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勝本漁業史 第三章 ⑧~漁業の進展~

六、たぐり

タグリ(クリヅリ)
エバ(餌)をたぐりながらブリを釣る一本釣漁法で、タテヅリともいうが勝本では普通クリヅリと呼んでいる。明治初期、山口県の家室から漁に来ていた人々が伝えた漁法である。この漁法はその後勝本を本場として、隣村、在部方面にも伝わり盛んに行われた。
使用する道具は現在までいろいろ変ったが、手早くたぐってエバの動きを活発にし、ブリを誘って釣るという方法は変わっていない。同じエバで一日中でもブリを釣ることのできる便利な漁法である。道具は、元糸、ビシ糸、サガリ、エバからなり、釣糸のことを「ヨマ」といい、クリヅリヨマとも呼んでいる。ビシマはマガエで絹糸の縒(よ)ったもので、大きさを「匁」であらわし双子合せて使用する。一(ひと)かせ分一八尋、二かせ分三六尋で、ひとへり分(一本)のビシマとする。普通使用するのは四匁二、三分で、ヨマにこる人は四匁、慣れていない者は無理しても切れないように四タ五分ぐらいのものを使用した。タイ釣用は一・五匁から一・八匁で作った。ブリ用夜釣糸は三コ合せで、地廻り用が五匁三コ、沖の曾根用が六匁三コであり、長さは二三尋である。クリヅリ用は、これに小さな鉛玉をだいたい六〇個前後つける(別に麻かラミーで芯糸をより鉛玉を打ち付ける。マガエは切って、もやい付ける。鉛玉〔ビシ〕は、六〇匁の重さの鉛を一尺八寸に延ばせば六〇個ぐらいできる)
先の方は間をつめて(ガイガイビシという)後の方は間を遠くする(最後のビシを親ビシという)。家(か)室(むろ)から伝えられたカムロモヤイというビシの付け方があり、最近までこの方法でもやっていた人もあると聞く。ビシマの長所は、風のある時や潮の悪い時でもまっすぐに早く沈むことである(ヨマがほおるとかほおらないとかいう)。指先と手首を振って、エバやドンブリが海底に着いとたかどうかを知ることができる。
これに麻の元ヨマをつける。マガエより大きめに作り三コ合せで六〇尋、素(す)ヨマである。ビシマと元ヨマは反対縒りになるように作る。「縒取り」等はなかったから、お互いにヨリを反対にしてヨマの「すわり」をよくしたものと思われる。長い間の知恵であろう。
注 ラミー=いらくさ科の多年草。茎の皮の繊維は織物の原料。
〈サガリ〉はがね針金でチュウジャクまたはジャンガネという。太さは番数であらわし、タグリ用は二八番か三〇番の細いものを二尋半から三尋に切って使用した。
まっすぐにして引っ張ると強いが、ちょっとでもねじると簡単に切れる。これの伸ばし方には要領がいり、軽くこすると思いのままになる。家室船から習った頃は、伸ばし方がわからずにブリは食うのだがチュウジャクが切れて一本もあがらない。ウソを教えたと憤慨したという話も伝えられている。見習の頃はうろたえるので、ブリを釣り上げる時この針金で手を切ったものである。この番手(糸の太さを決める番号)のものは戦時中もどうにかあったようであるが、曳繩用の二二番―二四番はなくなりワイヤーをほどいて使用した。
〈エバ〉鉛玉(重さ三〇匁から四〇匁のものを鋳込むか、叩くかして作る。これをドンブリという)にドジョウをくくりつけたものを、ドショウエバという。生きたドジョウを二匹、少し大き目で同じ大きさのものを選び出し、半殺しの状態にして紡績糸でつなぎドンブリのネソ(根元のシビリ)にくくりつけて餌とする(ドジョウつなぎとは紡績糸で後頭部を回して両エラから口を通し、別の糸で口の所をしめる。そしてドンブリの根元にくくりつける)。格好よく作ることをエバナリがよいという。釣は一本であるが、釣先に小さなドジョウをかける場合もある。頭を釣先にさしたままで使うか、前記のように糸でくくるかした。
糸でくくらないとブリを一本釣ると落ちてしまう。しかし付け替える手間はいるが生きたドジョウを使うので、ブリのあたりはよいようであった。またブリのアゴのところを細長く切ってかける場合もある。これを白エバといい、黒いドジョウの先に白いエバをつけるといかにもブリが食いつきそうである。ブリは歯を持たず、サメと呼んでいるザラザラした口であるから、エバを食い切られることはなく、同一工バで何本も釣れた。
新しいのより何本か釣って白くなりかけたものの方がよい、という人もいた。しかし見習時代、寒くて波のある時ドジョウつなぎをするのは、何んとも辛くいやな仕事であった。手がかじかんでなかなかつなげないし、あのヌルヌルとした感触もいやなものであった。ドジョウエバの欠点は、生き餌であるためフグが食いやすく、これにやられるとひとたまりもなく食い切られることである。エバはまっすぐ泳がないと駄目である。どんな工バでも引っ張る時にクルクル回ると食わないとされている。

釣り方
その名のとおり、海底から元ヨマ一杯たぐるのである。七里ヶ曾根の「本あいろ」と呼ぶ瀬の周辺で、なだらかなところが、たぐり漁の最適地である。深さは六〇―八〇尋ぐらいで親ビシまで引っ張るから、三〇―五〇尋を常にたぐるわけである。ブリの食う深さは一定でなく親ビシよりも上で食う時もあり、底にかかったかと思うぐらい底で食う場合もある。普通途中で食うことが多い。またその時の餌にもより、寒ざめの頃、大羽イワシを餌にした時が最も食いがよく、殆ど下層でばかり釣れる。魚は腹一杯エサを食べる程、人間の餌に食いつきやすくなるといわれている。
漁民にとってこのたぐりは最も興味のある漁法で、早くたぐったり、おそくしたり、いろいろと試してみるのである。
ブリがときたま食う時、今度は食うぞと何かしらいうにいわれぬ予感がするものである。かといって余り期待をかけては駄目で忘我の境で一回一回を大事にたぐる事であろう。
そしてフワーッと来る。あの手ごたえ、漁師ならではのだいご味であろう。
しかし一回で食い込むことばかりではなくて二回三回とあたっても食い込まないことも多い。そのような時は「ナメタ」という。一回なめられると、すぐにたぐる早さをおとしてゆっくりたぐるとまた食いつく。うろたえて早くたぐると、そのままで終りである。
ブリは餌に食いつくと食い上げる性質があり、「シメ込む」といって数回シメあげなければならない。ヒラス(ヒラマサ)やアカバナ(カンパチ)が、餌に食いついた途端に取って行くのとは対照的である。
たぐりの要点は、「たぐりそこない」をしないこと、手をすべらせないこと、「いきよま」を途中でもつれなどのために止めないことである。たぐり方の早い、おそいはあまり気にかけなくてよいようである。
延繩時代やサンマたぐりが導入されるまでのたぐり漁はだいたい旧正月前後から春の三、四月頃までで、それ以前、以後は曳繩であった。

