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勝本漁業史 第三章 ⑨~漁業の進展~

勝本漁業史 第三章 ⑨~漁業の進展~

八、夜釣

夜釣
夜間集魚灯をたいてブリを集め、イカ等の餌でこれを釣る漁法である。別名夜ダキともいう。秋が漁期である。
明治初年に「たぐり」とともに家室船から伝えられたといわれている。その後、明治、大正、昭和の時代を通じ勝本漁民が、この夜約で貧しさから解放された例は少なくないという。
この漁法の創始について次のような出来事が伝えられている(漁業今昔の四回「夜釣の巻」昭和三一年五月二五日発行『すなどり』)。「明治一〇年、今から八〇年前の事である。その頃の漁師はイカ取りぐらいが関の山で、それも島の周辺を潮帆でなく(作り方も知らなかった)「くびり石」とワラ綱「イチボー」を海中深くぶら下げ流していた。暗夜の海上に「かがり火」(鉄の籠を作り薪を入れてたく)をともしながら、細々とその日の暮しを立てていたのである。ある夜、亀十さんは相変らずかがり火をたいて赤瀬周辺を流していた。ところが二五尋のばしていた「くびり石」が瀬にかかり、同時に操っていた「スッテ」も何物か得体の知れぬ魚によって払い切られてしまった。平素、漁に熱心な彼は良い曾根に流れかかったぞと心躍らせながら、翌朝までまんじりともせず山の見えるのを待って山当した。翌日、亀十さんは漁具を太く作り、山当をしていた赤瀬より約五㍄の地点(オウサ曾根)に喜び勇んでかかり込んだのである。この大いなる発見は実をむすび、思い違わずその晩はブリとアカバナを船に満載、亀十さんは涙を流して喜んだという。亀十さんのこの偉大なる発見により、夜でもブリの釣れる事に確信を得た勝本浦の漁民は、翌日からここで夜釣操業したのである。そしてしばらく大漁が続いたという」
この老人こそ、夜釣の先駆者仲折の熊本亀十翁である。この話は家室船から伝えられた漁法であるとする説と食い違うのである。この後の夜釣には渡良方面からも大勢の人達が「ネリ」として乗組み働いたのであるが、この古老達の話にも勝本のたぐり、夜釣は家室船より習ったとある。案ずるに、亀十さんも、家室船から教えられていたから食いついたものはブリであると考えたのではなかろうか。

かがり火
金(かね)で作った網の中で薪を燃やしたというが、その一晩分は大量であり積むのに困ったといわれる。主にコエ松を使用したが、後年はいしずみ(石炭)をたいた。

石油ランプ
明治五年頃には国産のランプも製造、市販され、明治三〇年代の全盛期を迎え、ついで大正期にかけて全国的に使用されたのである。
明治三〇年頃までかがり火をたいていた漁民も、文明開化の波にのり石油ランプが普及し、これをたいて魚を獲るようになった。最初石油ランプ(周囲をガラス張りにして風を防いだ)を使用した者は、かがり火使用者よりもその漁獲高は著しく高かった。夜釣には当時一番大型のものであった八分芯を使用した。この頃の漁民でも、ブリは大きい灯に良く集まることを承知していたようである。かがり火は自然に消滅し、ここに石油ランプ時代が訪れたのである。
かくして夜釣に対し、漁民は興味と希望を抱き一生懸命に研究し、あらゆる近海の曾根にランプはともされたのであった。当時は釣り船は少なく魚は多く、火に馴れぬブリ等は暗夜に一灯をたどり良く集ったと考えられ、その効果は漁民の想像以上であったといわれる。七里ヶ曾根の夜釣もはじめは、かかり釣りであるため潮の「休み」と「かわし」の時だけしかブリは釣れなかった。しかしいつの時代にも辛抱強く努力する人がいるもので、潮の激しい時も流し、そして押し上って釣るようになった。このため、かかりの船も馬鹿らしくなり遂にはかかる者はいなくなってしまった。時に大正五年頃である。

集団流し釣り
大正七年より効率的にブリを釣るため、各船主は船頭集会を開き話し合った結果、大きな浮標用のタルを作って石油ランプを乗せ曾根にともすようにしたのである。
この仕事は各船回り番で実施した。
和船時代の漁業は、苦労の連続であった。少し船を動かすにも一汗流さねばならず、その流した汗も効果のともなわない事が多かった。七里ヶ曾根の夜釣も、時化出しの場合は朝一〇時頃から押し出し約四時間以上も押しづめ、エサ取りから夜中の押しあがりと、釣る時間より櫓を押す時間の方が多かった。
大正末期より動力船も次第に増加し、漁民も重労働からようやく解放されていった。この時分の事であったのだろう。一隻の動力船に一〇艘から一四、五艘の和船が曳かれて漁場に出入りした。曳かれた和船は、トモ櫓を一丁押さねばならなかった。現在の私どもが考えると、変な曳船方法であるが、そうしないと進まなかったという。でも曳かれる時の嬉しさは、たとえようもなく嬉しかったと古老達は話していた。良い凪の時は和船は曾根にかかり、魚や食料は機械船がことづかって運んだ。漁のあった時は、甘いものや辛いものの注文が多かったそうである。また、押し上りも機械船時代みたいに絶えずというわけにはいかず、ブリの潮時のある夜などは、かたまって流す漁船団の灯りについて遠くまでついて来たという。

ガスランプ(カーバイド)
一八三六年(天保七年)イギリスのデー・ウイが初めて発明した(気化炭化水素の一)。
カーバイドに水を加えて発生したアセチレンは、わずかの不純物を含むため特別のにおいを持っている。小さい発生器にカーバイドを入れ、これに少しずつ水をたらしアセチレンを発生させ、ただちに発生器の上部に連結したドーランバーナー(灯口)で燃やして明るい炎とする。二つの炎を勢いよく互いに衝突させると、外からの空気が十分に混合して完全に燃え、すすを発生しない。これがガスランプである。
勝本にガスランプが普及したのは、大正二、三年頃黒瀬のビンツケ屋(屋号)元青年部長紣谷喜寿君の祖父で紣谷房吉氏により市販されてからである。
石油ランプからガスランプに替った時は、なんと明るいものかと驚きの目で眺めたのである。ゴムホースさえのばせば灯口をランプからはずして機関場にも使えたし、二股をつければ二ケ所に同時につけることもできた。後年サバ釣り等には二ツ灯口、四ツ灯口等も考案された。灯口に燭光の大小があり普通四〇から六〇燭光、大は八〇燭光であった。時々灯口がつまるので、小さなチュウジャクを常に用意して穴を掃除する必要があった。戦中、戦後ガスも人手難であったが、あの手この手で買い求めた。また保管が悪いと自然にとけるため、誰がいうともなく重油を表面にぬってこの得難いガスの風化を防いだ。

バッテリー
一八六〇年(万延元年)、プランテによって発明されたもので、その後いろいろと改良工夫が加えられて現在に及んでいる。
戦後間もなくバッテリーを使用するようになった。六ボルトから八ボルト、最後には一二ボルトになった。小さいボルトの電球を大きなバッテリーにつけて用いたので、真白く非常に明るかった。しかし電球の寿命は短かった。使用電球は二〇ワット、三〇ワットであった。
現在考えてみて、このバッテリー時代が一番良かったと思う人は多いだろう。この頃は魚も多くて値段も良かったからである。夜間操業するためにも、静かで割にのんびりした気分であった。ただ問題は、毎日毎日陸に上げて充電しなければならず、重くて持ち運びが大変であったことである。

充電所
バッテリーの普及により、充電の必要性から、充電所ができた。
⑴旧製氷所跡に山崎、田村両氏経営の充電所
⑵長嶋俊光氏方裏に有馬、田村両氏経営の充電所
⑶福田ウニ店土地に永田武平氏経営の充電所
⑷仲折石油部横に勝本漁協経営の充電所
以上の充電所があり発電機流行の前後まで営業を続けたが、各漁船の発電機化にともない次第に姿を消し失業や鉄工所への転業となっていった。

