天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本浦郷土史103

勝本浦郷土史103

隊のような存在と見られたのであろう。しかし船の性能、乗組員は優秀で、イカの取扱いも、他県の大型船をしのぎ、鮮度のよいイカを多量に水揚げするので、何処の港でも評判はよかったのである。特殊船の収入は勝本漁民の羨望する事になり、十九トン型の特殊船は次々と増えていった。そして夏冬操業するようになった。四七年には出漁船数も増加して、漁協役職員も入漁交渉で忙しくなり、又積極的に奔走した。漁港の都合で、金沢や新潟に、全船入港はできないので、山形県の各港に分散して入漁したのである。四九年には、北海道函館港に十隻入港した。昭和四九年イカ運搬船組合から、特殊船は独立して、県外イカ釣船組合が発足した。加入隻数は五四隻(うち登簿漁船三隻を含む)操業規約等もでき、それをもとに運営並びに操業を実施して今日に至っている。

中型船団の県外出漁
 壱岐対馬沖のイカ資源が著しく減少したため、十トン前後の中型船も、四七年六月、県外出漁を試みたのであるが、前以て県の入漁許可も取らずに出演したため、金沢、新潟、酒田方面に流転した。そこで漁期を完えて帰り、早速船団代表は、漁協役員と共に、各市場と漁協及び各県庁に入漁交渉し、四八年六月許可を得て、中型各船は、遠く山形県豊浦から、佐渡ヶ島方面にまで出漁した。当初は好成績であったが、イカ資源の減少に伴い、他県船の大型化が更に進み、この漁場付近には、大型船が多数集まった。従って中型船では対抗する事ができず、加えて能登半島、佐渡ヶ島周辺に、イカの回遊が減少したために、僅か二、三年にして、中型船の県外出漁のマメイカ漁は、諦める事となった。代わりに夏期における、福岡県、山口県沖の、剣先イカ漁がさかんになった。イカ獲り漁業者にとっては、四〇年代は順調に過ぎようとした。しかし最後の四九年になって事態は一変し、厳しい五〇年代に突入した。それはオイルショックによる、油の高騰に始まり、水銀汚染問題による、魚価の暴落、続いて起こった二〇〇海里問題での、日本漁船の締め出し、更に年々増大するイルカの食害問題、外国漁船の領海侵犯、他県船の密漁等、悪条件の連続であった。このような厳しい条件の中で、イカ漁は減少の一途をたどり、四九年五〇年は、まめイカも絶滅したのではないかと心配される程、漁獲高は減少した。そのため特殊船の存続も危ぶまれる事態となったのである。ところが、五一年頃からまたイカが獲れ出して、漁民をホッとさせた。その後も特殊船の危機が叫ばれながら、今日迄順調な漁獲を揚げているといえよう。勝本の漁船による、イカは剣先イカ、まめイカ共に、順調に伸び、昭和四八年頃まで、イカ漁とブリ漁の漁獲量は、相半していたが、昭和五一年からは、続くブリ漁の不漁のため、イカ漁が量的にも、金額面においても、はるかに優位に今日まで続いている。

第十五節 鋼飼付事業の再開と定置網
ブリ飼付事業再開
 七里ヶ曽根ブリ飼付事業は、昭和五年に開始し、十一年間勝本漁民にとってはかつてない好景気をもたらしたが、終戦後、対馬周辺の佐須奈、小茂田その他の漁場にて、鰤の飼付を再開して、年々相当な成績をあげていた。
 勝本漁協としても、過去の七里ヶ曽根のブリ飼付事業の夢去り難く、事業再開の機運が高まり、昭和二六年の組合総会で決議し、八月より漁協の自営事業として再開した。しかし成績はあまりかんばしくなく、二六年と二七年継続して操業したが、欠損金を出したため、二八年には閉鎖した。

手長島の定置網事業
 勝本漁協の定置網事業については、従来よりいろいろ論議がされてきた。壱岐で箱崎漁協が定置網事業により、組合の運営も安定している事等もあって、勝本漁協としても、平素組合員より水揚手数料の引き下げ等の要望があり、何か自営事業を行い、利益を得る事により、組合員の手数料を引き下げ、負担を軽くしようと、大洋漁業又は、県水産試験場に漁場調査を依頼したところ、湯の本の手長島沖合が、定置網漁場として適所であるとの回答をうけた。総代会や総会においても、組合の自営事業は避けるべきであるとの、一部の反対者もあったが、夢を託して実施する事で議決された。昭和四〇年十二月より、下漁業定置網事業として、従業員十八名にて、浦海を基地として開始された。
 以前大正から昭和の初期にかけて、ブリ飼付漁業が、湯の本の資本家によって操業された事もあって、組合役員も従業員の期待も大きかった。しかし、七年間継続され、漁不漁もあったが、七年間の総水揚金、六三、〇七六、〇六一円に対し、支出六一、九八七、二四七円で、差別利益金一、〇八八、八一四円で、共通管理費に六、〇〇〇、三一〇円を引けば、四、九一一千円の純損金となり、五〇〇万円近くの欠損金を出したため、四七年には閉鎖された。

