天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

勝本漁業史 一四、各任意組合の結成④

一四、各任意組合の結成④

特殊船組合発足
昭和四九年度、特殊船総会。本年度より前年度に決定された総会時期が、春に行われるようになった。本年は、四月八日(旧三月一五日)に行われた。二号議案で、誕生以来イカ釣組合内の一船団として所属していた特殊船が独立して、一任意組合を設立する事に決定したのである。
九月七日、燭光問題について、イカ釣組合役員と特殊船組合役員との話し合いがなされ、次のように決定して、プリントが各船主に配布されている。
〈昭和四九年九月九日、イカ釣操業燭光規制事項について〉
左記の件については、イカ釣組合役員並びに特殊船組合役員との協議の結果、次の通り規制されましたので、お知らせ致します。

一、壱岐沿岸より十哩以内に於いては、特殊船、小型船を問わず、ソケットは最多十二個までとする。
一、壱岐沿岸より十哩以上沖合より操業し、潮流もしくは風向き等で十哩以内に流れ込んだ場合に限り、燭光は現状のままで良い。
一、壱岐沿岸より十哩以上、沖合に操業する場合は、従来通り制限なしとする。
尚、壱岐沿岸より、十哩付近を操業する場合は、日没時を以って、地沖の判断に当る事とする。
以上の点につきましては、呉々も違反のなきよう協力方をお願い致します。
一〇月一二日、小型船との燭光問題で、沖世話人と話し合い。
一、勝本の島(しま)並(なら)びより三〇分以内では、全船ソケット三個とする。
但し右の決議事項は、本年の一〇月末日までとする。
燭光問題について、イカ釣組合役員は、特殊船、小型船の間にあって、両者が都合よく操業できるようにと、心の安まる暇もない苦労があったと思われる。
一〇月三一日、待望のイカ釣組合親睦バレーボール大会が開催され、早朝より夕方まで終始、なごやかに試合が行われて、優勝は本浦チーム、二位は、鹿ノ下第一チームであった。

イカ釣組合長選出問題
昭和五〇年一月九日、役員並びに各船団長が会合し、協議の決果組合長選出問題がようやく解決する事になった。
組合長選出方法の決議事項は次の通りである。
一、イカ釣組合を、三団体に分け、東より順々に組合長を選出する。
一、組合長の任期は従来通り二カ年とする。
一、副組合長は、二名とし、組合長を選出する団体を除く他の二団体より、各一名を出す。
一、各団体は、左記の船団を以って構成する。
東より
一、塩谷船団、本浦船団、坂口船団
一、鹿ノ下第一船団、第二船団
一、正村船団

不漁対策
秋、寒イカ漁の不漁に対し、イカ釣組合もこの後の不漁対策の一環として、一月二七日より三〇日まで、大分県の津久見(つくみ)、佐伯(さいき)、蒲江(かまえ)、佐賀関(さがのせき)の四漁協を視察した。内容は『すなどり』紙上に掲載したので省略する。秋、寒イカが年々減少しつつあり、夏イカ漁の開発に重点がおかれるようになってきたのも、この頃からである。

イルカ対策
昭和五〇年、イルカの回遊が多く、春イカ漁は大打撃を受けその対策が大きく叫ばれた。
五月一日長崎県よりイルカ対策船として、カジキ流網船天授丸が米勝、漁協の要請に応えてその夜の出漁を、全船沖止めにして協力した。灯(ひ)船(ぶね)四隻を雇船し、勝本港より一時間半沖合で投網、約三時間操業したがイルカは一頭もかからず、この方法は成功しなかった。

夏イカ燭光問題
一〇月五日、公認沖世話人より、赤イカ漁燭光問題について話し合いの申し込みがあった。協議の結果、赤イカ漁に限り、沿岸より一時間までソケット三個、一時間以上ソケット一二個に決定、秋、寒イカ漁は前年通りとして解決した。
一〇月一八日には、二回目のソフトボール大会が開催された。前年度大会の一位、二位が逆転して鹿ノ下第一船団が優勝、本浦船団が二位になった。
一〇月二三日、運賃が保冷車、鮮魚運搬船共に一〇〇円に決定した。

燭光問題
一二月一三日、専務、ブリ釣組合長、公認沖世話人、特殊船組合役員、イカ釣組合役員で、再び燭光問題の話し合いが行われた。
特殊船組合案のソケット二一個に対し、イカ釣組合が強く反対した。その後専務より一五個案で、期間を一二月二〇日より二月末日までと提示された。専務案のソケット一五個が承認されて、漁協より寒イカ時期燭光規制の件で、別紙にて各町内に回覧された。
これに対して、一二月一九日特殊船組合より、ソケット一五個は特殊船のみではないかとの異議申し立てがあった。そこで前回の決定事項は、イカ釣組合側も一五個で承認したものと答弁したが、聞き入れられない。特殊船側より各船団のアンケートを取って欲しいとの要望があった。それに応えて特殊船、イカ釣船、共にソケット一五個に決定、その旨を特殊船組合長に報告した。

