天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本漁業史 第三章 ⑦~漁業の進展~

五、延繩

 

ブリ

ブリは古くからわが国の人々に親しまれてきた由緒ある魚で、文献の上では五〇〇年前(室町時代の明応年間)に飯魚(ハマチ)という名で、すでに現われているという。全長約一・五㍍で、体は紡錘形でやや側扁し、全身を小円鱗がおおっている。背部は暗青色、腹部は白色で、体側中央を不明瞭な黄色の一従帯が走っている。ブリの生息域は、北は北海道から南は台湾近海に至る温帯域で、黒潮及びその分派(対馬暖流を含む)の影響を受ける沿岸水域である。朝鮮の東岸、南岸にも分布するが、黄海側にはあまり分布していない。

ブリは古来、沿岸定置網の代表的な対象魚であったが、近年は沿岸域の汚染や荒廃、資源の減少などのためあまり振るわなくなった。それでも、三陸沿岸、房総沿岸、相模湾、駿河湾、熊野灘、土佐湾、日向灘、富山湾、若狭湾、山陰沿岸、五島列島、対馬方面などではブリ定置網漁がなお盛んである。またブリは、海中の瀬や島の周りにつく性質を持っている。しかも西南日本では殆ど周年生息するので、一本釣りによって漁獲されることも多く、その量は近年殆ど定置網のそれに匹敵するようになった。アメリカの西海岸では、ブリは遊漁(釣り)の対象となっている。

ブリは成長するにしたがって呼び名が変っていくので、俗に「出世魚」といわれめでたい魚とされている。呼び名やその順は地方によって異なるが、数例をあげると、千葉県下では、ワカシ(ワカナゴ)、イナダ、ワラサ、ブリの順に呼び名がかわる。三重県下では、アブコ、ツバス、ハマチ、イナダ、ワラサ、ブリとなっており、高知県下では、モジャコ、ワカナ、ツバス、ヤズ、メジロ、ブリの順である。

近縁種に、ヒラマサ(ヒラス)とか、カンパチ(アカバナ)があり、分布は両種ともブリとほぼ同じで定置網や釣りで漁獲される。

 

ブリの稚魚

二、三月頃東支那海中部・南部で、また四、五月頃九州西方海域で孵化した稚魚は、黒潮と対馬海流に運ばれて一部は太平洋側に、一部は日本海に入りそれぞれ北上する。そのカラヌス、パラカラヌス、ユウカラヌス、テモラ、オンケアなどのプランクトンを食べて次第に大きくなる。そして全長二㌢ぐらいになると、ホンダワラ類を主とした流れ薬に付き始め、それといっしょに各地の沿岸域へ寄ってくる。全長四、五㌢になると、カタクチイワシのような魚類を食べ始めるが、一方共食いも始まる。この期の稚魚は黄褐色の地に、五—十一条の金属光沢に輝く赤褐色の横縞があり、成魚の色彩、斑紋とは全く似ても似つかぬものである。

全長一五㌢にも達すると、ほとんど藻につかなくなる。流れ藻の下についている頃のブリの稚魚をモジャコといい、ハマチ養殖業の重要な種苗となっている。流れ藻を離れたブリの幼魚は、次第に群を作ってカタクチイワシ、アジ、サバ、スルメイカなどの餌生物を求めながら沖合いの表、中層を北上回遊する。この大きさのブリの若魚を、イナダという(勝本ではヤズという)。

秋、冬の頃になって海水温が低下し始めると、三陸沖や北陸沖から南下回遊を始める。このときに各地の沿岸定置網に入るのである(寒ブリ)。そして翌年三月—四月ごろまで定置網漁は続く(彼岸ブリ)。

 

延繩

延繩(のべなわ)漁法とは、多数の釣を付けた長い道具を、船を進めながら順次海中に投入し(浮繩や底繩あり)餌に食いついた魚は自動的に針にかかる様に仕組んだもので、手釣法を能率的に合理化したものである。日本の漁業史の上で延繩漁は、相当古いようである。しかし壱岐の漁民が実際にこれを使用し出したのはいつであったか、何も史料に残されていないのでわからない。ただそれ程古くはあるまいと考えられている。

勝本の場合、延繩の中ではやはりブリ漁が主流であった。家室船がタグリ、夜釣りの漁法を伝えてからは延繩は主に冬におこなわれ、春になると主にタグリをするようになった。山口麻太郎氏が昭和八、九年頃に、勝本浦で行なった聞き取り調査がある。それによると「明治二、三年頃までは船数も少なく、五、六艘だった。しかし明治三十四、五年頃には非常に盛んで百二十艘ぐらいいて、一夜に七万円もあげたこともあったという。しかし飼付漁業にかわってからは昔のように五、六艘になってしまった。餌もサンマ、イカだったのが、アジをいかしておいて使う「イケバエ」の法をやっている。なぜかこれをトーゴン流という」とある。

当時使用の延繩は幹糸(ムノウ)八尋間で枝糸(メヨマ)四尋、釣は六〇本、これが一桶分である。道具はすべて麻糸であり、釣針は自分の手作りである。この形のものは、最後まで改良されることなく使用された(古老達の自慢のものであった)。この長繩(ナガノウ)を四斤繩といい、これは海底に沈める底繩である。餌はイカ、サンマ等の切り身である。六人が乗り組み、盛漁期には豊後からも大勢の人が来ていた。

盛漁期は霜月、師走で、最も朝の下げ潮の速い時を選ぶ。またこの時分は北西の季節風が吹く時でもある。速い下げ潮(潮流の項にあるように三㌩以上の潮が行く)だから、ちょっと風があればサヤが出来るのは当然で、その中を押し出さないと漁場に着かない。サヤを抜けると(大体平曾根並び)波は少なくなるが、いくら寒くても掛声勇ましく他の船に負けまいと最後は裸になって櫓をこいだ。

繩の投入にも長い経験とカンのいるところで、船頭の腕の見せどころである。船上での支配はすべて船頭の一存ではあるが、トモ押しと相談する事も多かった(ながのう投入時の支配は、トモ押しにあるという説もある)。漁場に到着すると夜明け間近に投入し始め、最後の桶を大体「前の浜」附近で投げる頃、ようやく太陽が昇りはじめる。普通、この繩を八つ投入した。一桶約五〇〇尋、一導一・六㍍として計算すると、約八〇〇㍍であるから全部では約六四〇〇㍍となり、勝本、郷ノ浦間の約半分ぐらいの距離となるのである。地から沖に向って繩を入れてゆき、ぜんぶいれおわったあとで繩まわりをして再び地の方からあげるのである。ブリは、繩の沈む途中で食うものとされている。夜が明けてカモメの群が舞いブリが湧くようだったらしめたもので、大漁は間違いない。

しかし繩を揚げる時も大変である。潮時によっては下げ潮の速いさかりに揚げなければならない。先そびきの者は裸になり布製の手ゴー(指にはめるのを指ゴーという)をはめて後そびきの者と二人で(時には三人で)一生懸命に引張った。先そびきの者は海底から船迄の間に、大体何本ぐらいブリがくっているかわからないと一人前とはいえない。やがて下の方からヒラヒラと、次々に大きなブリが揚って来ると、船上に活気がみなぎるのである。大漁のことを「百釣(ひやくづり)」と呼び、五〇本以上釣れると「トモ押し」は「おしあげ」という特別手当、ブリ一本がもらえた。大漁をした時は「オモテ」に旗を一本立てて入港した。

 

石にもブリが

ブリの食いのよい時は、重り用の()(いし)にも食い付いてあがってきた。手石とは、にぎり拳ぐらいの大きさの金石(かないし)で中ほどをしばり、着脱のしやすいようにしたものである。繩を沈めるために所々の枝釣につける(大体一〇本に一個)。浮繩の場合は竹のタンポコ「竹筒」を同じように着けて使用し浮かせる。この手石は縁起が良いとされ、記念、御守りとして家の床の間、神棚によくかざられた。

あれから数十年経過し、古老達の話をもとに当時の船頭方を探すのだが資料を保存してある人はなく見つからないのは誠に残念である。

 

戦後の延繩

この漁法は、その後も続き、戦争中は一時種々の事情でおとろえたものの、戦後再びさかんになった。隻数も増加して(焼玉一〇馬力―一五馬力)呼子船のイカを生かして一本ずつ掛けてやるイカ一ぱい掛け漁法が伝わり、昭和三〇年代初め頃には最も盛んになった。

