天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

勝本浦郷土史130

勝本浦郷土史130

先送りした。その後その声が高まって、有志者及び校友会幹部協議研究の結果、有志側でも後援するから、是非校友会の主催で開催して貰いたいとの意見が強く、直ちに役員会を開催して、相談の末、後援を笠にして、受け持って決行する事になった。善事は急げと忽ち日取りを五月十一日、(雨天の場合は五月十四日)と定め、種々考案を練り、先ず第一に各商店特別割引景品付大売出しの交渉を遂げ、直ちに香椎、箱崎、田河、那賀、志原、柳田、沼津、鯨付の隣人八カ村青年会長及び各村各触青年支部会長宛に、出品奨励の依頼状に次の如き広告紙を配付した。
  勝本いち開設広告。
 期日、五月十一日(旧三月二八日)雨天の場合、五月十四日、旧四月一日。
 場所、勝本坂口下り口より、黒瀬町回漕店波止場に至る。
 各商店通じて特別割引、景品付大売出し(何品に限らず)、売上金額五〇銭毎に、景品券一枚宛進呈、景品は米、麦、時計、洋傘、其他外れなし。
 出品人優待方法、出品人には(何品に限らず)一般優待券を呈し、菓子又は酒を呈す。
右の通り市(物(○)品(○)交(○)換(○)売(○)買(○)市(○))開設致候條、成るべく多数御出品あらん事を謹告す。
  大正四年 主催 勝本校友会
  各位
金銭売買もあったが物品交換売買に注意
 しかし当日五月十一日は夜中から朝にかけて雨降りとなって決行できず、五月十四日に延期せざるを得なくなった。かくして連綿と七五年続いて今日に至っている。当日のいちの状況等については、校友会報第一号に詳しく記されているので、役員諸氏のこのいちに対する意気と期待を永久に伝えんとしたが、紙面の都合により削除せざるを得なくなった事を残念に思う次第である。結果的にこの勝本いちは、役員の期待をはるかにこえて大成功であった。五〇余名の役員の氏名を記す事を省略さしていただいて、主任だけの氏名を記す。猶当日の出品状況の一覧表を掲げて参考とする。

第四節 工業
壱岐の酒造
 壱岐に於いても早くより酒造りがなされた事は大体に判るが、いつ頃から酒造りがなされたかということは判然としない。郷土館、酒造、酒販組合を調べてもわからない。これだけ昔より愛飲した酒造の歴史について、記したものが残されていない事も異状である。酒の醸造は昔より壱岐より産出される唯一最大の工業製品であるからである。
 焼酎については郷ノ浦の目良亀久氏の記述が残されて心強い限りである。浦史という枠を逸脱するが、参考の為に大要を記してみる。
 鹿児島民藝社から出版されている、日本焼酎文化譜の、目良亀久氏の日本醸造協会誌によると、藩政時代平戸藩の法令に、慶安四年(一六五〇)発令の町方奉行勤方定法、寛政七年(一七九一)の町方仕置帳に、当時の酒造について記されているが、天保八年(一八三七)には当時壱岐に酒屋が四五軒あって、原料米を三、〇〇七石使ったと記されている。
 又壱岐郷土史には、正徳元年(一七一一)朝鮮通信使、勝本における松浦藩の饗応に、他の品と共に清酒一五石とある。この頃已に壱岐にも酒造業者がいたのではと思われるが、壱岐での酒造業の創業年が不明なため、平戸方面から運んで来た事も考えられるが、史実的に裏付けとなるものはない。壱岐においては古くから、濁酒(どぶざけ)や焼酎はみんな自分の家で造っていた。明治初年においても、濁酒焼酎の製造は黙認されていたようである。藩政から移行した明治新政府は、免許酒税、自家用酒制限等、次から次に布告を出した。
 自家用酒については、当初から鑑札をうけ、納税すれば自由に造ることができた。明治三二年には、自家酒造は、全面的に禁止されたが、焼酎は数十軒単位で、共同製造が認められたようであるが、そうした共同製造について、記憶している人は今は誰もいない。
 明治の初期麦の麹に蒸麦を混ぜて、発酵させたものを、小さな釜や甑を家毎に持っていて蒸留していたところから、麦焼酎は幕末頃には壱岐でも自家用として造られていた。この事は芦辺浦の牧山藤兵衛が、県知事に明治十六年九月三〇日付の、郡長宛の自飲酒の免許鑑札願には、濁酒四斗二升八合焼酎五斗六升とある。
これは濁酒と焼酎が、当時併飲されていた事を知ると共に、濁酒を常に飲んでいた人にとって、日本酒がなじめなかった事を示している。
 明治三三年の酒造法の施行まで、濁酒は壱岐の飲酒文化の主要部分を占めていたといってもよい。明治三九年の酒造組合の記録に、甲乙清酒業者一四軒、乙部焼酎業者二三軒となっているが、明治三三年には焼酎免許者は三八軒であるので、六年間に十五軒減っている事は、酒造業というものの基礎がまだ固まっていない事を示していると目良亀久氏は記している。