イルカ追込み
五一年三月、和歌山県よりイルカ追い込みの専門家が来勝した。イルカ追い込み船団、公認沖世話人より協力方の要請があり、二九日、三〇日、イルカ追い込みに参加した。一日目は赤瀬沖でイルカを発見して、仲江近くまで追い込んだが、あと一歩のところで失敗した。二日目は各船団より三隻ずつ出して参加したが、午後三時に至っても、イルカを発見できずに全船帰港した。

五一年度総会
五一年度総会の第八号議案で、一厘金積立及び遭難救助の件が提出された。秋、寒イカ漁の不漁にともない、一厘金が著しく減少し運営が困難となってきた。今後の運営上、会費制を取り入れてはどうかと検討されて、一厘金積立と会費制の両立で運営、会費の金額は未定のまま承認された。
また、イカ漁の不況で、組合加入船の内でタイ一本釣組合に転向したいという希望船も見受けられる。イカ釣組合加入船には、餌エビの配給がもらえないために、イカ釣組合脱退の声が聞かれるようになり、その対策が検討されている。

むずかしい燭光問題
本年度は夏イカ漁(アカイカ)期間の燭光問題が、小型船と数多く話し合われた。六月一一日、ブリ釣、タイ釣の各正・副組合長、公認沖世話人、イカ釣組合役員で協議。区域、期間、燭光(ソケットの個数)等で討議されたが結論はでなかった。
七月二日、各任意組合、公認沖世話人出席し郷ノ浦、箱崎、東部の各漁協と、郡内燭光統一の話し合いを行なったが協力を得られなかった。そこでやむなく各地区で規定にしたがって操業することに決定し報告された。これにともない勝本のみの夏イカ釣操業に関する諸事項が協議されて決定した。
協議決定事項
一、夏イカ釣りと認める期間
七月より九月まで、但し九月中にイカ釣組合の活動シーズン(秋イカ漁)に入った時点で、両者が再度協議する。
一、哩数に関する事
約一〇哩以上ソケット六個(時間で約一時間三〇分以上)
右、同 以内ソケット三個とする。
一、違反船の件
右決定事項に違反した場合は、罰則として、その当日の水揚げ全額を没収する。その処分は公認沖世話人に一任する。

郡外出漁について
七月四日、沖ノ島沖などの郡外出漁について、夏イカ釣安全操業に関する協議がなされ、各船団、各船主の協力を要請された。
「各船団で、日和見する。沖流しの場合、悪天候時は、昼一二時より午後二時頃までにはかならず、海岸局無線に切換えて、交信すること。少数操業の時は、全船行動は共にすること。郡外入港船はかならず連絡すること」以上。このようにして、イカ釣組合の活動も年間を通じて行われるようになった。