勝本における戦前のブリ繩は、「コスイ上品」であり、大体浜の方をやり、荒い瀬(曾根)の上などは乗りこえられないとされていた。特別製の瀬繩と称するものもあったそうであるが、これとて呼子船のものと比較すれば親子ほどの違いがあり、あんな大きな道具によくブリが食うものだと感心したものだった。戦後一四、五年もたつと、魚も少なくなり反対に船は多くなるといったことから、曾根の上が成績も良く、みんな七里ヶ曽根附近に集中するようになった(灯見重なりが最高の漁場であり競争でここにはえたものである)。

従って繩も荒い瀬に耐え得るべく、ムノウを大きくし間も枝も短かめ、釣数も五〇本とへらしていった。

 

二番繩

中上長平翁の項にあるように、従来日の出前に投入しないとブリは食わないものとされていた。これに疑問をもった翁は、いろいろと試験してみたのである。その結果、ブリが湧けば日の出以後に投入しても食うことがわかった、おそくても釣れたのである。しかし和船では朝の一番繩だけで精一杯、とうてい二番繩はやれなかった。

しかし二番、三番とやるようになったのは、やはり機械船になってからである。朝は不漁でも昼から釣れることもあって、これも動力船ならではのことである。

 

エサ取り

戦後の一時期、マメの生きがけとなったため、エサ取りが大変であった。五〇本づけを七、八桶やるとすれば約四〇〇本はいるし、二番繩、三番繩用ともなると最低五〇〇本はいることになる。沖止めの旗が立っても行かねばならず、すぐに取れる時はよいが、風波があるのに遅くまで辛抱するのは辛いことであった。

 

ホッケ

漁場への押し出し、繩あげ、そして押し込み、帰ってからの「繩クリ」と体を使う仕事ばかりであったから、腹の方もペコペコであった。漁が終った後、繩にかかった瀬モノや赤ものを肴に飯を食う美味さはまさに格別のものがあり、延繩をやった者のみが知る味であろう。その御飯の残りを大きなにぎり飯にして、浜にきた子供達に食べさせた。いうまでもなく米ばかりの銀シャリである。大人が両手一ぱいに丸くにぎるので、重さと大きさで小さい子供は貰う時に取り落とすことさえあった。今では各家庭でムギ飯を食べているところは皆無の状態だが当時は米飯を食べている家庭はほとんどなかった。だから、正月、節句、祭等が来るのを楽しみにまっていたのである。ちょっと塩気のある、このにぎり飯の味を、今も覚えている人は多いだろう。

 

計算(サンニユウ)と分けロ

船頭が船と繩を出すのに対し(船頭方と呼ぶ)、ワッカシ(乗組員)はただ労力のみである。一艘の乗組員は大体六人であった。漁具作りや手入れはワッカシが手伝い、餌、食費、酒代等は「フナウチ」の「ゾウヨウ」経費として水揚げから差引き、残りを船一口、繩一口、乗組員は平等で一口宛で分配した。ただし小学校卒の見習いの配分率は、昔ほどきびしく、はじめは三合か半口、やや仕事に馴れて八合、一年間を過ぎないと一口はもらえなかった。

機械船の時代になると、船二口、繩一口であったが、しだいに繩も二口となった(切れたり、取られたりで繩の消耗もはげしかった)。

船の口数など浦中同一というわけではなかった。親類関係の乗り組みや、船頭方の身内が多く乗りこんでいる場合には、当然ワッカシに対して船の口は少な目に取ったであろう。他人乗りでしかも船頭方が一人働きであれば、船のロも当時のシキタリの上限まで取ったであろう。いろいろあったと考えられる。

動力船時代になってから、冬は二口、夏は一口半から一口八合ぐらいで、この内から機関士に歩合を出した(後記)。乗組員の平等はいつも変らなかった。

休漁(シケ)になり問屋または組合の仕切り(計算書)が取れると、その都度こまめに船頭方に寄って計算した(漁師間ではさんにゅうするといった)。このことは、毎日稼がねばならない純漁業労働者を主体としていたためか、船頭自身の企業ではなくて乗り合って漁をしていたという名残りであるのかわからない。とにかくワッカシにとって最大の楽しみは、今度の計算はいくらあたるかということである。それに機械船であれば燃料費や雑費など、期間が長くなるほどハッキリしなくなるため、正確な計算をするには早いほどよいようである。「はたらけた」(良い収入があった)ときは、さんにゅうごっそうといって鶏をつぶすなどして、一寸した計算御馳走をした。また反対の場合もあった。人より漁が少なく「しあわせが悪い」ときなど、しあわせ直しといって御馳走をし、食い込むと称して気分転換をはかった。当時の一級メニューは鶏のすき焼き、タイゾーメン等であった。旧一〇月二九日の迎え神楽に、船頭寄りをして米の値をたてた。白米の相場に薪、野菜代としていくらかを加えて米代を決め、米代だけを「ふなうち」の雑費として引くのである。この金額の範囲内で食料などを船頭方は供給したのである。

 

機関士の歩合(ゴーシヤク)

焼玉の運転及びシケ間の手入れと、機関士は油に汚れて大変であった。特に夜釣りと曳繩などで漁があり夜昼連続で操業するときなど、かなりの重労働であった。だから機関士には普通二合のゴーシャク(歩合)がついた。昼夜連続のときやベテラン機関士などは三合であった。これは船頭方が、持船の口の中から出した。舵取り(雇われ船頭)も二合か三合の歩合がついた。また船頭方は良く働く忠実なワッカシに対しては、盆、正月に心付けをやったものである。

 

底繩曳船のなやみ

底繩曳船は、一日中黙々と底繩を曳ぎ廻り、やっと一本か二本のブリを釣っている。私どものなやみは延繩船の多いことである。もっともアジロ(漁場)が一所であるためのグチかも知れないが、延繩船はあまりにも「ワンマン」すぎると思う。底繩の上であろうとかまわず延えて行く。あげくの果てには「今から延えるからあっちへ行け」と手を振る船もある。現在のところ弱いものが負けになっているが、我々も延繩を切ろうと思えばたやすいことなのである。しかし良心的にそのようなこともできない。延繩船の自覚を願う(昭和三〇年一二月『すなどり』掲載)。

 

延繩の終末

狭い七里ヶ曾根に多数の漁船が集中するため、延繩はたぐりなどを妨害することとなった。そして自分達の漁場と生活を守るため、心ならずも県外延繩船の排斥運動にまで発展したのである(たぐりの項参照)。

勝本の延繩船はこのような紛争を避けるためと、折から盛んになりつつあったイカ運搬に漁法を切り替えていった。

最近のエサ用マメイカの不漁は、これに拍車をかけ数年前から県外船もいつしか姿を消したようである。昭和五四年、勝本浦で延繩をしている船は皆無である。

 

その他の延繩

中上長平翁の業績を記録した本のなかに、マグロは、延繩によって若干の漁獲を得ていたのを、浮繩にしたほうがよいということを発見してこの漁法に一進展を促した、とある。

ハイオ(羽魚)も同じく、翁が流し網操業を開始する明治三五年以前は、ハイオ繩によって多少の水揚げがあっていたと伝えられている。また動力船になってからは突手(つきて)を他浦から雇いハイオ突き漁をしたといわれるが、勝本でもごく少ない限られた船だけが行なっていたのであろう。

 

フカ繩

フカ延繩も昔やったことがあるらしいが、現在それを知る人は少ない。普通のフカ釣りといえば、立繩形式による白フカ釣りがあった。春先の八十八夜(旧暦で立春から八八日目、現在の五月一日か二日)すぎからやるもので、街は生きブリの一本がけ、釣針は二本であった(この釣針は下条鉄工所で特別に作ってもらった)。フカは歯が強いから、ワイヤーか手作りのクサリをサガリにした。場所は七里ヶ曾根の中の瀬か平曾根で、小碇を海底にやる固定式であった。白フカは用心深く、餌をくわえてもなかなかのみ込まず吐き出すらしく、そのため傷だらけの餌ブリがあがることが多かった。しかし釣れると白フカは、値が良かった。

 

流し繩

イカ取り・ブリ夜釣りのかかりで、あまり潮の早くないとき、釣の二、三〇本ついた小さな延繩(先にタワシなどをつけ、手元に分銅をやって沈める)をトモから投入して底にはわせておくと、イサキ等が良く釣れ、時にはタイの混ざることもある。エサはイカの切り身である。現在では流し繩ではなく、レンコ釣り(立て釣り)を投入しておくとおかずぐらいは釣れるようである。他に、タイ、レンコ、アラカブ等を対象とした底繩、フグ、万引等を対象とした浮繩がある。