手さばき
漁という仕事は潮時仕事であるため、ダラダラグズグズしていると折角の良い潮時を逃がしてしまう。短い時間によりよい漁獲を得るために、普段から手さばきはうるさく注意された。たぐりのドジョウつなぎや・サンマ白エバ切り、曳繩のサンマつなぎ、夜釣の餌切りと釣かけ、それにブリを釣り上げた後のヨマの仕出し(投入)など、一にも二にも手さばきよく、そして仕事はきれいに早く上品にと特訓を受けたものである。

ケイキ
昼間のブリ漁で欠かせないものは、カモメの群舞であろう。
カモメは、遊禽類に属し、上面は蒼灰色で下面は白色をしている。翼は長く、とがっている。習性としては、海岸あるいは湖沼に住み、飛ぶことが速く、水中に突入して魚を捕え食う。故にこの鳥の飛んでいる所には魚の集まっていることが、わかるのである。うみねこは、カモメ科の海鳥で、猫に似た泣き声をだす。我々が「ガセー鳥」と呼んでいる鳥であろう。春先に多くなる。
ブリが餌を追い上げる時、カモメが舞いはじめ、やがてブリの追い上げた餌を争って食べようとする。このような状態を漁民は「ケイキ」と呼ぶ。だからケイキの下には必ず潮時になったブリがいる。他船より早くこれを発見し操業すればよい漁ができるというわけである。船頭は舵を取りながら、また乗組員も一日中ウノ目、タカノ目でケイキの発見に努める。
従って漁師は目がよくなくてはいけない。またカモメで良い漁をさせてもらうので、カモメを殺したり、食べたりすることを大変嫌う。またイルカケイキは、鳥がたくさん群れ飛ぶがほとんど水面に突込まず割に高く舞う。

エバク
ブリが一回食べたものを吐き出すことを、エバクという。釣り上げられる途中でイカ、イワシ、サンマ等をよく吐き出す。またそれを食べに仲間が集る。このために時として多人数乗りの船に飼い付けられたようになり、他の船には(特に一人乗り)なかなか食わない場合がある。このような時、多くのブリを釣り上げる船は魚の「まわりが良い」という。夜釣等でエバクの匂いのわかる人が、このような場所にやってよい漁をすることもあった。
イルカの通った後も、食べかすや、吐き出すものがあるらしく鳥がよく拾って食べている。海面はところどころ薄く油を流したようになり(トネマワルという)、独得の匂いがする。昔から優秀な船頭はブリのエバク、イルカのエバクを感どって操業した。

にごりとブリ漁
海がにごりはじめると、食いが良くなり、ケイキなしで釣れる時もある。あまり海面に湧かなくなりケイキがすると、間違いなく釣れる時が多い。海がすむと良く湧くようになるが、たぐりには釣れにくくなる。それにケイキの移動も早い。従ってそういう時は曳繩の方がよいというわけである。

カカリ釣り
瀬の近くの比較的浅いところに錨を入れてカカリ、満潮一杯たぐるのであるが、これは割にカタイ仕事で。〇本(まんじゆう)(またノーズケナシともいっていたが、最近では前浦船の口調をまねてカタがないというようになった)ということはあまりないので、春先になるとカカル船が多くなる。
潮はまずヤオリ(休み)からキバナ、次第に早くなりサカリの速い流れが続く。やがてガサ落ちとなり、潮の流れは止まる(ガサ落ちとはよくつけたもので、その名の通りガサッとやおるのである)。不漁で一、二本の漁しかない時には、このサカリ落ちに必ずといっていい程ブリはあたるものである。

ほうらせぐり
春先、ブリが瀬から離れない時がある。浅くてタグリができないので、櫓を押したり、帆をかけて船を進めながら釣糸をほおらせてたぐった。かかり釣と同じく、「カタイオ」釣りである。これは、雑誌『漁民』で他地区から発表されたことがあり、ヤッチャグリとも呼ばれるようである。

釣糸の手入れ
釣糸は、使ったあとは毎回柿シブをつけてよく乾かしておかないといけない。「シビカイ」といっていた。先ず「手ゴウ」をしてよく乾かしてから、桶またはカタクチ丼等の容器の中でよくしみ込ませて「かせ」に巻く。「釣糸の項」にあるように元ヨマとビシマは反対のむきに巻かなければいけない。このシビカイも若手の仕事であったが、なんともいやなシブの臭いが残り少し手を洗ったぐらいでは取れず、人前に出るのも気がひけた。
ヨマも新しいうちは少し使うとベタベタした感じで、扱い方が悪いともつれやすい。しかし長く使っていると、次第に色がつき使い易くなる。このようになった時を「シビダチ」といい、丈夫でノビがあり魚の一番釣りやすい時である。シビヨマはだいたい三年ぐらいの寿命しかなく、それ以後は作りかえる必要がある。ヨマを使ってそのままにしておくと梅雨時にくさるので、使用後は良く塩気を抜いてしまっておく必要があった。ぬるま湯または塩気のない水を汲んできて、半日ぐらいつけ込みよくすすぎ塩気を抜いて乾した。これは大事な仕事であった。

シメ切り
釣糸が底にかかった時、船をねらえながら鉛で作った「シメ切り」を利用した(チュウジャクであるため、現在のようにサガリから切れない)。底にかかったからと、船上から引っ張ってみたり、のばしてみたりする。しかしどうしてもはずれない時、無理に引っ張るとたいてい親ビシから二、三丁の所から切れた。
それでシメ切りにヨマを通して底に着け、引っ張るとたいていヨマの一番下から切れた。

ガタ
これは春のたぐり(主にかかり)に使うと、ヒラスがよく食うので使用した。子供の頃、父から一匹五銭で買うからといわれ喜び勇んで釣りに行ったものである。
先ず小竹の先に穴をあけ、釣糸を通す。これは釣針が下にかかった時、竿(長さ四、五〇㌢)を突込んでその先ではずして取るためである。このように工夫した道具を持って聖母神社の裏の磯辺に行き、附近の穴にかくれているのを、ヒザぐらいまでつかり釣ったものであった。エサはムシ(ゴカイ)だった。クサビを細長くしたようなもので、クネクネしたものが何匹か釣れた。主に戦前であった。