その後の活動
七月一三日、夏イカ漁操業に関して、仙崎(せんざき)、特牛(こつとい)方面の視察が協議され、一四、一五日の二日間実施された。いろいろと問題はあったが、両漁協ともに好条件で話し合いがついて帰勝した。ところが翌日には特牛漁協より電話があり、入漁荷受の件は見あわせてくれとのことである。その理由として、山口県下各漁協より横ヤリが入り、できなくなったというのである。これで今後の夏イカ漁場としての期待も一変して皆無となった。その後、漁協より再度、交渉したが不成立に終わった。
八月一六日、九月一二日と、長崎方面の夏イカ漁について、情報の入手や、入漁の交渉が行われた。野母崎漁協の場合は、「組合通過料アラ水揚げの一分。箱は組合が入手する。その場合は、車一台分位の箱を取ってもらいたい。氷は今のところない」以上の通りであった。
九月一五日、前日より総代会正副議長、公認沖世話人、各任意組合が会合して、燭光問題が協議されたが、沖世話人の中間案で解決、意見の一致をみた。
決定事項
注、スルメイカが、地の方に取れるまで、
一、七哩以内は、ソケット数三個、
一、七里より、十理まで、 六個、
一、十哩より、十五理まで、十二個、
一、十五哩以上、解放、
昭和五一年一〇月一一日、ソフトボール大会が行われた。一位、坂口船団、二位、本浦船団の順である。
一〇月一二日、今まで出荷について、漁協、イカ釣組合、各船主が常に努力してきたことは、前に記したが、ここにその取り決め内容の一例を記す。
鮮度向上のため、箱立イカ受取時の選別(上品、下品)。
一、次品(上品の一割五分下げ)の対象。
1、氷が少ないもの
2、二日積品
3、二〇本入りの中に、二〇㌢に満たないものが入っている場合
4、古箱を使用した場合
5、入港して箱立したもの(港の内でイカを立てる)
6、名札(船名)を入れない場合は、一割下げ
一、箱立イ力の単価算出はプール計算とする。
一、三寸箱の使用については、徐々にかえていく。
一、鮮魚運搬船、保冷車運賃は、フェリー運賃等が、二五%から三〇%に値上げされた関係等もあり、一〇〇円だったのを今年は一五〇円に決定した。
一、箱数の報告は、午前六時三〇分~午前七時までとする。
なお、数取表を漁協に提出する。
このように共同出荷に対する、諸問題が毎年協議され、取決めが行われて、操業に、魚価の向上に、寄与しているのである。
一〇月二五日より四泊五日の日程で、高知、徳島両県の漁港視察が行われた。視察団の感想は次のとおりである。
「両県では、遠洋漁業と沿岸漁業に大別される。沿岸漁業は、年寄りが多くほとんどの船が五㌧未満で、一〇㌧型は少ないようであった。水産課の資料では、高知県の昭和四〇年より五一年までの、漁船数の動向は、約二倍ぐらいに増加して現在は、一万二一五隻となっている。高知大熊水産、徳島大水の話では、高知県は、ヤリイカは少ない。スルメイカも、漁期が短く、紀伊水道は、魚のかわりが早いようである。以上の次第で、不漁対策の漁場として、あまり適していないように感じられる」
一一月一日、保冷車、鮮魚運搬船の運賃が一二五円に決まり、一二月一日より実施されるよう決定した。運賃の値上げ毎に、時代の移り変りと物価の上昇が手に取るように伝わってくる。
イカ釣組合結成の、主目的である、海難事故救済件数を年度ごとに、左に表示する。

イカ運搬船組合歷代組合長名
昭和三四年~昭和三六年度 初代組合長 吉井俊一
昭和三七年度 二代組合長 中村久尾
昭和三八年~昭和三九年度 三代組合長 香椎二一郎
昭和四〇年度 四代組合長 熊本平助
昭和四一年~昭和四二年度 五代組合長 中上岩五郎
昭和四三年~昭和四六年度 六代組合長 豐坂高
昭和四七年~昭和四九年度 七代組合長 川村嘉昭
昭和五〇年度 八代組合長 豐坂高
昭和五一年度 九代組合長 川崎栄
昭和五二年度 一〇代組合長 中上信夫
昭和五三年度 一一代組合長 立石宣光
昭和五四年度 一二代組合長 山口豊和
昭和五五年度 一三代組合長 篠崎哲治

7、県外イカ釣船組合

特殊船の誕生
昭和四〇年代は、マメイカ漁の最もさかんな時期であった。それは前にも触れたように、漁法のいちじるしい進歩と漁船の大型化など、昭和初期のブリ飼付時代以上の設備投資によるものである。
当時、日本全国どこでもイカ資源は無尽蔵であると考えられていた。増え続ける漁獲量、他の物価とともにあがるイカの価格。十年一日で、魚価の低迷の続くブリとは対照的であり、ブリ漁とイカ漁とでは、その収入の差は大きくなるばかりであった。
長い年月、ブリ釣りを誇りとしてきた勝本漁民であったが、逐次イカ漁に転換せざるを得ない状況となってきたのである。このことは勝本に限ったことではなく、全国的な傾向で、他の漁に従事していた三〇―一〇〇㌧クラスの漁船が日本海のイカ漁に殺到したのである。
このような状況のもとに、勝本の中型漁船(五―一〇㌧)が同じ漁場で郡外船といっしょに操業してみると、集魚灯の違いは大きかった。せっかく集めたマメイカの群れも、近くに大きな集魚灯をたくさんつけた船がくると、強い光を求めてマメイカは大きい集魚灯のもとに移動していくありさまである。もはや手さばきや、不眠不休の努力では太刀打ちできない時代になったのである。
従来、運搬船組合では日和見をして安全操業につとめていた。しかし荒天時、勝本で沖止めしたようなときは必ずといっていいくらい、郡外船がイカを大漁して勝本漁協にも水揚げをするのであった。特に昭和四二年の正月すぎには、このような船が多かった。同じイカ漁をする漁民として、こんなくやしいことはない、なんとかならないだろうか、大型船を造り自由に操業したいと、考える人達があらわれてきた。
このような人達が、会合などのあるたびに大型船によるイカ漁の自由操業を訴えた。しかし、このような少数意見に耳をかたむける人は少なく、日和見による安全操業という意見が強く、長い伝統の壁を破るのはむずかしいことであった。しかしその熱意は昭和四二年二月一日の総代会において、一五㌧以上を特殊船制度として認められた。続いて五月の漁協総会で一部条件付きであったが承認された(このときは該当船なし)。
その後一五㌧以上の船を所有すれば、イカ運搬船組合の一員であっても、定期沖止め以外は自由に出漁でき、特殊な船として特殊船の名称で呼ぶことになった。昭和四三年勝本の特殊船第一号は末吉丸(末松真人氏)、第二号は日の出金毘羅丸(中上岩五郎氏)第三号は清勝丸(島本栄氏)であった。

