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勝本漁業史 一七、漁民からみた勝本港

町名のおこり
勝本浦は、大昔は今の本浦ばかりであって、鹿の下や正村は海であったという。そのため、本浦から聖母神社に参拝するには、船に乗って郵便局の浜(昭和八年当時の郵便局、現玄海商店)に渡り、乗越(のりこし)を経て川尻(かわじり)に出て平(てえら)より参拝しなければならなかった。
川尻(勝本浦では井戸のことを川という)とは、聖母川の尻という意味で、元正天皇の時の養老元年(七一七)神殿再興の時に掘ったものである。大祭の時の使用水に使ったといわれる。また黒瀬(くろせ)は瀬であったのを埋めたところである。湯田(ゆだ)はもと藺(い)草(ぐさ)(暖かい地方の湿地に生じ茎はたたみおもて、はなむしろ、灯心用)を植えた田であったところから藺田(いだ)町といわれていた。それをいつしか誤って、「ユダ」と発音し湯田と書くようになったのであろう。塩谷(しおや)は孝明天皇の時の嘉永五年(一八五二)に可須村竹田勇左衛門が塩田経営を計画したところより起った名称であるといわれている。加賀里屋(かがりや)(現・琴平)は漁船が集って篝火(かがりび)を焚いたところからきている。また築出(つきだ)しは、朝鮮の使節をもてなすための迎接用地として、埋めたところである。その他、波の中折(なかおり)、神社馬場の馬(ば)場(ば)先(さき)、田(た)の中(なか)、坂口(さかぐち)など文字通り、当時のようすがそのまま町名に残っているものが大半である。

浦づくり
その後、浦づくりについては、鯨組に負うところが大きかったようである。古い記録によると、前記築出し(現、築出町)ができたのが承応四年(一六五五)朝鮮使節迎接のためであった。
同じく安永五年(一七七六)正村神皇寺前に二五三坪を築出し、うち一四三坪を神皇寺の用地とし、一一〇坪を土肥市兵衛預けとして朝鮮使節迎接用地とした。また鯨組七代当主のとき、天明三年(一七八三)―文化五年(一八〇八)の間、正村海岸を埋立て熊野の漁師四十余名を雇い住わせたと記録に残っている。今から約二一〇年前頃から、勝本浦も現在の姿に近づき港も形を整えてきたのであろう。

一二〇年前
壱岐の歴史を書くとき、よくひき合いに出されるのが文久元年(一八六一)に完成した後藤正恒著の『壱岐名勝図誌』である。それによると約一二〇年前の勝本が絵入りで書かれている。
勝本浦(風本とも)
町居=一万六千四百三坪三合六勺九才(本浦より聖母浦まで)
民戸四百十九烟〈注、けむり〉(塩谷浦、田の浦、本浦、聖母浦、馬場先まで)
人数=二千二百四十二人(内男千百二十三人、女千百十九人)
舟=七十七艘(内高船十七艘、博通(伝か)六十艘)
当時、田の浦にあった鯨組は別で、双海十二艘、双海附十二艘、持双八艘、責子船二十四艘、納屋船二艘、人数は地・沖あわせて八百五十八人(沖立人数七百二十三人、納屋人数百三十五人)であった。

大昔の勝本港
以前の勝本港は、正村、黒瀬海岸などにみられる陸上からの土砂の流入、塩谷湾の流砂現象などにより水深は浅く風がくれになる所は利用できにくかったと思われる。それでも東や南の風には強かったであろうが、大嵐の多い北や西の季節風を避けることはむずかしく、わずかに塩谷の一部が利用できる程度であった。義理にもよい港とはいえなかった。
一方、みるめが関という地名がさかんに伝えられている。見目浦、海松目浦などと書き、「関」が設けられていたといわれる。嵯峨天皇の時の弘仁六年(八一五)「異賊襲来により関を置く(二ケ所、十四所の要害、見目関、可須邑)」と古文書は伝える。関とは、国境(くにざかい)または要路に設けて、平時は通行人、通過貨物などを検査したり、社寺造営のための通行税をとったりするものである。また戦時は防備に用いた所で、関所、関門ともいう。いうまでもなくみるめが関は、昔かなりの人が往来していたからこそ設けられたものであろう。つまり近くに集落があったことを物語る。みるめ浦とは博多瀬戸の中、通称イルカ池と呼ぶところである。ここは明治の末ごろ多くのイルカを泳がせていたといわれ(捕獲方法不明)、現在でも仕切りのための石積みが残っている。この入江(あるいは港)は、入口附近は浅いが中は広くて深く、かなりの船を入れることができる。ここなら安心して船をつなぐことができそうである。難をいえば、人家が密集するには少し狭いということである。このように考えてくると、勝本浦の以前の中心はここではなかっただろうかと考えられる。神功皇后の御座船を曳き込んだのも、聖母神社参詣には船によっていたといわれるのも、ここが勝本浦の中心と考えるとつじつまがあうのである。