ゴムエバ
だいたい昔の漁師は秘密主義だったため、よい釣具を考えだしても一般に広まるには時間がかかった。ゴムでブリを釣る新しい試みも誰が考案したものか不明であるが、勝本で使い初めたのは昭和一八年頃からである。
昭和一八年の旧正月すぎ、七里ヶ曾根に「アミ」の大群が流れて来た。その日から毎日毎日ブリは湧けどもさっぱり釣れず欠損続きであった。当時七里ヶ曾根で操業する船は普通四、五〇隻であったから、曳繩、たぐり、かかりと思いのままであった。しかし、いくらドジョウを引っ張っても、「アミ追いのブリ」は一本も釣れなかった。
モリで数十本突いて来る船はあったが、勝本浦は不景気であった。そこで地廻り、ワカメ切り等をするようになった。この時、ハナゲの下に小舟でかかり、ブリを釣るのが流行した。これにゴムエバを使用したのである。
誰が発明したのか不明であるが、子供の海水浴用の浮き袋を魚の形に切って使用した。今までのドンブリに釣を半分ぐらい埋め込み、ハンダで止める(「打ち込み」といった)。ゴムの頭はドンブリにななめの包丁目を入れて差し込み、たたいてしめた。現在のように糸で止めるようになったのは、後のことである。
ゴムは「フウラ」を持たせて打込釣に通し、海中で引っ張るとブルブルとふるうように工夫された。シッポの方を二枚重ねにして色をかえたり、今までのドジョウとゴムの折衷形ともいうべきフラセのゴム一枚と一匹のドジョウをつないだり、いろいろと考案された。しかしさすがに中古で薄っぺらの浮袋のゴムは弱く、何本か釣るとすぐ切れた。氷枕、長靴(特にひざまである飼付用の茶色のもの)は割に丈夫で重宝がられた。あらゆるゴム製品を探してゴムエバ作りにはげんだが、まだまだドジョウの方が主であった。ドンブリも片シビリにして、「シャギル」ように(斜にあがるように)シビリ穴を上の方にあけて通すと鉛がさけると考えられた(小モノ釣りなら大丈夫であるが、ブリはかなりこたえる)。それくらいの知識しかなかった。
戦後も数年間、ドジョウやあり合せのゴムで我慢しながらたぐり漁を続けていた。この間、「フラセ」にもよく釣れた。やがてゴムエバ用として良質の板ゴムも潤沢(じゆんたく)に出回りはじめ、一枚ものから二色合せのものになり、赤白、青白、草白と時季により、餌により自由にかえて使えるようになった。ドンブリにも貝ガラを埋め込んだり、亜鉛メッキをしてみたり、いろいろと工夫をこらしたものになった。また一時期、牛の角で帽子を作りドンブリの上にかぶせてよい漁をしたこともあった。四ツ足の話をしてもいけなかった明治時代の人からしてみれば、牛の角を船に積むなどということはもっての外であったにちがいない。
青年部研究班は、たびたび講習会を開いたり、各船よりエバを借り集め展示会を催すなど、あらゆる努力をおしまなかった。しかし最近では、振り出しに戻ってしまい、貝殻など使わず鉛のままで使っているようである。
また打込みには下釣りをつけた。最初の頃は、白エバのかわりといって使ったこともある。この下釣りはあってもなくても同じだと考えられている。

青年部活動のなやみ
勝本漁協青年部創立六年、その名は県下はもちろん全国的にもかなり知られるようになった。しかし部活動を推進しているうちに、かずかずの矛盾する出来事にぶつかり、どうしたらよいかわからなくなるときがある。
その一つに、箱崎漁協青年部に対するたぐり漁具作成問題がある。勝本の現状では、過剰と思われる漁家人口と漁船をかかえ、その分散は新漁場開発と関連して研究しなければならない状態である。
しかるに、漁具漁法を箱崎漁協に伝えれば、七里ヶ曾根は操業隻数の増加を見るし、かと言って全国大会にまで発表したたぐり疑似餌をお隣りの箱崎漁協に教えないわけにはいかないような気もするし……。現在の漁船を半減させれば、一隻あたりの漁獲数は増加すると言われている。
自分で自分の首を締める結果を招くようにも考えられる。
漁船の分散と漁法の研究発表との間には、このような相容れざる二つの要素を含んでいるのである。(昭和三五年、『すなどり』より)

かけひき
小学校を卒業し漁を習いはじめた頃最初に教えられたことは、人の「たより」は熱心に聞いておけ、しかし自分がよい漁をした時は絶対ないしょにして、どこで釣ったかなどは他言するな、ということであった。釣れた場所がみんなに知れれば、翌日は船が多くなり魚を追いとばすからであった。極端な例であるかもしれないが、ワザとウソの場所をおしえたりした。
昭和三〇年頃、紀州のシビ釣り船が来て連日組合に大量のシビをあげた。大勢の勝本漁民が販売所の棚に集まった。場所を聞くとウエス(西に)二時間走りとのことであった。この時に聞かれたささやきは「他所から来た船が本当のことをいうものか」ということであった。ウソではなかったが、自分のすることは人もするとの考えであった。これは見ず知らずの者に本当のことは教えないといった昔の漁民気質とでもいうのであろうか。
現在では時代もかわり、無線グループでこのような「かけひき」をすれば、みんなの信用を失い、仲間はずれにされかねない。「かけひき」は遠い昔のことになったのである。

銭湯と情報
船数も少なく何の通信設備もなかった時代、出港してから入港するまで一般の漁模様など全くわからず、それこそ出たとこ勝負であった。「ブリとしらみは食うたところにいる」といわれている。そのため今日の状況を知ることは、明日の参考資料として大切なことであった。
勝本浦の大部分の人が利用していた風呂屋、のんびりとつかりながらあれこれと世間話に花が咲いたものである。だがこの風呂屋こそ、漁師にとってかけがえのない情報交換の場であった。自宅に風呂がありながらわざわざ入りに行く人もあったぐらいである。ともかく得るところが多かったし、また人々の楽しみの場でもあったのである。
しかし時代の変化にともない家族風呂が普及してきたため、風呂屋が次々と廃業の止むなきに至ったのである。高度成長は、この風呂屋での楽しみをも消したのである。

分けくち
和船時代、たぐりの乗組みは五人であった。その後次第に減少し、昭和初期から動力船時代に入ると二、三人になり、ときには一人ででも出漁することがあった。動力船の時代になるとブリが減少して、多人数乗りでは分が悪く小人数の方が分け前が多くなってきたのである。
分けくち(配分)は、五人乗りで船が一口乗組員は平等で一口ずつであった。その後、船頭方が増え乗組員が減少し、それとともに船のロも七―八合となり、半口の時代もあったといわれる。漁具代として別に半口ぐらいとったこともあったが、これも船頭方が多くなったのが原因で船の口に含めるようになった。戦前、戦後の動力船の乗組みは、大型船で冬期はだいたい四人、夏期は二人ぐらいに減らした。小型船でも三人乗りはザラであった。分け口は冬期は二口(漁具は船頭方仕出しで、切れたりしたときは損失分を引く)が通り相場であった。船頭方は、この船の口から二合―三合の歩合を機関士に出した(延繩サンニュウの項参照)。

