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勝本漁業史 一四、各任意組合の結成①

一四、各任意組合の結成①

1、底繩研究組合

底繩研究組合
昭和三一年頃の勝本におけるブリ釣り漁は、沖の曾根(七里ヶ曾根)を主漁場とする焼玉発動機船が対馬近海まで出漁しているという状況であった。これに対し平曾根・ナンカケ・島のうしろ等の地まわりで操業するチャッカーモーター船を主体とする小型船は、速力においてもまた大きさにおいてもその性能は劣っていた。ことに曳繩においては速力の点で全く問題にならず、半分も漁獲がなかった。しかしその頃導入された底繩漁法は、この速力の遅い小型船にうってつけの漁法であった。
昭和三一年一二月地まわり底繩操業をしていた小型船々主が自分等の組合を結成しようと、仲折町熊本健一氏宅で集会を開いた。集まった船主二九名がいろいろと話し合った結果、この席で底繩研究組合を結成することになった。小型底繩船々主を会員とし、加入予定数を四〇名と見込んだ。会長に西村福太郎、副会長吉田嘉助、顧問に角谷武市、吉田梅太郎、松尾梅太郎の各氏を推薦し、東部・鹿の下東町・鹿の下仲・西町・田間・川尻町・正村町・仲折町にそれぞれ各一名の連絡員をおくことにした。また当日の協議決定事項のなかにこの研究組合員相互の義務として、「機械故障船がある場合は、最寄りの船二隻で安全な場所へ曳航投錨させ、後操業し帰港時に曳航する」ということが決まった。
自分一人だけよい漁をしようという個人主義的な考えはこの際捨ててみんなが漁をするようにしようということになった。そして各船の底繩重量を各人が知っておれば都合がよかろうということになり、各自が重量、ビシの重さ、ビシの数等を次々と発表した。青年部員はともかく、年配者の多い小型船々主が自分のとっておきの漁具の発表をするということは、一大決心を要することであったと思われる。
操業上の注意事項としては次のようなことではなかろうかとの結論を得た。
⑴魚にあわせる、すなわち「タッド」をさぐり当てることが大切であり、大勢で操業する場合各船の底繩の重量を知っておくことが大切である。
⑵同じ層を曳く場合は、速い方がよいと思われる。
⑶サメ・タイが掛かったらぐるぐるまわって釣りあげること。こうしなければワイヤーがいたむ。その他に小売解禁後の小売問題では団結して仲買人と交渉、あるいは別に販路を見つけるか。弱い立場の零細漁民の団結を誓いあって、底繩研究組合は誕生した。こうして不完全ながら釣漁民としては始めての任意組合ができたのである。
組合活動としては、漁協に対し小ブリの価格の向上をはかり、青年部の漁具漁法の展示会にも進んで協力し、組合長みずから研究発表を行なった。底繩についても最初は船具店に注文していたものを、ビシのイコミを共同で購入して自分で作製するようにした。
名実共に底繩組合が活動を始めたのは、昭和三七年三月一八日の総会後である。それまでは総会といっても名目だけで、役員会だけで済ませ、規約さえもできていなかった。この総会で規約を設定し、新役員として組合長に西村福太郎氏を再選し、副組合長小西繁喜・松尾久富、会計平田増雄の各氏を選出した。支部も六支部から九支部に増加し、ようやく任意組合としての条件を整えたのであった。
底繩組合結成当時のチャッカー船はディーゼル機関になり船型も次第に大きくなっていって、小型船でも沖の曾根まで楽に出漁できるようになった。漁法もサンマタグリやボンボン曳漁法が盛んになって、これ等の漁法におされ底繩漁法も次第に下火になってきた。この頃から五㌧以上の船はイカ運搬船組合を結成し、イカ漁に操業の主体を置くようになったので、五㌧未満のブリ釣船との間にはっきりと区分ができるようになった。
そんな具合でイカ運搬船組合、タイ一本釣組合に対しブリ釣組合設立の必要性が認められてきた。そういった状勢のため、昭和三九年六月、七年半にわたる底繩組合を解散し引き続きブリ釣組合設立準備委員会が発足した。