水中灯
この頃、防水密閉したガラス容器に電球を入れ、水中につるして魚を集める水中灯が出現した。この集魚灯を全船が使用すると、魚が集まりすぎて資源が枯れるのではとの懸念から、組合で協議の結果使用しない事にした。

テラシ
ランプの笠の内面をメッキしてピカピカ光らせ、小さな光でも海中深く反射させるものである。この光のなかに自分のエサが入るとブリの食いが良いような気がした。このテラシは永続きせず大体一代限りであった。

発電機
昭和二九年に入ると小さな発電機がお目見得するようになった。ジャラジャラと呼ぶ小さなものであった。ジャラジャラと音が聞えたのでその名が付けられたのだろう。
小さくても当時バッテリー使用船が多い中では、この発電機を回してともす灯は明るかった。特にイカ取り等ではその漁獲は群を抜いていた(抄網漁(すくいあみ)の項参照)。しかし当時の夜釣りは集団操業であったために、無理をして灯をともす必要もなく、経費節減のためにも電球三個、電圧も下げて操業した。やがてバッテリー使用船が姿を消すようになり、ジャラジャラ時代も短命でおわった。そして漁船の主機関の動力で回す現在の大型発電機が登場した。
振りかえってみると、文明の発達により受ける恩典は数知れないが、社会が静かな時代から騒々しい時代に移行して来たように我々漁師にとっても大きな変化を経験してきた。漁撈上夜釣だけを例にとってみても、ランプ、ガス、バッテリー時代は静かな漁撈風景で、漁の合間は船内各位置に座ったままで色々と世間話や議論、連絡等ができた。しかし現在は機械の騒音で船内隣同志でも会話が出来難く、恩恵と不便が同居中なのである。まさに過ぎた昔が懐かしいと思うのは私一人ではあるまい。

光力と魚の深さ
集魚灯の明るさと魚の寄り集まるタッド(深さ)とは大きな関係がある。普通灯が大きい程魚は浮くだろうと考えるが、事実は反対であり、ランプ使用時程浅い所で釣れていた。
ナイロンテグスが普及するまではドンブリだけで一本宛釣上げていた(ドンブリの重さは曾根用は六五匁位、地回り用四五匁位、釣針は二本、イカ止め一本か二本)。その晩によくブリの「あたる」タッド(又はタチド)があり、早くこれを探し出さないと良い漁はできない。乗組員数人の場合は互にその深さを違えて持っておれば良いが、一人乗りだとタッド探りにひと苦労した。五尋も違うと仲々あたらないのである。
ランプ時代は大体、親ビシ(二三尋)付近がブリの良くあたる深さであった。バッテリーになると三〇尋付近になった。発電機になると海底近く五〇尋となった(魚が潮時すると浅く食う場合もある)。
釣糸には五尋毎にしるしを付けて即座に深さを合せるようにしていた。ランプ時代においては「ソエイオ」が多く、釣られるブリについてあがってきた。ブリは食い上げるものであるから、船内に一本食うと他の乗組員は数尋たぐって、ソエイオの食うのを待った。いうまでもなく三〇尋で釣るより一五尋で釣った方が早いに決っている。この時代の手さばきは、いかにして「浅く釣る」かであった。また深く釣る者を田舎もんとも呼び、素人扱いしたのであった。機械を停止しての静かな海上での魚釣りであり、船も舷舷相摩すのたとえ通りかたまっているので「二〇尋で食うたぞー」とどなるわけにいかず、船内には暗号で教えたりした。これもかけひきのうちであった。

メンメン釣り
和船時代に各自銘々の釣り取り、勝本でいうメンメン釣りの時期もあった。現在考えると、なぜこのような能率の悪い漁法を採用していたのか理解に苦しむのである。
同じ「ふなうち」でありながら、エサを取ったものはブリを釣り、取らなかった者は〇本である。それで気持良く協力して漁ができるわけがない。自分のより早く人の道具に「ついた」イカはかき切れることを念じ、食いついたブリははなれることを願う。次にどうやって、「ソエイカ」「ソエブリ」を自分の釣具に食わせるかの競争であったという。自然に、負けず魂即ち根性が生れ、手さばきが良くなった。そして不思議なことに船は船頭の所有であるのに何んの分配もなく、只、一等座席というべきトモに座るだけであるという。やがてこの制度も「もあい」となり、漁獲物も平等に分配し船頭も船の口を得るようになった。
これも現在では昔話として伝えられるだけである。

月夜
戦前の機械船では衝突予防のためと機関場用とを兼ねてのみガスランプをつけ、ブリ釣りは月明りだけであった。暗夜と違い、ブリは浮かず底でばかり釣れた。従って道具が下にかかる事が多かったし、瀬にひっかかると六匁三コよりは強くて一二馬力の船でも潮に立った。釣糸はめったな事では切れず、釣針が延びたりして外れる事が多かった。
月夜でも集魚灯をつけるようになったのは、戦後の事である。

エサ取り
ブリ釣りの幸(しあわ)せはエサ取りにあるといわれ、マメイカを充分に取るかどうかが運の別れ道であったため、昼イカ取りとヒノメに運をかけた。自分達だけエサの取れない時の気持ちは、何んともいいようのない辛(つら)い思いである。一人宛一〇本も取れれば先ず一安心で、宵(よい)からブリが釣れても大丈夫である。「バタ」で食う時は別として餌は取り立てのものほど食いがいい。氷もなく生かすことも知らなかった時代、ブリ釣りの合間に豊後ズッテを入れて新しいイカを取ったという。新しいイカをはやめに付けかえるのが漁のコツであった。ランプ時代は一本がけに当りが良かったが、灯が大きくなるにつれ切り身が良くなったようである。

サマシ
凪続きの時は、なるべく遅く取ったイカを涼しいところに置いて翌晩の準備とした。やがて氷を積む時代となり、各戸に電気冷蔵庫の普及するとこの心配も幾分薄れた。
戦後、研究改良により地回り用の赤イカや沖用のマメイカも生かして使うようになった。

ドシエデ
海の中の生物は、大体ドシ(仲間)エサを好むようである。イカ、サバ等はこの良い例である。ブリ、カツオはこれを好まず、良く釣れている時にドシエデを使うとすぐ何本かは釣れるが、たちまち食いが止まるといわれる。

ブイ船
七里ヶ曾根の夜釣で大事なものはブイ船である。流し釣りの妨げとならない漁場近くに船を固定し、赤灯を高く揚げて目標とした。たとえ風波が高くなっても、最後まで残らねばならない。その晩に生じた機械故障等の事故船を曳航して入港しなければならないといった使命も併せ持っていたから、小型船は無理で焼玉八馬力から一〇馬力位の優秀船をこれにあてた。一般に募って専門でやる年もあれば、沖船頭の中の大型船から順番でやる年もある。孟宗竹で作ったブイを投入してこれにブイ船を繋留させたりしたが、大体自分の錨でやる年が多かった。ブイの場合は気楽であるが、自分の錨だと居眠りもできない。大丈夫と思っていても錨の心配、誰か流れかかる船がありはしまいか、もしそのような事で目標が変ったら一大事であり、ブイ船には人知れぬ気苦労があった。ブイ船の手当は、普通その晩の大漁船三艘を平均し、その七割位が支給された。