上漁場ブリ定置網
 組合も自営事業を行う事によって、その利益を組合の手数料の引下げまた指導事業の強化を目的として、昭和四八年から五〇年にかけて、七里ヶ曽根にブリ飼付事業を操業して、多額の欠損金を出して中止した。又昭和四〇年十二月より下漁業定置事業で、七年間にて約五百万円近くの欠損金を出して四七年に閉鎖した。斯うした経験を幾度か重ねて、組合の公営事業の困難な事を承知しながら、今迄の飼付又は定置の欠損金を取り返そうと、今度は天ヶ原四険滝長瀬沖に、親族定置を操業する事とした。頭領副頭領三名と八名の従業員で、昭和五一年春より開始した。
 初年度は試験操業で順調な水揚であった。五二年からは定置網の有効利用で実績をあげるため、総会で下漁業の本宮山折柱沖漁場の同意を得て、同時に二カ所の操業を試みたが、新漁場での定置敷込の事でもあり、地区外の漁船が定置網の中にとびこんだり、ロープの切断事故が再三起こり、定置従業員を苦しめた。
 一回の事故修理でも一〇日間から、二〇日間を必要とするだけに、水揚高を左右する定置事業は、三月から五月が盛漁期であって、この間に事故が再三に渡り、発生したのも、欠損金を出した大きな原因であった。昭和五四年六月まで、天ヶ原斜路用地横を基地として操業したが、閉鎖のやむなきに至った。

第十六節 磯漁
磯漁には魚介類の採取と、海草採取に大別される。

魚介類の採取
 魚介類にはアワビ、サザエ、トコボシ、ウニガゼ、ナマコ、アサリ貝等がある。以前はアワビも多く採取されて、加工して輸出されていたが、近年は採る人も少なく、全体的に資源が少なくなっているようである。
 主な魚礁は、漁協にて禁漁区とされ、禁漁以外で、特定の人が潜水衣を着て採取している。アワビ、サザエは、観光客が多くなり、喜ばれる事から、今日でも高級品で、値も驚く程高値にて、旅館民宿等に売られている。ウニガゼ類は、勝本に数軒の加工業者に漁協にて年毎に入札され、その値にて採取者と取引がなされ、加工業者にて加工され瓶詰めとして、土産用に、又都会の業者と取引され、高値にて売買されている。近年港湾の警備等による埋立や海岸保全工事によって、磯場の範囲が徐々に狭められ、素もぐり等による採取がなされている。今後磯場造りには町も、漁協も、力を入れなければならない重要な問題である。
ナマコは、魚類に入るか、貝類に入るか、棘皮動物に属するようであるが、近年市場に於いてもセリに於いても、ナマコは余り見かけないようである。少なくなったのか、取る人が少なくなったのか、海藻類が汚染の関係で少なくなっている事から考えると、ナマコも少なくなったのであろうか。以前は銛(もり)竿(ざお)すもぐり等で、多く採取されていた。中国料理には「ハイセン」と呼ばれて、欠かせない料理で、以前は輸出されていた時代もあったように聞いているが、現在では湯の本地区の特定の人が採取して、一般の人の取る人は少ない。
 アサリ貝は湯の本に多く産していたが、海岸の埋立等で、潮干狩りする場所もほとんどなくなって、アサリを採る人も余り見ない。
 勝本に於いては、二代原田元右衛門は、勝本に蛤の産せない事を憂いて、良種を求め沙汀に投じて、養殖をされたと誌されているが、以前は辰の島等にも蛤をよく見かけたが、近年ほとんど見られない。
 アサリ貝も以前は至るところの浜に、アサリ取りをした事を憶えているが、港湾が整備されて、アサリを取る所はほとんどなくなった。

海草類の採取
 海草類としては、ワカメ、カジメ、ヒジキ、モズク、テングサ、フノリ、アオサ等品種も多い。カジメは明治から大正年間には、薬用として利用され、沃度製造工場も、坂本触の田口沃度工場、馬場崎に中上沃度工場があって、採取する人も多く、原料も海底に多く繁茂していたが、それでも原料が不足して、島外から買い求めて一時は盛況を極めていた。
 第一次大戦終了と同時に、薬用沃度暴落のため、工場も経営困難となり閉鎖された。その後カジメ採集は、途絶えていたが、昭和二七、八年頃から、琴平町の土肥アンゴラさんが、終戦後のアンゴラ兎の飼育