2、タイ一本釣組合

タイ一本釣組合
昭和三二年当時、勝本漁協においては高級魚であるマダイの水揚げが多く、〆(しめ)ダイとして集荷され、指定仲買商人の入札によって販売されるかまたは組合の出荷分として福岡方面に販売されていた。しかし、何分にも当時は魚の取扱い、わけても鮮度保持は悪く、せっかくの高級魚も価格においては非常に安価であった。例をとっていうならば当時の価格として一貫匁(三・七五㌔、この頃まではキロ秤(はかり)ではなかった)三六〇円という破格の安値であった。今日とは貨幣価値の相違があるにしても、それでも捨て値であるといっても過言ではない。当時漁協組合長で今は故人となられた立石福太郎氏のもとには魚価に対する漁民の苦情がたえなかったという。この様な状態の中で、立石組合長は価値ある高級魚をより高値に販売できないものかと、かねがね思索中であった。
五月下旬といえば、ムギワラダイの盛漁期でもあった。この頃漁協の荷捌所前に一隻の活魚運搬船第二一号住吉丸が訪れた。勝本にかなりのマダイの漁獲があることを知り、その買付交渉の為に来組したものである。取引の責任者は、今は故人となられた吉本金太郎氏(海産問屋吉本安男氏の実父)と親交のあった田中泰一氏であった(現在八一歳、淡路島に健在)。田中泰一氏は淡路島北淡町の人で、活魚養殖の専門業で本社を神戸市にもつ大日水産株式会社の壱岐地区出張員であった。現在勝本出張所長の田中忠男氏の実父である。
当時、勝本漁協には県より指導員として派遣された三谷氏が在任中でこの三者を交えて生ダイの取引交渉が進められた。大日水産側から最初の取引価格は、漁協の〆ダイ相場、一貫匁(三・七五㌔)当り二六〇円の二倍の価格で取引されることになり、役員会でもこれが承認され長期取引交渉は成立した。立石組合長やタイ釣業者の長年の願望がかなえられ非常に喜ばれたことはいうまでもない。
また時を前後して、タイ一本釣の先進地である大分県保戸島より勝本沖合のタイ一本釣のためきく丸(古田速人氏)、海生丸(三原福一氏)、重久丸(幾田春秋氏)、豊栄丸(大川阪市氏)、幾汐丸(長瀬藤十郎氏)、藤丸(日下藤松氏)の六隻が来島し、勝本を基地としてタイ一本釣漁業を営んだのである。
当時の勝本漁民のタイ一本釣の漁具、漁法に比較して保戸側が遙かにすぐれていた。特に生ダイの取扱い(空気抜きの針の使い方)については学ぶに充分な大先輩であった。個人的にこの保戸島船団に学んだ人々もあったが、ある日漁協青年部においては、部長(現漁業組合理事川村秀雄氏)を司会者として、保戸島船団の漁具漁法の導入のため、講習会を催した。講師には、きく丸の船長古田速人氏を招き、タイ一本釣、漁具漁法、シャビキ漁法、サンマたぐり漁具漁法について詳しく指導を受けた。この点勝本漁民にとっては大きな成果となり有意義な催しであった。毎年秋から冬にかけて、サンマの回遊と共にサンマたぐりのブリの盛漁期になるが、大分県保戸島船団の古田速人氏をはじめ同船団の芳情溢れる好意は忘れることはできない。同年一〇月、漁民の守護神を祀る金毘羅神社の新築、造営に当り、保戸島船団より海上安全大漁祈願のため大鈴が奉納された。
秋ダイの釣れはじめる頃となり、各町のタイ釣業者の中より代表者を選出して、魚価の問題や生ダイの取り扱いについて(特に注射針の使い方)検討され、生ダイに対する認識と技術の向上に努めた。当時を思えばその技術は誠に未熟そのもので、生ダイの歩止りは非常に悪く大日水産も時として取り引きを打ち切りたいと思ったことが何度もあったという。
しかし、タイ釣業者は一日一日と前途に明るい光明を見い出し生産向上に力を注ぎ漁具漁法並びに漁場に対する関心も極度に高まり、わけてもタイの生産に欠く事のできない餌用エビの問題は何をおいても深刻なもので、円滑な餌の入手は当面の大きな課題となった。個々の力ではどうにもならない所まできてしまったのである。
翌昭和三三年、年明けて漁民の間にはお互いの生産向上と福利増進を願いながら、一歩一歩と相互間の力の結集を呼びかけ、遂に、昭和三三年四月二四日、会場を東部青年会場(現新町公民館)に設け、初代組合長に中村松義氏、副組合長に今は故人となられた川村明氏を選出し、各支部より支部長を一名宛選出して、総員一八〇名の組合員をもってここに、勝本漁業協同組合の傘下にタイ一本釣組合と名付け、産声も高く誕生したのである。
なお、タイ一本釣組合設立に当り、左の規約を設定した。