日和見
出漁に当っては、沖船頭による日和見が行われた。せまい漁場に多数の船が舷(ふなべり)を接して操業する漁法であるため、少しでも風波が出ると危険が伴う。七里ヶ曾根は瀬が浅いためまわりの海にくらべ波が荒い。
勝本の船はもちろん、郷ノ浦・箱崎漁協の船までの操業を規制する日和見であれば、その責任は重大である。「女心と秋の空」この頃のむずかしい日和を昼頃に、しかも明朝まで判断しなければならない。この日和見にあたった西部沖船頭の責任は重大であった。或る沖船頭あがりの人はこんな話をしてくれた。今夜は夜釣はできないと旗を立てたのに風が出ないときには目が冴(さ)えて寝つかず、何度でも夜半に起き風が出てきて始めて安心して眠れたとか。
日和見の難しさは非常なものであった。馬力も三半から二〇馬力まであり、あまり日和見がおそくなると、速力のおそい船または他漁協船等はえさ取りに間に合わない。氷積みの時間も見ておかなければならない。五色の夜釣集団操業の旗を揚げ全船出漁し、えさも取れいよいよブリ釣にかかるといったところで風が出てきたら又協議する。協議の結果操業不可能と決まると、昼間は赤旗三本、夜間は赤ランプ三灯以上をつけて全船に操業中止の合図を送り入港する。この場合いかに風が強くても、又波が高くても最後まで漁場に残り全船入港を確認したのち最後に入港する。
日和見が適中して当たりまえ、失敗するとろくな事はいわれない。こんな割に合わない役目も、勝本のカマドをあずかっているという自負と誇りが心の支えであったからできるのである。

奨励金
戦後の一時期、組合に渡した魚価代にプラスして、後日組合員に支払いされていたもので、当時はすべての品物に公定価格が決められていた。しかし魚をこの公定値でばかり売ると、漁民は生活できなかった。或る裁判官がヤミのものは食べないで餓死した時代であった。生きんがために、内密にヤミで売るのが流行したのである。
窓口計算は公定価格払いとして、後日ヤミで売った分との差額を総代が配って歩いた。
金の都合で一晩総代の家に預からなければならぬ時があり、大金を枕元に置くのが心配で寝られなかったという人もあったそうだ。受取る組合員には、誠に有難いしその名前の通りの奨励金であった。しかし組合員のためとはいえ法を犯してまで魚を処分する組合の責任者は、大変な仕事であったと考えられる。ちなみに当時の公定価格は一〇〇匁二七円であったが、ヤミ入札値は七〇円―一〇〇円であった。
当時の組合長平畑福次郎、会計吉川徳次郎両氏は、組合の責任者として前後四回にわたり警察に連行され一回一週間で都合四回の二八日位留置された。戦後もまだ日が浅く新憲法発布以前の事で警察もオイ、コラ時代であった。それゆえ警察官の追及も想像以上できびしさを極め、取調べ中の両氏の苦痛は計り知れないものがあったと思われる。

ベニサシ
ブリのあごのところにまばらに紅をつけたようなのがベニサシブリである。
漁師は、これがまざって釣れるとブリの大群がきたと喜ぶ。特に秋の夜釣にこれが釣れると、大漁が続くようである。元来、陸上と海中を問わず野生の動物は、後宮(ハーレム)を形作って生活するといわれる。即ち雌の大群に数匹の雄が君臨して回遊しているそうである。だから網なり、釣なりであがるブリが雌ばかりであればこのような大群と考えてよく、大群即ち今後の大漁を約束されるのである。ではどうして雄、雌を見分けるのか。その簡単な見分け方は目であるといわれる。雌の目は先が一寸とがったようになっているという。

操業方法(釣法)
戦後、操業方法についても種々行われた。櫓でねらえる方法も試みられたが、少し波がでると櫓押しはむずかしい仕事であった。力があるからといっても若い者は駄目で、やはり昔鍛えた年寄りの方が上手であった。
また潮帆流しも行われた。潮の早い時は次々と流れるため、良い方法のようにみえる。しかし休みにブリがあたると大変で、狭いところに沢山の船が「がたみ合い」、下手の船に流れかかり「カケ出し」を突き上げられたりで、それこそ危険極りなかった。船が多過ぎるとどうしようもなくなるようである。
従来は一本ずつ釣っていたが、ナイロンテグスの導入により枝付きとなった。はじめ三本位つけていたのが八本から一〇本も付けるようになり、ドンブリではなく三〇〇匁位の分銅を付けるようになった。餌も上と下では一〇数尋も違い、一人乗りでもタッド探りは心配しなくて良いようになった。そればかりか一人乗りで二本の釣具を入れるために、一人一本の多人数乗りよりはるかに率が良くなったのである。一回にあがる魚も多数となり、漁獲も一躍倍加した。集魚灯も発電機を回し光力も大きくなったが、反対にブリは海底に沈み短い時間にバタバタ釣れるだけとなった。昔のようにボトボトと長時間潮時をすることは少なくなった。
昭和五〇年頃にはマメイカも殆ど取れなくなり、例年これを追って七里ヶ曾根に回遊してきていた魚群もこなくなったようである。勝本名物の一獲千金、一夜千両とまでいわれた秋の夜約も見ることができなくなった。かわりにサンマによる夜釣となったが、昔日の面影や盛大さはなくなった。

ハマチ養殖と稚魚の乱獲
ハマチ養殖は、昭和の初期、香川県引田町の安戸池という海水の入る小さな潟で始められた。野網佐吉という人が創始者であり、真珠における御木本幸吉に相当することはいうまでもない。御木本翁の銅像が英虞(あご)湾に面して建てられているように、野網翁の銅像も安戸池をにらんで立っている。
昭和三〇年の始め頃、「釣る漁業より育てる漁業へ」の掛声勇ましく、瀬戸内全域にハマチ養殖が盛んになった。そして次第にそれも西方へ移動し、今日では鹿児島まで普及したのである。
日本の漁業生産量は、年間約一〇〇〇万㌧である。これに対し日本全国で養殖されたハマチは、約一〇万㌧といわれる(一本一㌔と単純に計算してみると、おどろくなかれ一億本という事になる)。一㌔のハマチを作るのに八、九㌔のエサが必要である。つまり約九㌔のエサが一㌔のハマチに化けるといってよい。このことは統計上一〇万㌧のハマチは、実体として総生産量の中で一〇〇万㌧を占めているということなのである。ここ一〇年の間にその生産量は約三倍になったといわれる。そして世界でも一、二位を争う日本の漁業生産量の中で、養殖ハマチのもつ割合は実に一割という巨大なものなのである。
この養殖ハマチが全部、モジャコと呼ばれるブリの稚魚からの育成であって、本来ブリになるべきものが途中でハマチに化けさせられたものである。モジャコは、黒潮及び対馬暖流に漂う流れ藻とともに四月から六月にかけて本土に接近してくる。これを巻網で藻とともにすくい上げる。主として鹿児島、高知、徳島、和歌山、三重あたりの漁師が、この漁をする。五月の末に禁漁となるが、買い手があれば七月初旬にカンパチが解禁になる。そうするとカンパチを取りに行くという名目で実際はモジャコを取る。このような仕掛けでモジャコは乱獲されたのである。
ハマチ養殖が隆盛の一途をたどり始めた頃から、ブリ定置網の本場伊豆、相模沖の漁獲が激減した。当然であろう。メダカのような稚魚の時に、九州、四国の沖でがっぽりとられてしまうのだから。このような稚魚対策はどうなっているのであろう。ハマチもサケのように採卵、人工孵化ができないわけではなく、実験段階で成功したといわれる。しかしその技術はまだ養殖につながらず、成功するのにはあと数年は要するという。

ブリ養殖と釣り漁民
ここ十数年来、ブリが少なくなった。ようやく釣っても値が一向に良くなく、しかもイモより安い。これは釣り漁民の大きな悲しみである。従来、正月といえばブリの値の最も良くなるヤマバであった。しかし現在ではなんら変ることもなく、僅かに養殖もののない大ブリだけに値が出るだけである。この大ブリも釣れるのが珍しい位である。
養殖ハマチは、海のブロイラーであるとか、イワシのすり身を魚の形にした化け物であるとか、悪評さくさくたるものがある。このエサの化けものと、荒海育ちの新鮮な天然ものと一緒くたにして売買されるのである(そのようにしか思えない)。
稚魚は取られ、販路は荒される。現在の釣り漁民は、まさに踏んだり蹴ったりの状態にある。せめて養殖ものと天然のものとをハッキリ区別して、販売されないものであろうか。また稚魚も、人工モジャコの大量生産の一日も早い実現を期待している。一昔前のようにヤズ、小ブリ、大ブリの泳ぐ漁場に戻して欲しい。
釣り漁民にとって魚のいないことほど辛いものはないのである。このような願いは、ひとり勝本漁民のみではあるまい。