初の県外出漁(カミ行き)
三隻の特殊船は、冬期のイカ漁、夏から秋は捲落し操業(沈船を探して)をし成績もよく、水揚げも増大した。このようなことから次第に、特殊船が増えたのである。ところが冬期のイカ漁はよいが、夏期にどうするかが問題になった。捲落し漁をするには多くの船に見合うだけの沈船があるはずもなく、他の漁に切りかえる必要があった。
この頃対馬では大型船は夏期には山陰方面に出漁し、境港(さかいみなと)や能登半島付近の漁場でよいイカ漁をしている、ということが伝えられた。昭和四五年四月、開発者にとって県外出漁を試みるには、入漁交渉や手続きなどしなければならない。またイカ漁の模様(回遊経路や水揚げ状況など)も研究すべく漁協にたずねてみたが、参考になる県外資料はつかんでなかった。そこで漁協と特殊船の代表者が壱岐支庁にでかけ、水産課の指導を受けたのである。
まず漁協の取り引き先である石川県金沢市のウロコ水産に電話で意図を伝え依頼したり、県イカ釣り協議会の住江会長をたずね、出漁許可をお願いしたのであるが県外入漁決定後のため、容易でないと県も難色をしめした。そこで再度石川県金沢に連絡し特殊船の代表数名が交渉にでかけた。県の水産課や地元の大野港、内灘漁協に誠意をもって入漁を懇願したところ、四五年度には試験操業の名目で大野港入港が認められたのである。交渉にあたった代表者は「ウロコ水産(東川真佐夫社長以下)が勝本の代表につくしてくれた好意は一生忘れられない。またこれらの交渉で強く感じたことは親組合のありがたさである。漁協というバックがあるから、むずかしい入漁の交渉も成立したのだ」と力説していた。また経費の方は一部は漁協の助成もあったが、大体出漁予定船一〇隻の自費であった。
昭和四五年六月四日、長期の出漁に備えて船体・機関の入念な整備や諸種の準備も終わり、母港を離れることになった。それぞれの大漁旗をたて、見送り人も大勢つめかけた。数か月におよぶ県外出漁ははじめてのことである。当時の船頭に心境を聞くと「勝本を遠く離れ、知らないところに働きに行くといった淋しさ、果して良い漁をして帰ることができるだろうか、という不安感。是が非でも成功させねばならないという使命感。このような思いで万感こもごも、なんともいうにいわれぬ複雑な気持でした」と話してくれた。盛大な見送りの勝本港をあとに、二昼夜走りずめで金沢沖に着き、操業したところ各船共々よい漁をすることができ、六月八日金沢大野港に入港した。
当時金沢港は県漁連荷捌所建設中で、港の出入り及び漁業資材の積載には炎天下、筆舌につくせぬ苦労が多かったのである。しかし金沢港での約二か月間、石川県庁・ウロコ水産・内灘漁協・大野町の皆さんから寄せられた厚情は、先駆者たちの胸中に深くきざまれている。
第一回(昭和四五年度)出漁船は次の一〇隻であった。(東部から順に)長栄丸・幸徳丸・聖祐丸・福宝丸・福寿丸・省栄丸・末吉丸・清勝丸・日の出金毘羅丸・安全丸。

秋イカと仙崎入港
はじめての県外出漁も、好成績をおさめて帰港することができた。夏期は北陸の海も比較的におだやかな日が続くが、秋から冬期にかけては嵐が多くなり海の様相も一変する。
そこで秋イカ漁は、昭和四四年九月七日、島根県浜田港に一回入港したが、安値のため下関港に入港した。翌四五年九月、山口県の仙崎港に入港。当地では仙崎漁協に通過料を払い、各都市の市場に直送したのである。このため駐在員が必要となり、漁協より職員一名(現在の松島課長)を派遣した。この試みはことのほか成功であった。以後船団の要請に応え、漁協では年々金沢港に販売職員を派遣している。