鯛釣組合規約
第一章 総則
第一条 この組合は漁民の生産向上及び福利増進を計る為に親和団結し共同の力をもって総ての事に当る。
第二条 この組合をタイ釣組合と称し本部を組合長宅に置く。
第三条 この組合はタイ一本釣漁民をもって組織する。
新加入申し込みは第一回目三月一日より定期総会前日迄、第二回目八月一日より臨時総会前日迄とし総会翌日より組合員に一応認める期間外の入会はできない。新加入費金額と徴収は総会にて決定する。
第二章 役員
第四条 この組合に次の役員を置く。
組合長一名 副組合長一名
各支部より支部長一名
第五条 役員の任期は一年とし、再選を妨げない。欠員のできた場合は第七条の選出方法による。
第六条 役員の手当ては総会の決議に依り支給する事ができ得る。
第七条 組合長及び副組合長の選出は各町よりの選考委員を一名選出し委員の決議による。支部長は各町より選出する。庶務会計は組合長の推選による。役員改選は従来の通りだが任意の総代のみを漁協の期末総代会後交替する。
第八条 役員の任務を概ね次の通り決める。
一、組合長はこの組合を代表し会務を総理する。
一、副組合長は組合長を補佐し組合長事故ある時は之を代理する。
一、支部長は組合長及び副組合長を補佐し会務を審議しこれが運営を促進する。
一、庶務会計はこの組合の庶務会計を司どる。
第三章 会議
第九条 この組合の会議を次の通り決める。
総会、役員会
第十条 総会は組合員をもって構成し三月末日開催する。但し役員会で必要と認めた時及び組合員多数の要望があった時は臨時に開催することができる。
第十一条 役員会は役員をもって構成する。
第十二条 総会の議長は共の都度選出し総会は組合員の三分の一以上の出席をもって成立する。
第十三条 役員会の議長は組合長が之を行い役員の三分の二以上の出席をもって成立する。
第十四条 議事は過半数で決める。但し賛否同数の時は議長が之を決める。
第四章 庶務 会計
第十五条 この組合の経費は会費及びその他をもってあてる。
第十六条 この組合の会計年度は四月一日より翌年三月末迄とする。
第十七条 この組合に左の帳簿を備える。
一、役員及び組合員名簿、議事録、金銭出納簿
第十八条 組合員の入会及び退会は各人の自由意志による。
第十九条 この規約は総会の決議を受けなければ変更する事ができない。
第二十条 この規約は昭和三十三年四月二十四日より施行する。
以上

決議事項
一、会費は一ケ年間に組合員一人に対し五百円とする。再度入会者といえども会費は徴収するものとする。
退会者に対する会費の払いもどしはしない。
一、当組合員のみに餌用の海老は配給するものとする。
一、本部役員と支部長の兼任の件については昭和五十年度の定期総会において承認決定する。

餌用エビ
タイ一本釣組合最大の課題は餌用のエビの入手である。中村松義組合長を責任者として親組合から同行理事として長島利男氏がエビ生産地である佐賀県の波多津漁業協同組合に出向き、現地責任者久保茂俊氏との間に無事取り引き契約が成立した。
翌年(昭和三四年一〇月二〇日)佐賀県の仮屋漁業協同組合とも取り引き契約が成立した。
昭和三五年一〇月には、長崎県松浦漁協滑栄(なめりばえ)海老曳組合とも取り引き契約が成立した。
年毎に上昇するタイの生産に支障をきたす事もなく着実な歩みは進んで行った。
その後エビ取り引き産地としては、佐賀県の高串、長崎県の御厨(みくりや)、近くは川棚漁協等あるが、松浦漁協滑栄との取り引きは年月も長く、取り引き高も多く縁の深いものがある。

漁場調査
組織活動が活発になるにつれて、組合員は漁場の拡大を願った。県水産試験場の指導船による対馬海峡の漁場調査は、以前より漁民の心からの願いであった。
勝本漁協においては組合長はじめ、役員諸氏は積極的に県当局に実情を訴え、早期実施を懇請した。そのかいあって昭和三四年、県水産試験場より鶴丸が派遣された。親組合からは原田熊太郎氏、タイ一本釣組合から川村明、大野軍三の両氏が便乗した。鶴丸の近代化された装備で詳細な調査が行われ、大きな成果を得ることができた。
戦前の和船(櫓押し舟)時代に、それまで知られていない良い漁場に流れつき、満船の漁獲をするできごとがあった。この魚礁の発見によりその年は、今までにないよい正月を迎えることができたという。その後誰いうとなく、この魚礁を正月曾根と呼ぶようになった。
ところが戦後その魚礁の正確な位置が判明せず、単なる古老の言伝えとして、幻の漁場であるかのように取り沙汰(ざた)されていた。しかし幸いにもこの鶴丸の漁場調査によって、その幻の漁場は若宮灯台よりノース八度、一七㍄の地点にあることが判明した。現在のプラスチック製の快速船ならば一時間で行かれる所であるが、戦前の櫓押し船で、この地点まで行くことは容易でなかったことが推察できる。
しかし、この漁場も二〇年後の現在では乱獲、密漁などにより資源が乏しくなっている。わずかに勝本のレンコ釣船が時期的に操業しているくらいである。