サバ釣り
サバは硬骨魚類で体は紡錘形で口は大きく細かい歯が密生している。そして体長五〇㌢に及び、尾びれの近くで背びれと尻びれとの間に、六個ずつのひれがある。体色は青緑色で腹は銀白色、性格は活発、泳ぎは速い。サバは昼間でも群をなして泳ぎ、凪いだ日だと遠くからでも望見できる。
これを獲るには種々の方法がある。まず網で昼間この群を取り囲んで取る巾着網があった。一艘でやるのを片手廻し、二艘でやるのを両手廻しと呼んだ。大型集魚灯が出現すると四ツ張り、旋網(まきあみ)等で大量に漁獲した。サバの宝庫といわれた対馬では、昭和の初期頃からダイナマイトによる密漁が盛んで、戦後もしばらく続いた。勝本でも釣り漁が盛んであった。その漁法は延縄、ホロサバ釣り、夜間のウダ釣り等である。
中上長平翁の項に記されているように、翁は明治期に小型漁船で対馬に渡りイカの大漁をして人々を驚かしたのである。そしてその時経験したことが、海の色を変えるばかりのサバの大群がアワを立てて泳いでいるのに、これを捕獲する船をみないということである。勝本に帰った翁は、早速これを捕獲する方法を考究した(この時の漁法が不明であるのは残念である)。当時対馬に渡るという事は冒険に等しかった。尻込みする漁民を説得して同志を募り、三艘に乗り翁の船を先頭に出演したのであった。明治六年中上長平翁三四歳のときであった。そして対馬路村(豊玉町)に渡りサバ漁をはじめて好成績を収めた。この後多数の漁船が翁の後に続いたという。また昔問屋であった旧家の古文書等にまざって、塩サバの送り状などが見られることからしてもずい分古い時代から釣っていたものと思われる。そして塩蔵(えんぞう)サバとして積み出していたものであろう。

ウダそびき
ガスランプ時代から、赤イカが取れ出すとサバも何本か釣れるようになる。昔からイカ、サバとひとことでいい、イカの多いところにはサバが、サバの多いところにはイカがいるといわれた。
梅雨時がサバの盛漁期であり、田舎の人も田植の魚はサバと決めていた。雨合羽もろくになかった時代、雨にぬれてジョタジョタとなり「ウダそびき」に精出した。正座(おひざ)をしてすわらねばならないから時々座り直すのであるが、その度に尻から足のあたりが冷たくべとつくあの嫌な感じを思い出す人も多いだろう。

釣道具
当初は鯨のヒゲに始まり、後には八番の鋼線で天びんを作り、それに重さ一四〇匁から二〇〇匁位の鉛を付けてカブシ入れの金網を付け釣糸は約三〇尋(紡績ヨマで可)位つけるものへと変化していった。普通二〇尋から二四、五尋ぐらいのところから引張った。潮時になるほど浅く釣れたものである。
サバを数匹釣ると魚体を指先で突いてみる。堅いときは潮時せず、やわらかい時ほど潮時するといわれた。「たぐり」の方法ではなく、時時手早く「おびく」のである。この漁は手さばきがものをいった。何しろ七尋から一五尋位までに、漁具が沈む間にエサを切らねばならないのである。エサは初め小イワシ(シラス)の塩ものを使い、後はサバの切り身「ドシエデ」である。
サバの「ドシエデ」の切り方は、先ずウス皮をはぎへらをおろしてから「ハラベ」の骨を取る。そしてその片身をななめに薄くそぎ(皮の部分をちょっと残し釣にかかるようにしないとエサ持ちがしない)、それをタテに「チエ」の部分を除き狭く切るのである。エサを切るのに一々釣具をあげて切るようでは、熱練者の半分も釣れない。
釣った魚をはずすのも要領のいる仕事であった。しかし戦後もかなりたってから、大き目のヨマを自分の前に横に張り、釣上げた魚をそのヨマの向うに投げ釣針をこの糸にひっかけるようにする方法がとられるようになった。前のように魚を握って釣針をはずすのに比べ、能率もよく手も痛まずにすんだ。

カブシ
サバは「ドシエデ」を好み、イワシとともに餌として用いる。またカブシを使うと一層効果的である。毎回ヨマを上げる度に少量ずつのカブシを入れて使う。カブシはイワシが主で、それに餌として使用したサバのエデカスをまぜて、包丁で小さくきざみ、尚小さくするためにたたくのである。サバ釣りが始まると、各戸からトントンとカブシたたきの音が聞こえた。そしてこれに塩をあてていたまないようにした。油断するとウジがわいた。それでも力ブシに変りはないが、そのまま使うと手がムズムズした。後年になって、肉ひき用のミンチを使用するようになり仕事もはかどり昼寝のじゃまになる音も聞こえなくなった。

東白み
ブリでもサバでも青ものは、殆ど東白み(夜明け)が潮時である。東の空が白みはじめるとよく潮時になった。ブリ夜釣等では、この僅かな時間に大漁することが多々ある。反対に青ものの北風といって、北風になりはじめは潮時がないともいう。

対馬の秋サバ釣り
戦後のある時期(昭和三〇年代)、秋イカの取れ出す前から対馬に出漁してサバを釣って、数晚分を保存して博多、唐津に運搬していた。当時は釣りサバとして値も良く収入になった。
この頃は現在のようにナイロン製のヤッケがあるわけがなく、綿入れ布子(ぬのこ)であった。この綿入れは、カブシがはね飛びその臭いがしみ込み、小雨の降る日など博多の街を歩くとバタ屋に間違われる位であった。

ハネ釣り
普通のサバ釣りの状態から潮時になると、灯を大きくする(真白くたく)とエサの小イワシが表層に浮上し泳ぐようになる。それをサバが追ってくるので、これを竹竿(ハジキ)を使って釣る漁法で一時期よく釣れたものである。

秋サバは嫁にも食わせるな
秋のサバは、年中最高に脂がのり美味しいものである。刺身でも焼いても酢のものにも、煮つけても最高であり、それに他の魚にくらべて値が比較的安かった。ただしこれを食べてあたると猛烈で、身体に斑点ができ腹痛がおさまらず大変である。へたをすると命をおとすこともあるという。このような時は、下すか、吐くかした後に、梅肉エキスを平素より多量にオブラートに包み服用すると良い。
嫁にも食わせるなということは、いろいろな意味あいが含まれていると思う。可愛いい嫁ゆえに、もし食べてあたって苦しませてはならない。反面、美味しいものばかり食わせると口がおごる、それが生活上であらゆる面で浪費につながるという事ではなかろうか。惜しんで食べさせないわけではない。美しい花にはトゲがある、美味しいもの食って油断するなとの諺があるが、家を守り台所をあずかる一家の浮沈をになう責任者としての譬(たと)えではなかろうか。またあまりの美味ゆえ、嫁に食べさすのも惜しいということであろうか。

サバについての結論
昭和四〇年代に入り所得倍増だ高度成長だと景気は良かったが、サバは完全に勝本の海から姿を消したのである。さて原因はといえば、気象、潮流、乱獲等いろいろいわれている。だが、ここ数年、僅かではあるがサバの姿を見るようになった。しかし例え昔のようにサバ漁があったとしても、ニュース等で伝えられているように太平洋側で獲れすぎ値は安くその大半を肥料にしている現状では、漁家の台所を潤すことは大変むずかしいように思われる。
いずれにせよ、サバ漁は難しい問題をたくさんかかえているのである。