をやめ、スルメの買付を始めると共に、海草類全般に亘り、買付を始められ為に、カジメ、ヒジキ、ワカメ、テングサ、フノリ等、あらゆる海草の採集がさかんになったが、土肥氏の逝去以来、カジメを除いて、組合にて集荷され、競売され、時季になるとワカメ採取も盛んに行われていたが、養殖ワカメが都会に出るようになってからは、自然ワカメも安価となり、採取する人も非常に少なくなり、従って海草すべて採集する人が少なくなった。
 又すべての魚が港内外に少なくなるように、海藻類の繁殖も以前より少なくなり、大風による浮き藻も、海岸に寄せる事も非常に少なくなった。これは農薬等の自然流入、家庭洗剤の湾内流入が、大きな原因ではないかと云われている。海藻のヒジキは、養権物がない事もあって、割合に値もよく売れ、需要も拡張安定している事から、将来希望のもてる海草である。

第十七節 勝本町における漁船の推移

第十八節 漁協青年部と婦人部の活動
漁協青年部の創立
 勝本漁協青年部は、昭和二八年六月八日県下でも最も早く創立された。当時昭和二八年は朝鮮動乱も終結して、日本は朝鮮戦争の軍需景気によって、経済的にも立ち直りを見せていたが、戦争の終結と同時に金融凍結が行われ、引き締め政策が行われたので、全国的に急激な不景気が押し寄せ、漁家としても漁獲物の価格は下落して、生活も困窮した時代であった。漁業組合としても、購買代金や充電料立替代金等の未収金は思うように集金できず、運営も容易でなかった。漁協も運営資金に困り、漁業者の水揚代金の支払いにも支障を生ずる状態であった。心ある者は組合の現状を見て、将来を憂うる者が出る事は当然であった。水揚げの歩合を上げても、二割以上の利息で金を借りては、組合の正常なる運営ができる筈はなかった。それでも組合は必死の思いで、苦しい運営を続けていたのである。丁度その頃県漁連でも指導課を通じて、漁村青年の組織造りに力を入れていた。それに市庁水産課の指導と、町当局漁協の支援もあって、側面から青年部の設立を応接した。
 昭和二八年六月八日当時の勝本劇場において、創立総会が開催されたのである。部長には松尾政太郎、副部長立石平一、熊本万平以下役員を選出して、規約等を承認して三五〇名の漁村青年が、青年部活動への力強い第一歩を踏みだしたのである。設立するまでは県漁連及び市庁水産課等の指導によるものであったが、発起者である初代松尾部長の熱意の然らしむるところであると共に、各部落の青年会長等の各部落を取り纏めた努力もあった。
 青年部が青年会と異なっているのは、年齢は同じであっても、直接自分達の生活に職業に結びつく自主的団体である。当時の県漁連の指導者、支庁水産課の幹部がどんな思いで、青年部の創設を指導したか、当時発起した青年層が、組合運営に対する不満に若い情熱を燃やしたかが判る。漁村発展の向上の基盤をなすのは、漁業協同組合である。又組合員の組合でもある。組合の運営が放漫である。従って組合の運営が、組合員の真の意志を反映したものとは考えられないのである。時の流れを素早く察知して移行しようとする青年、生産面においても真理を求めて、近代科学による漁法を、逸早く察知して実践に移すのも青年である。時代の移行は当然青年の双肩にあるものと自負して、青年はその責任の遂行の事態に直面していたのである。

封建制の打破
 従来の漁村の実態を顧みる時、島国根性とでもいうのであろうか、漁村にありがちな封建的因習が根深く残存して、当時はこれが漁村の発展向上を阻害している原因と見ても過言ではない程である。幾例かを挙げるならば、自分の漁具漁法が他より優れていた場合には、できるだけその秘法を他に教えない。又若い者が時代の移行に沿って新しい道を進出しようとする場合、長老達は若(じゃく)輩(はい)何をいうか、何ができるかと古い権力を以て、圧迫しようとするところもあった。
 このような例を挙ぐれば枚挙にいとまない。何とかしてこの値深い古い因習を打破して、生産向上を計り組合に協力して、組合の推進力たらん事を念願した。又それが自己の福利増進につながる事でもある。特に勝本の漁業は、他の水産業に比較して原始的である。昔より一貫して一本釣り漁業に徹していることは、他方面から見ると勝本漁民の社会的地位の低下、特に進取的青年層における、そのレベルの如何は、自他共に認めるところであった。それにしても昔より一本釣りに徹する事は、乱獲を防止するという、大きな狙いもあったのであるが、そのため勝本に小魚の加工の発展しない原因も生している。

 

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社