トトウ
昔の勝本浦には、トトウという場所が何か所もあった。辞書によると埠頭=港湾内に陸からつき出してある波止場、渡頭=わたし場とある。このように書いてあるから、勝本浦のトトウは渡頭であろう。勝本浦は一本の幹線道路をはさみ、両側(海側と陸(おか)側)にびっしりと家並みが続く。そして、その道路から枝わかれして海岸に出る道があり、その先にガンギ(雁木=船着場にある階段)と呼ぶ石段がつけられている。満潮時には船が石段に着き(干潮時にも石段に着くところもある)、干潮時には浜に降りられるようになっている。公共の船着場であったらしく、二町内、三町内に一ケ所ぐらいのわりでつくられていたようである。土地の少ない勝本浦にこのような公共の場所が何ケ所もあったということは、何か目的があったのであろう。にゃくの島(若宮)には、大昔から烽火台や見張所が置かれていたというから、基地勝本からいつでも人や物資などを運べるように設けられていたのかもしれない。各所にある渡頭のうち、たとえば庄屋の渡頭、神皇寺の渡頭などがよく知られている。香椎村道路元標のある浜(現永田医院と出雲屋の間)を庄屋の渡頭といい、浦では一番広い渡頭であった。藩政時代、浦庄屋という制度があり、泉屋内の現清水衣料付近が昔の庄屋の跡という。庄屋の渡頭は、棧橋のできる前までは汽船のはしけ荷揚場であった。正村では神皇寺の渡頭がよく知られている。また、前記郵便局の浜とあるのはタケヤの渡頭または郵便局の渡頭と呼んでいた。東部での大きな浜は御(お)仮(かり)殿(ど)の浜であるが、ここは渡頭とはいわず、石段をはさみ北側が一の浜、南側が二の浜である。近くに現農協をはさみ新町、湯田の渡頭があった。また、陸の方にある入りこんだ行きどまりの道を「しゅうじ」という。小路の訛(なまり)であろうか。

港づくり
戦前における勝本港は、当時の貧弱な土木技術にもかかわらず、新波止や仲折の防波堤などが完備して、定期船も入港でき漁船もゆっくりと繋ぐことができた。一部繋船に不便な場所はあったが、旅行者などから「浮き港」とはうらやましいといわれたものである。すなわち、年間船を浮かべたままで、時化の度に船を陸上に曳きあげずにすむということである。
このように昔の勝本港は第一級の港であったといえよう。このことは当時の為政者が、いかに熱意と努力をもってなしとげたかを示しているのである。
昔は船を安全に繋ぐだけでよかった。しかし近代漁港では給油、給水、製氷、そして広い荷捌所、造船所はいうまでもなく、船体、機関の整備点検のための上架施設、機械修理工場などの諸施設が完備されていなければならない。