八、夜釣

夜釣
夜間集魚灯をたいてブリを集め、イカ等の餌でこれを釣る漁法である。別名夜ダキともいう。秋が漁期である。
明治初年に「たぐり」とともに家室船から伝えられたといわれている。その後、明治、大正、昭和の時代を通じ勝本漁民が、この夜約で貧しさから解放された例は少なくないという。
この漁法の創始について次のような出来事が伝えられている(漁業今昔の四回「夜釣の巻」昭和三一年五月二五日発行『すなどり』)。「明治一〇年、今から八〇年前の事である。その頃の漁師はイカ取りぐらいが関の山で、それも島の周辺を潮帆でなく(作り方も知らなかった)「くびり石」とワラ綱「イチボー」を海中深くぶら下げ流していた。暗夜の海上に「かがり火」(鉄の籠を作り薪を入れてたく)をともしながら、細々とその日の暮しを立てていたのである。ある夜、亀十さんは相変らずかがり火をたいて赤瀬周辺を流していた。ところが二五尋のばしていた「くびり石」が瀬にかかり、同時に操っていた「スッテ」も何物か得体の知れぬ魚によって払い切られてしまった。平素、漁に熱心な彼は良い曾根に流れかかったぞと心躍らせながら、翌朝までまんじりともせず山の見えるのを待って山当した。翌日、亀十さんは漁具を太く作り、山当をしていた赤瀬より約五㍄の地点(オウサ曾根)に喜び勇んでかかり込んだのである。この大いなる発見は実をむすび、思い違わずその晩はブリとアカバナを船に満載、亀十さんは涙を流して喜んだという。亀十さんのこの偉大なる発見により、夜でもブリの釣れる事に確信を得た勝本浦の漁民は、翌日からここで夜釣操業したのである。そしてしばらく大漁が続いたという」
この老人こそ、夜釣の先駆者仲折の熊本亀十翁である。この話は家室船から伝えられた漁法であるとする説と食い違うのである。この後の夜釣には渡良方面からも大勢の人達が「ネリ」として乗組み働いたのであるが、この古老達の話にも勝本のたぐり、夜釣は家室船より習ったとある。案ずるに、亀十さんも、家室船から教えられていたから食いついたものはブリであると考えたのではなかろうか。

かがり火
金(かね)で作った網の中で薪を燃やしたというが、その一晩分は大量であり積むのに困ったといわれる。主にコエ松を使用したが、後年はいしずみ(石炭)をたいた。

石油ランプ
明治五年頃には国産のランプも製造、市販され、明治三〇年代の全盛期を迎え、ついで大正期にかけて全国的に使用されたのである。
明治三〇年頃までかがり火をたいていた漁民も、文明開化の波にのり石油ランプが普及し、これをたいて魚を獲るようになった。最初石油ランプ(周囲をガラス張りにして風を防いだ)を使用した者は、かがり火使用者よりもその漁獲高は著しく高かった。夜釣には当時一番大型のものであった八分芯を使用した。この頃の漁民でも、ブリは大きい灯に良く集まることを承知していたようである。かがり火は自然に消滅し、ここに石油ランプ時代が訪れたのである。
かくして夜釣に対し、漁民は興味と希望を抱き一生懸命に研究し、あらゆる近海の曾根にランプはともされたのであった。当時は釣り船は少なく魚は多く、火に馴れぬブリ等は暗夜に一灯をたどり良く集ったと考えられ、その効果は漁民の想像以上であったといわれる。七里ヶ曾根の夜釣もはじめは、かかり釣りであるため潮の「休み」と「かわし」の時だけしかブリは釣れなかった。しかしいつの時代にも辛抱強く努力する人がいるもので、潮の激しい時も流し、そして押し上って釣るようになった。このため、かかりの船も馬鹿らしくなり遂にはかかる者はいなくなってしまった。時に大正五年頃である。

集団流し釣り
大正七年より効率的にブリを釣るため、各船主は船頭集会を開き話し合った結果、大きな浮標用のタルを作って石油ランプを乗せ曾根にともすようにしたのである。
この仕事は各船回り番で実施した。
和船時代の漁業は、苦労の連続であった。少し船を動かすにも一汗流さねばならず、その流した汗も効果のともなわない事が多かった。七里ヶ曾根の夜釣も、時化出しの場合は朝一〇時頃から押し出し約四時間以上も押しづめ、エサ取りから夜中の押しあがりと、釣る時間より櫓を押す時間の方が多かった。
大正末期より動力船も次第に増加し、漁民も重労働からようやく解放されていった。この時分の事であったのだろう。一隻の動力船に一〇艘から一四、五艘の和船が曳かれて漁場に出入りした。曳かれた和船は、トモ櫓を一丁押さねばならなかった。現在の私どもが考えると、変な曳船方法であるが、そうしないと進まなかったという。でも曳かれる時の嬉しさは、たとえようもなく嬉しかったと古老達は話していた。良い凪の時は和船は曾根にかかり、魚や食料は機械船がことづかって運んだ。漁のあった時は、甘いものや辛いものの注文が多かったそうである。また、押し上りも機械船時代みたいに絶えずというわけにはいかず、ブリの潮時のある夜などは、かたまって流す漁船団の灯りについて遠くまでついて来たという。

ガスランプ(カーバイド)
一八三六年(天保七年)イギリスのデー・ウイが初めて発明した(気化炭化水素の一)。
カーバイドに水を加えて発生したアセチレンは、わずかの不純物を含むため特別のにおいを持っている。小さい発生器にカーバイドを入れ、これに少しずつ水をたらしアセチレンを発生させ、ただちに発生器の上部に連結したドーランバーナー(灯口)で燃やして明るい炎とする。二つの炎を勢いよく互いに衝突させると、外からの空気が十分に混合して完全に燃え、すすを発生しない。これがガスランプである。
勝本にガスランプが普及したのは、大正二、三年頃黒瀬のビンツケ屋(屋号)元青年部長紣谷喜寿君の祖父で紣谷房吉氏により市販されてからである。
石油ランプからガスランプに替った時は、なんと明るいものかと驚きの目で眺めたのである。ゴムホースさえのばせば灯口をランプからはずして機関場にも使えたし、二股をつければ二ケ所に同時につけることもできた。後年サバ釣り等には二ツ灯口、四ツ灯口等も考案された。灯口に燭光の大小があり普通四〇から六〇燭光、大は八〇燭光であった。時々灯口がつまるので、小さなチュウジャクを常に用意して穴を掃除する必要があった。戦中、戦後ガスも人手難であったが、あの手この手で買い求めた。また保管が悪いと自然にとけるため、誰がいうともなく重油を表面にぬってこの得難いガスの風化を防いだ。

バッテリー
一八六〇年(万延元年)、プランテによって発明されたもので、その後いろいろと改良工夫が加えられて現在に及んでいる。
戦後間もなくバッテリーを使用するようになった。六ボルトから八ボルト、最後には一二ボルトになった。小さいボルトの電球を大きなバッテリーにつけて用いたので、真白く非常に明るかった。しかし電球の寿命は短かった。使用電球は二〇ワット、三〇ワットであった。
現在考えてみて、このバッテリー時代が一番良かったと思う人は多いだろう。この頃は魚も多くて値段も良かったからである。夜間操業するためにも、静かで割にのんびりした気分であった。ただ問題は、毎日毎日陸に上げて充電しなければならず、重くて持ち運びが大変であったことである。

充電所
バッテリーの普及により、充電の必要性から、充電所ができた。
⑴旧製氷所跡に山崎、田村両氏経営の充電所
⑵長嶋俊光氏方裏に有馬、田村両氏経営の充電所
⑶福田ウニ店土地に永田武平氏経営の充電所
⑷仲折石油部横に勝本漁協経営の充電所
以上の充電所があり発電機流行の前後まで営業を続けたが、各漁船の発電機化にともない次第に姿を消し失業や鉄工所への転業となっていった。

