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勝本漁業史 一四、各任意組合の結成②

一四、各任意組合の結成②

4、カレイ釣組合

カレイ釣組合
昭和五一年六月一日のことであった。箱崎、東部漁協所属の船団数十隻が、カナギ生がけ漁法で「地(じ)のへり」の漁場へやってきた。いうまでもなく自分達の地先の漁場のカレイを全滅させた後のことである。このカナギ生がけを大々的にやられると、漁場は荒廃する。
この事態をなんとかくいとめようと、カレイ釣業者二五名が漁協にあつまり、一緒に対策を練ったのである。この会合の中で立石清次郎・中原仁一郎の両氏等がカレイ釣組合を結成しようと提案し、全員が賛同し、結成会をふくや荘でもつこととなった。協議した結果、こんな漁法を野放しにしておいたら、漁場の荒廃、資源の枯渇は目に見えている。
漁場を守るためには、たとえカナギ生がけ漁法が禁止漁法でなくても、実力行使で操業を防ぎ、これが規制の措置は後で作ってもらったら良かろう。漁場が枯れてから、保護規制ができても後の祭りだという結論になった。幸い両船団とは話し合いで解決でき、実力行使という最悪の事態にはならなかった。
改めてカレイ釣組合結成が提案され、全員一致でカレイ釣組合を結成することとなった。会長に坂本亀雄氏、副会長に小畑敏治氏を選出し、後日各地区から連絡員を出すことにし、組合設立の手続きは、会長、副会長に一任した。
〈カレイ釣会会則〉
一、目的 この会は会員相互の親睦と福利増進を図り漁法の研究と魚価の向上に努め生産の増強を目的とする。
二、この会は目的を達成するために次の活動を行う。
⑴カレイ釣りについての漁具漁法の研究並びに体験発表。
⑵値たて委員を選出して値たてに参加する。
⑶その他この会の目的達成に必要な事業をなす。
三、この会の会員は勝本漁協の組合員でカレイ釣りをする船主とする。
四、この会の会員は年間二百円の会費を納める事。
五、本会の加入脱退はその都度役員会で決める。
六、この会の役員は次の通りである。
1会長一名 2副会長一名 3書記会計一名 4支部長各支部一名
七、会長副会長書記会計は支部長の互選とする。
八、役員の任期は六月一日より翌々年五月三十一日までの二ケ年とする。
九、この会に左の支部を置く。
1塩谷2赤滝3鹿東4鹿仲5鹿西6田間7川尻8正村9仲折10馬場先
十、年度末に会員の親睦会を行う。
十一、この会に定めのない事項については会長が之を決める。
二、カレイ釣組合の活動
昭和五一年六月一日結成の翌日から活動をはじめた。
1、六月二日それまでタイの値たてに便乗しておこなわれていたが、カレイ値たてもカレイ一本だてにしぼってすることにした。
2、カレイの魚価がタイの七~八がけという従来の一方的な算出法や、他地区との価格差解消を値たてのたびに要望した。
3、昭和五二年一月福岡市場、玄海活魚と販売について話し合い。
4、昭和五四年一月志々岐船団と交渉。
イ、一月七日志々岐船団に対する対策を漁協側と協議する。
口、一月八日坂本会長漁場で志々岐船団に話し合いを要望、同船団も承知したので、漁協に待っていたが船団入港せず。
ハ、一月一三日湯ノ本において志々岐船団と話し合い。
その他生餌のあっせんなどをして組合員のために活動している。