 

遠洋漁業の先駆者

明治二八年日清戦争中のことであった。軍は食糧補給の一環として、戦場での漁獲物の確保を水産県たる山口県に依頼した。

山口県では、出漁希望者を募り二〇隻の船団を組織して、明治二八年旧正月二八日萩港を出発した。当時、弱冠一七歳の片山永寿少年もその一員として参加したのであった。

現在では大型動力船で黄海、東支那海など我が海のように出漁しているが、当時は動力漁船は珍しく、本船団ももちろん無動力船であった。「船は帆まかせ、帆は風まかせ」のたとえ通り、風のまにまに二〇日の日数を費して、遠路はるばる大連港に到着した。

軍の命令にしたがって船団は各漁場に分散、主として延繩により油ブカ、グチなどを漁獲して軍に納入した。ところがある日、船団は八十八夜に船出をした。

酒の肴を釣ろうということになり、大連湾内に一桶の延繩を投入してみた。一八〇本づけの延繩に、カラ釣り四、五本というくらいにタイが釣れた。思わぬ大漁に船たてもそっちのけにして出漁、連日大漁をして軍に納入したため、軍も大いに喜んだという。六月一ぱい漁をして、月末に郷里萩港への帰途についた。

片山氏は、その後勝本に移住、当時の有様をみんなに話した。それに豊後船も同じような話をするので、自分達も一度行ってみようということになった。時あたかも日露戦争直後、片山永寿氏を団長に松尾多十、小島芳太郎、平田鶴太郎(前勝漁丸船長)、篠崎作太郎、山口徳太郎、川村政太郎、小西貞吉ほかの諸氏が二隻の船(もちろん、この時も和船)に分乗大連に向けて出発した。そして約一ヶ月の日数をかけて漁場に到着した。

だが時すでにおそく各県よりの出漁漁船が多く、ある程度の漁獲はあるにはあったが、氷はなく販路もまたかぎられており、思ったほどの漁獲もあげられなかった。四ヶ月間滞在した後、片山氏のみは各地漁場の視察に残り、他の乗組員は船、人ともに汽船に便乗帰郷したのである。

これらの先駆者たちは、勝本漁民のため新漁場開発のみを念頭において出漁したという。交通機関の発達していない七〇年前、帆だけをたよりの無動力船で遠く海外に雄飛した人達の気概は、我々が見習うべき手本であろう。この壮挙を成し遂げた人達は当時三〇歳位の青年であった。片山翁(片山哲郎氏の曾祖父)の談話から。

 

サバ

わが国には、マサバ(ヒラサバ)、ゴマサバ、グルクマの三種がある。このうちグルクマは熱帯系のサバで、わが国では沖繩以南にだけ見ることができる。産業的に重要なのはマサバとゴマサバである。両種の外観はよく似ていて、一般人には容易に区別できない。両種とも体は紡錘形で、その断面は楕円形、背部は緑色、腹部は銀白色をしている。マサバでは背部に屈曲した黒色の波状紋が、ゴマサバではさらに体側と腹面にも不規則な小黒点がある。専門的には、第一背びれの(きよく)数(マサバは一〇以下、ゴマサバで一一以上)や鰓耙(さいは)数で区別する。

サバ類の漁獲量は、昭和四六年には一二五万㌧に達し、わが国の沿岸性魚類の中では、最大の漁獲を誇っている。それまで莫大な漁獲を続けてきたマイワシ資源が、昭和一五年頃を境に衰退し、これに代ってサバ資源が増大したのである。

両者の分布はかなり重なり合っている。しかし一般的にいってマサバは冷水系(九―一九度C、多獲時の水温一四―一八度C)、ゴマサバは暖水系(一二度―二九度C、多獲時の水温一九―二五度C)で、かつ垂直的にはゴマサバがマサバより上層に分布することが多い。マサバにはいくつかの地方群(太平洋系、東シナ海南部系、同西部系、五島西沖系、対馬暖流系の各群など)がある。地方群は異った分布の中心をもつが、全く混合しないというものではなく、資源の大きさや、環境条件によって流動的に交流し合う。ゴマサバの場合、東支那海系群と薩南系群と二つの地方群がある。両種とも沿岸性回遊魚で季節的な南北回遊を繰り返す。一般にサバ類の産卵は南で早く北にいくにつれて遅くなる。産卵期は沖繩から薩南諸島にかけてはニ―三月、南九州、四国、本州中部で四―五月、日本海北部で五―七月といわれている。

マサバは発生した年の末には二〇㌢、翌年の末には二八㌢、満三年で三三㌢に達する。ゴマサバでは、発生年の終りに二三―二四㌢、翌年の末には三〇㌢になる。十分成長すると、マサバで五〇㌢、ゴマサバで四〇㌢に達する。餌は魚の大きさや季節に応じて変化するが、イワシなどの小型魚のほか小型の軟体動物および甲殻類である。一般にマサバのほうが美味とされるが、夏季だけはゴマサバの方がうまいといわれる。

近年のサバ漁業は主として巻き網、それに灯火を併用したハネ釣り(一本釣)で行われる。漁獲量の九〇㌫は巻き網漁業、五㌫はハネ釣り漁業によるものである。「サバの生きぐされ」といわれるように腐敗しやすい。またヒスチジンという成分が他の魚に比べ非常に多いので、ヒスタミンを生じやすく、人によってはジンマシンを起こすこともある。

 

サバ繩

サバを釣るためにやるサバ繩は、上層をはえる浮繩で繩ある。勝本ではじめるようになったのは昭和四、五年頃からといわれ、最初は山口県の船から習ったという。

主な漁場は、山口県沖で、漁期は春と秋である。道具はその船によって多少の違いはあるが、釣数は一〇〇本、幹糸は紡績(三二本)で作り、間は一尋半、枝は同じく小さめの紡績糸で長さはヤビキ(矢引、一尋の八合)。投入する桶数は二〇ぐらいが普通であった。繩と繩との間に石油缶の浮標をつけた。マビキ繩(シイラ繩)のように途中に浮木(竹のタンポコ)をつけたりはしない。餌は、シラスや大羽イワシの輪切りを使用した。

この繩をはえる(投入)ときはかなりの速さで走りながらやるため、時々手に釣針をかけることがある。そのときの用心に、必ず包丁を用意した。手にかかった途端、枝糸を切らねばならなかった。また途中で繩がもつれやすく、もつれるとそのまま投げ込み、後の分を続けてはえた。

この漁はわりに遠いところで操業するため、限られた大型船何隻かが従事するのみであった。釣ったサバは自分で博多、唐津方面に運搬した。冷蔵用の氷は角氷を使用した。(飼付事業、製氷所以前参照)

 

深海立繩

五島玉の浦の深海釣についてその概略を紹介する。長崎県は漁業振興の一策として、新漁場、新技術開発事業を行なっているが、その一環として四九年度、五島玉の浦漁協を対象にタイ漁の不漁、沿岸漁業の不振に活路を見い出す目的で「アラ」深海延繩漁業を実施した。結果は思わしくなく、漁場の探査という程度に終った。

そこで五〇年度、漁具の改良を行い立繩式底繩漁業に切り換え、同事業を推進した。結果は良好で、一二月の報告を見ると、六―ハ㌧クラス(三人乗り)で一週間(うち三日間操業)で、約五〇万円以上の水揚げがあり、一七㌧クラス(四人乗り)では一〇〇万円近くが水揚げされている状態である。

漁場は玉の浦町大瀬崎の西方約八㍄、通称マンダ曾根周辺で、二〇〇から三〇〇㍍の水深に沿って操業されている。一日に操業は二回行い、「サガリ」は二〇〇本程度である。

漁具の改良点は、幹繩の浮子を浮子用スナッチフックでとめていたのを、綱に通して結合させ、また釣針を寸八とし「アラ」以外の魚種をも対象とし、漁獲の向上を図った点である。参考までに一隻の魚種別漁獲量を㌫で図イで示す。

玉の浦現地での漁業者の反応はあまりなく、一本釣漁業からの切り換えは少ない。しかし、延繩漁業より八隻がアラ立繩漁業に転換し、今後も若干の転換が見込まれる。

今後、壱岐地区で本漁法を取り入れていくとすれば、設備、技術面等種々考えねばならぬ点があると思われるが、まず第一に漁場をいかにとらえていくかが問題となるであろう。参考までに本漁法についての略図、仕様書を一六三頁に示す。昭和五一年三月、壱岐水産業改良普及所(『すなどり』二〇一号より)