沈船魚礁の設置
昭和三五年タイ一本釣組合では、関係当局の勧める魚礁設置に取組んだ。当時各地区の浜辺(現在の海岸道路はなく、ゆるやかな傾斜のついた浜)には老朽した廃船があちこちに見受けられた。
タイ一本釣組合では、まずこれに着眼し、この廃船の所有者に譲り受けの交渉をした。ところが所有者の中には、長年お世話になった船玉様を海底に沈めることは好(この)まぬと断られることも何回かあった。しかし漁場拡大のため誠意をもって交渉した結果、大半は協力と理解を得ることができた。各支部に一隻宛という割当てにより、作業に取り組むところまでこぎつけた。
割り当てられた廃船は、組合員の手によって山から伐採された松の木がゆわえられた。また沖合の所定の位置まで曳航する際、途中で沈まぬように両舷にドラム缶が何個も取り付けられた。この作業は思いのほか困難をきわめた。海水のひどく入るものには、浸入止め(アカ止め)をしなければならない。また沈船の際に手間がかからぬように一定量の石を積み込んだりして作業は進められた。廃船の進水式も、かなり素人には手間どった。しかし事故もなく、全船無事に進水できた。
沈船は、予め決められた場所に、各支部から曳航される。目的地に到着すると責任者の指示に従い、栓を抜く人、ドラム缶を切り放つ人など、その瞬時をあらそう決死的作業であった。苦労を重ねたが、願い通りに沈船作業は大成功し、この瞬間、組合員一同は大声で万歳を叫んだ。この作業の記念写真が、現製氷課長である斉藤実氏の手によって撮影され四〇枚程が現存している。当時若々しく元気で作業に取り組んだ人々の中には、今は故人となった人もあり、悲喜こもごも、感無量のものがある。

中間漁区、以東底引反対運動
昭和三六年、この年は対馬海峡に漁場をもつ沿岸漁民、わけても底魚釣りを専業とするタイ一本釣業者に取ってはこの上もなく脅威にさらされた年であった。それは勝本漁民が、年中生活の糧を得ている大事な漁場を、以東底引の漁場として法案化されようとしたことである。漁民としては何んとしてもこの立法化を阻止せねばならない。
同年水産庁長官が壱岐に来島、盈科(えいか)小学校講堂において講演会が催された。勝本漁民としてはこの期を逸することなく行動を開始した。親組合からは村川幸平氏、タイ一本釣組合からは中村松義組合長を代表者として選出した。そして沿岸漁業わけても勝本地区の実情を訴え、何が何でもこの立法化を取り止めるよう、血の叫びとして訴えたのである。また同年、長崎県の佐藤知事が来島され、勝本中学校講堂において講演会が開かれた。直ちにタイ一本釣組合員は、以東底引絶体反対のプラカードを押し立て、雰細漁民救済の陳情行動を実施した。
幸いにして、勝本漁民の希求は報いられ、遂にこの法案は消滅したのである。

購買事業
タイ一本釣組合は、青年部に先駆けて良質格安の必要資材を入手するため、購買部を設置した。初代購買部長に現漁協理事土肥正量氏を推選しその業務の推進に当たった。土肥氏の苦労は並々ならぬものがあったが、組合員の得た恩恵は大なるものがあった。その後数年間は継続されたが、やがて講買部継続の必要性も薄らいだので廃止されることになった。

その後、星霜を重ね、組織の健全充実は進み大日水産との値立交渉、餌用エビの購入、役員選挙等、多くの難問題があった。しかし、これらをタイ釣組合員は協力と努力で一つ一つを堅実に乗り越えてきた。
ところが漁業情勢の推移は、最近非常に愛慮する時代となっている。それは昭和四六年をピークとして漁獲量が下降線をたどりつつあることである。また最近激しくなってきた大型底引船の密漁特に韓国底引船の侵害、加えて油繩、ごち網、沖建網等の密漁はいずれも年毎に巧妙になりつつある。このように、タイ一本釣漁業の将来に対する不安は決して否定できない事実である。
今後、タイ一本釣組合は勝本漁業協同組合と密接な連繋を保ちなが多くの難問題を解決して、一層の発展を願うものである。