浚渫(しゆんせつ)
明治期の正村湾は非常に浅く、干潮時には湿地が現れ鹿の下仲町付近まで続いたという。したがって朝ガラ時期(潮流の項参照)ブリ延繩漁に出るときは、正村湾から船に乗るために尻からげをして松明(たいまつ)をたき、ぬま地を歩かねばならなかった。昔から流れ込んでいた土砂が積もり積もった結果であろう。現在でも正村湾の奥では土砂の流入がひどく、浚渫したあと数年もすればまた以前のように浅くなり船据えできるほどになるのである。浦の他の地区についても同じことがいえる。
港の浚渫についての古い記録に、明治一一年勝本港湾浚渫費の補助として年賦返還貸付金交付とある。しかし実際浚渫されたものかどうかはわからない。明治二七年汽船若津丸が勝本―博多間に通うようになったとき、一二五〇円をかけて正村湾を浚渫している。その後大正一四年から一年数ケ月をかけて、「つかみ式浚渫」により湾内くまなく徹底的に浚渫した。昭和一四年ごろ「中(なか)すか」(以前は現中央突堤北側付近に浅い砂地があり中すかといった)浚渫の際、正村湾のまん中だけ一〇日間ぐらい掘ったがつかみ式であるため掘れた量はわずかであった。
昭和三四年一〇月、港内の浚渫とともにその土砂を利用して埋め立てるポンプ式(サンド・ポンプ)を採用することになった。正村湾の土砂を埋め立てることにより、弁天崎に七〇〇坪の土地とその隣接地(漁協所有地)六〇〇坪ができたのであった。総工費四〇〇万円の予算であった。後年ここに船巻揚施設と石油施設ができたのである。
昭和三七年秋、亀瀬爆破除去工事が県費補助事業で着工された。しかしこれはなかなかの難工事で、期間も大巾にのび三八年夏ごろようやく完了除去された。
昭和三八年、砂に埋まる博多瀬戸の浚渫工事がポンプ式によって大規模に着工された。通航の便を考え神の前―丸山見通し線(巾三〇㍍)が掘られた。しかしせっかくの浚渫であったがわずか二、三年にして通航不能になったのは残念なことであった。この浚渫にあたって、漁民側としては長い経験により従来の水路を掘ってもらうよう要望したのであるが容れられなかったという。当時古老達はこの工事を聞いて、「大西の吹き荒れるとき前のように埋まらなければよいが、果して三年もつだろうか」と憂慮していたのである。
このように浚渫の方法もはじめは巨大なつかみを落すだけであったが、次第に浚渫と埋立てを同時に行うサンドポンプ式にかわり、その後つかみにかわるショベル式のジッパーと呼ぶ機械となった。これは早く深く掘れ、能率のよいものであった。

防波堤
勝本港における防波堤は昭和八年以前の港内図によると、新波止(鵜の瀬)ができるまでに、仲折付近から正村湾に向った小さいものと、小敷瀬から串山に向けての大きなもの、聖母神社の裏付近から出た通称・源蔵波止の三ケ所に建設されていたことがわかる。以下不明のものもあるが、およそ次のようなものである。
〈小敷瀬防波堤〉大正七年に着工、同八年に竣工した。長さ弁天崎より海中へ五〇間、その巾は根張り六間、上張り四間で総工費六〇〇〇円(県費補助と自己負担)であった。現在石積みの上面だけは、船台の西側道路として見ることができる。
〈源蔵波止〉この波止の記録は残念ながら見つからない。大正の終りから昭和のはじめにかけて(大正一五年ごろ)建設されたようである。工事は、生月の永田源蔵という人を棟梁とした作業員二十数名が来島しておこなった。この波止は、巨石を積んで造ってはあったが短いものであった。また仲江に突出ていたので見通しがよく、沖船頭の日和見の場所として適しているところから毎日の日和を見る大事な場所であった。この波止も昭和五〇年頃の海岸保全工事のためなくなってしまった。
〈正村防波堤〉建設についてはすべて不明で、港内図でのみ知ることができる。古老の語るところによると、「西の返し波を防ぐために昔からあったものであり、一番古いものであるかも知れない」とのことである。最初のものは短く、最近まであったものは新波止建設後に再延長、整備されたもののようである。長さ四〇㍍とも四四㍍ともいわれる。