県外延繩船との粉争問題
世の中も変り、漁業の状態も多人数の乗り合いから親子または一人乗りとなった関係で一戸一隻となりつつあった。そしてその隻数は戦前では予想もできないほどの増加ぶりである。この中に十数隻の県外船が、延繩をやっていたのである。
延繩船は、潮の流れと漁場を横切る形ではえるために、潮に流して操業するタグリ船の漁具が繩にかかりやすい。初めの頃は遠慮しながら操業していたようであるが、次第にタグリ釣りの一番いい場所でやるようになった。タグリの漁具が繩にかかった時、近くに延繩船が繩をあげていれば船をねらいながら待っておれば漁具は捨てずに済む。しかしブリが釣れている時など、待つ余裕などなく、漁具を切って場所をかえた方が得である。だから、ここならと思う場所でも、他のないのをたしかめそれからでないとタグラれない。
このように、延繩船は多数の小型船の操業を妨害しはじめたのである。しかしそれよりもまだ悪いことをまきおこした。日の出回りとともに湧きあがらんとする魚群の上に、遠慮会釈もなくホースビー(全速力)で多数の餌を投げ込むのである。しかも十数隻が、である。魚の少ない時ほどこの漁具に飼い付けられて魚が散らず、繩の生き餌にばかり食いついて、大勢の小型船は待ちぼうけの状態となる。
祖先伝来の自分達の漁場と信じている七里ヶ曾根で、しかも他所船から操業のじゃまはされる、魚は釣られてしまう、ふんだりけったりである。勝本浦民ならずとも、頭にこようというものである。そしてついにはこれの排斥につとめることになった。

生(いき)バエ
生きたイカ(アカイカ、ササイカ、マメ)を泳がせてブリを釣る漁法である。
共漁丸船主に聞いたことを記してみよう。熊本県天草郡五和町二江港には八〇隻の漁船がいて、生バエ漁をしている。以前は枝を長くして使っていたが最近では漁具も改善され、釣糸も素よまか合成で、枝は一尺、下釣は上釣にくくりつけて下釣は潮吹きにかける。釣るとき、おもりはほとんど底からあげない。枝からおもりまで一尋半にしたところ成績がよく、現在では全船この方法で漁をしている。ただしねらえ釣りである。勝本では、幸い「トモ帆」を使いつけているから、「帆まき」でやればよいだろう。(編集班、昭和三一年五月『すなどり』)

勝本の生バエ
勝本でも、三一年春に生きがけ漁法が大流行した。いつもの年ならこの頃は、ドジョウ曳繩でたいした漁もなく、休漁も働きのうち(油損をしないから)であった。
しかしその年はイカの生餌を使うため、ブリ、タイ、アカバナ、ヒラス、アラ、それに近年珍しい「カラス」まで揚がるという好成績であった。
生バエをやるためには早朝出漁し、夜明にイカ取り(平ゾネの沖で、昼イカ取りの道具)をしなければならぬといった苦労があった。エサとしてはアカイカよりトンキュー(ササイカ)の方が、イカリもよくブリのあたりもよいようであった。
また、春の生きがけ(アカイカ)によい漁があると、秋の生きがけ(マメイカ)立繩漁にも期待してよいのではないだろうかといった希望がもてるのであった。これで艱難(かんなん)の春とも、おさらばしたかにみえる好漁の日が続いた。そして将来も有望かと見えたが、その後ボンボン漁法などが盛んになり、生バエは片手間仕事としてやるだけになった。

イカの生(いき)かけ
生イカを使用したブリの流し釣りは、およそ次の通りである。
1、幹糸はナイロン三分を五尋
2、枝糸は二分二厘を三尋~五尋
3、重りは三七匁、三八匁ぐらいにする。
4、上釣はイカ止め兼用とする。イカの生きをよくするために、皮だけにかける。また上釣は自由に動くようにして、イカの大小により調節できるようにする。
5、下釣は、ママコ(耳)にかくれるように皮一枚にかける。
6、現在手持ちのヨマに応じて作るのがいい。それでヨマの強度に合せてナイロン(サガリ)の太さを決める。
7、無風の場合(凪)は、重りが強ければイカが泳ぐのに抵抗が大きくなりイカが長もちしない。そこで重りを二〇匁ぐらいに軽くする。
8、風の強い時は、なるべく早目によく入替えること。人替の時にもブリが食いつくことがある。
9、釣具の餌はいつまでも同じ水深(タッド)に置かないで、ちょうどよい水深をさぐる。しかしあまり動かすのもよくない。
10、ブリがグイグイと引く時は二尋ぐらいのばしてやること。早あわせは禁物で、重くなってブリがあちら向きになったと思う時分にあわせる。
11、生き餌(イカ)の手持ちが多量にある時は、生きのいいのと何回も取り替える。新しいイカほど食いがよい。

カレイ釣り
「左ヒラメの右カレイ」のたとえで知られるとおり、両眼が身体の左側についているのが特徴である。冬は四〇―五〇㍍の深海の砂泥質にすみ、春四、五月頃になるとやや浅場に突きかけて産卵する。
俗に「ヒラメ四〇」といわれるくらい、おそアワセの代表的な釣りものである。つまり、アタリがあってから四〇数えてから合せろというたとえである。これは、生きたイワシ、アジ、あるいはカマスなどをエサにするためである。つまりヒラメはこれらのナマエサを一挙にのみ込まず、一度パクリと口にくわえてから、徐々に食いついていく性質を持っているからに他ならない。
勝本でカレーといっているのが、ヒラメである。戦時中、一本釣り用タコエバ(えらかし)が普及してから、和船や何艘かの着火船によって平瀬の出入り(仲江の沖)で、タコエバをおびきカレーを釣っていた。ヤズがよくあたるときもあった。戦後も四、五月になると、ブリ釣りの往復にちょっとやって油代や小遣い稼ぎをした。ドンブリもタバコのパイプみたいに作り、先をまげたりして使った。
昭和三六年頃から、アジやイカの生き掛けを試みる船もあった。三九年頃には潜行板も使用されるようになった。
ヒラメはタイに次ぐ高級魚であり、値もよく、日々損のないかたい漁法である。しかしブリのようにみんなが操業というわけにいかず、ごく一部の熱心な人が操業を続けている。