 

イカ立繩とイカ曳繩

昭和三三年三月一二日山口県外海水産試験場の主催で同県漁業視察団が来勝、組合において説明会および懇談会が開催され、青年部も出席した。その席上において山口県で現在行われている漁法が説明され、そのなかから次の二つが勝本でも参考となるので『すなどり』に掲載された。

・立繩漁法 この漁法は山口県でも数個所において実施されている。私のところでは山当てをして道具の下に小礎を付け定置している。漁具は幹糸(ホンキ)が合成の二分六厘で枝糸が二分柄程度のものを使用している。枝の間は三尋で枝が一尋、一繩に五本―七本の枝をつける。これを一隻で五―六繩持ち、自分のよいと思う漁場に投入する。数十分たったら引揚げ、次の漁場に変更する。このような操業を行い、立繩の流し釣りは行なっていない。

・イカ曳繩 イカをエサに曳繩を行なっている。その時期に取れるイカであれば赤イカ、マメイカどちらでもよく両方とも使える。まず、まんなかをママコの下まで包丁を入れて開く。ワタを取り除き、身の部分をななめに切りとる。頭を割り、まんなか五本の手を残して両側の長手も切り取る。釣針は二本で、上釣は潮吹きにかけ、下約は手のつけ根にかける。それからママコの先の尖ったところを「イカ止め」でとめ、鉛はつけない。このようにして曳ぐと完全に泳ぎ、ほとんど回ることもない。

 

魚はどうして餌をみつけるか

魚は一体どのようにして餌を見つけて食うのであろう。これがわかれば魚を釣る大きな「カギ」となるのである。

それには、次の四つのことが考えられる。

一、音を聞く 音を出す魚やエビがいることは、よく知られている。また魚が泳いだりはねたりするときには、人間の耳に聞こえる音ばかりでなく、聞こえない音(不可聴音)も出していると考えられる。

水中では超音波は一定の方向にすすみ、その速さは、一秒間に一五〇〇㍍で、空気中の四倍以上の速さをもち、その衰え方も少ないので遠いところでも早く届く。それで超音波は魚群探知機に利用されている。この音は、魚が遠いところから餌をさがし出すのに一番役立つものと思われる。そして魚にとって、好きな音と嫌いな音があるはずであるから、それを利用することである。米国の報告では、イルカは自ら超音波を出して、その反射してかえる時間により、瞬間的に相手との距離を知って行動するという。陸上動物でもコーモリが同じような能力があるといわれている。

二、眼で見る 魚は餌魚がいることを、その種類、大きさ、色、あるいはその動き方を見て知り食うのである。しかし魚の目は近眼であるから、その見える範囲はあまり広くはないと思われる。

三、臭いや味による 魚が臭いや味を感じてひきつけられることは確かである。しかし臭いや味は海水の中では短い距離しかとどかないと思われる。魚をつるときは、魚は餌の臭いや味によってその良否を見分けるようである。例えば、マグロ延繩にかかった魚が良くサメに食われるが、味の良い魚ほどサメ食いが多いことからそれがわかる。内湾や川の魚は臭いが特に大切である。

四、魚の超感 魚の感覚は、以上の他にまだ人間にはわかっていないような、もっとすばらしいものがあるかもしれない。例えばビンチョウ(ヒレナガ)は、米国の沿岸から半年も一年もかかって日本の近海まで餌を求めて回遊してくることが、最近になって標識放流の結果でわかった。またサケは川で生まれて直ちに大海にくだり、三年及び四年を経て生まれた川にもどる回帰性のあることは昔から知られている。

このような魚の能力は、どのようなものかまだわかっていないし、魚の種類によってもちがうであろう。いずれにしてもこんな本能的な能力があることは事実である。

以上四つの感覚が組み合わされ、その一部か全部が働いて、魚は餌を求めていると考えられる。(『すなどり』昭和三一年六月号)

 

船酔い

船に乗ることを職業とするものにとって、ぜひとも克服しなければならないのが船酔いである。船酔いとは乗物の動揺がくり返されるのが原因となって発する不快な症状である(動揺病とも呼ばれる)。個人差が大きく、また慣れると酔わなくなる。そのときの心身の条件が関係し、精神緊張時に起りにくく、満腹、空腹時には起りやすい。

和船時代にあっては、船に酔うということは大変なことであった。当時一番大事な動力源である櫓を押すことができない。気分が悪いからといって、狭い船上で手足をのばして寝ることも不可能である。冬期など、かろうじてトマをかぶって片すみにうずくまるくらいであった。動力船になってからは、カンパンまたはトモの下でゆっくり休息できるようになった。

昔は、船に弱いという理由だけで漁師をやめてタビに出る人が多かった。この船酔いとは妙なもので、「今日は波があるぞ」と考えただけで家にいても酔ったような気分になる。また船酔いのため沖で寝ていても「人港するぞ」と聞いただけでスーと良くなるといったあんばいである。ひどい船酔いのような病気を陸で三日もすると死ぬだろうといわれるくらい、船酔いは辛いものである。しかしこの船酔いも、しばらく船に乗ると馴れて次第に酔わなくなる。

戦時中、海軍では新兵教育の一つとして、はじめて船酔いして吐くと、その嘔吐物を無理にまた飲みこませたという。そうやると新兵に意地が出て、酔わなくなるといわれた。また敵の潜水艦から撃沈されるかも知れないというような緊張状態にあるときは誰も酔わなかったという。だから船酔いはその時の精神状態と大きな関連があるのだろう。

 

乗り組み・乗り別れ

冬場の海は荒れるし漁場も遠い。延繩漁は船も大きく乗組員も最低六名は必要である。夏場の海は穏かで漁場も比較的近い。春ブリは地でも釣れるし、夏イカ漁は一晩に取れる量もだいたい決っている。このような理由から、冬は少しでも大きい船に大勢乗り組んでブリを釣る。夏は小さい船にそれぞれ分散して乗組員を減らす。毎年、このように時期によって乗り組みの人数をかえた。その方が漁撈効率も良く、年間を通じてムラなく働けて、収入を安定させることができるのである。

一年の大半をブリ漁にかけてきた勝本浦では、冬期のブリ漁の開始に備えて、一〇月一〇日金毘羅神社祭をもって浦中の乗組員を決めた。旧正月の一七日は乗り別れを行い、冬から春の漁に備えるのである。

時代と共に漁具漁法も変遷するのであるが、昔からの長い間の慣習にもとづき、つい最近までこのようなことが行われていたのである。現在では大型船は年間乗り組みであるし、小型船は一人一隻の時代であるからこのような慣習もなくなった。

 

漁民と酒

昔の漁業は、人の力だけではどうしようもないことがあまりにも多かった。当然、神様の力にすがるより他に方法がなかった。

船を作るにしても、漁をはじめるにしてもいろいろの行事があった。そして大漁、不漁、全て神様のみこころ次第と考えられていた。「安全でありたい」「大漁をしたい」このような願いを聞きとどけてもらうために、神祭りの機会が多かったのである。

よい漁があってうれしいときに船玉様とともに戴く御酒、もろもろの不浄を清める御酒、辛いこと苦しいことを忘れさせ、明日への希望を湧きたたせてくれる御酒など、さまざまである。今日までは不漁続きで飯米にもことかく有様であっても明日一日で数万の富を得るという実例も過去に多い。だから漁業者は夢と希望を酒に託してはめをはずした飲酒が多いのである。

 

樽入れ

漁は回り合わせというが、漁に出てもなにかと「しあわせが悪く」人並にモノが獲れない時がある。このようなとき、漁をしているしあわせの良い親戚か友達が、漁のふるわない船主方に清酒を持参し、船玉様にあげて後はみんなで戴くのである。これを樽入れと呼ぶ。樽入れをすることによってそのしあわせをおすそわけしてやる。そうすると戴いた方はそのしあわせにあやかり、以後調子が良くなるといわれてきた。

 