勝本の酒造業
 勝本の酒造りに関する参考になる文献が残されていないため、いつ頃から酒造りが創始されたか不明である。壱岐の酒造組合にも酒販組合にも、勝本の酒造についての文献を得る事は出来なかったが、壱岐郡全体の醸造高販売高については、参考になる事が多かった。勝本の工業生産品の中で、最も長く中核となったのは酒造業である。
 創業年も醸造高年度も、将来共に不明のままにする事は、本史を記すためにも残念な事であると思い、究明に努力したが、世代も変わり尋ねるに術なく、得るところが少なかった事は残念な事ではあるが、昭和八年編纂の、香椎村郷土史に僅かに記してある。
 勝本の酒造業者は、明治維新当時十二戸もあったが、現在では吉田覺太郎氏、石橋善助氏、殿川重吉氏、原田謙造氏、下條德衛氏の五戸で、年酒造総高は約七百石で、本郡で最高位を占めている。焼酎は百余石で、対馬に輸出されると記されている。その外人物伝に、殿川徳次郎氏が二五歳で、酒造業を営みとあり、又原田卯八郎翁伝に、明治二〇年酒類製造業を開始したとある。殿川徳次郎氏二五歳の時は明治五年となる。その他の郷土史には、それ以外酒造について記されたものは見ない。明治初年業者が十二戸もあったとあるが、明治新政府は明治初年においては、濁酒焼の製造は黙認されていたようであるから、そうした者を入れて十二戸としたのであろう。筆者の知るところでは、昭和初年頃西戸に吉田辰重氏が焼酎を造っておられた事を記憶している。
 殿川酒造は清酒寒梅を醸造し、後に焼酎白梅を醸造されていた。原田酒造は清酒蔦の寿を吟醸、焼酎は大正時代になってからであろう。銘柄大正を醸造、その後酔心地と銘柄を変えられた。
 石橋酒造は慶応年代の創業とも聞くが確証はない。慶応年代は、三年にして明治となっている。酒の銘柄は福椿で、焼酎は椿正宗である。吉田酒造の創業は不明であるが、清酒の銘柄は鬼ケ島であったが、終戦後醸造業を閉鎖して、酒類販売のみを業とされている。
 下條酒造は明治二四年まで、香椎村役場であった事から、創業は明治二四年以降として間違いないであろう。下條酒造は明治後五〇年余の酒造の歴史を経て、終戦前に吉田酒造と合併され、後は酒類販売と煙草販売に専念されている。
 こうして見ると勝本における五軒の酒造業者も、不明不確実なところが多いが、明治初年前後から二〇年代に創業されたようである。石橋、殿川、原田の三酒造は、百年前後清酒、焼酎の吟醸に尽くして来られたが、焼酎ブームによる清酒の低迷と、移入酒に押された事も原因であるが、昭和四五年頃から全国に押し寄せるように、焼酎ブームに島外の大手業者は、敏感に焼酎の大量生産に移行したが、壱岐での小規模業者は、直ちに対応できなかった。
 今まで地元の消費を充すだけで、どうにか採算がとれて海外への移出は、考えていても容易に出来る事ではなかった。今まで郡内自給自足の殻の中に閉じこもっていただけに、小規模業者の海外進出は、多くの宣伝費を使っての売り込みには多くの難点があった。
 しかし現存の侭では今後焼酎需要についてゆけなくなり、県の指導等もあって、地域の自給工場の壁を破り、郡外進出の計画したのが焼酎の合同化への動きとなった。始めは県の進めもあって、酒造メーカー十二社がすべて協業化しようとしたが、長く続いた銘柄をなくするのは、時代の流れとは云え、先祖に申し訳ないという意見等も多く出され、最後は十二社の中で、篠崎酒造、吉田酒造、長谷川酒造、石橋酒造、殿川酒造、原田酒造の六社が協業組合に参加することになった。
 斯くして壱岐の焼酎協業組合は、昭和五九年五月に設立され、年産一、八〇〇キロリットルの能力を持つ工場である。現在壱岐の焼酎業者の五四%が島内消費されているが、協業組合の島外荷量は現在、生産量の三割であるが、八割まで増やす計画で進められているという。