カレイ釣漁法
当地におけるカレイ釣りの歴史は比較的新しい。本格的にカレイ釣がはじまったのは、昭和三〇年代の前半であった。それまではヤズ釣のおびきに時折カレイが釣れるので、一隻か二隻カレイ釣りを行なっていた程度である。
カレイ釣りが盛んになったのは、潜行板曳ぎとアジの生掛漁法が導入されてからである。やがて操業船がふえ、カレイの魚価は活魚として受け取るようになり、生鯛の七掛八掛という高値がするようになったためである。又この漁期がブリ釣とイカ釣の端境期(はざかいき)に当たっているのも魅力である。漁法としては前記の他に、イワシ、イカの生掛がある。
⑴漁期四月初め潜行板こぎ、一週間ぐらいおくれてアジ生掛がはじまる。五月二〇日頃よりイカ生掛がはじまり、だいたい五月一ぱいで春の漁期が終わる。冬の漁期は一二月頃で潜行板こぎ、アジ、イワシの生掛。
⑵アジ生掛
漁具と仕掛(図1)重りは四角錐型の手打(鉛)で重さは個人差があり、二〇匁から三〇匁ぐらいで、潮流の強さで調整する。
重りとサルカンまでは二〇㌢か三〇㌢ぐらい、テグスは七―八号、枝の長さは一・三㍍から一・五㍍ぐらい。上釣はアジ型の一〇―一一号、下釣は丸角一〇号の二本。ビシヨマ(ガイガイ)は一二号が多い。
餌アジの掛け方(図2)アジは一二㌢一三㌢ぐらいのものが良い。図のように上釣は、アジのはなのあなにかけ、下釣は背中か腹にかける。
⑶潜行板漁具漁法
潜行板の漁具は個人差があるが、大体平均的なものを図解してみた。
漁法も山当てにより又海底の地形に合わせてカレイの好漁場を操業する。
初代 会長 坂本亀雄 昭和五一―五三年
二代 会長 大久保嘉定 昭和五四―五五年

5、捲落(まきおとし)組合

捲落組合の設立
本組合は昭和四一年七月小畑清(新生丸)組合長のもと三船団三六隻が参加して設立された。これを構成する船団は次のとおりである。
〇坂口船団 幸徳丸、剛栄丸、浜吉丸、小川金毘羅丸、すなどり丸、福寿丸、福吉丸、下条福漁丸、聖祐丸、小松金毘羅丸、おもや神幸丸
〇鹿の下船団 松栄丸、中原金毘羅丸、小亀金毘羅丸、原徳金毘羅丸、中上福漁丸、香椎金毘羅丸、末吉丸、神祐丸、神恵丸、宮地丸、中克金毘羅丸、新生丸、若蛭子丸、富士丸、海祐丸
〇正村船団 平兵金毘羅丸、海幸丸、日の出金毘羅丸、中原金毘羅丸、篠勝金比羅丸、篠忠金毘羅丸、聖正丸、天理丸、安全丸、㊁金毘羅丸

〈捲落組合規約〉
第一条 名称 本組合を捲落組合と称し同業船を以って組織する。
第二条 (第一項)目的 本組合は勝本漁協に協力して組合活動を促進する。(第二項)本組合は各船相互の親睦を図り、漁業技術交流、海難予防、捲落漁業の合理化、漁家経済の向上に寄与することを目的とする。
第三条 この組合の運営費は各船の出資金及び親組合よりの補助金を以てこれにあてる。
第四条 役員
組合長一名 副組合長二名 書記一名 会計一名 地区代表役員若干名
第五条 役員の任務、第六条役員の任期、第七条会議、第八条決定事項の通達、第九条規約の変更は省略。
第十条 この規約は昭和四十一年九月十日から実施する。
第十一条 (会費)会費は年間一隻当り、三百円とする。

捲落漁業の導入
当地での捲落漁業は、漁船の大型化がもたらした漁法である。
昭和二八、九年頃、抄網(すくいあみ)漁のために発電機が各船に装備されるようになった。そのため集魚灯の光力が強くなり、特に二番イカの漁獲が飛躍的に多くなった。この結果細々と博多唐津運搬を行なっていたこれまでの船では小さくなり、次第に船型も大きくなってきたのである。五㌧以下の小型船も年毎に大型化していった昭和三八年頃には、一五㌧船もできるようになった。そのため二番イカシーズンである九月、四月のイカ取り用に建造した漁船では、五月―八月の夏イカ漁には経費がかさみ採算があわぬようになってきた。そこでこの五月―八月のつなぎ漁法として取入れられたのが捲落である。昭和三六年漁協では、漁船の分散と新漁法習得のため、県水産試験場主催の南支那海方面一本釣(捲落)、脇岬漁協遠洋一本釣(捲落)船に、実習生として熊本亀太郎氏、川崎栄氏の両名を実習生として派遣した。昭和三二年頃から盛んになった捲落操業は、昭和四〇年頃には遠く玄界灘まで沈船を探して操業するようになった。特に未発見の沈船に当たると、箱や氷が足りないぐらいの漁があった。
昭和四三年頃になると、この五月―八月の時期を日本海の大和堆(やまとたい)を中心とする二番イカ漁に切替えようとする人達が現れた。いわゆる特殊船(二〇㌧たらず)を建造し、県外の金沢、新潟、山形あたりまで出漁していった。そして漁閑期のつなぎどころか、年間での盛漁期に仕立てあげた。捲落組合当初参加船三六隻の中、二四人の船主が特殊船をつくったことを考えると、この捲落組合が常に最新の設備を装備して漁具、漁法、漁場の開発に取り組んでいたことがわかる。現在では県外出漁船団加入船は六〇隻にのぼっている。