ミゴ釣れ

同居家族または乗組員の嫁さんが妊娠した場合、漁のある船とまったくない船がある。和船時代ならともかく、文明の発達した現在でもこのことはいわれていることである。

このようなとき、漁のある船を「ミゴ釣れ」、漁のない船を「ミゴいたみ」と呼ぶ。「ミゴ釣れ」のときは面白いように漁がある。「ミゴいたみ」のときは、どうしようもないくらいモノが獲れず、宮司さんからお祓いをしてもらったり、船玉様に御神酒をよけいにあげたりする。それでも漁がないと「俺はこんなに漁が下手だったのか」、と嘆くこともしばしばである。時には生活苦におちいる時もある。しかしこのような時に生れた子供は丈夫に育つといわれてきた。

 

夫婦ゲンカ

昔から、青もの釣りにタブー視されてきたのが夫婦ゲンカであった。普通のケンカは競合(せりあい)というそうで、これだとレクリエーションみたいなもので、時々やってもさしつかえない。しかし「別れる」「切れる」という深刻なケンカはあまりほめたものではない。「春の西風と夫婦ゲンカは夜凪がする」といわれるほどのものであってほしい。

とにかく夫婦ゲンカは漁師の場合、船の操縦にも影響するし気分がムシャクシャしてせっかく魚が食いついても釣り逃がす、おとしてしまうといった調子でいいことなしである。また数人乗り組みで船内(ふなうち)でゴタゴタといい争うのも良くなく、どちらも船玉様が嫌がられるといわれている。

 

漁民の職業病・神経痛

初めて船に乗って、夏イカ取りやクサビ釣りに行った人の大半が、ひどく疲れ、あとで体の節々が痛いという。船のゆれやがぶるのに耐えようとして、知らず知らずのうちに体力を消耗しているのである。漁民はこれに船上での重労働が重なる。そしてそれは連日連夜のことだから、かなり身体的にも無理をすることになる。

特に和船時代はひどかった。戦前の木挽唄に「木挽きは辛いよ一升飯喰ろて朝から晩まで鋸(のこ)をひく」とある。大きな鋸を一日中ゴッシゴッシとひくのである。腹はへる。腕や腰も痛くなったであろう。漁師とて同じこと、長い時間槽を押さねばならないし、釣具もたぐらねばならなかった。若いときは無理がきくから頑張りもする。このような若いときの無理が積み重なり年をとると、腕がつめる(ズキズキ痛む)足腰が痛むといった神経痛になやむ人が多い。和船時代の就業年令は四四、五歳どまりで、五〇歳ともなれば船の上では老人であった。もちろんワッカシでは労働に耐えられないし、ある限られた人だけが自船の船頭として漁に出たという。

神経痛は難儀であるばかりか損な病気でもあった。切れたとか折れたとかの病気と違い、家人にもハタ目には全くわからないし、うっかりすると怠け者にみられかねない。本人だけが辛いめをみる病気である。

〈胃病〉漁師は、漁の都合もあって食事の時間が一定しない。漁模様によっては空腹を我慢して仕事を続ける場合が多い。終ったとたん、体に良くないと知りつつ腹一杯つめこむのが常である。「仕事が飯食う」のたとえもあるが、一般に昔の人は大食漢であったようだ。「一度にまんじゅうを数十個食べた」、「せんべいを一斗ゾーケ(一斗テボ)一杯食べた」などといった武勇伝がごく普通に伝えられた時代であった。

悪い労働条件に加えて、精神面からくるストレスも胃の悪くなる原因の一つであろう。同じ漁場で操業しても人並みに漁のないとき(しあわせが悪い)、判断のあやまりで不漁になったとき(やりそこない)などなんともいいようのないイライラした頭の痛い気分におそわれる。これを「頭がウツ」といっているが、このように漁師とは胃が悪くなるいろいろの要素を多分に持つ職業ということがいえよう。かくて漁民には胃腸の悪い人が多いのである。

 

船頭

船頭とは、「ふなのりかしら」「ふなおさ」のことで船長である。そしてワッカシを雇って漁を営む家を、船頭方と呼んだ。

船頭は資本を出して船を造り、乗子を頼んで各種の漁を営むわけであるが、自分も一労働者として舵を握って働くのである。現代風にいえば船長と漁労長を兼ねており、人に負けない良い漁獲をあげて、乗子の「カマド」を見なければならず、責任感の強い人でないとつとまらない。また自分自身も成績がよければ船にかけた(投じた)資金の回収も早くでき、次に備えることもできる。しかしヘまをすれば船の償却の済まないうちに、また代りの船を造らねばならないといったことにもなりかねない。

明治のはじめ頃まで、釣漁の場合ではめいめいの釣取りであって、船の口の分配はなく、船の主人としてトモの座席に座るだけであったといわれる。タイ釣りなどでは、一日中船をねらえる一人の「ネリ」が必要であり、六人の乗組員が各自釣り上げの約四割の魚をネリの分として出したという。だから「ネリ」になる人は乗組員平均の約二〇割の収入になった計算になる。やがて、このめんめん釣りが発展して、ネリは乗組員が交替で担当することになり、漁獲物も「もやい」として乗組員平等に分配し、船頭も船の口を取るようになった。現在の漁民感覚からすれば、いくら漕力を分担してもらう必要があるとはいえ、船などに投じた資金の回収もできない方法などとる筈はないと考えられる。船頭が「ネリ」を兼ねていたのではないだろうか。

 

船と金策

漁師にとって、自分の好みに合せて船を造り、思いのままに漁に行くことができるということは、たとえようもない喜びである。しかし漁に乗り出すまで船具、漁具をそろえるにはかなりの資金が必要であり、特に新規の船頭方では(新仕出し)有合せで間に合せることができないから、よけい負担がかかる。

船は住居に比べて単価が高く、おそらく延繩でもするような五、六人乗りの船であれば、たとえ和船であっても、櫓一切、帆大中小三つ、綱、錨など船と備品だけで、ちょっとした家を建てるぐらいの資金が必要だったのではないだろうか。

動力船時代に入ると、船価は一層割高となり負担が増した。大正九年、勝本で初めての動力船「和合丸」が建造されたが(曳繩、坂本熊造氏参照)、機関五馬力、現在の船から考えて約三㌧足らずのものが一九〇〇円かかった。当時としては大金であった。最初のこととて何事もスムーズにいかなかったであろうから、よぶんな経費がかかったと考えられる。昭和一〇年頃、一船頭方が一二馬力(約八㌧)の船を造った。機関は下関に買いにでかけ、一年中古で一五〇〇円、船体が同じく一五〇〇円、合計三〇〇〇円ということである。大正から昭和と時代も進み、機械も船も量産体制が整ったのであろうか、だいぶ安くできるようになったことがわかる。それでも家にくらべると格段に高い。このような大金をかけて船を建造したが、資金はどのようにして捻出していたのであろうか。

漁協で融資を斡旋するまで(昭和三〇年ごろ)は、自分の持ち金か、問屋から、あるいは個人貸しに頼るより方法はなかった。昔から、自己資金で船を建造できた者は二割にみたないといわれてきた。問屋から資金を出してもらえば魚価に影響するであろうし、金貸しを職業とする人から借りれば金利が高かった。金利は月に二分から三分が普通であり、時には五分もあったというから、その返済は生易しいことではなかった(はじめから五分の利子で借りる者はないが、予算が足りなかったときのつなぎ資金として、間に合せに借りる)。いうまでもなく年利にすると二割四分―三割六分、月に五分といえば年六割にもなる。金を貸す人は田舎の人が多く、漁があってシケになると手さげ鞄を持って、集金にまわる姿をよくみかけたものであった。ある金貨しは、会う人毎に「モッチケーよ」「モッチケーよ」と利子や元金を催促する。そこで、誰言うとなく彼のことを「持っちけー〇〇」と名前を下につけて陰で呼んでいた。

船を新造すれば、一年で新造にかかったすべての経費の額を水揚げし、二年間で元をとらないと後の仕事がやりにくい。それほどの意気込みで働かねばならない。船体、機械の整備などが次々とやってくるからで、船の耐用年数も一〇年足らずであり、一〇年もたつと船はお爺さんである。

ちなみに、現在われわれが利用している漁協信用部では、最近まで短期もので年一割二分、近代化資金で五分(もっとも町の利子補給があっている)だから、いかに組織の力が大きくそしてその恩恵に浴しているかわかるであろう。だが、良いことばかりと手放しで喜ぶわけにはいかない。金利が安く資金が借りやすいとなれば、当然過剰投資となりがちで、ひとたび不漁の年が回ってくるとその返済に四苦八苦しなければならない。心して投資すべきであろう。

 

ワッカシ(乗子)