先送りした。その後その声が高まって、有志者及び校友会幹部協議研究の結果、有志側でも後援するから、是非校友会の主催で開催して貰いたいとの意見が強く、直ちに役員会を開催して、相談の末、後援を笠にして、受け持って決行する事になった。善事は急げと忽ち日取りを五月十一日、(雨天の場合は五月十四日)と定め、種々考案を練り、先ず第一に各商店特別割引景品付大売出しの交渉を遂げ、直ちに香椎、箱崎、田河、那賀、志原、柳田、沼津、鯨付の隣人八カ村青年会長及び各村各触青年支部会長宛に、出品奨励の依頼状に次の如き広告紙を配付した。
  勝本いち開設広告。
 期日、五月十一日(旧三月二八日)雨天の場合、五月十四日、旧四月一日。
 場所、勝本坂口下り口より、黒瀬町回漕店波止場に至る。
 各商店通じて特別割引、景品付大売出し(何品に限らず)、売上金額五〇銭毎に、景品券一枚宛進呈、景品は米、麦、時計、洋傘、其他外れなし。
 出品人優待方法、出品人には(何品に限らず)一般優待券を呈し、菓子又は酒を呈す。
右の通り市(物(○)品(○)交(○)換(○)売(○)買(○)市(○))開設致候條、成るべく多数御出品あらん事を謹告す。
  大正四年 主催 勝本校友会
  各位
金銭売買もあったが物品交換売買に注意
 しかし当日五月十一日は夜中から朝にかけて雨降りとなって決行できず、五月十四日に延期せざるを得なくなった。かくして連綿と七五年続いて今日に至っている。当日のいちの状況等については、校友会報第一号に詳しく記されているので、役員諸氏のこのいちに対する意気と期待を永久に伝えんとしたが、紙面の都合により削除せざるを得なくなった事を残念に思う次第である。結果的にこの勝本いちは、役員の期待をはるかにこえて大成功であった。五〇余名の役員の氏名を記す事を省略さしていただいて、主任だけの氏名を記す。猶当日の出品状況の一覧表を掲げて参考とする。

第四節 工業
壱岐の酒造
 壱岐に於いても早くより酒造りがなされた事は大体に判るが、いつ頃から酒造りがなされたかということは判然としない。郷土館、酒造、酒販組合を調べてもわからない。これだけ昔より愛飲した酒造の歴史について、記したものが残されていない事も異状である。酒の醸造は昔より壱岐より産出される唯一最大の工業製品であるからである。
 焼酎については郷ノ浦の目良亀久氏の記述が残されて心強い限りである。浦史という枠を逸脱するが、参考の為に大要を記してみる。
 鹿児島民藝社から出版されている、日本焼酎文化譜の、目良亀久氏の日本醸造協会誌によると、藩政時代平戸藩の法令に、慶安四年(一六五〇)発令の町方奉行勤方定法、寛政七年(一七九一)の町方仕置帳に、当時の酒造について記されているが、天保八年(一八三七)には当時壱岐に酒屋が四五軒あって、原料米を三、〇〇七石使ったと記されている。
 又壱岐郷土史には、正徳元年(一七一一)朝鮮通信使、勝本における松浦藩の饗応に、他の品と共に清酒一五石とある。この頃已に壱岐にも酒造業者がいたのではと思われるが、壱岐での酒造業の創業年が不明なため、平戸方面から運んで来た事も考えられるが、史実的に裏付けとなるものはない。壱岐においては古くから、濁酒(どぶざけ)や焼酎はみんな自分の家で造っていた。明治初年においても、濁酒焼酎の製造は黙認されていたようである。藩政から移行した明治新政府は、免許酒税、自家用酒制限等、次から次に布告を出した。
 自家用酒については、当初から鑑札をうけ、納税すれば自由に造ることができた。明治三二年には、自家酒造は、全面的に禁止されたが、焼酎は数十軒単位で、共同製造が認められたようであるが、そうした共同製造について、記憶している人は今は誰もいない。
 明治の初期麦の麹に蒸麦を混ぜて、発酵させたものを、小さな釜や甑を家毎に持っていて蒸留していたところから、麦焼酎は幕末頃には壱岐でも自家用として造られていた。この事は芦辺浦の牧山藤兵衛が、県知事に明治十六年九月三〇日付の、郡長宛の自飲酒の免許鑑札願には、濁酒四斗二升八合焼酎五斗六升とある。
これは濁酒と焼酎が、当時併飲されていた事を知ると共に、濁酒を常に飲んでいた人にとって、日本酒がなじめなかった事を示している。
 明治三三年の酒造法の施行まで、濁酒は壱岐の飲酒文化の主要部分を占めていたといってもよい。明治三九年の酒造組合の記録に、甲乙清酒業者一四軒、乙部焼酎業者二三軒となっているが、明治三三年には焼酎免許者は三八軒であるので、六年間に十五軒減っている事は、酒造業というものの基礎がまだ固まっていない事を示していると目良亀久氏は記している。

