天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
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勝本漁業史 一五、灯台

一五、灯台

灯台
頭部に強力な灯器をもつ航路標識塔を灯台という。そして海岸または島などの高い所に石材や木材、金属などで塔を建て、その上に灯籠(とうろう)、照光器などをそなえ灯明をつけて航海者の目当とした。
航海者が昼夜ともに灯台を発見して、すぐ自船の位置を知ることができるように灯台は工夫されている。塔の形や塗色の別で昼間の標識にし、光の発射方式(不動、明暗、せん光などと、その組合せ)や、灯色(白、紅、緑)及び明滅の周期(秒単位)とその組合せによって夜間の標識に特徴をもたせている。こうした特徴を灯台の灯質という。
沖合の船から灯台の光が見えはじめる距離を光達距離(海里で表わす)という。これは灯光の光度(レンズの外側で測ったカンデラ数で表わす)と空気の透明度および灯光の水面上の高さなどで定まる。
またレンズの焦点距離と高さにより、前頁の表のように一―六等および無等に区別している。この灯台の等級は、光度の大きさを表わすものではなく、レンズの大きさを表わすものである。それゆえ、三等灯台でも一等灯台級の明るさをもつものがある。外洋から接近する主要地点や霧の多い場所には一―二等、沿岸や内海の主要地点には三―五等、港湾には六等や無等が配置される。
最近の灯台は、その光源の折射器あるいは照光器の改良、風力その他による自家発電の電気灯化、日没および日の出時における自動点滅装置、あるいは無線遠隔管制装置などによって、非常に高性能化している。
さらに世界各国を通じてその施設数の増加も著しく、国際協力のもとにいっそう航海の安全確保と海難防止に寄与している。

烽火台、灯明台
六六四年、天智天皇の頃我が国は海防政策上、壱岐、対馬、筑紫(北九州)に烽火(のろし)が置かれた。しかしその後もこの烽火は、遣唐使船の目標として便利であったため、引き続き存続したと伝えられている。
その後、慶長年間には、小倉城主細川忠興が、豊後の国の姫島に烽火を設けて通航船舶の標識とした。また寛永年間には志摩国菅(すが)島に烽火台(かがり火台ともいう)が設けられた。その他所司代板倉正宗(一五八七―一六五六)が播州明石城主に、城内の人丸社を城外に移し海辺の高みに建てさせ、重宗も大灯籠を寄進したものがある。以後播磨灘を通る船はこの灯籠を目当にして、これまでのような破船のうれいがなくなったという。また、慶長年間に能登国羽咋郡(はぐい)の日野吉三郎は、同郡福浦港に石造りの小塔を建て、その上に灯籠を設け、灯明台としたという古い記録がある。
このように烽火台や燈明台の史跡は、日本の沿岸いたるところに残っている。
勝本では灯台守のことを、灯台番人と呼んでいたようである。

江戸条約と洋式灯台
徳川の末期は、外国船の来航がひんぱんになりついに開港のやむなきに至った。慶応二年五月(一八六六)イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四ケ国と日本とが結んだ改税約定(俗に「江戸条約」といわれている)の第一一条に「日本政府は、外国交易のため開きたる各港最寄船舶の出入安全のため、灯明台、浮木(うきぎ)、瀬印木(せじるしぎ)等を備うべし」と規定された。はからずも、これが日本における近代航路標識事業創設の端緒となった。
この改税約定に基づいて、締約国は合議の上、イギリス公使サー・ハーリー・パークスが代表となり、幕府に灯台建設をせまった。そしてまず、剣崎、観音崎、野島崎、神子元島、樫野崎、潮岬、伊王島、佐多岬の八ケ所の灯台と、横浜港本牧および函館港の二ケ所の灯船とを設置するよう要請した。当時は、すでに外国船がひんぱんに出入をはじめたので、特に東京湾口の観音崎灯台の建設を急ぐことになった。幕府はフランス公使ロセスに依頼して、フランスに機械を注文し、横須賀製鉄所傭首長フランソワー・レオン・ウェルニー(フランス人)にその建設工事を担当させた。観音崎は三浦半島東端の岬、文化九年(一八一二)から江戸警備のため船見番所がおかれ、終戦まで東京湾要塞の砲台が各所に設けられていた要地である。