タイ一本釣組合歴代組合長名
初代 中村松義 一〇代 中上次男
二代 川村明 一一代 辻敏一
三代 松岡竹之助 一二代 小川唯芳
四代 小西美治 一三代 下村繁木
五代 大野軍三 一四代 中村登
六代 下村繁木 一五代 中上光夫
七代 辻敏一 一六代 山口秀男
八代 布谷勇 一七代 西川一之
一九代 坂口博

3、ブリ一本釣組合

ブリ一本釣組合
昭和三九年頃勝本漁協には、イカ釣組合(するめイカ)の代表として「イカ運搬船組合」が、また釣船の代表として「タイ一本釣組合」が任意団体として、各方面に活動していた。
これに対するブリ釣船の団体としては、地まわり小型底繩船の集まりである底繩組合があった。そこで中型ブリ釣船をふくめた全ブリ釣船の組合を、結成しようという声が高まっていた。昭和三九年六月にブリ底繩組合を解散し、これを母体としてブリ一本釣組合設立準備委員会が設けられた。
委員会は夏イカ時季の時化の日を利用して、会合を重ねて組合設立の準備を進めた。委員会ではブリ一本釣組合の基本方針を規約草案の中に次のように取り入れた。
名称=ブリ一本釣組合。目的=ブリ釣の漁具と漁法の研究改良により、漁獲の向上に努めると共に組合員の福利増進と相互の親睦をはかる。
活動=⑴ブリ釣についての漁具及び漁法の研究会並びに体験発表会の開催。⑵特殊な漁具の共同購入。⑶同漁具作成用器具の共同利用。⑷漁況情報の迅速なる収集及び連絡。⑸其の他目的達成に必要なる事業。
組合員の資格=勝本漁協の組合員で主として、ブリ釣に従事する漁船の船主。役員=会長・一名、副会長・二名、書記・一名、会計・一名、監査・一名、顧問・一名(但し他の任意組合の役員はブリ釣組合の役員となる事はできない)
支部の構成 ①坂口以東②黒瀬琴平③鹿の下東④鹿の下仲⑤鹿の下西⑥田間⑦川尻⑧正村⑨仲折⑩馬場先
このような内容の規約草案ができ、役員の人選も終えて、九月にはブリ一本釣組合の設立準備が整った。
昭和三九年一〇月一日中央公民館において、ブリ一本釣組合設立総会が開催され、加入組合員の数は三〇〇名を数えた。初代会長には大久保厳、副会長川谷清吉・佐々木寅太郎、書記中上隆男、会計吉永明治、監査松尾久富の六名の本部役員が選任された。
ブリ一本釣組合の支部構成は最初一〇支部のうち八支部までが、西部にかたよっていた。この不均衡も町内毎に支部を増設し、湯ノ本支部をあわせて、一六支部となり、昭和四五年頃には名実共に、勝本漁協の全ブリ釣船を代表する団体に成長した。
役員の任期は二年一期で大久保二期、吉永、川村秀雄会長各一期を担当した。昭和四七年度の役員改選期には、会長の仕事があまりにも忙しく、その上責任が重くなったので後任会長が決まらなかった。そこであれこれ対策を研究した末、タイ釣組合が採用していた役員選出の支部持ち回り制を、ブリ釣組合も実施しようということになって、役員選出に関する規約を次の通り改正して実施することになった。
西部一地区(鹿の下東・仲・西町)、二地区(田間・川尻)、三地区(正村・仲折・馬場先)の三つに分け、毎年当番地区から本部役員五名、東部より一名選出することにした。任期も一年に短縮して最初の当番地区をきめた。くじ引きの結果一地区(鹿の下東・仲・西町)から始める事になって、川村義男会長が選出された。それ以来、持ち回り制が続けられて現在に至っている。
昭和三九年頃のブリ釣漁船は、一年の内の七、八割を七里ヶ曾根のブリ漁により生計をたてていた。この七里ヶ曾根には、毎晩のように、沖建網の密漁船や、旋網船団がやって来ては操業の機会を狙っていた。ブリ釣漁民にとってこの七里ヶ曾根を荒されてしまったら、それこそ生活に響く大問題であった。
昭和三九年一二月、天生丸旋網船団により、七里ヶ曾根のブリが大量に漁獲され、唐津魚市場に水揚げされるという「天生丸事件」がおこった。漁協では早速役員、総代、ブリ釣組合本部役員等で陳情団を構成した。すぐに佐賀県唐津魚市場構内にある天生水産事務所へ行き、七里ヶ曾根での旋網操業をやめてほしいとたのんだ。この時までは七里ヶ曾根の旋網に対しては、何の規則も設けられていなかった。この天生丸事件が口火となり、七里ヶ曾根を旋網操業禁止区域にしようと一連の陳情運動が展開された。