捲落漁法
昔、捲落漁法は「石かぶし」といって、重りに石を使っていたそうである。周辺に天然の好漁場を持つ当地の漁民は、石かぶしをやると曾根が枯れるといってこれを非常に嫌っていた。
捲落漁で一番大事なことは、漁場の選定である。投錨場所のよしあしが漁獲を左右するのである。
七里ヶ曾根においての漁獲魚はタイ、イサキが主でその他アカバナ、ヒラス、アラ、黒魚など、また沈船ではアラ、ダルマが殆どであった。
漁具はおおよそ次の通りである。
昭和三九年、四〇年に捲落業者と沖責任者で話し合った操業協定書があるので、次に紹介しておく。
捲落操業に対しての規定
昭和四〇年五月二九日
東西冲責任者、捲落操業者
ブリ、タイ釣組合代表者
捲落操業協議内容
⑴期間 自四月一日
至九月十日(下瀬は九月末日まで)
ただし期間前に薄(うす)香(か)船(ぶね)が捲落操業にきた場合はその時点より操業を許可する。
また期間内に夜釣、飼付等集団操業をする場合は禁ずる。他地区はその限りではない。
⑵禁止区域 七里ヶ曾根上の瀬、赤瀬割、十八立、浅海、平曾根、ナンカケ
⑶隻数の制限はしない。
ただし問題点有りたる場合は責任者にて協議する。(捲落船と他の操業船との問題の件)
⑷旗を立てた場合
捲落は特殊操業と認め、旗が立たない前出漁した場合、また前日より投錨し操業しておる場合は操業を認める。
ただし状況に依り帰港を要請する場合もある。
歷代捲落組合長名
初代 小畑清 二代 熊本平助 三代 吉田博和
四代 篠原徳男 五代 豊坂高 六代 佐々木信男
七代 中上次男

6、イカ運搬船組合

結成の動機
昭和二五、六年頃から、一~二隻の船が対馬近海でマメイカを取り、自分の船で福岡方面に運搬して売り捌いていた。その後、これにつづく船が徐々にふえてきた。
当時、五㌧以上の船は少なく、数隻をかぞえる程度であった。秋はブリの夜釣り、冬はブリ曳繩釣り、たぐり釣りが中心で、イカに対する関心はうすかった。
イカ取りといえばブリ釣りの帰りに、ヒノメ取りといって、灯もつけずに日没半時間ぐらいイカを取っていた。それが昭和二八―九年頃になって、豊富なイカ資源に人々が着眼し、三〇年以降には、イカ取りを専業とする船が次第に増加してきた。
また、イカ運搬も自分の漁獲物だけであったものが、イカ取りから帰港中の勝本船を対馬の黒島付近に待ち受けたり、凪の日は漁場を回り、操業中の船から買い取ったりして、福岡、唐津方面へ運搬する船も現れた。このような船の水揚げがあまりにも大きいので、五尋三尺(三㌧位)の小型船でもイカ運搬をするようになった。船が増加すれば、大漁、不漁の差も大きく、各船主の間では必然的に情報交換、海難事故時の相互扶助、漁具、漁法の開発、出荷調整等が云々され、組織の結成が叫ばれるようになった。
昭和三四年、故吉井俊市氏を初代組合長として、イカ運搬船組合を結成し発足したのである。当時の記録がないので発足の月日は定かではないが、その後の総会や、盛漁期等から考えると八月末か九月始め頃に結成総会が開催されたのではないだろうか。そして、早くも一二月には一、燭光とイカ、二、ノーバ(漁場)の取り方、などの研究発表がされている。昭和三六年の総会で、二代目組合長中村久尾氏へと引継がれることになった。

