天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本浦郷土史102

勝本浦郷土史102

減少しているが、売値の高騰によって、数字的には保たれているのであろう。特に近年は、漁不漁の差が、個人別に大きく生じつつある事は、設備投資にも原因もあるが、魚種の減少特にブリの減少した事に左右され、憂慮すべき事には変わりはない。

第十一節 網漁業
羽魚網
 漁業には大きく分けて網漁法と、釣漁法に分類されようが、勝本漁民によって、昔より行われている網漁業には、羽魚網、イワシ網、サンマ網、アゴ網、磯立網等がある。羽魚漁は、明治の中頃まで、銛突法が行われていたが、明治三〇年、勝本の中上長平翁が、羽魚網を考案してより、各地に羽魚網が普及し、勝本でも盛漁年は、地元船二五隻、三見船二二隻を数えるに至った。勝本の二五隻の中、塩谷が十隻位で、他は漁民でない地元の有産階級の人達が、事業主であった。乗組員は一隻八、九人であった。羽魚網も、明治三五年頃から始まり、昭和十五年頃にはその姿を消してイワシ網に移行した。

イワシ網
 イワシ網は、明治の末期より操業を始め、相当水揚げがあり、盛漁期は、大正末期であった。船数も三〇隻位で、主として羽魚網漁業者であった。よく満船して入港していた。時にはイワシが網にかかり過ぎて網があがらず、網を捨てて帰る事もあった。獲れたイワシの処理は、ほとんど焚いて油を取り、締粕として、油は食料油に精製し、締粕は肥料に用いられた。
戦時中は人手不足で中断されたが、終戦後復活し、価格も鮮魚として出荷され、魚価もよくなったが、その後下降をたどり、昭和三五年頃には全く不漁となり、イワシ網も中止せざるを得なくなった。

サンマ網
 サンマ網が勝本に導入された年度は不明であるが、かなり古くより操業されていたようである。網の反数も三〇反から五〇反前後を投網していた。昭和となってから、網もナイロン時代となり、漁船も動力となり、船型も大きくなり、網数も一〇〇反以上を積み、増産へと移行したが、サンマが安くなり、採算合わず、イカ釣りに移行していった。イワシ網もサンマ網も塩谷が主体であった。

アゴ網
 勝本では飛魚の事をアゴと呼ぶ。アゴ網が勝本に導入された年代については、明治時代というだけで、年代は不明である。アゴ網は、夜張り、昼張り、引網の三様がある。導入されてから、長い間、夜張りを主体とした。
 戦後ナイロン網が普及されると共に、夜張りから昼張り操業となった。しかし、アゴの価格が安く、日本海方面にイカ釣り操業が盛んになり、イカ漁へと移行していった。

磯立網
 磯立網は全国至るところに、操業されている漁法である。勝本における本漁法も、早くより操業され、明治三〇年頃より一層盛んになっている。
 磯立網はあくまで地元地先権内にて、雑魚を対象とする許可漁業であり、年中操業され、他の漁業のように、漁不漁の変化が少なく、堅実な漁法である。現在勝本漁協で、漁業権を有している者は、沖建て十八隻、地建て十七隻である。地建は周年操業であるが、沖立は他の漁業の関係上、毎年三月より八月までと定められているが、日本海のイカ漁が盛んになり、沖立網は効率のよいイカ漁に転換して、今では、高年層による、地立専業となっている。こうした網漁業は昔より今日まで、ほとんど塩谷が主で、他の地区では行われていない。

第十二節 延縄
ブリ及びタイ漁業
 明治、大正時代の勝本の主要水産物であるブリは、延縄によって、多く水揚げされていた。しかし、ブリの延縄も、潮が小さくなると、魚の食いが悪くなる。そこで延縄船は潮時によって、タイの延縄に切り替えたりして、合理的な操業をしていた。昔は無動力船であっただけに、厳しい天候の支配を受けながら、船頭の優れた経験と勘によって、操業されたのである。
 タイの延縄は、ブリの延縄の船頭方が、同じ船、同じ乗組員によって、ほとんど操業していた。その頃、