ヤズ釣り
勝本ではヤズと呼ぶ「ブリ子」は、行動が敏捷で活動性の強い魚であるため、この漁獲には曳き釣りが用いられ、またこの方法しかないとされていた。
島根県では水産普及員を中心としサバ釣りと同じ方法で大きな効果をあげたので、県水産試験場ではこの漁法の有望性に目をつけ、県下全域への普及にのり出すことになった。昭和三〇年ごろのことである。
この漁法は、六、七〇尺のナイロンテグスの下部に二五〇匁から三〇〇匁のおもりをつけ、幹糸の端からおもりまでの間に五寸から一尺間隔に夜光塗料をぬる。そして一寸三分―一寸五分の赤の毛糸を三〇本取りつけ、魚群のいるところに船をとめて糸をたらし上下にうごかすという簡単な方法である。
島根県益田の漁民のやった結果を見ると四月一一日は一隻で九〇匹、一五日には一隻で二二〇匹も水揚げしている。(『すなどり』掲載、昭和三一年八月)

シャックリ
昭和三四、五年ごろであろうか、小さなボンボン(寸二)が出回ってきた。それを利用して、主に春のヤズ釣りを行うようになった。従来ヤズが回遊して来ると、ホロ、または小さな曳繩用のゴムエバを曳いで釣っていた。またタイ釣り用のタコエバをおびいたり、たぐったりして釣っていた年もあった(地の辺(へ)り周辺で)。しかしいずれも一本ずつの釣りあげである。
はじめは、一〇号―一二号の合成テグス二五㍍に一〇本―一五本の短い枝をつけ、一〇〇匁ぐらいのおもりをつけて、ヤズの湧くところまたはケイキのところに船を停めて道具を底にとどかせる。そして上下に動かすと何本か食いつき、やがて釣針全部に食うときもあり、この道具のよさがわかってきたのであった。道具を持って手を上下することから「シャックリ」と呼ぶようになった。はじめは試しにやってみる程度で、鉄砲をたぐる方が確実と思われていた。しかし食いのよいときは一度に多数のヤズが釣れるので全船がこれになり、やがて釣数も多くした方が成績もよく、二〇本から三〇本、やがて五〇本もつけるようになった。そしてシャクらなくても食うことから一人で二つぐらい入れ、ヤズが回遊してくるとよい漁ができるようになった。
しかし、ヤズの少ないときや食いの悪いときは、鉄砲やボンボンたぐりの方が確実のようである。

カナギのたたき釣り
ヤズの群れに擬似餌ではなく、生きた餌を使用すると潮時に関係なく、一日中でも釣れると言われている。カナギの生きたのを釣針にかけ、同時に撒餌しながら釣る漁法である。カナギを生かしタボで少しずつすくいあげて、ふなばたに少したたきつけて(このたたき具合いが要領のいるところで、強くたたくと死ぬし弱いとすぐに逃げてしまう)海中に撒くと、カナギは驚き右往左往しながら逃げるのでヤズに大変食欲をおこさせる。従って、これを近くでやられると、ビニール製の餌は食わなくなるのである。
勝本海(うみ)では、全船が擬似餌で操業(シャックリ、ボンクリ、鉄砲など)しているから、他浦のカナギ釣船から見るとまさに垂涎(すいぜん)の好漁場であった。昭和四四年はヤズの多い年であった。特に勝本周辺の地(じ)の漁場に多かった。殆ど壱岐全体の小型漁船が集ってきて連日擬似餌でよい漁を続けていた。ところが数隻の玄界船が現れ、カナギ釣りをはじめたのである。そして必ずこの船たちにヤズは飼い付けられてしまうのであった。わずか数隻の玄界船のために、数百隻の漁船が釣れなくなるのである。彼らに対抗しようにも残念ながら勝本ではカナギは全く入手できない。また福岡方面から買い込むにしても数百隻の漁船ではいろいろとむずかしい問題があって、到底できない相談であった。このまま何の規制も加えずに野放し状態にして置くことはできない。勝本海でのカナギ釣りは、絶対にしてはいけない漁法なのである。だから他所船にも勝本海では、勝本漁民と同じ擬似餌の道具を使用するようたのんだのであるが、彼らは全くとり合わず自由にカナギ漁を続けるのであった。その上隻数も次第に増加して、四月一八日には約六〇隻の玄界方面の船が操業をはじめたのであった。背に腹は変えられず、沖世話人を先頭に全船一致協力して、これらの無法船を排斥したのである。これも自衛の手段であり、やむを得ぬことであった。
以後、四五年、四六年と郡内でも無法な船がいるために、この問題は尾を引いたのであるが、全漁民協力して自分達の海と生活を守ったのであった。

サンマたぐり
昭和三〇年ごろは、秋の夜釣(曾根)が終り、サンマが出回りはじめると、小型船は底繩を、それ以外の船はそれぞれハジキ竹を出してサンマあるいはエバによるブリ上繩曳ぎをおこなっていた。機械も人手のいる焼玉機関から、一人ででも操船できるディーゼル機関にかわりつつあった(四―八馬力の小型から順次大型化した)。このようなことから地元船も増加しつつあったし、他浦船も大勢七里ヶ曾根へ来るようになった。漁場はますます狭くなり、多数の漁船が長い上繩(うわのう)を曳ぎ回るのはむずかしくなりつつあった。
このような状態にあるとき、大分船によって始められたサンマたぐり漁法はたちまち勝本の浦中に広がった。船を停めて操業するため大勢であっても釣ることができる漁法であった。

食わなかったブリ
昭和三〇年ごろから、数隻の保戸島船が塩谷にきていた。やがて勝本の人とも顔なじみになった。昼間タイ釣りをしているとブリがよく湧く。保戸島では、サンマたぐりに良く釣れていたので親しい人にこれを話して道具の作り方も教えた。教えを受けた数隻の船が、早速ブリの湧くときたぐってみたところが一本も食わないのである。曳繩はどんどん釣る。あてにならないたぐりより、釣れる曳繩をやった方がより確実である。何回やってみても同じことであった。釣れないという報告を聞いて「勝本のブリは保戸島の沖にいるブリとは違うのか」保戸島の人も不思議がった。教えを受けた勝本の者も保戸島の人も、この漁法は駄目であるとあきらめ数年が過ぎたのであった。
やがてサンマたぐりが全盛となり正月前によい収入をあげることができるにつけ、習いはじめのころなぜ釣れなかったのかが問題になった。このことについて、きく丸の古田氏と話し合ったことがあった。その結論として、「ブリの湧くときばかりたぐって食わないからとすぐ止めていた。また場所をすぐかえてしまっていた。ブリの湧き沈みまで同じところに頑張ってたぐっていたら釣れていたであろう」ということであった。