昔から、船のワッカシは船頭方から頼まれて乗組員となった。雇われたということになるが、主従関係ができたわけではなく、同じ労働者同志として船頭の持ち始に乗り組み漁撈に従事するのである。ただし、乗り組むときに取り決められた期間の約束はある。年間乗り組む者、一時期だけ乗る者とそれぞれの都合によって長い短いはあるが、その期間内は自分勝手な行動は許されないのである。後年動力船時代に入り、機関士として乗り組むとその期間内は絶対である。勝手に休んだりすると、船ごと休船ということになるからである。ワッカシも同じことである。都合があるからと他の船に乗りかえたり、漁のあるときは乗る、ない時は休むといったことでは、船頭だけでなく他の乗組員にも迷惑をかけることになり、乗子として最低の人間とされる。

ワッカシの仕事はわりあい気楽なものであった。「笛吹かず、太鼓叩かず、獅子舞の後足になる気の安さ」のたとえのように、獅子舞では二人のうち後足はただ前につれてはねるだけである。ワッカシも同様で、漁に出るにしても「枕箱」という煙草やちょっとした釣具などを入れた小物入れを一つ下げて行くだけで、船頭方によりかかっていればよい楽なものであった。金策に走り回ることもなく、金利に追われることもなく、漁場などの「かけひき」も心配しなくてすむ。仕事内容としては、船具や漁具作りなどの手伝い、和船では雨降りの「アカ取り」と朝晩の船の見回りである。それに大事なことは新船では潮を回すこと(海水を隅々までよくかけると、船が長持ちする)、特に雨あがりは入念にする必要があった。また船や道具などがよく乾くように、シケ間に手入れをすることも大事であり、年若いワッカシのつとめであった。

日頃なにかとよく働き、気のつくワッカシには、船頭方としてもそれ相応の心づけをしたようである。前途有望の若者と見込めば、嫁の世話をしたり娘を嫁がせる、といった例も多い。昔は、義理人情がこまやかであったから、気の合った船頭とワッカシでは親子あるいは親戚以上のつき合いであった。

しかし、ワッカシの年々かわる船もあった。「うちの船で働かせてやっているのだ」という恩きせがましい態度では長続きもしまい。また大勢のワッカシのなかには独立不能な者もあった。また、一念発起し自分で船を求めたり、新船を造って独立する場合は、たとえ時期半ばであっても前途を祝福されながら、乗合いを離れることを認められた。この場合でも代替人を探すために、あらかじめ船頭方に予告と相談をする必要があった。このほか漁の上手な船頭のもとで数年間修行して独立しようと、心掛ける者もいた。

 

ワッカシ組合

戦後の一時期、船頭方のいいなりになっている現状を改めワッカシの待遇改善をはかるために、「ワッカシ組合」をつくるべきであるとの声が盛んになった。

この言い分は、船頭が船の口を二口も取るのは多過ぎる、乗子はタダ働き同然だということである。一方船頭方は、なにかと出費が多いから二口はもらわないと引き合わないと主張していた。

勝本の場合、乗子であっても努力と工夫次第では、たとえ中古であろうと小さな船であろうと買求めることができる。自船を持てばその日から船頭であり、小さくても一企業主となって立場が反対になる。ワッカシ組合を作って船頭達と交渉でもしようという気概や才覚の持主であれば、その努力を自分に向ければたやすく船頭になれるのである。

このようなことから賛成する人も少なく、音頭をとる人もなく実現しなかったようである。実現はしなかったが、やはり乗子では収入が少なくて馬鹿らしい、自船でないと生活の安定もおぼつかないとの考えがつよく、それに建造資金など容易に借りられるようになったことも手伝って、昭和四〇年代の造船ブームがおこり、一人一船の時代となったのである。

 

敬神崇祖

神を敬い祖先を崇めることは、日本人としてごく自然のことであろう。漁師は船の神様である船玉様(船大工が祭る船玉様、氏神様である聖母神社、航海の安全を守る金毘羅神社などの祭神を合せ、一般にごく身近にある神様を船玉様と考えている)を敬い、自分の祖先も崇める。そしてこの祖先崇拝は神社を敬う以上であるかもしれない。船板一枚下は地獄と言われる船の上で働かねばならない漁民にとって、神様に願い御仏の袖にすがるのは当然のことであろう。

戦時中「神仏一体」天照大神と大日如来は同一であるから、どちらを拝んでも同じであるといわれたことがあった。「皇国史観」というのであろうか。そのようなときでも漁民は、神様は仲間みんなで祭るが、自分の祖先は自分達が祭らねば誰がするか、という気持で祭ってきた。

御仏の教えといっても、各宗派によって少しずつ違う。勝本漁民の檀那寺である能満寺は、壱岐では数少い真言宗であり、その教えに「極楽に流れる水は多けれど、手向けぬ水は飲むに飲まれず」とある。

子供のときから自分の先祖にのどのかわきや、ひもじい思いをさせてはいけないと教えられて育った私達は、毎朝のお茶、御飯、菓子、果物は自分達が食べる前に必ず仏壇に供え、シケになると草花や水を持って墓参りにでかけた。最近では墓地の改造やビニール製の造花などで、墓参りも昔とはやや異なってきた。しかし、お墓に供えたシバや草花が枯れたり、水入れの水が空になったりすることは、恥しいこととされてきた。また墓参りの際には、昔からある無縁仏(行倒れ、水死など身元不明の人)のお墓に必ず草花や水、菓子などを供えるのである。

このように先祖を大切にすることを代々教えられてきた。そしてこの他、親や先祖の墓石をあげることも子供の大事なつとめであるとされてきた。「墓石あげ」とは故人の家を建てることで、一番の供養であるといわれる。あの世で喜んでもらいたいということで、一生懸命働いて墓石をあげるのである。そしてその「おかげ」はいずれ回ってくるという。

このように人々は、神様や仏様に、家族の健康を願い、海上安全と豊漁を祈願するのである。

 

ブリ立繩漁法

ブリ立繩法は、比較的新しく導入された漁法である。昭和三〇年二月県代表になった青年部研究班長中原芳光氏は、翌三一年二月東京で開催された第二回全国大会に参加した。この大会において三七名のすぐれた研究発表者の資料「水産業技術改良普及研究資料」(水産庁調査研究部研究二課発刊)を持ち帰った。そしてその中から勝本に直接関係があり、導入出来そうな四編をプリントして部員に配布したのである。その四編の中に①鯛釣漁法の改良(延繩より立繩に)京都府丹後町中浜下宇川一坂田浜蔵②先達漁船が実施した釣漁業(ブリ立繩漁業、イシナギ釣漁業)宮城県牡鹿郡牡鹿町鮎川漁業研究組合長伊藤伝次の二編の立繩に関するものがあった。このプリントを参考にして立繩の試験操業に取組んだ人もあったと聞いているが、この時は期待されたほどの成果はなかった。

昭和三三年一一月先進地視祭の目的を立繩の研修にし、視察地を京都府竹野郡丹後町下宇川中浜漁業協同組合にした。視察者は(先達船組合)研究組合長野本熊太郎、(青年部)部長大久保岩男、編集班川村義男、研究班松尾久喜の四氏であった。研修報告書の内容は、大体次のようなものであった。

昭和二八年京都府水産試験場が千葉県の立繩漁法を中浜漁協に導入。同年実施の結果不成績。研究組合を組織し研究の結果翌二九年好成績をおさめる(理由・導入した時は流し操業だったのを掛かり操業に改めた)。

立繩の作り方

本幹(ほんき)=三分柄(飛鱗)、枝=二分四厘柄(銀鱗)、元ヨマ=六〇番綿糸

㋑本幹=全長三〇尋

㋺枝の長さ=一尋矢引から二尋ぐらい、ただしその時に応じて二尋半と変えてみると食う率は良いが鰤の層が狂うため、になう(天秤棒前と後に荷負、即ち複数のこと、勝本では魚が二匹以上一度に食いつく事を言う)率が少い。それゆえ一尋矢引きが最適である。

㋩上間を一〇尋ぐらい置く、人により差あり。

㋥釣型=土佐釣り及び狐釣(寸七)

㋭枝の数=四本から八本ぐらい

㋬重りの目方=個人差あり。目安として縦七寸横回りが一尺ぐらいの(図解)石を使用し、その石を一〇番線(針金)で包み、先端を曲げる。碇の爪の役目をする。

註=重りの安定が一番大事で、朝流の速い時に投入する場合は図の石より小さな石を網でつつんで(二〇本入たばこ箱の二倍位)重りの先端に添えてつけてやる。

浮子=樽又はガラス玉(直径一尺位)