灯台記念日
観音崎灯台の着工の日である明治元年一一月一日(旧暦九月一一日)をもって、灯台記念日とされている。同灯台は、翌明治二年二月一一日(旧暦一月一日)にレンガ造り四角形白塗りの日本最初の洋式灯台として竣工した。そして暗黒の東京湾に最初の光が点ぜられたのである。
その要目は次のとおりである。
位置、江戸湾口観音崎
構造着色、煉瓦石造四角形白色
灯質、不動白光
燭光数、一七五〇燭光
光達距離、一七浬
機械種類、フレネル方三等レンズ、三重心灯器
自基礎、至灯火、四丈
自満潮水面、至灯火高、一七丈八尺
建築費、金、二九八〇両
灯明機械費、金、三三五七両一分九〇文
洋式灯台は、旧来のかがり火や油灯明台とは比較にならぬ大きい光力と光達距離を有するものであった。この出現は当時の人々の目に、我が国に移植された西洋文明の最初の輝きとして映じたと想像される。
ついで野島崎灯台本灯(明治二年一二月)、品川灯台(明治三年三月)、城ケ島灯台(明治三年八月)等が相ついで点灯を開始した。
このように我が国最初の洋式灯台は、フランス人技術者によって建設され、その管理も明治四年一二月灯台寮に移管されるまでは横須賀製鉄所によって行われた。フランス人による灯台の建設は以上四基にとどまり、それ以後の条約灯台を中心とした灯台建設事業は、ブラントンを首長とするイギリス人達によって行われた。灯台の建設とともに灯火の保守、機器施設の整備業務も、当初は外国人技術者によらなければならなかった。この要員もイギリス政府を通じて、スコットランドの各地灯台の熟練した職員の中より選んで推薦され、日本の灯台建設の進捗に応じて逐次来日し雇用された。

灯台生活の昔と今
灯台は、村里から遠く離れて交通の不便な離島、岬角などの僻地に建っている。昔の灯台職員は、この僻地に建つ灯台退息所に家族と一緒に生活し、直接灯台を守ってきたのである。この僻地における生活のきびしさは、体験した者のみが知る困苦欠乏と試練に耐えねばならない毎日であった。風雅な人であれば自然を友とする喜びはあるかもしれない。しかしきびしい気象条件のもとで子弟教育、医療等の問題に悩み、加えて生活必需品の入手の問題に至るまで、一般の人の想像を絶するような苦難の生活が最近まで続けられてきたのである。この当時の灯台生活は、あの「喜びも悲しみも幾歳月」の映画がよく物語っている。
海上保安庁においては、その改善策として、又、急増する航路標識の合理的管理を行うためにも、職員家族の生活環境の改善を図った。集約管理という計画が、昭和三二年度から進められ、交通の便利なところに事務所および宿舎が設置されて、昔のような家族の生活上の不安は次第になくなった。そして職員はこの事務所から車両、船艇等の機動力を駆使して、多数の航路標識を巡回保守するという管理方式に逐次移行されている。
このように航路標識の管理方式は大きな変革を迎えようとしている。けれども、航路標識そのものは、今も絶海の孤島に、あるいは人煙まれなけわしい岬の突端にあって、沖行く船の安全を守っていることにかわりはないのである。だから職員にとって巡回作業は、危険と困難の伴うきびしいものである。