新波止(鵜の瀬防波堤)
勝本港の防波堤築造は長い間の懸案であった。しかし斉藤内閣の地方匡救(きようきゆう)事業として「昭和八年一月七日起工、本年一〇月には竣工の予定」とあるところから、年内には完成したようである。
工事費総額四万五〇〇〇円(うち国庫補助四分ノ三、村費が四分ノ一)を以って、串山半島岬から小敷瀬に向って長さ一九六㍍が、上の巾五㍍に造られた。非常に立派なもので現在に至るまで、港を守る役目を果している。請負者は、北松生月村本石善市氏であった。
ところで、村費負担一万一二五〇円は、昭和七年の香椎村予算総額一万三五三五円五九銭とくらべてみると、いかに当時としては大事業であったかわかるのである。

棧橋と道路
昭和一三年から一四年にかけて、測量・杭打ちなどの棧橋基礎工事がはじめられた(県補助と、地元負担によるものである)。昭和一七年から一九年の三か年に全額地元負担によって、五〇㍍の棧橋下部工事が行われた。これは船の接岸部の下部構造にあたるもので、干潮時でも海面下にあり、その上は通航できなかった。昭和二三年に工事が再開され、国・県の補助を得て二四年に完成した。工事費五五〇万円のうち、国二五〇万円、県一五〇万円、地元負担一五〇万円であった。その後昭和三二年に奥へ(南側に)三〇㍍の延長工事がなされた。これに続き、昭和三六年までに黒瀬の浜と湯田の浜を埋立て海岸道路が作られた。同時に埋立てのために港の浚渫が行われた(国補助七五㌫、県、地元各一二・五㌫)。
〈湯田内防波堤〉昭和三六年、内防波堤と泊地浚渫が行われた。(全額国庫補助)これは汽船の離着岸の都合により、計画より短縮された(全長四二㍍)。
〈小敷瀬防波堤〉従来からのものに、昭和二八年、二九年に一〇㍍、四〇年に六・六㍍、四一年に六・九㍍、四二年に一一・五㍍、四三年に七・五㍍で、総延長九七・五㍍にも達した(総工費四一〇〇万円)。四四年一二月に標識灯(五〇〇万円)の竣工によって完成した。
〈本浦護岸工事〉昭和三六年―三八年の三ケ年に、湯田海岸より赤滝海岸まで高潮対策事業として護岸工事が行われ、海岸道路と赤滝団地が完成した。
〈赤滝防波堤〉昭和三八年前記博多瀬戸浚渫工事費の残余金で、赤滝の防波堤が建設された。
〈中央突堤〉(突風災害の項参照)昭和四四年度から着工し、長崎県港湾課によって工事が進められ、四六年に完成した。勝本港定期船接岸施設として計画されたが、四九年三月末九州郵船の定期船が寄港廃止となった。このため、この地を勝本漁業振興の拠点とすべく、町、漁協などで努力した結果、むずかしい公共埠頭用地からの転用問題も県当局の理解ある英断によって解決実現をみた。そして漁協荷捌(にさばき)所、事務所を含む漁村センターとして、昭和五二年五月三一日落成した。
〈正村湾海岸保全工事〉火災、天災時の避難と消火活動、交通渋滞の緩和と交通安全などのために計画され、昭和五〇年度より正村湾海岸道路事業が着工された。三ケ年計画で五二年末までに完成した。〈塩谷湾開発事業、漁港として建設が進められているが、昭和四八年末の石油ショックなどで遅延を重ねていた。しかし正村湾保全工事と併行して予算も二億九〇〇〇万円が決定し、継続事業として現在工事が進められている。
〈浮棧橋〉昭和五〇年正村湾海岸保全工事のため、多数の漁船が繋船不能となった。その対策を西部公民館の各館長が相談し漁協とともに町に願いを出した結果、湯ノ本白滝にあるのを参考として浮棧橋が作られた。凪(なぎ)のときは両側から繋留でき、かなりの船が繋がれて便利であった。しかも二本あるので繋船難を多少とも緩和できるようになった。