箱立てイカと鮮度
イカを鮮魚として売る場合、価格を左右するのは鮮度である。また箱立てイカで大事なことは、表示した通りの本数が入っているということである。たかが二、三〇本のイカぐらいで間違えるはずはないと思いがちであるが、思わぬ数え違いがあるものである。
この二つのことは、勝本船団の信用に関わる重大な事柄であるし、今後の入漁を左右すると考えた。そこで船団から数人を選び、間違いのない本数と鮮度の保持(数日経ってもまっ黒いイカ)を目標に厳しい指導をおこなった。

好評だった勝本船団
母港を遠く離れ長期間の船住いであり、しかも乗組員の大半は若者である。何日も操業しイカを積んで入港する。この際、解放感にかられ万一上陸地で間違いでもおこされたら……。勝本船団の責任者たちはこのことを一番心配したのである。事実北陸や山陰の港に入り土地の人達の話を聞くと、以前他県の船が入港し、その乗組員が不始末をしでかしたという。勝本船団も同一視されているようだった。ところが勝本船団の行動は、このような不信を解消し、反対に入港地ではなかなかの好評を得たのである。
また四六年六月に出漁した船団は、金沢港の県漁連水産荷捌所に水揚げをしていた。しかし七月に入り漁場が佐渡島近海となったため、北上して近くの新潟港にはじめて入港した。早速、漁協やイカ釣り協議会に交渉したが許可がおりず水揚げができない。やむなく金沢のウロコ水産に電話をかけ、ウロコ水産から漁協や仲買人に電話してもらって、ようやく「今日だけ受け取る」ということになった。なにしろ県のイカ釣り協議会を通さず、直接交渉だったため地元の漁協も困ったらしい。ところがイカを揚げてみると仲買人に好評で「こんな立派なイカは今まで見たことがない。こんなよいイカを持ってくる勝本船団の入港は認めてやりなさい」と漁協などをつきあげてくれたのだった。おかげでその後も入港できるようになった。
勝本で特殊船と呼ぶ大型船の一九㌧型も、日本海に集まるイカ釣り漁船の中では最も小型で、よそには見られない特殊なイカ釣り漁船であった。つまり日本海の真ん中(大和堆(やまとたい))までくる特殊な小型船ということで、北陸方面でも特殊船と呼ばれた。しかし船の性能や乗組員は優秀で、他県の大型船をしのぎ、鮮度のよいイカを多量に水揚げするので、どこの港でも歓迎されたのである。

入漁交渉と入港地
昭和四五年、出漁船団代表が町当局に助成してもらうように要請したところ、分散操業助成金として次年度から予算化されるようになった。
八月、代表数名は、鳥取県境港に入漁を交渉し、一方漁協取引先の大阪大水に頼み、境港大水出張所、黒見所長の協力と関係機関の支援を得て、交渉は成立した。四七年には出漁隻数も増加し、漁協役職員も入漁交渉に大変忙しくなり積極的に奔走した。なお本県イカ釣り協議会は勿論、各県市場漁協等、関係機関の入漁交渉に対する理解と好意も深まっていった。
漁場などの都合上、金沢や新潟に全船入港はできないので、山形県の酒田(さかた)・加茂(かも)・由良(ゆら)・念(ね)珠(ずが)関(せき)などに分散して入港するようになった。四七、八年の盛漁期の港と隻数は次のとおりである。
山形県酒田港―一五隻、加茂港―七隻、由良港―七隻、念珠関港―一三隻
新潟県新潟港―一三隻
石川県七尾港には交代で入港する。金沢港―五三隻
鳥取県境港港―五三隻(境魚市、鳥取漁連、島根漁連に分ける)
島根県浜田港―約五〇隻(浜田漁協、那賀漁連に分ける)

北海道での操業
昭和四九年四月、北海道函館港と江差港(渡(お)島(しま)半島の西側)に入漁交渉にでかけた。このときも、ウロコ水産の東川昭部長がわざわざ北海道まで随行され、ウロコ水産の取引先である仲買人をたずね、一緒に同席してもらい市場と交渉した。交渉は成立したが北海道はいままでの入漁港と異なっていた。市場に直接イカを揚げてもよい、また問屋を通じて揚げてもよく、手数料はどちらも五分であった。但し、問屋揚げにすると問屋が食料などの買物、燃料の手配もしてくれるし、病人が出ると医者も世話してくれるといった具合で大変便利であった。このような条件のもとに、八月に入ってから一〇隻が北上し函館港に入漁した。
イカは従来通りの鮮魚用としての、箱立て(下(した)氷、箱の底に氷を入れた二〇本入り)は安く、加工用としてイカの上に氷を入れたもの(上(うわ)氷)が割合い値がするのであった。
しかし全般的に値が安いのでうわ早目に切り上げ、江差港には漁場の都合で入港せず帰った。
はじめて通る津軽海峡は想像以上に潮の流れが速く、中央部は避けて航行した。また珍しかったのは、壱岐近海で見るイルカのように、大小のマグロがあっちこっちと飛びはねる(一本飛び)姿であった。気候については、四月の函館山(三三三㍍)はあられが降り、市外には雪が積っていた。八月の入港時には、昼間は暑く朝夕は長袖シャツがほしいくらいの肌寒さを感じるのであった。