航路標識のいろいろ
航路標識のことを一般に灯台といわれているが、この航路標識には色々の種類がある。これを大別すると、夜間灯火により位置を示す光波標識。音により陸岸に近いことを知らせる音波標識。電波を利用して船位を求めるための電波標識。狭水道における潮流の状況を知らせる潮流信号所などに区分され、その基数は昭和四三年三月末で光波標識三〇八六基、音波標識五二基、電波標識八五基、その他の標識二〇八基の合計三四三一基である。
そのうち光波標識を種類別に分けると、灯台、灯柱、灯標、導灯、灯浮標および灯船に区分される。灯台と灯柱は船舶の陸地確認および目標とするもので、岬、港湾等に設置されている。灯標は船舶の乗揚げを予防するため、岩礁、浅瀬等の上に建てられている。導灯は浚渫航路や通航困難な水道や狭い湾口などの航路を誘導するため、航路の延長上に前後二灯を対にして設置したものである。灯浮標は、航路筋や岩礁、浅瀬等の障害物を示すため海上に設置した浮標である。灯船は、船舶に航路上の重要な位置を示すために停泊した船型で灯火を発するものである。次に電波標識を局種別に分類すると、ロランA局、マイクロ波標識局、中波標識局、およびハーバーレーダー局に区分される。これを機能別に見てみよう。ロランは測定精度が高く、測定も容易なため、外洋上の船舶はもちろん航空機にも利用されている遠距離用電波標識である。デッカは測定精度が極めて高く(ロランの約一〇倍)且、自動的に位置を知ることが出来る中距離用電波標識である。マイクロ波標識局には、方位を言葉で示す声の灯台といわれるトーキングビーコン局、電波で航路を表示するコースビーコン局、レーダー装備船に、その方位または位置を示す電波を発射するレーマークビーコン局およびトランスポンダ局とがある。そのいずれの局も近距離用電波標識である。中波標識局には、方位を計数によって示す中波回転標識局と船舶の方向探知機により方位を測定する電波を発射する中波無指向標識局とがある。ハーバーレーダー局は、陸上に設置した高性能のレーダーを使用し、船舶の要求に応じて、その位置を測定し、航行に有効な情報を与える港湾用電波標識である。
このように航路標識には、色々の種類があるが、その標識の種別により船舶の航行援助施設としてそれぞれ重要な役割を果している。
また、海上保安庁では、航路標識に最新の科学技術を積極的に取り入れ、灯台の光源エネルギーにしても燃料電池、太陽電池、波力発電装置を利用するなど、小型灯台の無人化を進めている。また、大型灯台には、自動化方式を採用している。一方、電波標識では、遠距離用あるいは中距離用のロランおよびデッカの拡充整備を図っている。その他年々増加するレーダー装備船に対応するマイクロ波標識局の整備に加えて、オメガシステム(汎世界電波航行援助方式)の開発を進めるなど、航路標識の近代化を着々と進めている。

若宮灯台
航海者の目標として、勝本港の入口にある若宮島の頂上に若宮灯台がある。北緯三三度五一分五七秒、東経一二九度四一分二〇秒。これは従来からの海軍望楼であった(日露戦争に際して軍の行動上、各地に航路標識を必要とし、沖の島、若宮島に灯竿が設置された。灯竿の始めは、明治二年一月横浜港西波止場に仮灯竿の点灯であった)。明治三九年一月一日より海軍省から逓信省に引き継がれたものである。当時は若宮灯竿と称し、初点灯は明治三八年四月で無等、不動、赤色であった。灯火には石油を用い、光達距離僅かに六浬であった(初代灯台長は川口龍蔵氏)。軍艦の通過する時は灯竿から信号をおくり、商船の場合は、商船の方から信号して灯竿がこれに答礼していたという。
大正七年、若宮灯竿を灯台に変更する案が第四〇議会を通過し、大正八年一月五等灯台として建設された。従来の石油灯火をアセチレンガスに取り替え、二〇〇〇燭光、明四秒、暗二秒をもって光達二二浬を照らした。大正一二年一月四等灯台に昇格、同一三年九月一七日四等灯台型レンズが取り付けられた。そして昭和一五年九月五日無線電話新設、さらに昭和二七年七月一日若宮島無線方位信号所が新設された。昭和二七年一〇月一四日自家発電による三〇〇㍗電球が取り付けられ、一万二〇〇〇燭光となった。昭和二八年九月一日五〇〇㍗に取り替え二万四〇〇〇カンデラ(燭光と同じ)光達距離二四浬となった。昭和三三年一二月二〇日海底ケーブルの敷設により七五〇㍗、三万カンデラ、光達距離二五・五浬となった。昭和四四年三月二八日勝本航路標識事務所として現在地勝本浦町の先住宅(赤滝の上)に移転(家族とも)。灯台も無人化し、昭和五四年現在職員四名で自動車、船にて壱岐郡内二三基の標識を管理している。