棧橋建設をめぐって
勝本港に汽船が寄港するようになって誰もが感じたことは、棧橋のない不便さであろう。汽船が着いても櫓押しの団平船によって乗り降りしなければならない不便さは、大変なものであった。このような不便さを解消すべく、昭和一三年に棧橋建設の計画がたてられた。予定地については秘密であったらしく、地元の加賀里屋(現在琴平)と黒瀬の漁民がこの計画を知ったのはかなりたってからだといわれている。驚いた地元漁民は急ぎ集まり相談した結果、設定場所に無理があるとして場所の変更陳情を行うことにした。その理由として、当時どこの港に行っても棧橋は港の入口に防波堤を兼ねて造ってあり、港の奥に造るのはおろかなことで、港を死なせることになるという点をあげていた。将来のためにも、港の口の弁天か赤滝付近に造るべきだということであった。数回にわたる陳情がくり返されたのであるが、町の返事は色よいものではなかった。そして最後には、「ここは要塞内であるから、自分勝手なことは許されない。場所の決定は軍部の命令によるものだ」という返事があったという。軍が指定したのであれば最初から堂々と漁民に発表すればよいし、建設費も国庫補助が受けられるだろうにといった意見が多くでた。それに朝鮮まで寄付をたのみに行かなくても(町長以下二、三人で朝鮮の成功者に寄付回りに行ったという噂があった)しかし軍部を持ち出されると当時の庶民はどうしようもなかった。これ以上反対陳情を続けると国賊の汚名を着せられるからと、無念の涙をのんだのだといわれている。当時、漁民の間でいわれたことは、日華事変の拡大による軍事費の増大で(昭和六年度一般会計支出、一四億九八〇〇万円から昭和一〇年度二二億一五〇〇万円に膨張し、軍事費は四億七〇〇〇万円から一〇億二三〇〇万円に増加した。そして昭和一二年度には歳出が四七億円にふえた)四苦八苦する政府が補助金なしに建設できる方法を選んだということであった。つまり荷揚場である庄屋の渡頭付近を埋め立て、道路の新設なしに今までの道路を利用し、商店街も賑わせるといった考えのもとに計画されたもののようであった。
航空機の発達しない以前では、大艦巨砲が重要視されていた。壱岐、対馬に砲台をつくれば、対馬海峡を通航する敵艦を捕(ほ)捉(そく)することができる。このようなことから大正一五年郷ノ浦に要塞司令部が設置され壱岐全島が要塞にかわった。以後は、小学生が風景画(スケッチ)を描くことすらも禁じられる厳しさであった。

突風災害
昭和四〇年三月一七日早朝、風速三〇㍍といわれる北の突風が吹き荒れた。これをまともに受けた勝本港の漁船のうち、黒瀬地区に繋留中の小型漁船(ディーゼル四~六馬力)四隻が沈没、伝馬船を含む四十数隻が損傷、という大きな損害を受けた。これは、勝本港の一番弱いところを突かれたものであった。確かに漁民の油断といえばそれまでだが、その前日からの天気予報では何の注意報もでていなかった。日頃この地区の漁民は、北風の恐ろしさを十分知っており(北風を防ぐ防波堤はなにひとつ造られていない)用心ぶかくいつも真っ先に避難するのである。この災害後、防波堤問題がにわかに活発化し、浦の三地区が競って防波堤の建設陳情をはじめたのであった。
一、東部防波堤 漁船が岸壁に繋留できないため乗り降りに不便であるし、大風のとき船が沖に~がれているため、伝馬船を出して錨を投入しなくてはならない。これは夜間だと危険が伴う。また組合の第二集荷場が建設され、各漁船が水揚げのために出入りするが、沖に繋留の状態では支障がある。
二、中部防波堤 過去二回の台風(ルース台風など)や突風によって、漁船の破損、大破など大きな被害が出ていた。これは人命にもかかわる問題でもある。また、中部防波堤を建設すれば現在の湯田防波堤とともに黒瀬地区に大きな船だまりができて漁船の増加に伴う繋留問題が解決する。
三、西部防波堤 勝本港内では一番多くの漁船が繋留され、二段に繋ぐ状況である。そのため船の摩擦がひどく、船の寿命が短い。西の嵐が吹くと「いれ」(返し波)がひどい。 以上
これでもわかるように、増え続ける漁船の繋船と安全が問題であった。
これらの問題は、町の方で専門の港湾研究所に依頼して水槽実験を行い、最良の場所に防波堤を造るということで一応落着した。そして中央突堤が建設されることになった。