勝本の酒造業
 勝本の酒造りに関する参考になる文献が残されていないため、いつ頃から酒造りが創始されたか不明である。壱岐の酒造組合にも酒販組合にも、勝本の酒造についての文献を得る事は出来なかったが、壱岐郡全体の醸造高販売高については、参考になる事が多かった。勝本の工業生産品の中で、最も長く中核となったのは酒造業である。
 創業年も醸造高年度も、将来共に不明のままにする事は、本史を記すためにも残念な事であると思い、究明に努力したが、世代も変わり尋ねるに術なく、得るところが少なかった事は残念な事ではあるが、昭和八年編纂の、香椎村郷土史に僅かに記してある。
 勝本の酒造業者は、明治維新当時十二戸もあったが、現在では吉田覺太郎氏、石橋善助氏、殿川重吉氏、原田謙造氏、下條德衛氏の五戸で、年酒造総高は約七百石で、本郡で最高位を占めている。焼酎は百余石で、対馬に輸出されると記されている。その外人物伝に、殿川徳次郎氏が二五歳で、酒造業を営みとあり、又原田卯八郎翁伝に、明治二〇年酒類製造業を開始したとある。殿川徳次郎氏二五歳の時は明治五年となる。その他の郷土史には、それ以外酒造について記されたものは見ない。明治初年業者が十二戸もあったとあるが、明治新政府は明治初年においては、濁酒焼の製造は黙認されていたようであるから、そうした者を入れて十二戸としたのであろう。筆者の知るところでは、昭和初年頃西戸に吉田辰重氏が焼酎を造っておられた事を記憶している。
 殿川酒造は清酒寒梅を醸造し、後に焼酎白梅を醸造されていた。原田酒造は清酒蔦の寿を吟醸、焼酎は大正時代になってからであろう。銘柄大正を醸造、その後酔心地と銘柄を変えられた。
 石橋酒造は慶応年代の創業とも聞くが確証はない。慶応年代は、三年にして明治となっている。酒の銘柄は福椿で、焼酎は椿正宗である。吉田酒造の創業は不明であるが、清酒の銘柄は鬼ケ島であったが、終戦後醸造業を閉鎖して、酒類販売のみを業とされている。
 下條酒造は明治二四年まで、香椎村役場であった事から、創業は明治二四年以降として間違いないであろう。下條酒造は明治後五〇年余の酒造の歴史を経て、終戦前に吉田酒造と合併され、後は酒類販売と煙草販売に専念されている。
 こうして見ると勝本における五軒の酒造業者も、不明不確実なところが多いが、明治初年前後から二〇年代に創業されたようである。石橋、殿川、原田の三酒造は、百年前後清酒、焼酎の吟醸に尽くして来られたが、焼酎ブームによる清酒の低迷と、移入酒に押された事も原因であるが、昭和四五年頃から全国に押し寄せるように、焼酎ブームに島外の大手業者は、敏感に焼酎の大量生産に移行したが、壱岐での小規模業者は、直ちに対応できなかった。
 今まで地元の消費を充すだけで、どうにか採算がとれて海外への移出は、考えていても容易に出来る事ではなかった。今まで郡内自給自足の殻の中に閉じこもっていただけに、小規模業者の海外進出は、多くの宣伝費を使っての売り込みには多くの難点があった。
 しかし現存の侭では今後焼酎需要についてゆけなくなり、県の指導等もあって、地域の自給工場の壁を破り、郡外進出の計画したのが焼酎の合同化への動きとなった。始めは県の進めもあって、酒造メーカー十二社がすべて協業化しようとしたが、長く続いた銘柄をなくするのは、時代の流れとは云え、先祖に申し訳ないという意見等も多く出され、最後は十二社の中で、篠崎酒造、吉田酒造、長谷川酒造、石橋酒造、殿川酒造、原田酒造の六社が協業組合に参加することになった。
 斯くして壱岐の焼酎協業組合は、昭和五九年五月に設立され、年産一、八〇〇キロリットルの能力を持つ工場である。現在壱岐の焼酎業者の五四%が島内消費されているが、協業組合の島外荷量は現在、生産量の三割であるが、八割まで増やす計画で進められているという。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社