水中灯
この頃、防水密閉したガラス容器に電球を入れ、水中につるして魚を集める水中灯が出現した。この集魚灯を全船が使用すると、魚が集まりすぎて資源が枯れるのではとの懸念から、組合で協議の結果使用しない事にした。

テラシ
ランプの笠の内面をメッキしてピカピカ光らせ、小さな光でも海中深く反射させるものである。この光のなかに自分のエサが入るとブリの食いが良いような気がした。このテラシは永続きせず大体一代限りであった。

発電機
昭和二九年に入ると小さな発電機がお目見得するようになった。ジャラジャラと呼ぶ小さなものであった。ジャラジャラと音が聞えたのでその名が付けられたのだろう。
小さくても当時バッテリー使用船が多い中では、この発電機を回してともす灯は明るかった。特にイカ取り等ではその漁獲は群を抜いていた(抄網漁(すくいあみ)の項参照)。しかし当時の夜釣りは集団操業であったために、無理をして灯をともす必要もなく、経費節減のためにも電球三個、電圧も下げて操業した。やがてバッテリー使用船が姿を消すようになり、ジャラジャラ時代も短命でおわった。そして漁船の主機関の動力で回す現在の大型発電機が登場した。
振りかえってみると、文明の発達により受ける恩典は数知れないが、社会が静かな時代から騒々しい時代に移行して来たように我々漁師にとっても大きな変化を経験してきた。漁撈上夜釣だけを例にとってみても、ランプ、ガス、バッテリー時代は静かな漁撈風景で、漁の合間は船内各位置に座ったままで色々と世間話や議論、連絡等ができた。しかし現在は機械の騒音で船内隣同志でも会話が出来難く、恩恵と不便が同居中なのである。まさに過ぎた昔が懐かしいと思うのは私一人ではあるまい。

光力と魚の深さ
集魚灯の明るさと魚の寄り集まるタッド(深さ)とは大きな関係がある。普通灯が大きい程魚は浮くだろうと考えるが、事実は反対であり、ランプ使用時程浅い所で釣れていた。
ナイロンテグスが普及するまではドンブリだけで一本宛釣上げていた(ドンブリの重さは曾根用は六五匁位、地回り用四五匁位、釣針は二本、イカ止め一本か二本)。その晩によくブリの「あたる」タッド(又はタチド)があり、早くこれを探し出さないと良い漁はできない。乗組員数人の場合は互にその深さを違えて持っておれば良いが、一人乗りだとタッド探りにひと苦労した。五尋も違うと仲々あたらないのである。
ランプ時代は大体、親ビシ(二三尋)付近がブリの良くあたる深さであった。バッテリーになると三〇尋付近になった。発電機になると海底近く五〇尋となった(魚が潮時すると浅く食う場合もある)。
釣糸には五尋毎にしるしを付けて即座に深さを合せるようにしていた。ランプ時代においては「ソエイオ」が多く、釣られるブリについてあがってきた。ブリは食い上げるものであるから、船内に一本食うと他の乗組員は数尋たぐって、ソエイオの食うのを待った。いうまでもなく三〇尋で釣るより一五尋で釣った方が早いに決っている。この時代の手さばきは、いかにして「浅く釣る」かであった。また深く釣る者を田舎もんとも呼び、素人扱いしたのであった。機械を停止しての静かな海上での魚釣りであり、船も舷舷相摩すのたとえ通りかたまっているので「二〇尋で食うたぞー」とどなるわけにいかず、船内には暗号で教えたりした。これもかけひきのうちであった。

メンメン釣り
和船時代に各自銘々の釣り取り、勝本でいうメンメン釣りの時期もあった。現在考えると、なぜこのような能率の悪い漁法を採用していたのか理解に苦しむのである。
同じ「ふなうち」でありながら、エサを取ったものはブリを釣り、取らなかった者は〇本である。それで気持良く協力して漁ができるわけがない。自分のより早く人の道具に「ついた」イカはかき切れることを念じ、食いついたブリははなれることを願う。次にどうやって、「ソエイカ」「ソエブリ」を自分の釣具に食わせるかの競争であったという。自然に、負けず魂即ち根性が生れ、手さばきが良くなった。そして不思議なことに船は船頭の所有であるのに何んの分配もなく、只、一等座席というべきトモに座るだけであるという。やがてこの制度も「もあい」となり、漁獲物も平等に分配し船頭も船の口を得るようになった。
これも現在では昔話として伝えられるだけである。

月夜
戦前の機械船では衝突予防のためと機関場用とを兼ねてのみガスランプをつけ、ブリ釣りは月明りだけであった。暗夜と違い、ブリは浮かず底でばかり釣れた。従って道具が下にかかる事が多かったし、瀬にひっかかると六匁三コよりは強くて一二馬力の船でも潮に立った。釣糸はめったな事では切れず、釣針が延びたりして外れる事が多かった。
月夜でも集魚灯をつけるようになったのは、戦後の事である。

エサ取り
ブリ釣りの幸(しあわ)せはエサ取りにあるといわれ、マメイカを充分に取るかどうかが運の別れ道であったため、昼イカ取りとヒノメに運をかけた。自分達だけエサの取れない時の気持ちは、何んともいいようのない辛(つら)い思いである。一人宛一〇本も取れれば先ず一安心で、宵(よい)からブリが釣れても大丈夫である。「バタ」で食う時は別として餌は取り立てのものほど食いがいい。氷もなく生かすことも知らなかった時代、ブリ釣りの合間に豊後ズッテを入れて新しいイカを取ったという。新しいイカをはやめに付けかえるのが漁のコツであった。ランプ時代は一本がけに当りが良かったが、灯が大きくなるにつれ切り身が良くなったようである。

サマシ
凪続きの時は、なるべく遅く取ったイカを涼しいところに置いて翌晩の準備とした。やがて氷を積む時代となり、各戸に電気冷蔵庫の普及するとこの心配も幾分薄れた。
戦後、研究改良により地回り用の赤イカや沖用のマメイカも生かして使うようになった。

ドシエデ
海の中の生物は、大体ドシ(仲間)エサを好むようである。イカ、サバ等はこの良い例である。ブリ、カツオはこれを好まず、良く釣れている時にドシエデを使うとすぐ何本かは釣れるが、たちまち食いが止まるといわれる。

ブイ船
七里ヶ曾根の夜釣で大事なものはブイ船である。流し釣りの妨げとならない漁場近くに船を固定し、赤灯を高く揚げて目標とした。たとえ風波が高くなっても、最後まで残らねばならない。その晩に生じた機械故障等の事故船を曳航して入港しなければならないといった使命も併せ持っていたから、小型船は無理で焼玉八馬力から一〇馬力位の優秀船をこれにあてた。一般に募って専門でやる年もあれば、沖船頭の中の大型船から順番でやる年もある。孟宗竹で作ったブイを投入してこれにブイ船を繋留させたりしたが、大体自分の錨でやる年が多かった。ブイの場合は気楽であるが、自分の錨だと居眠りもできない。大丈夫と思っていても錨の心配、誰か流れかかる船がありはしまいか、もしそのような事で目標が変ったら一大事であり、ブイ船には人知れぬ気苦労があった。ブイ船の手当は、普通その晩の大漁船三艘を平均し、その七割位が支給された。