海岸道路ができる以前の勝本浦は、海上に棚が張り出していた。浜町は棚伝いに歩けるほどであった。この棚は、船の乗り降りに楽で、魚などの水揚げに便利でさまざまな干し物ができた。海中に打込んだショロ棒、杉か檜の横棒(桁)、そして上は手ごろの太さの青竹をすき間なく並べて針金で編むのである。竹は淡(は)竹(ちく)か呉竹(くれたけ)の小ぶりのものを使い、三、四年ごとに編み直さねばならない。これを「棚かき」と呼んだ。

船つなぎと常(じよう)碇(いかり)
勝本浦では、昔から常碇をする習慣がある。常碇とは半永久的に海底にうちこんだ碇の意である。碇は木材製だとだいたい一年で虫が食って駄目になるため、金碇でないと困るのである。また綱は、水に強いナイロン製品ができる以前では、ワイヤー・チェーン・針金・ショロ綱など長持ちするもので船をつないだ。戦後には、払い下げの海底電線や六分の鉄棒なども使った。
浦の家並みは、道をはさんで浜側と陸側とにわかれている。浜側の家では、当然裏は海で漁船を繋留することができる。そして、家幅だけの海面を使う権利があった。広い家幅をもっていると、何隻もの船をつなぐことができた。陸側で繋船場所をもたない船主は、頼んでつながせてもらわなければならない。年間の繋船賃は、習慣的に盆の謝礼と正月用の「かけぶり」(かなりの大きさのもの)となっていた。繋船場所の「やど」が漁師であればこれだけでよいが、そうでないと、時々のおかず用の小魚などをやったりしなければならなかった。一方「やど」の家は、年中戸締りをすることができない不便さと、不用心さがあった。いつ誰が船の用事などで、出入りするかも知れないからである。最近までどの家も水汲みなどの都合から、家の中を通り抜けられるように土間が作ってあり、これが通路であった。
また、渡頭などの公共地が空いているときは、他船のじゃまにならなければ自由に繋船できた。ただしこのような場合は、地元優先であることはいうまでもない。動力船の少なかった頃には、やどの方から頼んでつないでもらった時期もあったというが、戦後漁船も増え船つなぎの様相も一変した。
昔から、船を新造したり買い求めたりすると、なるべく近くに船つなぎの場所を確保してきたのであった。場所が決まると常碇をいれる。これは船の出入港のたびに、いちいち碇をあげたり入れたりする手間を省くためでもある。またこれは、ここは「私の場所である」ということの証明にもなるのであった。
この他港内に船をつなぐには、早くからつないでいた船にその場所の優先権というものがある。旧習を尊重するということから、あとからの船は公共の埋立地であっても勝手に割り込んだり、他人の繋船場所につなぐことはできない。繋船場所に余裕があり、しかも今後もつなぐことが許るされるようであれば、あとは隣接の船の同意だけで繋船ができる。
しかし、現在の正村湾で見られるように、護岸工事のために、繋船場所がいちじるしく減少した状態では、従来からの習慣通りに常碇を入れることは困難である。このため今は、常碇なしの自由繋船となっている。

難儀な船つなぎ
漁師の悩みのひとつに「船つなぎ」の問題がある。近年漁船が増え続けた結果、繋船場所が不足するようになった。正村湾では、以前は一段つなぎであったが、船ぜりのために船自体が身動きできず、出し入れも困難になった。このようなことから遅く入港した漁船が外へ追い出され、二段つなぎになったのである。それでも船ぜりはますますひどくなり、次第に東へと広がっていった。二段目につないだ船は、夜もオチオチ眠れない。一段目の船が早く出る時は、じゃまになり迷惑をかけるからである。それに強風時や、台風が接近してくると避難にくる船が増えるので繋船も容易でない。だが三段目につなぐ船を拒むこともできないのである。しかし、二段つなぎにでもできる場所は、まだよいのかも知れない。二段につなぎたくても風向(かざね)によってはつながれない場所もあるのである。
このようなことから出漁をしていても、人より早く入港して船を安全な岸に着けたい一心で入港競争がはじまる。明日からシケになるといったときはなおさらである。魚をとる漁師が早く入港しなければならないため、漁獲上大きなマイナスとなっている。他港のように、安心して船つなぎができたらと思うのである。