県外イカ釣船組合発足
昭和四九年イカ運搬船組合より独立し、県外イカ釣船組合として発足した。
加入隻数五四隻(うち登簿(とうぼ)船三隻を含む)操業規約もでき、それをもとに運営並びに操業を実施し今日に至っている。

中型船団の県外出漁
壱岐・対馬沖のイカ資源が著しく減少したため、十㌧前後の中型船も四七年六月県外出漁を試みたのである。ところが前もって県の入漁許可もとらず出漁したため、金沢・新潟・酒田方面と流転の苦労を味わった。そこでイカ漁期を終えて帰ると、早速船団代表は漁協役員と共に、各市場と漁協及び各県庁に入漁交渉にでかけた。ウロコ水産は、この中型船の交渉にも協力されている。
四八年六月、許可を得て各船団は遠く山形県豊浦から佐渡島方面にまで出漁した。はじめは好成績であったが、イカ資源の減少にともなう他県船の大型化がさらにすすみ、この漁場付近には大型船が多数集った。従って中型船では対抗することができず、加えて能登半島から佐渡島周辺にイカの回遊が減少したため、わずか二、三年にして県外出漁のマメイカ漁はあきらめることになった(かわりに夏期における福岡県、山口県沖のアカイカ漁が盛んになった)。
当時の中型船の入漁港と船団名は次のとおりである。
佐渡島両津港―新町、築出船団八隻。
山形県豊浦港―坂口船団五隻。
能登半島輪島港―正村船団七隻。蛸島港―三隻。
福浦港―塩谷船団八隻。西海港―鹿の下船団六隻。

イカの回遊と入漁港
県外出漁の期間中、待っている承認港に船が入らず別の承認港に入ってイカを揚げる場合があり、各市場から注意を受けた。特に浜田港が厳しく(入漁許可申込隻数に対し実績不足のため)境港では半ばあきらめたようであった。というのは、勝本船団だけでなく、他県船団でもこのような傾向が多かったためである。
勝本船団をはじめ他県船がなぜ港をやむなく変えたかといえば、年々魚群の移動によって漁場も移動する。いわば回遊経路が大きく変化しているのである。このような理由から指定の入港地は遠距離である。また保冷設備のない一九㌧型ではイカの鮮度を長く保つことがむつかしい。その上燃料も多く積めないといった、大型船では考えられない制約を受けるのである。従って長い航海ができないので、市場に悪いとは思いながら、近くの承認港に入るのである。この点については、荷受側の理解が深まったが、船団としても入漁の条件にそうよう努力すべきであった。もちろん漁協としては極力指導に努めてきたのである。

勝本町の県外交渉と船団慰問
昭和五〇年七月、原田町長は漁協役員と行動を共にして勝本船団の各入港地を回った。そして各県・各市場に入漁の交渉及び謝礼を述べると共に、各船ごとに慰問し激励された。なお前後して、四九年一一月には町議会常任委員会代表六名、五一年には本水助役、五二年には長田水産課長が遠路のところを慰問された。

自動操舵の普及
人間のかわりに機械が舵を取ってくれる、という便利なものが登場し全船がこれを装備した。
しかしこの機械は目的の場所に向って、一直線に走るだけで、見張りはしてくれず、障害物があっても避けることはできない。従って機械に頼りすぎて油断すると大事故になりかねない。すでに勝本漁船団にも、残念ながら大小さまざまの事故が発生した。全国的に海難事故発生の要因として、自動操舵があげられている事は周知のとおりである。各船ともに充分心して操船すべきである。