以上のような研修報告が視察団より発表された。

昭和三四年の漁期には、中原聖正丸、(久)金毘羅丸、中万金毘羅丸等が本格的に立繩の試験操業に取組んだ。(久)金毘羅丸の松尾船長は、研究委員で中浜漁協視察団の一員として実習もやって来た人である。中浜漁協が導入した立繩は流して操業するものであったが、中浜漁協においてかかり操業に変えた結果好成績を得たと言うのである。当然勝本においてもかかり操業が採用された。その結果潮流の速い当地では、餌のイカが死んでしまって期待した成果があがらなかった。

年々研究を重ね流し操業をする様になり、立繩船の数も少しずつ増加していった。正月前後の高値のブリの大漁にもかかわらずあまりみんなが立繩漁をしなかった理由は、この漁のきびしい条件のためであった。まず餌のイカ取りである。寒い夜半までイカ取りをするのは、誰しもがいやなことであった。次にこのイカを明日の朝まで生かしておくことである。小さな船では、これもまた大変心配させられることである。次が朝四時頃までに出漁しなければ七里ヶ曾根まで行けないことである。暗い荒波をのりきり出漁するのも一苦労である。

昭和三八年頃から地まわりで立繩に漁がある様になったため、ごく小さな船を除く大半の船が立繩漁をする様になった。そのため漁場の混雑が予想されるようになった。沖世話人では漁場の混雑、紛争をさけるために、次のような方法を実施にうつした。

一、立繩解禁、十二月七日

二、統数制限、一隻当り五統までとする。

三、重りはきかせないこと。

四、樽旗は次の通り地区別に定める。

(昭和三十九年十一月二十五日)

立繩期間の出漁時刻を十二月三十一日まで次の通り決定する。

1、前夜沖止の場合は赤ランプの有無にかかわらず四時まで出漁しない事。

2、前日旗がたたなかった場合は、いつでも出漁して良い。

3、夜間出漁船で曾根附近にいても、港から勝本船が三隻以上到着後立繩を投入すること。

4、出漁船は必ず無電を入れておくこと。

5、樽旗は次の通り地区別に決定しましたので御協力願います。

(昭和四十年十二月十日、沖世話人)

立繩漁法は労力さえ惜しまねば、餌イカは自分で取れるため経費もあまりかからず、その上短時間に大きな漁獲がある魅力ある漁法である。この漁法導入後勝本の漁場に適するよう改良研究された先駆者達の苦労が実り、更にだるま立繩漁法までも行われた。

しかし二番イカが壱岐周辺より姿を消してから、秋の夜釣とともに忘れ去られようとしているのは残念である。

昭和四〇年旧正月一六日、この日は夜半より大吹雪となり当地では珍しく寒い日であった。西部の沖世話人一一名は三時より起き仲折町斎藤沖世話人宅に集まり、五時までの二時間ばかりの間に数回も日和見をした。最終的に今度一回で決めようと話合って日和見をした時、今まで雪で何も見えなかったのが、若宮灯台まではっきり見えたのであった。早速赤ランプを取ると、港に待機していた漁船が一せいに出漁した。それから約一〇分後今度は前にも増して大雪となり一寸先も見えなくなったため、沖船頭船三隻が赤ランプをつけ操業中止の合図をした。しかし漁場到着寸前で繩入れの準備と視界不良のため連絡が徹底せず、二〇隻近くの船が立繩を投入した。日和は、夜明けには完全に良くなり良い天気になった。鰤は海の中全体に湧き、操業した船はいずれも大漁をしていた。赤ランプがついた後に操業したと言う人と赤ランプのつかぬ前に投入したと言う人の両者の主張で、丸一日がかりの調整の末、次のような結末で話し合いがついた。水揚げは半分没収、沖世話人の操業船は全額没収する。後にこの没収した金で日和見宿の整備や博多瀬戸の照明灯の設置、平曾根山当て灯の設置が決まり、一部は現在でも民の操業に役立っている。

 

タイ延繩操業

明治三九年、タイ延繩操業のため片山永寿氏を団長とする一行一二名は、二隻の船(五尋で六尺型の天トウ舟)に乗り込み、はるばる片道三〇日を費やして、満州の大連まで出漁したのである。七〇余年前、帆だけがたよりの無動力船で、勝本漁民のための新漁場開発をめざしたのである。ここに遠洋漁業の先駆者として、遠く海外に雄飛した先輩諸氏の気概をたたえ、感謝の意を捧げ、その名を記す。

氏名 町名 続柄 直系又は血縁者

片山永寿氏 鹿仲 曾祖父 片山哲郎

松尾多十氏 仲折 父 松尾竹雄

小島芳太郎氏 坂口 祖父 小島敏夫

平田鶴太郎氏 坂口 伯父 土肥敏

篠崎作太郎氏 坂口 祖父 篠崎進

山口徳太郎氏 元坂口 祖父 山口松雄 芦辺

川村政太郎氏 築出 祖父 川村一郎 現在東京

小西貞吉氏 築出 父 小西雅治

中村重次郎氏 築出 祖父 中村登

山本福市氏 湯田 父 大久保キチ

小西亀太郎氏 塩谷 祖父 小西敦

一名不明

明治、大正時代の勝本の主要水産物ブリは、延繩によって多くが水揚げされた。しかしブリ繩も潮が小さくなると魚食いが悪くなる。小潮の時はタイ延繩に適し漁獲もあがる。従って延繩船は合理的な操業を考えていた。無動力船であるだけに厳しい天候の支配を受けながら、一潮一五日間を有効適切に、そして船頭の(すぐ)れた経験と頭脳によって操業されたのである。古老の話では明治二八年頃はブリ延繩と共に操業され漁獲もかなりあっていたということである。従ってタイ延繩操業は、ブリ延繩の船頭方が同じ船、同じ乗子(ワッカシ)によって殆どが操業されていたという。

 

延繩船の乗子

当時の乗子のことをワッカシとよんでいる。その実状は勝本の子弟はもちろんであるが、町外からの出稼ぎ漁師も案外多かった。島内では、渡良、黒崎の人が多く、郡外で中、五島、平戸、諫早、天草、野北(系島半島)などからもきていた。勝本の船のなかでは、乗組員六人中四人が他所からの乗子という船頭方もめずらしくなかったという。

 

タイ延繩の漁具

明治、大正時代の漁具は麻の利用が多かった。各種元ヨマ、また麻を大量に必要とした()(いお)(あみ)など、絶対に欠くことのできない資材である。

ここで麻にまつわるエピソードを記してみよう。交通の不便な明治の頃、漁村部落勝本にも遠く広島から麻の商いに商人が訪れていた。宿泊は取引きの関係上、馴じみの家に世話になっていた。たとえば塩谷の富永寅一郎氏の実父、長太郎氏の在世中に広島の人で河内辰次という麻の商人がきていた。この人は勝本に来て商いの途中、ふとした病に倒れ、遂に不帰の客となった。富永家ではこの霊をねんごろにおまつりして、現在当家に残る位牌には次のように記している。

栄心自亮信士位/明治三十四年旧十二月十七日/広島の人当家にて没す/河内辰次

また隣りの家、辻和男氏の祖父豊平氏在世中同じく麻の商人で、博多は対馬小路、手川徳次郎という人が、麻商いのため訪れ宿泊されていた。また黒瀬の和田屋、中上克三郎氏の家には広島安芸郡の人、住繁美寿太郎、又その子、正己という人が麻商いのため宿泊していた。交通の不便な昔、麻を必要とする勝本漁民、そして商人としては熱心な人々、その当時の人と人との暖かい心のふれあい、豊かな人情味をしのぶことができる。

 

タイ延線の製作法

(イ)延繩は幹糸(ムノウ)と枝糸(メヨマ)の大小の糸によって作られる。ブリ繩に比べタイ繩は小さく、幹系、枝糸両方合せた重さが三斤半(約二・一㌔)また四斤(二・六四㌔)である。当時は重さを秤る単位は斤であった。従って当時の人は三斤半繩とか四斤繩とかいって、その延繩の大きさを表現した。その枝糸と枝糸の間隔は五尋(七・五㍍)が最も多く船によって多少の差はあったようである。枝糸の長さは通常二尋(約三㍍)から二尋半(約三㍍七〇)が用いられ釣針の数は一桶八〇本付が普通であった。