釣具と漁法
当時の釣具は改良ズッテ、バカスッテ(ブンゴ)を二、三丁入れて、ハジキを出すなどして一本ずつ取っていたのであるが(「イカ取りの項」参照)、最新漁具として連結が徐々に普及しはじめていた。その頃の連結取り漁法は、棒か竹を五〇㌢前後に切りその先に連結を五、六丁つけて釣るものであった(マメイカ取りの新漁法参照)。
年ごとに船型も大きくなり、イカ釣りの方法も、手捲車ができて、一度に大量のイカが取れるようになった。道糸(元よま)は巻ヨマかトト印の一〇〇号位で、連結を二五―三〇丁つける。重りは二五〇匁。車一台(釣糸は二本)に必ず電気トンボ(真鍮製で下部は鉛、電池は単一を二本入れる)一個をつけて使った。
乗組員の内、一人は底イカ取り専門に海底まで釣具を下し、イカが釣れなくても一晩中下げては上げるの連続で、海底にいるイカを上の方へ浮かして、他の乗組員が浮いたイカを取る。このような操業法をしていた。

七里ヶ曾根操業
秋イカの盛漁期はブリ夜釣りの盛漁期でもある。一〇月に入るとイカ漁場も七里ヶ曾根付近へと移り、入合漁場となるため、ブリ夜釣り操業上取り決められた諸規定に違反しないよう、沖船頭とイカ運搬船組合役員と協議し次のように決められた。
〈決定事項〉
ブリ夜釣期間中における七里ヶ曾根付近のイカ釣り操業について
一、赤白の旗が立った場合は全船沖止めとする。
二、赤旗のみの場合、イカ釣りは出漁できる。
イ、境界線は中岳重なりより以東。
ロ、境界線は以西二時間以上航行する事。
注、この境界線とは勝本港からである。
三、七里ヶ曾根操業の場合。
イ、曾根操業より転業する時は対馬方面へ半時間以上かわす事。
(航走)
ロ、操業中転業する場合は、責任者にブリの本数(釣れた数)を報告する事。
ハ、操業中止後、漁獲した魚は全部没収する。
ニ、イカ釣り専業の船も、責任者より注意があった場合は速やかにかわす事。

分け口の改正と統一
イカ釣り専業化にともない、設備投資も大きくなり今までの船の口数では、経営が困難となってきた。又、各船まちまちである船の口数を、統一すべきであるとの声に、役員は船主会を開いた。相談の結果、イカ運搬船組合として始めて最低口数を決めたのである。
一、特殊船、八尋以上、四五馬力以上。
三口二合
二、一級船、七尋以上、三〇馬力以上。
三口
三、二級船、七尋一尺、三〇馬力。
二口九合
四、三級船、六尋四尺九寸以下。
二口七合
注、一口とは、総水揚げから経費を引き、残額を乗組員数に船の口を加えて割る、乗組員一人分を一口という。

ズラシ
ズラシとは水氷のイカをトロ箱一ぱいに入れたもので、船の「いけ間(ま)」に氷と海水を入れ、その中心に新鮮なイカを投入して鮮度を保つのである。卸売市場にはこの水氷方式を主体として水揚げしていた。この方法は水揚げ直前に、三八箱に水氷のイカを山盛りにしてあげるため、イカが押しつぶされて鮮度が落ちる、各船山盛りの仕方が同じでない等の欠点があった。イカが少ない時は、箱の下に氷を入れてこのイカを二〇本ずつ数え込んで売っていた。
昭和三六年一二月一三日の臨時総会で、今までバライカ(水氷イカ)を三八箱に山盛りにして陸揚げしていたのを、三五本入りにすることを決定、実施に移された。

アミ追いイカ
勝本漁民にとって、昭和三七年一月下旬から三月上旬にかけての大寒波の襲来は忘れられないできごとである。このときは長期にわたる寒波で水温が下り、魚は仮死状態でポカポカと海面に浮き、たまに出漁しても漁獲は皆無で生活は困窮した。春に予定していた浦部各青年会の旅行も、連合公民館の話し合いで中止となった。
しかし天は人を殺さずとか、寒波が過ぎ去るとアミ追いのイカが回遊して来た。連日日の出から日没まで操業し、イカの大漁で勝本は活気に満ちあふれた。アミ追いのイカが取れたのは戦後初めてのことであった。
昭和三七年八月より三八年二月末までのイカの水揚げを、イカ運搬船組合の記録にみると、
各市場水揚げ
福岡県魚市場 三、一八〇万円
福岡中央魚市場 一、九六〇万円
唐津中央魚市場 一、四五〇万円
唐津漁連魚市場 一、〇〇九万円
月別一一月―一二月末日(寒イカ)
福岡県魚市場 一、四七七万円
福岡中央魚市場 九六一万円
唐津中央魚市場 一、一三六万円
唐津漁連魚市場 八七三万円
となっている。このように水揚げも年々増加して漁協の年間水揚げ高の中でも、大きな役割りを占めるようになった。機関もディーゼル化し速力がアップして、この頃になると、盛んに福岡方面への昼揚げが行われるようになり、水揚げも一段とあがった。