さかんになったサンマたぐり
昭和三五年一二月二二日(旧一一月五日)、保戸船(古田船長と梅田和義君の二人乗り)が組合に大ブリ一六本もあげたと大評判になった。朝の引き潮にサンマで釣ったとのことであり、この時から俄然サンマたぐりが見直され、全船が操業するようになった(この年は曾根の夜釣りにおそくまで漁があり、赤瀬割り、平曾根などでも小ブリが夜釣りに釣れていたし、ブトイカやマメイカも取れていた。ただし昼の曳繩はあまり漁はなかった)。
「サンマたぐり」は、衆知のように生餌を使用するために、サンマの鮮度の良否がブリの食いに影響することは論をまたない。したがって冷凍サンマ、網抜きサンマ等よりも出漁前夜のすくいサンマが適している。なお二番イカの少ない今日、夜釣りにも兼用されるし、また握似餌のように、懸命にたぐらずとも釣れる利点もある。
道具は簡単で、打込みドンブリ二〇匁―三〇匁ぐらいにサンマを小さい紡績糸か合成糸でくくりつけてたぐる。下釣を腹の中通しにするか、横掛けにするかの違いだけである。後には手さばきがよいことから、横掛け式となった。ドンブリもはじめ手打ちで作っていたが間もなく鋳込みで作り、後年は特別に注文してメッキしたものなどを使った。現在では、ほとんど船具店から購入(メッキドンブリ)して使用している。

サンマ冷蔵箱
保戸船が伝えたものに、船に積むサンマ冷蔵箱があった。板を二重にして間にノコクズを詰めたもので、氷もとけず、サンマも弱らず、長持ちするものであった。
従来、勝本では三八(サンパチ)箱などに氷とサンマを入れ唐米袋などをかぶせただけで使っていた。早速、アイスキャンデー用の箱(電気冷蔵庫の普及により不用となりつつあった)の入手できる者はそれを使用し、新しく作る者は内側をブリキで張り間に鋸(のこ)くずを詰めた。後年発泡スチロールの板を張ったりしたが、発泡スチロール製の箱が出回りこれに替った。

パール
昭和三〇年はじめ、漁具研究家の木村金太郎氏(洋釣具、キンキラボンボン、ボン曳(こ)ぎ用のヒッパリゴムなどを流行させた人)が伝えた道具である。数年間だれも見向きもしなかったが、ある町内で対馬の厳原から取寄せて使ったところ成績がよく、以後広く使用されるようになった。ヤズ用に最適であり、ブリ釣り、晩のカツオ釣りに使用されている。

鉄砲
一本釣りのタコドンブリに、メッキしたようなものである。いつの頃からか船具店に現れるようになった。ボンボン用のタコを結びつけてたぐるもので、ブリやヤズがよく釣れ地回りのたぐりが主であるが、春先に曾根でも使用する。重さ二〇匁―四〇匁ぐらいである。ボンボン用のタコができてからであるから昭和三〇年代中頃からであろうか。シモの方から使いはじめたらしく郷ノ浦、渡良方面が早かったようである。その形が鉄砲のタマに似ているところから「鉄砲」と呼ばれている。

ボンクリ
ボンボン曳ぎが盛んな頃、たぐり用としてもボンボンが使われるようになった。ボンボンたぐりを略して、ボンクリと呼ぶ。
現在では海の澄んだ春先などごく小さい道具(一二号ぐらい)で、にごった時には二六号、二八号ぐらいで使われている。しかしはじめの頃は、比較的大きな道具が使われていたようである。
釣数はだいたい一〇本ぐらいで、枝の長さは約一尺、二尋半ぐらいの間にして本樹(ほんき)につける。枝と幹糸はだいたい同じ太さで(枝の最大は二二号)、五〇㍍もので作る。使用するボンボンはだいたい三寸から三寸五分で、色は桃、赤、アメ色と思い思いである。おもりは二〇〇分ぐらいで、底にとどかせてソロソロとたぐる。入れるとき、たぐるとき、どちらでも食うが、ときとして大ブリが釣針全部に食いついて切れることがある。
ベタ凪より少し風があって釣糸がなびくときの方がよいようである。

凧あげ
最近では、子供の凧あげ(凧とばし)姿もあまり見かけなくなった。みかけるとしてもナイロン製の洋凧とかいうもので、以前都会あたりの子供が正月にあげた奴(やつこ)凧(だこ)と同じで、ただあげるだけである。
昔から勝本では漁家に男の子が生まれるとヨウキュウ(鬼凧)を必ず作り祝ったとのことで、大正時代まで続いたと伝え聞く。種類としては鬼凧、金時凧、とんび凧、みな凧などであるが、それぞれ強くたくましく育って欲しいとの親の願いが込められているようである。
昔から三月節句に凧をとばすのが習慣だった。当時の親は、凧とばしを奨励したようである。凧あげで糸をたぐるのが上手になれば、魚釣りも早く上手になると考えるからで、つまり釣糸たぐりの練習になるからであった。それに昔から伝わるとんび凧は、魚釣の練習用として格好のもので、動きが軽快で思うままに横転、宙がえり、急降下ができる。途中に「カマ」などをつけて、空中でケンカもさせた。そのために、延ばしたり、引っ張ったり、知らず知らずのうちにヨマたぐりが上手になるという大きな利点があった。
凧あげ用の糸は魚釣りのあがりのものでよいし、カサ張り紙だけ買えばよかった。安あがりのする練習法で、それこそ趣味と実益を兼ねたもので現在いわれる生活の知恵であった。

タイ一本釣り
勝本で一本釣りといえば、タイやチコ、バンジュウ、(レンコ)などの赤ものや、タカバなどの底もの釣りのことである。
和船時代は数人が乗り組み櫓でねらえながら釣っていたといわれるが、潮帆の普及でもっぱら潮帆流しとなった。従事する船は、エサの都合などから当時「モーター」と呼んでいた着火機関を据えた小型船が主で、一人か二人乗りであった。
エサは昔から、エビ、タコ、ゴカイ類、アマメ、イカなどをそれぞれの時期にあわせて使ってきた。しかしエサは何といってもエビにこしたことはないが、これらの調達は簡単にはできない。エビ網を用意して仲江などの砂浜で夜中に曳くのであるが、焼玉船では低速運転がむつかしいので(小型焼玉や若松モーターでエビ曳ぎをする場合は、ワザとプロペラに藻をどっさり巻いていた)モーター船の専業であった。それに小魚釣りはエビがいるから、だいたい二人の一日分を用意するには調子のよい網でも二回は曳かねばならず深夜までかかった。
また、たいまつをかついでタコ取りに行く(春)、干潮にムシ掘りに行く(ゴカイ、イッサキムシ)、寒い日にバケツを下げて磯ばたに行き手の爪をすり減らし小石を取り除いてアマメを捕える、といった手間のかかる作業が必要であったし、あらかじめ用意しておかねばならなかった。
ところが昭和一〇年頃、エサを持たずに漁に出て魚を釣って来る人が現れたのである。次頁の「エラカシ」である。このことを知った人達(主に東部地区)には、大きな驚きであった。そしてこのことは次々と浦中に拡がっていったのである。そして戦後いちはやくタイ釣組合が結成され(任意組合の項参照)、漁場や漁具の研究、エビの入手やタイの販売など熱心に行われてきたのであった。