若宮方位信号所
位置、若宮灯台と同じ。指向性回転式ビーコン。
発射時間(毎時)
五分から五分間 一五分から五分間
二五分から五分間 三五分から五分間
四五分から五分間 五五分から五分間
周波数=三〇五㌔ヘルツ。
発射方式、NU二回(―・:―)
A 二回(・―)
……百回
一分間=五回反復
利用範囲、全度
空中線電力(出力)二六〇ワット
船舶気象通報
昭和四七年二月一日船舶気象通報を開始。毎時間一回、五〇分から五一分三〇秒の間。
内容=風向、風速、気圧、波高四ツのデータ
周波数=呼出し「わかみや」
電波A三H一六七〇、五㌔ヘルツ
出力=空中線電力五〇ワット。

鞍馬滝鼻の亀瀬照射灯
位置、所在地、長崎県壱岐郡勝本町(鞍馬滝鼻)
北緯三三度四八分五八秒
東経一二九度四〇分三二秒
白色、四角形コンクリート造り、無等、白光、光度一〇〇万カンデラ。
高さ、地上から七・一〇㍍、灯火の中心まで八・八〇㍍、海面から灯火の中心まで四三・〇七㍍。
設置年月、昭和五三年一一月。
記事、一本照射灯は西方約三一〇㍍の亀瀬上の標柱(白色円形コンクリート、高さ四・五㍍)を照らす。

万吉灯
弁天防波堤上に設けられた、私設の灯火(一〇〇㍗、高さ四・五㍍)で、勝本港に出入する船舶に便宜を与えている。
万吉灯については「勝本浦の発展に尽した人々」の松尾万吉氏の項、参照。

水防組
大正四年頃、香椎村勝本に水難救護班という組織ができた。松尾万吉氏を班長に、小畑儀助、松尾常太郎、山口弥八、西村武平、村川森太郎、熊本長太郎の諸氏が班員であった。この救護班は無報酬で人命および水難の救助に当たる重い任務を負っていた。
一例をあげると次のようなことがあった。西風の強い日であった。湯ノ本の二本マストの芋積み帆船が羽奈毛沖で前柱を折って操舵不能となり錨を投入、救助を求めていた。一本の太いショロ綱だけが命の綱であった。救助班は折良く港内に居合せた運搬船を借りて救助に向った。日和は益々悪くなり波はいよいよ高くなって救助は困難を極めた。班員が船に泳ぎついて錨をあげてやろうというのを、船長は船と命だけで結構ですというので、鉈(なた)で命綱を断ち切り無事曳航してきたそうである。この時の謝礼金五〇円也(あるいは五円の間違いか)を戴いたそうである。
こうした謝礼金等を積み立てて盆、正月に警察を交えて聖母神社で慰労会を催したという事である。
また、このような謝礼金で万吉灯が建てられた。

電灯目標
船舶の出入りと、港の目標に便利をあたえるため、馬場先に三〇燭光、志賀の山に二〇爛光の目標灯を設け、費用は漁民共有金から支出している。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社