 タイの延縄は、ブリの延縄の船頭方が、同じ船、同じ乗組員によって、ほとんど操業していた。その頃、乗組員の事を、ワツカシと呼んでいた。今日では、皆自分で船を持っているが、昔は長男でも船を持たない人も多く、そうした人はワッカシで働く人も多くいたが、それぞれに小さい和船で、イカ釣りその他魚釣りをしていたので、延縄の乗組員は、町内外の出稼ぎ漁師も、案外多かったようである。当時、帆が頼りの和船時代である。七里ヶ曽根附近まで出漁できる日は数少なかったのである。戦後、漁船の装備も年毎によくなり、七里ヶ曽根周辺で連日のように、タイの豊漁が続いたが、明治、大正時代は、一網打尽の乱獲もなく魚も多かったのである。往時和船時代の漁労が、どれ位苦難に満ちた事であったか、それでも十分な生活ができない人が多かったのであるが、反面又、嬉しい事、楽しい事も多くあった。最も嬉しい事は、縄針に次々に大きなタイがかかって、水面に浮上してくる時である。又夜中から出港して、櫓で始まって櫓で帰る日が多かったが、偶には、操業を終えて帰途につく最も疲労した頃、追手風が吹き始め、船頭の声で櫓を引いて、帆を揚げて港にむけて走る時のうれしさ、これ以上の有り難さを感じる時はないという。如何に櫓で漕いで遠くまで行く事が、辛い労働であったかわかる。
 大正も末頃となり、焼玉エンジンを据えた船を、港内に見るようになり、沖の漁場には、底曳き船が操業するようになり、当時勝本では動力船も少なく、延縄船が漁具の被害をうける事も少なかったが、明治三五年頃から始まった羽魚網操業は、沖は対馬近海より、平曽根まで、羽魚の回遊状況に応じて、約数十隻の船が網を流していた。そのために、延縄船は浮標を切られ、操業も年毎に窮地に追いやられ、加えて漁民間の道義も退廃して、漁場秩序も乱れて、大正末期に六〇隻いた勝本の延縄船も、減船の一途をたどり、昭和に入って暫くして、皆無に等しい状態となり、鯛一本釣り、プリ一本釣り操業に移行して行くのである。

第十三節 一本釣り漁業
鰤一本釣り漁業
 勝本は、優れた漁場に恵まれて、多種多様な魚が獲れるが、その中でも、昭和五〇年頃までは、鰤の漁獲が他の魚種よりも、数量的にも金額的にも、他を圧して最も多く、明治時代の事はよく判らないが、大正から昭和にかけて、鰤に依存するところが多かった。昭和五年、勝本の鰤飼付以来、ほとんど鰤漁業によって、生計を支えて来たといっても過言ではないだけに、ブリ漁法については、多くの研究改良がなされている。
 勝本町漁業史等に詳しく記されてあり、釈迦に説法みたいに茲に詳しく記す必要もないので省略した。

タイ一本釣り
 勝本の漁業は古くより、塩谷部落の網漁法と、本浦部落のタイ一本釣りを主体として、鰤漁業の盛漁期には、鰤漁に切り替えていた。
 西部の方では鰤釣りを主体として、夏はイカ取り、タイの一本釣りも稀にあるに過ぎなかった為に、タイ一本釣りは、本浦部落が熱心であった。そのために東部が主にタイ一本釣り組合を組織して、鮮度の保持、漁場の拡大、漁礁の設置、購買部の設置、餌の共同購入等、積極的に取り組み、成果を挙げた。

第十四節 イカ漁
 イカ漁もかなり古くから行われていた。イカの種類は魚の中でも最も多いようである。勝本の漁民が漁の対象とするのは、夏にとれる剣先イカ、九月頃よりのプトイカ、例年十月頃より対馬附近でよく獲れる松いか、別名つしまめ又は、まめイカとも呼ばれるが、近年までは一年中このイカを追って、北海道から日本海を股にかけて、多くの船によって操業されて、実績を挙げている。
 各魚族の漁獲法其の他についても、詳しく記していたが、紙面の都合上、又すべて承知の事でもあるので削稿した。

イカ漁と集魚灯
 集魚灯の変遷は、総ての漁業と重要な関係がある。特にイカ漁と集魚灯との関係は深いものがある。明治の時代は、薪を焚いたかがり火であったものが、薪から石炭に変わり、勝本に石油ランプを使用したのは、明治の終わり頃であろう。石油ランプの時代は、僅かな期間であった。瓦斯ランプになった時は、なんと明るいものであろうかと、皆驚きの目で眺めた事であろう。瓦斯ランブの時代は、かなり長く続いた。戦後間もなく、昭和二二年に、瓦斯ランプに代わって、バッテリー(充電灯)が普及したが、昭和二九年頃から、煮干しの原料のイワシの抄い網が始まると共に、発電機を使用するようになり、灯光は一段と強くなった。当初は、三、〇〇〇燭光より以上は点灯できないように制限されたが、勝本船以外の船と