外港計画
これだけ多数の漁船をもつ漁港でありながら、今一つ港湾整備のおくれていた勝本でも、近年ようやく外港計画が進行しはじめた。
不可能ではないかと懸念された正村湾の海岸道路も昭和五三年に完成した。塩谷漁港の整備も完成に近づきつつあり、台風時の避難もできるようになった。波荒い大瀬戸に「外港を作る」という計画は、当初突拍子もない構想だとも思われていたが、この工事も実現に向って前進をはじめた。もうしばらく辛抱すれば、船つなぎのために漁を早く止めなくても済むようになるだろう。
欲をいえば、更に計画を拡大して、大型定期船でも寄港できる大外港になることを望むのである。

汽船の歴史
勝本港への汽船の寄港は、明治二七年佐賀県の深川汽船会社の若津丸が勝本―博多間を航行したのが最初である。同年末より県費補助船として対馬商船会社の対馬丸が、定期船としては初めて寄港するようになった(勝本浦の発展に尽した人々参照)。しかしこれら二〇〇㌧級の小船では、いったん風ともなればたちまち欠航となり、甚だしい時は一か月間も本土との交通がとだえることもあった。その後大正八年ようやく五〇〇㌧級の汽船が就航し、乗客の不安も解消した。対馬商船は昭和四年北九州商船KKと改称。さらに昭和一一年九州郵船と改称した。
しかし戦争にはいると、持船であった満丸、博丸、県丸、東洋丸、博洋丸、福神丸、珠丸、があいついで戦災沈没し、睦丸は坐礁によって沈没した。
このため終戦後は持船がなく、雇船によって博多、壱岐、対馬間を運航していた。その後大衆丸(八三〇㌧)、男島丸(三四八㌧)、初潮丸(二五九㌧)、鳴潮丸(二二八㌧)、泰丸(一六三㌧)、県丸(一八〇㌧)、高千穂丸(三四三㌧)、功丸(一八一㌧)、安丸(一一三㌧)などをそれぞれ新造、改造して運行をはじめた。そのなかで、大衆丸(定員五六四名速力一三㌩)、男島丸(定員二四〇名速力一二㌩)の二船が博多、壱岐、対馬線に就航し、勝本にも毎月一二、三回上下便が寄港するようになった。
昭和二四年、勝本棧橋(昭和一三年に勝本棧橋の建設計画が立てられていたが、戦争のため中止)の竣工によって、乗客はもちろん貨物の積み下しなども非常に便利になった。
その後、乗客の増加などで昭和三二年に壱州丸(五六〇㌧、定員三五四名速力一四㌩)昭和三八年一一月に対州丸(六四二㌧定員四九〇名速力一四㌩)が次々に進水、就航すると、従来の所要時間四時間が約一時間短縮され、より一層便利になった。昭和四〇年九月一日博州丸(四七五㌧定員四五〇名速力一四㌩)も進水就航した。この船は主に芦辺―博多折返し便であったが、勝本寄港汽船廃止前約三か月間、勝本―博多間にも運行された。
古代より勝本港は、壱岐第一の天然の良港といわれ、大陸との海上中継地としてまた定期船の寄港台風時の避難港として、重要視されてきた。ところが高度成長がもたらした漁船の増加と大型化により、港は著しくせまくなったのである。また離島観光ブームは、フェリーの大型化を招いた。その他接岸施設の不備などもあって、勝本町民の願いも空しく離島航路を改善するという名目のもとに、船会社は昭和四九年四月定期船の勝本寄港を廃止した。これで勝本定期船七五年の歴史は、ひとまず終幕した。
しかし昭和五四年七月五日、再び勝本町民待望の旅客船が就航した。大淵観光(株)の定期高速船グレイトライナー・クイーン号(九三㌧)で定員八五名を乗せて勝本―博多間を九〇分で結ぶものであった。しかし、風波に弱いことや乗客不足などで、経営困難をきたし、現在は不定期便である。

 




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社