日和見
出漁に当っては、沖船頭による日和見が行われた。せまい漁場に多数の船が舷(ふなべり)を接して操業する漁法であるため、少しでも風波が出ると危険が伴う。七里ヶ曾根は瀬が浅いためまわりの海にくらべ波が荒い。
勝本の船はもちろん、郷ノ浦・箱崎漁協の船までの操業を規制する日和見であれば、その責任は重大である。「女心と秋の空」この頃のむずかしい日和を昼頃に、しかも明朝まで判断しなければならない。この日和見にあたった西部沖船頭の責任は重大であった。或る沖船頭あがりの人はこんな話をしてくれた。今夜は夜釣はできないと旗を立てたのに風が出ないときには目が冴(さ)えて寝つかず、何度でも夜半に起き風が出てきて始めて安心して眠れたとか。
日和見の難しさは非常なものであった。馬力も三半から二〇馬力まであり、あまり日和見がおそくなると、速力のおそい船または他漁協船等はえさ取りに間に合わない。氷積みの時間も見ておかなければならない。五色の夜釣集団操業の旗を揚げ全船出漁し、えさも取れいよいよブリ釣にかかるといったところで風が出てきたら又協議する。協議の結果操業不可能と決まると、昼間は赤旗三本、夜間は赤ランプ三灯以上をつけて全船に操業中止の合図を送り入港する。この場合いかに風が強くても、又波が高くても最後まで漁場に残り全船入港を確認したのち最後に入港する。
日和見が適中して当たりまえ、失敗するとろくな事はいわれない。こんな割に合わない役目も、勝本のカマドをあずかっているという自負と誇りが心の支えであったからできるのである。

奨励金
戦後の一時期、組合に渡した魚価代にプラスして、後日組合員に支払いされていたもので、当時はすべての品物に公定価格が決められていた。しかし魚をこの公定値でばかり売ると、漁民は生活できなかった。或る裁判官がヤミのものは食べないで餓死した時代であった。生きんがために、内密にヤミで売るのが流行したのである。
窓口計算は公定価格払いとして、後日ヤミで売った分との差額を総代が配って歩いた。
金の都合で一晩総代の家に預からなければならぬ時があり、大金を枕元に置くのが心配で寝られなかったという人もあったそうだ。受取る組合員には、誠に有難いしその名前の通りの奨励金であった。しかし組合員のためとはいえ法を犯してまで魚を処分する組合の責任者は、大変な仕事であったと考えられる。ちなみに当時の公定価格は一〇〇匁二七円であったが、ヤミ入札値は七〇円―一〇〇円であった。
当時の組合長平畑福次郎、会計吉川徳次郎両氏は、組合の責任者として前後四回にわたり警察に連行され一回一週間で都合四回の二八日位留置された。戦後もまだ日が浅く新憲法発布以前の事で警察もオイ、コラ時代であった。それゆえ警察官の追及も想像以上できびしさを極め、取調べ中の両氏の苦痛は計り知れないものがあったと思われる。

ベニサシ
ブリのあごのところにまばらに紅をつけたようなのがベニサシブリである。
漁師は、これがまざって釣れるとブリの大群がきたと喜ぶ。特に秋の夜釣にこれが釣れると、大漁が続くようである。元来、陸上と海中を問わず野生の動物は、後宮(ハーレム)を形作って生活するといわれる。即ち雌の大群に数匹の雄が君臨して回遊しているそうである。だから網なり、釣なりであがるブリが雌ばかりであればこのような大群と考えてよく、大群即ち今後の大漁を約束されるのである。ではどうして雄、雌を見分けるのか。その簡単な見分け方は目であるといわれる。雌の目は先が一寸とがったようになっているという。

操業方法(釣法)
戦後、操業方法についても種々行われた。櫓でねらえる方法も試みられたが、少し波がでると櫓押しはむずかしい仕事であった。力があるからといっても若い者は駄目で、やはり昔鍛えた年寄りの方が上手であった。
また潮帆流しも行われた。潮の早い時は次々と流れるため、良い方法のようにみえる。しかし休みにブリがあたると大変で、狭いところに沢山の船が「がたみ合い」、下手の船に流れかかり「カケ出し」を突き上げられたりで、それこそ危険極りなかった。船が多過ぎるとどうしようもなくなるようである。
従来は一本ずつ釣っていたが、ナイロンテグスの導入により枝付きとなった。はじめ三本位つけていたのが八本から一〇本も付けるようになり、ドンブリではなく三〇〇匁位の分銅を付けるようになった。餌も上と下では一〇数尋も違い、一人乗りでもタッド探りは心配しなくて良いようになった。そればかりか一人乗りで二本の釣具を入れるために、一人一本の多人数乗りよりはるかに率が良くなったのである。一回にあがる魚も多数となり、漁獲も一躍倍加した。集魚灯も発電機を回し光力も大きくなったが、反対にブリは海底に沈み短い時間にバタバタ釣れるだけとなった。昔のようにボトボトと長時間潮時をすることは少なくなった。
昭和五〇年頃にはマメイカも殆ど取れなくなり、例年これを追って七里ヶ曾根に回遊してきていた魚群もこなくなったようである。勝本名物の一獲千金、一夜千両とまでいわれた秋の夜約も見ることができなくなった。かわりにサンマによる夜釣となったが、昔日の面影や盛大さはなくなった。

ハマチ養殖と稚魚の乱獲
ハマチ養殖は、昭和の初期、香川県引田町の安戸池という海水の入る小さな潟で始められた。野網佐吉という人が創始者であり、真珠における御木本幸吉に相当することはいうまでもない。御木本翁の銅像が英虞(あご)湾に面して建てられているように、野網翁の銅像も安戸池をにらんで立っている。
昭和三〇年の始め頃、「釣る漁業より育てる漁業へ」の掛声勇ましく、瀬戸内全域にハマチ養殖が盛んになった。そして次第にそれも西方へ移動し、今日では鹿児島まで普及したのである。
日本の漁業生産量は、年間約一〇〇〇万㌧である。これに対し日本全国で養殖されたハマチは、約一〇万㌧といわれる(一本一㌔と単純に計算してみると、おどろくなかれ一億本という事になる)。一㌔のハマチを作るのに八、九㌔のエサが必要である。つまり約九㌔のエサが一㌔のハマチに化けるといってよい。このことは統計上一〇万㌧のハマチは、実体として総生産量の中で一〇〇万㌧を占めているということなのである。ここ一〇年の間にその生産量は約三倍になったといわれる。そして世界でも一、二位を争う日本の漁業生産量の中で、養殖ハマチのもつ割合は実に一割という巨大なものなのである。
この養殖ハマチが全部、モジャコと呼ばれるブリの稚魚からの育成であって、本来ブリになるべきものが途中でハマチに化けさせられたものである。モジャコは、黒潮及び対馬暖流に漂う流れ藻とともに四月から六月にかけて本土に接近してくる。これを巻網で藻とともにすくい上げる。主として鹿児島、高知、徳島、和歌山、三重あたりの漁師が、この漁をする。五月の末に禁漁となるが、買い手があれば七月初旬にカンパチが解禁になる。そうするとカンパチを取りに行くという名目で実際はモジャコを取る。このような仕掛けでモジャコは乱獲されたのである。
ハマチ養殖が隆盛の一途をたどり始めた頃から、ブリ定置網の本場伊豆、相模沖の漁獲が激減した。当然であろう。メダカのような稚魚の時に、九州、四国の沖でがっぽりとられてしまうのだから。このような稚魚対策はどうなっているのであろう。ハマチもサケのように採卵、人工孵化ができないわけではなく、実験段階で成功したといわれる。しかしその技術はまだ養殖につながらず、成功するのにはあと数年は要するという。

ブリ養殖と釣り漁民
ここ十数年来、ブリが少なくなった。ようやく釣っても値が一向に良くなく、しかもイモより安い。これは釣り漁民の大きな悲しみである。従来、正月といえばブリの値の最も良くなるヤマバであった。しかし現在ではなんら変ることもなく、僅かに養殖もののない大ブリだけに値が出るだけである。この大ブリも釣れるのが珍しい位である。
養殖ハマチは、海のブロイラーであるとか、イワシのすり身を魚の形にした化け物であるとか、悪評さくさくたるものがある。このエサの化けものと、荒海育ちの新鮮な天然ものと一緒くたにして売買されるのである(そのようにしか思えない)。
稚魚は取られ、販路は荒される。現在の釣り漁民は、まさに踏んだり蹴ったりの状態にある。せめて養殖ものと天然のものとをハッキリ区別して、販売されないものであろうか。また稚魚も、人工モジャコの大量生産の一日も早い実現を期待している。一昔前のようにヤズ、小ブリ、大ブリの泳ぐ漁場に戻して欲しい。
釣り漁民にとって魚のいないことほど辛いものはないのである。このような願いは、ひとり勝本漁民のみではあるまい。