積合せ
昭和三九年には、漁船の間で行われていた不漁の時の積合せの運賃が、船主会でイカは総水揚げの八分、魚は七分となり、対馬地域よりは一割以上(但し一割を原則とするも状況により、以上の分は役員で検討する)と決められた。このように一隻で福岡へ出荷できない時は、船主の間で話し合いがなされて、一番箱数の多い船が積合せて運搬するのである。もしその晩、他船が操業しても、これに相当する収入になるような運賃が決められたのである。

燭光問題と海賊
昭和四〇年、この年は集魚灯で明け集魚灯で暮れた。対馬海峡におけるイカ釣り操業も、県外船、対馬船団、島内船と年々増加して漁場は狭くなってくる。
それに加えて漁船の大型化、近代化は著しく、対馬船などの一九㌧級はいうにおよばず五〇㌧、一〇〇㌧級の船も数多く見られるようになってきた。
これに比べて勝本の船は、大型といっても一五㌧以上の船は一隻もおらず、せいぜい一五㌧前後の船が大型で、主として一〇㌧前後の船であった。これでは当然、たち打ちできない。なんとか県条例のソケット三個の線を守る事はできないかと、会を重ねること七回、臨時総会を開き統一を期した。ソケット三個、三〇〇〇燭光、この件は勝本だけが守るべき事ではない。壱岐、対馬近海で操業するイカ釣り漁船全船が守ってこそ、始めて安定した漁獲が得られると、海区調整委員、漁協の役員に出席を願い、今後、壱岐、対馬近海における集魚灯の違反取締り強化の陳情をした。
ところが、この頃光力で負ける勝本船は、当時いわれていた海賊(光力の強い船に接近してイカを釣る)をしてイカを釣るようになってきた。始めの頃は、なんとなく気がひけて海賊をする船も少なかったが、他の船が毎晩大漁して帰港するので、自然と各船が海賊をするようになり、対馬の大型船とのトラブルが再三起きたのであった。

鮮度の保持と向上
一方、勝本の沖建て二〇本入りのイカが、大消費地で好評を得て認められてきたのもこの頃からであった。発足当時から役員を先頭に、組合員、乗組員がひたすら鮮度保持に努力した結果といえよう。組合長や役員全員が東京、横浜、京阪神へ研修視察をして、勝本のイカの宣伝に努めた。各市場とも、勝本のイカならば、自信を持って売る事ができると好評を受けたので、尚一層の努力を心に誓いながら帰勝した。
釣る漁業から釣れた魚をいかに高値に売るか、今まで、釣るだけの漁民であったが、売る事も考えなければならない時代へと、移りつつあるようである。四一年度に入り一段と鮮度の向上が要求され、総会でこの件が長時間討議されている。漁協信用部も年々拡充されて、運搬船の仕切金も系統送金が実施にうつされた。

対馬の燭光制限と氷不足
漁船の急激な大型化と増加に対処するために、対馬のイカ釣り小型漁船が、自衛策として、対馬より二〇哩以内は発電機三㌔、ソケット三個以上を使用する漁船の操業を禁止する運動をおこし、対馬海区調整委員会指示として要請された。これは、日本海に面する海区で始めてイカ釣り漁業が規制された指示であり、のちに各県、各海区で、自衛のための規制を行う発端となったのである。その後対馬に寄港した勝本船で、数隻の船が燭光や発電機違反で取締りを受けている。
例年時期始めの氷は、各船ごとに瀬戸、厳原へ積みに行っていた。ところが、漁船の増加で氷が不足するようになり、漁協で氷積みの配船が行われるようになった。遠く唐津に行く船には若干の補償があった。第一回目は塩谷船団で、唐津へ氷積みに行き、薄謝として清酒五本が進呈されている。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

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