きびしくなった漁業環境
漁業者にとって四〇年代は順調に過ぎようとした。しかし最後の四九年になって事態は一変し、更に厳しい五〇年代に突入した。石油を武器とする産油国の値上げ攻勢がはじまったからである。それだけではない。一新聞が書きたてることによって起った水銀汚染問題による魚価の暴落。続いて起った二〇〇浬問題での日本漁船の締め出し。国内的には調整規則の設置もおこり、更に年々増大するイルカ食害問題、外国船の領海侵犯、他県船の密漁等悪条件の連続である。
このような厳しい条件のもとでイカ漁はどうかといえば、イカ資源は五〇年をピークに減少の一途をたどり、五二、三年にはマメイカも絶滅したのではないかと心配するくらい漁獲量が激減した。そのためイカ釣漁船の存続も危ぶまれる事態を迎えたのである。
勝本町当局をはじめ漁協では、打開策を講ずるため五三年漁業振興対策協議会を設置した。県外イカ釣船組合では、対応策の一環としてオーストラリア(豪州)への遠洋出漁が企画され、あらゆる関係機関はもちろん水産庁などの意向も打診したのである。しかし遠く赤道をこえての長い航海であることから、外交上の問題、渡航の件など、諸条件に難点があり実現はできなかったのである。その他新漁場と新漁法の開発のため、男女群島にも出漁し深海立繩漁法を試みた。五四年には沖繩近海まで出漁し、カニカゴ漁法などの試験操業も実施した。このように生産向上と漁家経営の安定をはかる努力がなされたのである。
ところが五四年ごろから、僅かではあるがまたイカが獲れはじめ漁民をほっとさせている。その反面イルカの食害はますます増加するばかりである。イカに関しては明るさがみえはじめたころ、またしても石油問題が再燃した。五四年の出漁では燃油の確保に頭をいためたし、五五年六月現在では異常高値に苦しむ状態である。(第一次石油ショックでA重油一㍑三二・三円と今までの約三倍にはねあがり、以後は高値安定を続けていたが、第二次の石油値上げで七九円となり約二・五倍にあがった。まだまだ高くなるのではないかと組合員は心痛している。ちなみにガソリン市販価格一㍑一一五円だったのが一七五円と三分の一あがったことを比較すると、いかに漁業者の負担が大きくなっているかがわかるであろう)
経費増の水揚げ高減で、漁業収入は大巾に減少したのである。このように収入が減ると船に乗る人が少なくなる。そこで船主方では乗組員探しに苦労するようになった。五五年度の県外出漁でも、従来六人乗組みであった船に、二人か三人でやむなく出漁する船も多くなった。また石油の高値に対処するため、減灯問題についても話し合われるようになった。今後ますますこのような傾向が強くなることであろう。厳しい現状にたって漁業振興対策と共に真剣に対応すべきであろう。
県外イカ釣船組合歷代組合長名
昭和四五年度 初代船団長 末松真人
昭和四六年度
昭和四七年度 二代船団長 阿田一郎
昭和四八年度 三代船団長 土肥直一
昭和四九年度 四代組合長 大久保義信
昭和五〇年度 五代組合長 篠崎哲夫
昭和五一年度 六代組合長 川谷邦文
昭和五二年度 七代組合長 木田一弥
昭和五三年度 八代組合長 原田実
昭和五四年度 九代組合長 松尾哲男
昭和五五年度 一〇代組合長 大久保敏治
注 県外イカ釣船(特殊船)組合の前身は、イカ運搬船組合内の特殊船船団で組合長ではなく船団長と呼称していた。昭和四九年度にイカ運搬船組合より独立し、県外イカ釣組合が発足する。故に組合長と名称が変更する。
昭和四八年度の三代目迄、船団長、昭和四九年度の四代目より組合長と記載
する。