サバ釣り
サバは硬骨魚類で体は紡錘形で口は大きく細かい歯が密生している。そして体長五〇㌢に及び、尾びれの近くで背びれと尻びれとの間に、六個ずつのひれがある。体色は青緑色で腹は銀白色、性格は活発、泳ぎは速い。サバは昼間でも群をなして泳ぎ、凪いだ日だと遠くからでも望見できる。
これを獲るには種々の方法がある。まず網で昼間この群を取り囲んで取る巾着網があった。一艘でやるのを片手廻し、二艘でやるのを両手廻しと呼んだ。大型集魚灯が出現すると四ツ張り、旋網(まきあみ)等で大量に漁獲した。サバの宝庫といわれた対馬では、昭和の初期頃からダイナマイトによる密漁が盛んで、戦後もしばらく続いた。勝本でも釣り漁が盛んであった。その漁法は延縄、ホロサバ釣り、夜間のウダ釣り等である。
中上長平翁の項に記されているように、翁は明治期に小型漁船で対馬に渡りイカの大漁をして人々を驚かしたのである。そしてその時経験したことが、海の色を変えるばかりのサバの大群がアワを立てて泳いでいるのに、これを捕獲する船をみないということである。勝本に帰った翁は、早速これを捕獲する方法を考究した(この時の漁法が不明であるのは残念である)。当時対馬に渡るという事は冒険に等しかった。尻込みする漁民を説得して同志を募り、三艘に乗り翁の船を先頭に出演したのであった。明治六年中上長平翁三四歳のときであった。そして対馬路村(豊玉町)に渡りサバ漁をはじめて好成績を収めた。この後多数の漁船が翁の後に続いたという。また昔問屋であった旧家の古文書等にまざって、塩サバの送り状などが見られることからしてもずい分古い時代から釣っていたものと思われる。そして塩蔵(えんぞう)サバとして積み出していたものであろう。

ウダそびき
ガスランプ時代から、赤イカが取れ出すとサバも何本か釣れるようになる。昔からイカ、サバとひとことでいい、イカの多いところにはサバが、サバの多いところにはイカがいるといわれた。
梅雨時がサバの盛漁期であり、田舎の人も田植の魚はサバと決めていた。雨合羽もろくになかった時代、雨にぬれてジョタジョタとなり「ウダそびき」に精出した。正座(おひざ)をしてすわらねばならないから時々座り直すのであるが、その度に尻から足のあたりが冷たくべとつくあの嫌な感じを思い出す人も多いだろう。

釣道具
当初は鯨のヒゲに始まり、後には八番の鋼線で天びんを作り、それに重さ一四〇匁から二〇〇匁位の鉛を付けてカブシ入れの金網を付け釣糸は約三〇尋(紡績ヨマで可)位つけるものへと変化していった。普通二〇尋から二四、五尋ぐらいのところから引張った。潮時になるほど浅く釣れたものである。
サバを数匹釣ると魚体を指先で突いてみる。堅いときは潮時せず、やわらかい時ほど潮時するといわれた。「たぐり」の方法ではなく、時時手早く「おびく」のである。この漁は手さばきがものをいった。何しろ七尋から一五尋位までに、漁具が沈む間にエサを切らねばならないのである。エサは初め小イワシ(シラス)の塩ものを使い、後はサバの切り身「ドシエデ」である。
サバの「ドシエデ」の切り方は、先ずウス皮をはぎへらをおろしてから「ハラベ」の骨を取る。そしてその片身をななめに薄くそぎ(皮の部分をちょっと残し釣にかかるようにしないとエサ持ちがしない)、それをタテに「チエ」の部分を除き狭く切るのである。エサを切るのに一々釣具をあげて切るようでは、熱練者の半分も釣れない。
釣った魚をはずすのも要領のいる仕事であった。しかし戦後もかなりたってから、大き目のヨマを自分の前に横に張り、釣上げた魚をそのヨマの向うに投げ釣針をこの糸にひっかけるようにする方法がとられるようになった。前のように魚を握って釣針をはずすのに比べ、能率もよく手も痛まずにすんだ。

カブシ
サバは「ドシエデ」を好み、イワシとともに餌として用いる。またカブシを使うと一層効果的である。毎回ヨマを上げる度に少量ずつのカブシを入れて使う。カブシはイワシが主で、それに餌として使用したサバのエデカスをまぜて、包丁で小さくきざみ、尚小さくするためにたたくのである。サバ釣りが始まると、各戸からトントンとカブシたたきの音が聞こえた。そしてこれに塩をあてていたまないようにした。油断するとウジがわいた。それでも力ブシに変りはないが、そのまま使うと手がムズムズした。後年になって、肉ひき用のミンチを使用するようになり仕事もはかどり昼寝のじゃまになる音も聞こえなくなった。

東白み
ブリでもサバでも青ものは、殆ど東白み(夜明け)が潮時である。東の空が白みはじめるとよく潮時になった。ブリ夜釣等では、この僅かな時間に大漁することが多々ある。反対に青ものの北風といって、北風になりはじめは潮時がないともいう。

対馬の秋サバ釣り
戦後のある時期(昭和三〇年代)、秋イカの取れ出す前から対馬に出漁してサバを釣って、数晚分を保存して博多、唐津に運搬していた。当時は釣りサバとして値も良く収入になった。
この頃は現在のようにナイロン製のヤッケがあるわけがなく、綿入れ布子(ぬのこ)であった。この綿入れは、カブシがはね飛びその臭いがしみ込み、小雨の降る日など博多の街を歩くとバタ屋に間違われる位であった。

ハネ釣り
普通のサバ釣りの状態から潮時になると、灯を大きくする(真白くたく)とエサの小イワシが表層に浮上し泳ぐようになる。それをサバが追ってくるので、これを竹竿(ハジキ)を使って釣る漁法で一時期よく釣れたものである。

秋サバは嫁にも食わせるな
秋のサバは、年中最高に脂がのり美味しいものである。刺身でも焼いても酢のものにも、煮つけても最高であり、それに他の魚にくらべて値が比較的安かった。ただしこれを食べてあたると猛烈で、身体に斑点ができ腹痛がおさまらず大変である。へたをすると命をおとすこともあるという。このような時は、下すか、吐くかした後に、梅肉エキスを平素より多量にオブラートに包み服用すると良い。
嫁にも食わせるなということは、いろいろな意味あいが含まれていると思う。可愛いい嫁ゆえに、もし食べてあたって苦しませてはならない。反面、美味しいものばかり食わせると口がおごる、それが生活上であらゆる面で浪費につながるという事ではなかろうか。惜しんで食べさせないわけではない。美しい花にはトゲがある、美味しいもの食って油断するなとの諺があるが、家を守り台所をあずかる一家の浮沈をになう責任者としての譬(たと)えではなかろうか。またあまりの美味ゆえ、嫁に食べさすのも惜しいということであろうか。

サバについての結論
昭和四〇年代に入り所得倍増だ高度成長だと景気は良かったが、サバは完全に勝本の海から姿を消したのである。さて原因はといえば、気象、潮流、乱獲等いろいろいわれている。だが、ここ数年、僅かではあるがサバの姿を見るようになった。しかし例え昔のようにサバ漁があったとしても、ニュース等で伝えられているように太平洋側で獲れすぎ値は安くその大半を肥料にしている現状では、漁家の台所を潤すことは大変むずかしいように思われる。
いずれにせよ、サバ漁は難しい問題をたくさんかかえているのである。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社