(ロ)釣針は大正の末頃まで各自手製のものであった。時化になると、乗子一同釣針作りに、懸命であったという。釣の突端をヤスリで仕上げる者、型をそろえて曲げる者、錫のメッキをかけ、金あげする人、なかなか大変であったという。当時勝本では釣針作りの材料であるハガネ針金は、村田清三郎という人が現在の漁協信用部前に雑貨商を営んでいた。漁民は皆、この店から針金を仕入れたのである。この村田清三郎という人は現在鹿の下東町の村田英雄氏の祖父に当る人である。当時の人はこの釣針を五平太釣と呼んでいた。釣針の先は今日のように返り(イケ又はメガイ)はなく、突端の曲りが多く内側に曲り込んでいた。明治・大正時代、この五平太釣作りで漁民の間で名人とまでいわれた人に、下条太平という人がいた。釣針の形、錫メッキのかけ方、金あげ、魚のかかり工合等、誰知らぬ者はいない程の技術の持ち主であった。下条太平氏は、正村町に住み後、大久保触に移り住み、現在田村工業勤務の下条繁己氏の祖父に当る人である。

大正も一四、五年頃に都会より釣針が導入され初め、繩針も返りのついた漁民が喜ぶような品が、手に入るようになり、この新型の釣針を当時の人はハイカラ釣と呼んだ。

 

タイ延繩の餌は、ブリ延繩にくらべ、種類も多い。一月二月はイワシ、二月三月はトンキュー、三月四月はカナギ、五月六月は蛸、一〇月から一二月の間はイカ・サンマ、黒虫、イワシと時期に応じ使用する。トンキューは小さいイカは生ばえにするが、大きいものは輪切りにして使用する。またカナギは生きたものを用い、黒虫は一匹掛けで、切り餌にはしない。イワシ、サンマは四ツ切りにして用いる。蛸は足も頭も切り、足は約四㌢位、頭は丹尺(たんじやく)に切って使用する。黒虫は繩をはえる(投入)前に熱湯をかけて半ゆでにして使用するのが特徴である。

イワシは当時勝本にイワシ刺網船が、十余隻いたため、殆んどこの船より入手した。また時として、芦辺の方に行き、芦辺のイワシ刺網船からも入手したという。トンキューは殆ど、郷ノ浦町の大島の方から入手した。カナギは八幡浦の方に出向き買い求めた。蛸は勝本では根島の地(龍の滝)から波止の根元付近が最も多い。また串山半島の方は、田ノ浦の対岸一帯が多く、八十八夜ともなれば蛸とりが初まり、一潮の中五日二〇日は、日暮れとともに潮が満ちてくるため、俗に五日二〇日の蛸とり潮といって、最もよい潮時とされていた。各自、松明(たいまつ)をたき、明りに寄ってくる蛸(みな蛸)を手づかみにしてとらえ、小さい穴が沢山ある竹の筒(フタがある)に入れ紐をつけて、貯え生かしたものである。

五月ともなれば、麦ワラダイの盛漁期で、冬期にくらべ、出漁する日数も多く、また延繩の数も多く使用して操業するため、ややもすると餌用蛸は不足を生じる。そのため、蛸の最も多いといわれた伊万里、またその方面に蛸買いに出向いていたという。何分櫓こぎ舟からの餌買いで、距離は遠く大変辛い餌求めであったという。黒虫は、灘の浜(天ケ原の向う側)が最も多く、次に三本松の下の浜辺でも多くとれたという。サンマは、各延繩船が自分でも獲り、また勝本にサンマ網船もいたため、勝本で入手することができた。

 

タイ繩漁場

当時、帆がたよりの和船であればなかなか沖合(七里ヶ曾根付近)まで出漁できる日は数少なかったという。地の方では、下は本宮山沖~平曾根の地のへり、また平曾根オチ((あい)の浜)荒曾根地のへり、仲瀬戸沖からハナゲ沖の瀬口一帯(今の動力船なら約一五分から三〇分位)など地回りの好漁場であった。気象状況をよく見定めて、中のコロビ、また荒曾根一帯(四〇分~五〇分位)を好漁場として操業された。

戦後、漁船の装備も年毎によくなり、七里ヶ曾根周辺で連日のように、かなりのタイの漁獲が続いた。明治・大正時代は今のように一網打尽の乱獲もなく、タイは相当にいたもようである。当時船頭の間では正月前、荒曾根オチから七里ヶ曽根の前の浜一帯に三日、タイ繩操業が出きたら、その年はゆとりあるよい正月が迎えられたとされ、漁獲高の程をうかがい知ることができる。

鍛えに鍛えぬいた丈夫な体の若者揃いの延繩船でも天候の支配はきびしく、沖合出漁は容易ではなかった。歯ぎしりして悔しがった日々操もさぞ多かったことであろう。

 

操業

秋から冬の操業は夜繩が多く(夜中一時、二時出港)普通繩数は一隻で一〇桶から一三桶ぐらい投入して操業していた。しかし、中には天候、餌、漁の状況でそれ以上繩の数を増して操業する船もいたという。

特に一二月の中旬から網おろしが初まり、旧三月まで操業されたイワシ刺網漁はタイ延繩船にとってはありがたい存在だった。それはイワシ刺網船が網を上げる際に落ちる(落ち餌)イワシを分けてもらい、それを餌として操業できたからである。夜中に出港して沖合にいるイワシ網船に漕ぎつけ、イワシ網船のそばからタイ繩をはえると不思議によくタイが釣れたという。たぶんイワシの刺した網の下には餌付きのタイが群をなしていたのであろう。

真冬の冷い夜は並大抵ではなく、中でも若い乗子のめし炊きは、とても辛いものであったという。薪を小さくけずり、ヒヤマ(炊事用カマドのある所)の中のカマド内で、火が燃えつくまでがたいへんであった。風によって消されないように、ドンザ(当時の沖用衣服)を頭からかぶり、煙の中に(いぶ)されながらの作業である。ことに風の強い日ほどつらく苦しかった。この辛さは何時までも忘れることができないという。

最も嬉しいことは、繩針に次々と大きなタイがかかって水面に浮き上ってくる時である。しかし夜中から出港して、櫓に初まって櫓に終る。操業終えて帰途につき、ハナゲ沖にさしかかった時(最も疲労した頃)、追手風が吹き初め、船頭の声で櫓を上げ、帆を巻き上げ走り出す時の嬉しさ、これ以上の有難さはなかったという。往時の漁民の肉体労働がどれほど苦難にみちた日々であったかがわかる。

春たけなわ、八十八夜を迎えてムギワラダイの盛漁期となるが餌は殆どミナ蛸で、日和も安定する時季で、船によっては三〇桶もはえる(投入)日があったという。一五日の潮時の中で七日から一二日頃までが、タイ延繩の最も良い潮時とされていた。生きた蛸を生間よりあげ、二人がかりで手早く足を約四㌢ぐらいに切っていく。しかし生きもので蛸はすぐに吸いつくため、なかなか要領が必要で、切られても動くほど、魚喰いがよいとされていた。それだけに二人で蛸を切り片方ではどんどん繩は投入されていくのである。

ムギワラダイは、冬のタイに比べ、価格の点ではおよばないが、漁獲高においては何倍もの水揚げができたという。

 

延繩漁の衰退期

大正七年から九年といえば、日本国が不況のどん底にあえいだ、それこそ悲惨な時代である。また米が暴騰して、あちこちに米騒動が起きたのもこの時代のできごとである。勝本漁民が漁具の仕出しに困窮したのも無理もないことであった。

大正も末頃となり、有水の焼玉エンジンを据えた船を港内に見るようになり、沖の漁場には底引船が操業するようになった。当時は動力漁船も少なく、底引船の操業規制はゆるく、延繩船が漁具の被害をうけ初めたのもこの頃からである。

また明治三五年から初まった羽魚網操業は沖は対馬近海より、地は平曾根付近まで、羽魚の回游状態に応じて約四〇隻の船が網を流した。そのため、延繩船は浮標を切られ、操業は年毎に窮地に追いやられることになり、加えて漁民間の道義も、ややもすれば退廃しがちとなった。漁場秩序も乱れ、大正の末期、一隻また一隻と延繩船は減船の一途をたどり、昭和に入り皆無に等しい末路を迎えたのである。しかし、大正九年、勝本浦に初めて焼玉発動機動力船和合丸が誕生し、昭和に入り年毎に動力漁船が増えて、同じタイ釣も延繩からタイ一本釣操業へと移り変っていった。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社