8、ワカメ組合

ワカメ組合
ワカメ採集を生業(なりわい)とする漁民が、各町から世話役を出して任意組合をつくり、会の運営にあたったのがワカメ組合である。
平戸藩時代には「ワカメは許可を得て税を納める者は在浦の区別なし」と定められていたというから(「磯漁の推移」参照)ワカメ組合の歴史は比較的新しいと考えられる。
いつごろワカメ組合が発足したのか知る人はあまりなく、最初からワカメ組合といったものか、磯世話人といったものかは不明である(最近までワカメとはいわず、メノハと呼んでいたからメキリ組合であろう)。現在では船磯を専門にする人もないが、昔の盛んなときは三〇艘も操業していたといわれるから、磯世話人などが兼務していたのかもしれない(昔は組合長といわずに世話人代表といったといわれる)。初代組合長は、長富熊次郎氏(明治一三年生)だったらしい。だいたい四〇歳ぐらいとして年令から逆算すると、大正九年ごろであろう。
ワカメ組合の主な仕事は、ワカメ採取の適期を調査し口開けを決めることである。戦時中、名烏島のワカメ採取の許可を得ようと軍(当時、築城部といった)と交渉したのもワカメ組合であった。そのなかでもおおいに努力し貢献されたのは、鹿ノ下東町の大久保福次郎氏(兵庫屋)であった。
長富組合長の後をいつ頃受け継がれたかわからないが、長い期間に渡り組合長を努めたのが立石英記氏である。立石氏は戦後、旗立て制を実施し、ワカメ増産のためカジメ切り捨てを熱心に提唱した。
このあと昭和三〇年代に入りワカメ組合は、ワカメの採集による増収をはかるべく努力を重ねた結果、ワカメの黄金時代を迎えたのである(ワカメ組合役員は、立石清次郎組合長以下一三名である。立石氏は後任の引き継ぎ者がないまま、現在まで二十有余年組合長を続けている)。そしてその仕事は、旗立制の実施による内海(うちめ)と外海(そとめ)の区分と監視、ワカメの増殖作業、製品の改良、一元集荷と入札の立会いなど広範囲にわたるものである。この結果、ワカメ採取による収入は飛躍的に増大した。一例をあげると、大工賃が一日八〇〇円のころ、一人乗りでも第一回の出荷分を計算すると時間当り二〇〇〇円になった。もちろんこのなかには干し上げるまでの労賃も含まれている。しかしこの収入に見あうだけの労働は、かなりつらいものであった。口開け日は朝七時から午後二時までぐらいであるが、数日分まとめて集荷するからそれまでは非常にいそがしかった。外海であろうと内海であろうとワカメを切るときは、飯食う時間も惜しくいかにして食事もせずに時間いつぱい切るかの工夫をこらした。また家族もワカメ干し、茎裂(くきさき)と夜おそくまでの仕事であった(二回目からの集荷は値が下り、大体三回目までの集荷が勝負であった)。このようなことから、口開け日にはみんな人に負けまいと、殺気立つのであった。
この黄金期は一四、五年も続いたであろうか。やがて養殖ワカメの出現(勝本ではメタメといい港内にはえる)と日本人の食生活の変化などにより、採取してもあまり収入にならなくなった。そのためせっかくの良質天然ワカメも切る人が少なく、立枯れの状態となったのは惜しいことである。
運営費は、組合員から会費を徴集せず、親組合からの補助金でまかなわれている。入漁料は漁協組合員は無料であるが、組合員以外は三―四〇〇〇円の入漁料を徴集している。

製品の改善
従来の勝本ワカメは、メカブをつけたままの素干(すぼ)しで、乾しあがるとわざわざ「シト」(潮水をかける)をするから乾燥不充分のものであった。買い手(仲買人)の話によると、送る途中で腐る場合もあったという。全部は信用できないにしても乾燥が悪かったのは事実であろう。戦中、戦後の食糧難時代はそれでも右から左に売れたが昭和三〇年代になると売り値に影響するようになった。ワカメ組合では先進地視察などを行い、それを参考に品質の改善をはかった。製品の改良は、先ずメカブをとり茎を裂くことから始まった。茎を二つに割るとワカメは葉全体が同じように乾く。そして干し方も一本ずつ元の方を「カギ」にかけて釣り干しにした。アカイカのようにカギ干しすると、ワカメのスタイルはぐんとスマートになった。そして根元を持って立たせても途中で折れないくらい乾燥させた。同じ長さのものをひとにぎりくらいに束ねて漁協に出荷した。ちょうど農家の葉煙草のようであった。漁協でも検査を厳重にして受取った。ワカメ組合の役員は全員集荷のたびに漁協の手伝いをするし、入札にも立会って値よく売ることにつとめた。
もともと潮流の速い勝本近海のワカメは、鳴戸(なると)ワカメに匹敵するといわれる品質のよいものである。ところが製法、乾燥が劣ることから安値であった。しかし種々の改良と努力によって評価も上々となり、昭和四〇年頃には東京のデパートなどからも引き合いがくるようになった。
品質の改良について思い出されるのは、青年学校の水産の先生である。昭和一四、五年頃、授業中たびたび、勝本のワカメも湯を通して干すようにすれば値段もよくなり収入もあがるのにといっておられた。現在では、一番ワカメを切って湯に通し塩もみしておくと、一年中変らぬ味で食べられる。惜しいことに、天然ものも港内養殖したものも、いっしょんたくりしか売れない(同様にしか売れない意味)世の中となったことである。

艱難(かんなん)の春とワカメ切り
古老の話によると明治時代のある年ひどい不漁年があり生活に困ったことがあったそうだ。しかしこの飢饉年も、ワカメ切りをすることでどうにか切り抜けることができたという。このような経験から、当時ワカメ切りだけは習っておくようにと子供達に教えた親も多かった。特に仲折町は昔からワカメ、カジメ切りの盛んな地区であったから、親子代々続ける家が多かったといわれる。ワカメ切りは海中にじっと立っているものを切り取るのだからなんの造作もない仕事のようであるが、素人にはむずかしい仕事である。ちょっとした要領で、力もいらず一日中楽に切ることができるのである。若いころこの要領を覚えることが上手と下手の分れ目であるといわれたものである。以前では春先になるとワカメさえ切っておれば毎日損がなく確実に収入になった。しかしこの仕事も、必ずしも不漁年の助けにはならなくなったのが現状である。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社