その陳情運動もただ勝本だけでなく、壱岐の全漁協長が名を連ねる全郡的な規模でおこなわれた。この陳情団の中に地元の関係業者の代表として、吉永ブリ釣組合長が常に参加していた。
一、昭和四〇年一月 県庁陳情
二、昭和四一年一月 県庁陳情
三、昭和四一年二月一〇日
水産庁調整課より七里ヶ曾根周辺における旋網操業の自粛措置を講ずるよう指令の通達。
四、昭和四三年九月県庁陳情
五、昭和四三年一一月玄海連合海区調整委員会へ陳情(福岡市)
(以下、「自衛監視」参照)
こうした度重なる努力が実を結び、玄海連合海区調整委員会指示と壱岐郡漁協長会への七里ヶ曾根ブリ飼付漁業権許可により、満足とまではいえないが、ほぼ初期の目的を達成した。
漁場問題でブリ一本釣組合に関係深いものに、カナギのたたき釣りがある。昭和四四年四月四日福岡県の船団が仲瀬戸沖に現われ、カナギたたき漁を始めた。地まわり操業中の漁船や、七里ヶ曾根に操業中のブリ釣船も操業を中止して現場へ急行した。そこで代表が当地ではカナギたたき漁は禁止しているからと話して帰ってもらった。しかし再度操業に来たのでまた全船集合し、話し合った結果、その後は姿を見せなくなった。
昭和四六年三月東部漁協のカナギたたき釣船団が、島のうしろや七里ヶ曾根までやってきた。何分(なにぶん)にも一九㌧級の船ばかりで、こちらの小型船では対抗できず、勝漁丸や壱漁丸を出してこれの阻止にあたった。それと平行して東部漁協の業者と話し合い、ようやく解決がついた。
新聞やニュースで有名になったこの東部カナギたたき釣船に対する五島での発砲事件もこの頃のことである。一つ間違えば勝本沖でも発砲事件が発生する可能性は充分にあった。
昭和四八年五月には郷ノ浦元居の船団がナンカケ、平曾根方面で力ナギたたき漁をはじめた。この頃になるとこの漁法が漁場を枯らす事が次第に明確になってきた。五月末総代(沖船頭)議長、ブリ釣組合で協議の結果、沖止めをして壱岐支庁に陳情した。また元居公民館には小西理事と沖船頭、ブリ釣組合三名同行し話し合った。こうした一連の事件の結果、地先漁業権の外側に、カナギたたき漁に対する制限区域の設定があり一応決着がついた。(資料編四の五項参照)
イルカ退治とブリ一本釣組合との関係もまた宿命のような関係にあった。イルカがくると一番先に被害を受けるのが、ブリ釣船の組合員である。組合員がどんな気持でイルカ退治に取り組んで来たのか、実際に生活をかけた関係者以外にはわかってもらえまい。
最初イルカ退治が具体化したのは、ブリ一本釣組合が設立されていなかった昭和三二年頃の事である。銛銃を購入し先達船組合と青年部の手で実施に移された。イルカ一頭捕獲する毎に町と組合から一万円の奨励金がでる事になっていたが、一年に一頭か二頭あがれば良い方であった。昭和四一年県の補助で、強力発音器を四〇本購入し、沖世話人、ブリ釣組合等でイルカ追い払い船団が結成された。
昭和四三年イルカ船団が結成され、吉永ブリ一本釣組合長が船団長となった。猟銃も十数丁購入し沖世話人、ブリ一本釣組合役員や、二人乗りの組合員等が猟銃の免許を受けて、更に銛、万力(まんりき)まで準備した。そして今度こそはと意気込んだもののほとんど成果なしといった結果に終わった。昭和四五年イルカ捕獲船団ができ、船団長に大久保竹雄副組合長が就任した。昭和四九年には谷本副組合長、昭和五〇年中原副組合長、昭和五一年小畑副組合長、昭和五二年斉藤副組合長、昭和五五年川谷組合長がそれぞれ就任した。この役員構成を見ても、ブリ一本釣組合とイルカ対策との密接な関連性がわかるのである。
昭和五一年四月一二日のことであった。二〇年にわたるイルカ退治の歴史の中ではじめて、勝本漁民がイルカの追い込みに成功した記念すべき日であったのである。この日追い込んだイルカの数はわずか一二頭でしかなかった。昭和五二年三月一四日には五七七頭を追い込みイルカ捕獲に成功したのであった。これまで対馬海峡のイルカは追い込みも捕獲もできないものと、半ばあきらめていた漁民に、力をあわせさえすれば、イルカは必ず捕獲できるという自信がついた。