ネズミ藻
大正時代から昭和初期にかけて、勝本浦のタイ一本釣りの餌の中に、二月―三月の期間に主に用いたアマメの他に、ネズミの尻尾のような形をしたネズミ藻というのがあった。このネズミ藻はどこの磯でも容易に採取することができた。使用する場合は、約一〇㌢―一三㌢ぐらいに切り、その端をオモリのネソに密着させてくくりつける。この場合通常三本から四本を用いる。特に餌付のタイは中層によく食い、海底より水深約五〇㍍まで早目にたぐることでかなりの漁獲があった。
昭和初期までは皆櫓押し船で、二月三月といえば西風が多く勝本沖合での操業はきわめて困難であった。そのためタイ一本釣船が、対馬の厳原を基地にする厳原沖合のタイ釣操業に出漁した。この時代の出漁用携行餌としてアマメとともに欠くことのできないのがネズミ藻であった。右図のタイ釣魚具には、ネズミ藻以外にエビ、イサキ虫、アマメ、イカなどを用いた。

エラカシ(タコ)
タイ一本釣り用のゴムエバとして登場したのが、タコエバである。昭和一〇年頃であった。おそらくこれ以前に人に知られないように使っていた人はいたであろう。当時一本釣りの専業者が多かった東部地区で先ず使用され、浦中に使用されだしたのは昭和一五、六年以降のことであった。
はじめこの道具のことを「エラカシ」と呼んだ。エサなしで、またはごくわずかのエサでタイなどが釣れ、大好評を得たのであった。
ブリ釣り専業船でもブリ釣りの合間にタコエバをおびくと、いろいろの魚が釣れて油代ぐらいにはなった。ガシラ、レンコ、タイなどの他にヒラメ、ヤズなどもよく釣れた。ブリが食いつくと大変であった。人造テグスの六厘ぐらいでは釣り上げるのに時間がかかるのである。
切るのは惜しいし、かといって釣り上げるには小ブリ(一貫ぐらい)で約三〇分から一時間、大ブリになると一時間以上、どうかすると二時間近くかかるのである。
また春先のブリ釣りや夏イカの流しなどにはタナ棒エビ(当時タナの下にいくらでもいた)をすくい桶に泳がせて持って行き、潮時の合い間や夕方にタコエバの先にかけておびくと何枚かのタイが釣れ思いがけない収入を得ることができた。
この頃のブリ釣り船は、このような魚を「生け間(マ)」に生かすこともなく夏場でもデッキ上に放置したままであった。それでも結構よい値で売れていたのだから、現在考えると不思議な気がする。

タコの作り方
二〇匁位の重さの鉛を細長く延ばして、下のネソは横から出し釣針を長短二本のシビリでつける。そしてネソと釣針のシビリに細長く切ったゴムを数本ずつつける、簡単なものである。
ゴムは、病気の時に使用する氷嚢(のう)を使う。「はさみ」より「かみそり」で切る方がきれいに切れる。これは戦時中でも入手できたようである。ただし製造会社が同じでないためか、色違い(赤や桃、カキ色等)や厚みに違いがあり、あちこちから買ってきて混ぜて使った。後年、ドンブリも改良されて「打込み形」のものが使用され、「かぐら」と呼ばれるようになった。
次に昭和三一年五月、青年部研究班主催の体験発表による道具の作り方、ゴム擬似餌の作り方を紹介する。
一、おもりは、一六匁―二〇匁ぐらいで長さは鯨尺約一寸五分。
二、ゴムの長さは、鯨尺二寸五分から三寸。ゴムの数は一二本―一三本で、ネソの長さは、おもりから釣まで二寸ぐらい(釣針は寸七分)。
三、ゴムは二段にスマートに結び、上に七―八本ぐらい下に四本で、ゴムの長さは一定しない。
四、ムシは頭の方をかける(四、五匹)。エビがあればエビの方がよい。
五、タグリ方は段をつけずスムーズにたぐり、タイがあたってもあわせない。

かぐら釣りの要領
かぐら釣りの要領はほぼ左記のとおりである。
一、ヨマの作り方。
京都マガエ三匁―二、二匁を六寸間隔でもりづめ(ビシ)六五匁の重さをつける。元ヨマはビシマの重さに応じて作る。サガリの合成は銀リンの一分を四尋、その下に小さい合成を四尋つける(タイ釣りの場合は七厘、チコ釣りの場合は六厘)。カグラの上二・五尺―三尺のところに枝をつけ、長さは八寸ぐらいにする。
二、カグラ用の鉛はなるべく固いものを使用すること。なぜならば、釣針が動かないようにするために鉛の選定も必要だからである。下釣のフクミ(シビリ)を作り、型に入れる。同時に打込釣もネソをつけて打込む。釣針は打込釣二寸一分―二寸二分、下釣は寸五―寸六。
三、釣り方(たぐり方)の要領。その日の食いつき具合により速さを変える。天候のよい時はゆっくりたぐる。このような日にはタイの気嫌が悪いから、追いかけてまでは食わない。なおしゃくってはならない。あくまでおびくことを忘れないこと。

体験発表
タイ一本釣り(保戸島、きく丸、重吉丸の各船長)
イ、タイを人より多く釣ろうと思えば、少しでも小さなヨマを使うこと。
ロ、タイ釣りで一番大事なことは、底踊りのよいヨマを作ることである。ビシヨマはビシが大きく数が少ない方が底踊りがよい。
ハ、元ヨマは麻に限る。質の良いもので小さいほどよい。合成でもタイ釣りは一分柄より大きいヨマは要らぬ。
ニ、マガエは一匁五分―一匁六分。
ホ、玉(どんぶり)に良否はない。玉は底がわかれば、鉛は小さいほど成績がよい。現在使用中のものは一〇匁玉。
へ、餌エビは、二匹を抱き合せ一匹を尾にかけてぶらさげる(三匹掛け)。二匹掛けは、二匹抱き合せる方法と一匹は釣に掛け一匹は尾に掛けるのと二通りある。エビは必ず合成でくくりつける。そうするとイカで餌をとられることが少ない。
ト、おびきにも上手下手はなく、二(ふた)そびきぐらいは早く、後は各人の考えにより七クリ―一〇クリぐらいまでおびく。ヨマをゆさぶってからおびいている人があるが、これはあまりよくない。できるだけ行きヨマは途中でとめないこと。タイがあたってもゴクッとくるまでそろそろたぐり、ゴクッときたら自分からかかる。この時のばす。
チ、大きいタイほど底であたる。最初からぐっぐっとするのは小さいタイ。
リ、玉は五〇年前、家室より保戸島につたえられたもの。
ヌ、エビの小さい時はゴムエバを使っているが、六―七割ぐらいしか釣れぬ。
ル、シラスの生き餌(一寸五分ぐらい)は二匹掛けで、ムギワラダイや秋口の大きいタイはエビより成績がいい。ウルメならば死に餌でもよい。(昭和三二年五月)

