁も専門漁士の大きな収入源であった。ワカメ増養殖のための投石作業も、青年部なればこそ出来たのである。其他港内清掃等も、以前は時に応じて行われ美化されていた。

教養班
 町政懇談会、組合役員との懇談会等、今まで考えてもなかった話し合いの場を設け、部員の町政や組合への関心を高めたりした。
 又娯楽の少ない当地に、映画を安く請けて、その僅かな差益を運営費の足しにした。現在の保育園に、旧小学校の校舎が残されていた頃、第一回青年学級が開講され、二五歳以下の部員が熱心に聴講した。

研究班
 直接漁獲増につながる、漁具漁法等の研究改良を使命とする研究班は部活動の目玉であり中心的な活動である。漁具漁法の研究故書、研究体験の発表展示は、これまでの秘密主義排他性等に代表される、いわゆる漁士根性を叩き直して公開され、共同研究の有利な事を実証した。どんな漁法でも短時日のうちに、研修会等に出席して、自分の漁法として消化していった。部活動は大きな成果を挙げた。毎年の県主催全国主催の研究発表会には、毎回出席して漁連会長賞、知事賞を受賞している。
 するめ加工に関する発表は、全国一位の水産庁長官賞を受賞し又ブリのボンボン曳き漁法は、ボンボンたぐりと共に、大きな成果を挙げた。
又抄い網漁法は、煮干しの原料となる、小イワシを集魚灯で焚き寄せて、抄いとる小規模漁法であるが、これも青年部が三見漁協で習得した漁法である。その漁法の操業の成果は、予想外の豊漁で、昭和三〇年には、四トン以上の船は、ほとんど抄い網に切り替え、勝本の加工業者、十数軒で、今までかつてなかった煮干し製造で、浦中は賑わいを呈した。
 抄い網は、四、五年で、煮干しいりこの値下がりと、乱獲のため不渡となり、又他の漁民の不平もあって、終わり告げ、その後は抄い網はない。

編集班
 昭和二九年二月、青年部機関誌「漁青の友」が発刊された。大した学歴もない、文学的素養もない青年が、新聞を編集する。文章にして機関誌として、世に出すという事が、如何に至難な事であるか、只使命と責任だけを痛感して、「すなどり」の火を消さないために、ひたむきに前進してゆく、ぶっつかって始めて、如何に編集というものが、容易な事ではないかを知らされる。そうでないとやれない仕事である。大勢の編集員が来て、原稿を依頼される。忙しくて書く暇もないと思っても、若者の熱情にひかされて、つい安請けする事もあって、書けずに迷惑をかけた事もあった。しかし、「すなどり」の内容を読んで、勝本にも文の達者な人が、多くおられる事に驚いた。内容的に立派な記事を多く見る。勝本町の将来の事を考え、漁民の将来を憂いて、たまにはユーモラスに巧みに表現されている。他の大新聞は、見出しをみて、重要な記事だけ読んでも、「すなどり」は隅から隅までよく読む。記者名のないのが残念に思う事が多い。新聞は社会の目であり鏡である。それだけに新聞の持つ使命は尊いものである。それ故に、編集にも苦労が伴うのである。「すなどり」は将来の組合に対する、町政に対する、過民の声をよく反映して、研究の結果等もよく伝え、漁民の声をよく紙上に反映して、機関誌としての役目を、十分に果たしてきた。しかし近年の「すなどり」は、記事が低下したようである。広告と役員の就退任の挨拶だけが目立っている。原因を挙ぐれば、特殊船に乗って、幹部クラスが少なくなった、又、会員も少なくなって、以前のような行事も、実行でき難い状況にある。今後「すなどり」を一層育てて行くには、心ある投稿者が殖え、愛郷心を以て「すなどり」を見守り育てる事が、最も大切な事と思うのである。

漁協青年部活動の評価
 漁協青年部の結成は、時代の要求によって、必然的に組織されたものである。漁業者にとっては、一大

従来の排他的、封建的な、島国根性から脱却して、島外、県外への雄飛は、青年部の活動の成果ともいえる。今日では新潟、北海道まで、何百トンの漁船に並んで、特殊な船といわれる程の小型船で出漁して、勝本漁民としての声価を高くしている。こうした県外出漁がなかったら、勝本の組合も、勝本の漁業も、ジリ貧状態に陥っていた事が考えられる。部活動に於いても、創立当初の原点にかえれ、という事は無理であろうが、先輩の偉業が大であっただけに、青年部の伝統の灯を消しては、先輩に済まないと、打ち上げ花火に完らせまいと懸命であるが、幹部の県外出漁と部員の減少は、焦るばかりで実績は伴ってゆかない事は、詮方ない事であろう。然し漁業の実態は、益々楽観を許されない事態である。時代は常に激しく変遷して行くといえども、いつの時代においても、青年はその時代の原
動力である事には変わりはない。吾等は勝本にいる限り、故郷と共に生き、故郷と共に死すのである。
 青年に明日は無い、今が青年である。変革は常に青年によって築き上げられている。勝本の漁協の前途を憂い、奮い立ち、青年部を創設した愛郷の人、松尾政太郎氏の再現を心から希う者である。この項を完るに当たり、初代会長松尾政太郎氏の御冥福を祈り、歴代部長、幹部の努力に対して敬意を表する。

漁協婦人部
 終戦後の昭和二二年、婦人会が結成され、支部会においては、会合の度に、戦争にて疲弊した、漁村の生活の立て直しを如何にすべきか、真剣な話題として討議されていた。婦人の地位向上と共に、生活改善は、いつの時代といえども、婦人会の話題の中心であった。特に浦部に於いては、過去においては不漁に備えての、貯蓄の観念に乏しく、漁師の一把捌きと、今日でも語り伝えられるように、漁があると贅沢をして、漁がないときは、借り食いする傾向が多かった。これは今日のような、優秀な動力船で漁をするのでなく、槽を漕いで七里ヶ曽根まで漁に出る、板子一枚下は地獄という観念が強かった為、漁師の一荷捌きの観念が、自然の中に培われたのであろう。こうした考え方が古くから根づいて、長く定着したのである。中には漁師でも、可成り金を貯えている人もあったようである。よく働いて心掛けのよい人であったのである。その頃、漁業組合の運営も容易ではなかった。青年部、婦人部の力を借りなければ、組合運営の再生の方途は見出せなかったと言っても、過言ではない程に、行き詰まっていた。支庁や、県漁連、壱岐出張所や町当局の婦人部結成の奨めと指導により、昭和二七年二月十五日、阿田スガさんを初代部長として、勝本町婦人漁村協同組合(後に漁協婦人部と改称)として、浦部に十七支部、部員約三〇〇名を以て、目的達成をめざして、力強く結成されたのである。婦人漁村協同組合の規約の目的について、次のように記されている。「この組合は組合員が連絡協調して、相互の教養を高め、生活を改善して、漁業協同組合の発展を促し、以て漁村経済の向上を計る事を目的とするとある。」この中にすべてが言い尽くされている。特に婦人漁村協同組合の設立の目的が、当時の漁業協同組合の発展を促すという、強い表現がなされている。これを見ても、当時の漁業組合の状態を察知する事ができると共に、当時の組合が、婦人部に期待する事が多く、当時の婦人部幹部の意気を感ずる。規約の全容については、都合により省略するが、事業計画としては、預貯金を勧誘する事によって、貯蓄心を涵養しようとした。これは二九年漁協信用部開設と、その後の信用部の運営に大きく貢献したばかりでなく、各漁家の貯蓄心の涵養に、計り知れない一大変革をもたらしたといっても過言ではない。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社