昭和五三年二月二二日、この日追い込んだ一〇一〇頭のイルカが世界中の注目を集めることになった。腐敗を防ぐための血抜きをしたイルカの血が辰ノ島の周辺海域を真赤に染めたことで、残忍な光景として報道された。
そのうえ、どこの通信社が報道したのか、イルカを棍棒(こんぼう)でなぐり殺したと言う誤報までついて、ますます漁民の立場を不利にした。たとえば、イルカをなぐり殺せる棍棒は電柱のように大きなものでなければ効果はないはずである。当時はあまりの事に弁解する気持さえおきなかった。国内はもちろん、世界各国から抗議が殺到し、壱岐勝本の名前は一躍世界的に有名になってしまった。しかし世界の動物愛護団体からどんな非難を受けても、今後、勝本の漁民は、生活防衛の立場からイルカを排除するあらゆる手段を考えなければならない。これには生活がかかっているのだから。
ブリ釣組合の事業として漁具の共同購入がある。昭和四〇年には厳原満山(みつやま)釣(さんまたぐり)、昭和四三年からは大分県佐伯市鶴屋漁具店のブリ釣針(かね万、ボンボン釣)・ハグ釣針(しゃびき釣)、昭和四五年には大分県佐賀関町八潮工業のブリ釣針、佐賀関漁協購買部からメッキ釣(ボンボンたぐり釣)、東京の出雲ゴムより潜行板を購入した。昭和四八年には更に八潮工業より、たるめ釣針(夜釣、ヤズ、レンコ釣)を、追加購入した。昭和四九年には徳島県鳴門市、柏口商店との取引を開始、ブリ釣針、たるめ、ブリ掛釣、満山釣にかわってサンマたぐりの釣針まで同商店と取引するようになった。
この釣針、潜行板等は見本を送り製品化したものであった。昭和五〇年ボンボン(たこ)を購入したが、ビニールがうすかったので一回で取り扱いを中止した。昭和五一年より柏口商店に、サンマたぐり、ゴムエバの頭の取り扱いを始めた。船具では昭和四二年に極洋という会社がパラアンカーの宣伝にきて、聖母神社で説明会を開いた。このパラアンカーは「赤白」の名で親しまれたものである。予備のパラアンカーは昭和五〇年頃まで残っておったようであった。
サンマたぐりの餌となる、生サンマの入手はサンマの良し悪しが直接漁に影響するので、サンマ買いは漁師のおかみさんにとっては生活をかけての大仕事なのである。このサンマの共同購入については、歴代の役員が対策を考え研究してきたが、いまでも解決できない問題である。
昭和四五年八幡の一業者と契約を結び、後(あと)サザの共同購入をはじめた。しかし鮮度が悪いのと、注文が非常に少なく業者の商売が成り立たなくなって中止する外はなかった。冷凍サンマについては昭和四〇年より現在まで続いて取り扱ってはいるが、あくまで生サンマがない時の予備的な存在である。
昭和四八年には生サンマの不漁で冷凍サンマが使用された。福岡魚市場より漁協販売課を通じ六回にわたり、八三五箱(五五本入)を購入した。それを組合のトラックを借り支部長の奥さん等を通して、組合員に配布してもらった。サンマがほしいので組合加入者がふえた事実は、いかにこの年の冷凍サンマが役立ったかを物語っている。
ブリの鮮度保持、ブリの受取方法、荷さばきについては漁協販売課と一緒に研究をしてきた。特に秋の夜釣ブリの荷さばきは一番やっかいな問題をかかえている。一隻一晩で一〇〇貫(三七五㌔)二〇〇貫ぐらいの水揚げは別に珍しくなかった。こんな大量のブリが、どっと組合に持ち込まれるので順番待ちの列は長々と続き待ち時間も大変であった。
しかし一番問題になるのが折角水(みず)氷(ごおり)をして来たのに、待ち時間で鮮度が悪くなる点であった。又受取るために秤をふやし急いで受取っても人夫がおらず、今度は地面で待機という事になりいずれにしても鮮度の低下はさけられなかった。こんな具合であったので魚価は「芋より安く」買いたたかれていた。第二集荷所にコンクリートで水氷のための水槽もできた。機帆船をチャーターしてバラ積みもしたし、漁船に増(ま)し氷(ごおり)を渡し出漁前に受取った事もあった。昭和四五年には人夫不足のため箱受取りを実施したが、大箱の中に小ブリを入れる不心得者がいて中止になった。