タイの生け方
(昭和三三年一二月、一本釣組合『すなどり)
今年度のタイは現在のところ、生け魚で渡した約三分の一程度が死んでおり、価格に大きく影響するので、タイの生け方について熱心なる研究をお願いする。
素人は釣りあげてから、つりもはずさずすぐにわきびれの下に親指と人差指を置き、クソヘリの方にさするように押して空気を出す。小タイの場合は注射はいらない。注射をする場合、たいていのタイは曲った方に浮袋があるので、腹部に添わして針をさす。もしその側に浮袋がない場合は、反対側にある(注射をさすところは、クソヘリの下方にある小さい膜のところ)。針は約六分ぐらいさす。腸が出た場合は、空気をぬいてからもみこんでやる。ひれの両脇を押すと非常によい。
タイは空気をぬくと横になるので、横泳ぎをさせないように桐の木の浮子を使用して正常の泳ぎにすること。浮子を着ける位置は、背びれの二番のけんの所が適当である。重りをつける場合は、下腹部のひれにつける。タイが正常な泳ぎになると、たいてい重りははずれる。生け間の角に突き当りして泳ぐのを防ぐ。タイが暴れて注射がしにくいという人があるが、掌に平均をとってのせると暴れない。
タボは細目の網を使用して鱗がはずれないように注意し、一匹ずつすくって渡す。活魚の売買には細心の注意を払い、今後の魚価向上に邁進されん事をお願いする。

昼イサキ釣
昼間トモ帆をかけて潮にねらえ、同じ場所をくり返し上りながらイサキを釣る漁法がはやった(イサキを勝本ではイッサキと呼ぶ)。エサをかけずに、擬似餌としてサバ皮を用いるものであった。
大分県保戸島船は、技の間は矢引(〇・八尋)で三、四寸の技を数十本つけていた。つけ方はイワシ釣りのように結んでいるが、これでは枝の取替えができない。サバの皮は幅一〇㍉、長さ三寸五分ぐらいである。勝本では幹糸六―七厘、技は五厘で六本―八本つけている(つけ方はホロサバ釣りの要領で、はさみ込むようにすると取り替えができる)。それ以上技をつけると、手さばきが悪くなる。釣針は八分―九分を使う(七分はのすことがある)。重りは五〇匁―七〇匁をつけるが、底があらいところでは一番下の技から重りまでを長くし、浜では短くする。重りは二人で一日一〇個ぐらい捨てることがあるから、束で用意しておく。
瀬の上のイサキは一〇尋ぐらいの上にいるが、浜中では底にはわせる。昼のイサキは密集しているようで、船三艘も離れたら食わない。
潮の早いとき釣れたら、潮休みにはほとんど釣れない。しかしにごったときは休みに釣れる。イサキも潮が早いときには、瀬の潮上手にのぼるようである。

釣ホロの皮
サバ皮、ハギ皮、ペンケイ皮、フグ皮、マビキ皮などいろいろ試してみたが、一番成績のよかったのはサバ皮であった。
ベタカレイの皮がいいといわれているが、当地にはいない。どの魚の皮でも、生きたのをすぐ加工しないとだめである。サバは生きたのをアゴを折って皮をむき、清水で洗ってビンか板ガラスに張りつける。
一〇回ぐらいかわいてはぬらして張り替える。年数の古いものほど固くなってよい。死んだ魚の皮と生きた魚の皮では、イサキは食いわける。よい皮は海に入れると青色になるが、死んだものは色が変わらない。
本漁法はかなり有望と思われるので皆さん実施されんことを願う。
昭和三三年七月 研究班

イサキ
硬骨魚綱スズキ~イサキ科の海水魚である。本州中部以南、南支那海、東南アジアに分布する。全長は三五㌢に達する。体は一様に灰黒色であるが、幼魚や春季には体側に三条の淡褐色の縦帯がある。昼間は藻場に群れて夜に接近して遊泳するが、成魚は大きな群をつくらない。五―七月に卵径〇・八㍉の分離浮性卵を産む。小甲殼類、ゴカイ類などを食べる。

晩の小アジ釣り
従来ガスランプ時代から、三本枝のハイカラに切り身などをかけて釣っていた。ところが発電機になり光も強くなったことでもあるから、ためしにエサをつけずに釣針だけで釣ってみた。すると空釣でも釣れたのである。
道具は、幹糸五厘で技間は二尺、枝一尺で枝数は六本とする。重りは五〇匁を使用する。釣り方は従来と変りはないが、枝が多いので一匹食うたら、そろそろ延ばす。たくさん食うと重りを浮かして軽くする。このときそろそろあげる。また最初釣針だけではじめたが、糸、サバ皮、ハギ皮などを釣針の長さに切ってつけて実験してみたところ、糸が一番よいようであった。
潮時の悪いときにはエサを一本飛びにかけてやるとよく、小さな釣針では離れることが多いのでイワシ釣りの丸型を使用している。
(昭和三二年七月『すなどり』から)

アジ
アジ類は、全世界の温帯ないし熱帯域に広く分布し、わが国ではイワシ類やサバ類とともに古くから親しまれてきた代表的な大衆食用魚である。
そのうち、マアジは最も北方にまで分布するアジ類で、北海道以南の日本各地沿岸沖合い及び大洋中の島の周りに分布している。
北日本での冬季二、三ヶ月間を除き、ほとんど一年中全国どこかの沿岸や沖合いで産卵しているらしく、孵化後数ケ月経った幼稚魚が一年中どこかで見かけられる。
稚魚期には流れ藻の下について沿岸域を漂流することが多く、ときには港の中にまで群をなして入ってくることがあり、釣りの対象となる。この時期のものは背面から見ると、赤みがかって見える。また稚魚期にはクラゲについて漂流することも知られているが、それが生物学的にどういう意味をもっているものかはまだ明らかでない。
若魚期には沖合いないし外洋の表層、中層を微小プランクトンを求めながら回遊する。しかしサバ類よりも動きが鈍く、また回游の範囲も狭い。より沿岸性で、小さい地方群を形成しやすく、大きくなると底魚的性質をおびる。これらの性質からも、アジ類は各大陸の沿岸域や大洋のうちの島の周辺に分布が限られてくることになる。マアジは全長五〇㌢程にも達するが近年はそういう大型のものは少なくなった。
栄養価値が低いので資源量の変動の幅は大きいが、世界的規模でみた場合、世界の海洋にはまだ開発利用されるべき種類と漁場が多い。アジの種類には、マアジ、ムロアジ、オアカムロ、アカアジ、クサヤ
モロ、マルアジ、カイワリ、シマアジなどがある。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社