対抗上、これも長続きせず、暫くは燭光自由の時代も続いた。
 発電機によって、イカは獲れるようになったが、機械の音は高く、発電機は故障が少なくて、回転が安定した機械でなければということもあって、折りからのデイーゼル化に拍車をかけることとなった。この頃から次第に増灯競争が始まったのである。表に二個、船尾に一個の、勝本船で制限された方式で、何処に行っても勝本船と判る如くよく守られ、対馬に行っても制限された方式で、イカもよくとれていたが、対馬船その他の船が、大燭光になるに従い、その明るさは三個位では、近くの大きな燭光に寄せられて、イカは移動してしまうのである。こうした事から、制限された燭光も問題となり、段々増灯されるようになった。他に負けてはならないと思う、人間としての根性は当然のことである。又近年、昭和六〇年頃から、猶一層強力な放電灯が流行し、この放電灯を取り付けないと、人並みの道はできないとして、
多額の金を工夫して据えつけている。結果的に漁民の生活は、こうした機械化によって、増収になっていったが、無理して借金して設備して、返済期日がくると、多くの漁家が返済に苦労しているようである。瓦斯ランプやバッテリー時代より、生活はたしかに向上している。世のすべてがこうして機械化されてきたのである。勝本の漁民だけが、旧態然とする事は許されない事であるが、しかしこれでよいのであろうかと、第三者的に考えることがある。それは自動操舵機の普及である。人間のかわりに、機械が舵を取ってくれるという、便利なものが登場し、多くの船に装備された。しかし、この自動操舵機は、目的場所に一直線に進むだけで、障害物が前面にあっても、これを避けることはできない。かえって機械を頼り過ぎて、油断すると、大事故になりかねない。すでに勝本漁船にも、残念ながら、大小この操舵機による事故が、多く発生している。全国的にも、海難事故発生の原因として、自動操舵機が挙げられている。機械に頼り過ぎる事も心配しなければならない。

特殊船団
 昭和四〇年代は、スルメイカ漁の最も盛んな時季であった。それは漁法の著しい進歩と、漁船の大型化等によるものである。当時日本全国、イカの資源は無尽蔵であると考えられた程で、イカは多かった。イカの価格も他の魚に比べて安定していた。長い年月ブリ釣りを得意としてきた勝本漁民であったが、逐次イカ漁に転換せざるを得ない状況となって来たのである。しかし、五トンから十トン位の船で、郡外船と一緒に操業して見ると、集魚灯の違いは大きく、太刀打ち出来ない状態であった。従来イカ運搬船組合では、日和見をして安全操業につとめていた。しかし荒天時、勝本では沖止めしている時に、郡外船はイカを大漁して、勝本漁協に水揚げするのであった。同じ漁民として、これ程口惜しい思いをする事は耐えられない事である。大型船を造り、沖止めされない、自由に操業したいと考える人達が多くなった。このように考えを持った人達が集まって、大型船による、イカ漁の自由操業を訴えた。しかしこのような少数の意見に、耳を傾ける人は少なく、日和見による安全操業という意見が強く、長い伝統の壁を破るのはむずかしい事であった。しかしそうした少数の人の熱意は昭和四二年、二月の総代会において、十五トン以上を特殊船制度として、認める事となった。そして五月の総会で、条件付きながら承認された。この時は該当船はいなかった。其の後十五トン以上の船であれば、イカ運搬船組合の一員であっても、定期沖止め以外は、自由に出漁出来るようになった。昭和四三年、勝本の特殊船第一号の末吉丸が進水した。第二号に日の出金比羅丸、次に島本清勝丸が進水して、三隻の特殊船は、冬期はイカ漁、夏季は撒落し操業をして、成績もよく、水揚げも増大した。
 このような事から、次第に特殊船は増えたのである。ところが冬期のイカ漁はよいが、夏季には漁を他に切替えねばならなかった。この頃対馬では、大型船は夏季には山陰方面に出漁して、境港や、能登半島付近の漁場で、イカ漁をしている事が判り、昭和四五年調査研究して、方々に出漁許可を依頼したが、県外入漁は当時容易な事ではなかったが、四五年に試験操業の名目で金沢の大野港に入港が認められた。これが認められるまでには、長崎県水産課や勝本漁協という、大きなバックがあったから、むずかしい交渉も成立したのであった。そして四五年六月、十隻の船団が盛んな見送りをうけて、勝本港を出港した。これが今まで県外出漁した事のない勝本漁船の県外出漁の始まりであった。母港を遠く離れて、長期間の船住まいであり、しかも乗組員の大半は若い青年である。幾日も沖で操業して、満船して入港する解放感から、上陸地で間違いでも起こしたらと、船長はこの事を最も心配したのである。事実北陸や山陰の港に入り、土地の人達の話では、以前他県の船が入港し、その乗組員が不始末をした事が、何処の港でもあったという。ところが勝本の船団の行動は、このような不始末はなく、反対に入港地ではいづこも好評を得たのである。勝本では特殊船と呼ぶ程に、大型の十九トン型も、日本海に集まるイカ釣り漁船の中では、最も小型船で、他県では見られない特殊なイカ釣り漁船であった。つまり日本海の直只中(大和堆)まで来る、特殊な小型船という事で、北陸方面では特殊船と呼ばれ、特異な存在であった。戦時中の特攻

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

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