ブリ一本釣組合では、こんな混雑を少しでも緩和しようと漁協との相談の上、漁船による、ブリ運搬の昼揚げをしようということになった。大体運搬するには一日漁を休まねばならない。夜釣の盛漁期に一晩漁を休む事はとうていできる相談ではなかった。そこで唐津魚市場と交渉して、値段を先取りで決め一〇時頃までの昼揚げをすることになった。
このため運搬する船が多くなり、組合の混雑も幾分緩和され、鮮度も向上し全体的に魚価が良くなるという好結果がうみだされた。正月ブリの大小区分受取り、生ブリ、きずブリまでの鮮度による選別受取り等も販売課に全面的に協力し、魚価の向上に努めてきた。
昭和四八年には七里ヶ曾根漁場で三隻の漁船で小規模な、ブリ飼付漁が行われていた。成績もまあまあという漁ぶりであった。委員長会に対し漁協から度々増隻の要請があったが、時期が秋のブリ夜釣と重なるためブリ釣組合代表委員は終始反対の立場をとってきた。しかしブリ釣組合では試験操業をしてその結果を見ようという事になり、一〇月一四日祭り沖止めを利用して、増隻試験操業を実施することとなった。この試験操業には沖船頭と委員長会が参加することになっていたが一〇月一四日は天候の都合で実施できなかった。そこで一〇月二九日若宮祭り当日五隻増船し試験操業を実施した。ところが漁獲は予想を上まわり結果は上々の成績であった。しかしこの試験操業の結果が、翌年大々的にブリ飼付事業を推進し、大きな欠損を招く原因ともなった。
昭和四一年漁協役員改選には、ブリ一本釣組合の前身ともいうべき元底繩組合長佐々木福太郎氏を理事候補に、昭和四五年には前吉永組合長、昭和四九年には前川村組合長を監事候補に推し当選させたのであった。
昭和四七年から任意団体に漁協総代が割当てられ、ブリ釣組合から組合長と副組合長の二名が組合を代表し、総代として総代会に発言権をもつことになった。
この改革の結果総代会や委員長会(総代会正副議長・総代各部門の正副委員長・各任意団体長で構成)を通じ組合に対し、ブリ一本釣組合の意見を進言できるようになった。
昭和四一年頃勝本にも沖建網が導入されたので、沖建網と地まわりブリ釣船やイカ釣船との漁場調整のため磯建網管理委員会が設けられた。この委員会にブリ釣組合からも川谷副組合長が委員として参加、ブリ釣、地回りイカ釣船の代表として意見を主張した。
昭和五〇年には県の助成によりクラゲ魚礁が二統設置されることとなり、ブリ釣組合が投入を受け持った。昭和五三年には新漁場開拓のため、町、漁協の助成を受け対馬周辺のシビ曳繩漁法の試験操業を実施して、この漁法の採算性を実証した。
このようにブリ一本釣組合は湯ノ本を併わせた全小型船の代表として、燭光問題・漁場問題等の調整に大きな役割を果たしてきたのである。
年度 組合長名 選出区
昭和三九~ 大久保厳 一般
昭和四二年 〃
昭和四三年 吉永明治 一般
昭和四四年 〃
昭和四五年 川村秀雄 一般
昭和四六年 〃
昭和四七年 川村義男 一地区
昭和四八年 原田賀一 二地区
昭和四九年 斉藤操 三地区
昭和五〇年 松尾義光 一地区
昭和五一年 川村新 二地区
昭和五二年 斉藤英二 三地区
昭和五三年 松尾久喜 一地区
昭和五四年 大久保鉄夫 二地区
昭和五五年 川谷武市 三地区
地区区分 一地区(鹿の下東・仲・西町)
二地区(田間・川尻町)
三地区(正村・仲折・馬場先町)




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社