天比登都柱(あめのひとつばしら) それは夢の島・壱岐
また神の世界と地上の世界を結ぶ一本柱の國、それが壱岐

どうぞ、食を文化をご堪能ください

福岡市内からジェットフォイルで一時間程度の離島・【夢の島・壱岐】です。様々な素晴らしい素材を使った海産物、農産物など、あらゆる素晴らしいを全国の皆様にご提供できればと真剣に考えております。どうぞよろしくお願い致します。

第五章 漁業組合の発展 一、組合の誕生

第五章
漁業組合の発展

一、組合の誕生

勝本漁村の歩み
明治以前の勝本の漁業については、鯨組による捕鯨に関する記録しか残っていない。明治以降は、原始的な一本釣り漁業が中心で経過してきた。第二次大戦前後から全国的に経済が高度に成長し、大資本家によるあぐり網、機船底曳網等資本漁業が盛んになってきた。しかしその反面、沿岸漁業は不振となり、漁村の疲弊は深刻となった。漁民の中にはやむなく他の職業に従事する者も出てきた。
勝本は往時より地理的にブリその他の魚類の好漁場に恵まれ、漁業が盛んであるが、野菜一つ作る土地も持たない純漁村として零細なる一本釣り漁業を、現在まで続けてきている。
大正の中期頃までにはブリ、タイの延繩、その他の一本釣り漁業が盛んであった。その他にカジキ網及びイワシ網などがあり、昭和一〇年頃まで続いて盛況であった。
カジキ網は地元船二〇隻位、山口県三見村より一五隻位が勝本を根拠地として操業していた。イワシ網も地元船三〇隻位で操業し、相当好況であったが、両方共純漁業者は少なく、殆どの船が非漁業者である有産階級の人が経営していた。だが昭和の初期頃から水揚げも少なくなり、徐々に休業するようになった。
勝本漁民はいぜんとしてブリ、タイなどの延繩、一本釣りの外磯建網(いそたてあみ)数隻があり、操業を続けていたが、大正の中期頃よりブリ延繩が不振となり、替ってブリの曳繩となり、ブリの夜釣りと共に相当水揚げがあり、特にブリの夜釣りは年間の総水揚げ高の七〇㌫を占めた。
また昭和の初め頃から流行したブリ飼付漁業も非常に有望で、勝本においても昭和五年に組合と別個に組織して開始した。これは漁業者にとっては、かつてない好景気をもたらした。しかし第二次大戦のため、昭和一六年で閉鎖となった。
その後は細々と一本釣り漁業で過していたが、昭和三七年頃より、スルメイカが豊漁で価格も非常に高値となり、好景気の時代がくる。漁船は大型化し、その数も増加してきた。
零細なる一本釣り漁業が、沿岸漁業不振のため、漁民が他の産業に転出し若い労働力の不足をきたし、沿岸漁業者の組織する漁協の経営が行き詰まりを招いている現在、勝本漁協は幸い経営も円滑に成長しており、全国の一般沿岸漁民の羨望の的となっている。これは当地区が前述したとおり、割合いに好漁場に恵まれていることと組合員が一致して、あぐり網、底引網その他の大型資本漁業の入漁を阻止し、乱獲の防止に努めたことにほかならない。
なお一つ考えられることは、若手青年層が多数漁業に従事し、熱心に漁法の研究に専念している事実も見逃してはならない。
零細なる一本釣り漁業も時代の進展にともなって、漁船も大型化し、時代に即応した設備もでき、遠くの海へも出漁するようになった。現在一二〇〇名の組合員で、六〇〇隻以上の漁船を持つ漁協である。

七里ヶ曾根ブリ銅付事業開始
大正の中期より昭和の初期にかけて、新規の漁法として全国的に流行したブリ飼付漁法は、非常に有望な漁法として広く行われ、好成績をあげるようになった。
だがこの漁法は大資本家によって企画されたため、沿岸漁民は漁場の関係で多大の脅威を感じていた。
我が壱岐郡でも鯨伏の原周蔵氏を社長とする、壱岐郡ブリ飼付漁業株式会社が設立され、事業を開始したが、漁民でない資本家だけによって組織されていた。
(イ)漁民の窮状 一方郡内の漁民は、飼付会社が免許を受けている一〇箇所の漁場(箱崎村沖合オオサ曾根、箱崎村沖合オイオ曾根、香椎村沖合火棚曾根、箱崎村沖合オビ曾根、鯨伏村沖合ナンカケ曾根、渡良村牧崎冲合上松曾根、渡良村大島冲合新曾根、渡良村長島沖合横曾根、渡良村長島沖合鈎曾根、箱崎村諸津沖合夏曾根)で操業することはできなかった。唯一箇所残っている七里ヶ曾根は、昔からブリ外の魚類の宝庫といわれていた漁場であるが、盛大に撒き餌をなして操業する飼付会社のために、回遊するブリは殆ど餌付され、飼付会社の豊漁を指をくわえて傍観するばかりであった。
特にその時代、七里ヶ曾根の秋の夜釣りは年間水揚げの八割を占めていた。
かかる状態であるので、出漁してもブリは全くあがらず、毎日欠損して帰ってくる有様で、漁民は苦境に立たされた。このため漁業に希望を失い、他の仕事に日雇としてやとわれる者も出て、生活は日々苦しくなっていった。
毎日、飼付会社の豊漁を目前に見せつけられていた漁民の憤懣(ふんまん)は甚だしく、漁民でない資本家の組織する飼付会社に、漁場の殆どを許可した県当局の不法を恨んだ。そして会社を設立している社長原氏を始め、それに加入し重役の位置にある勝本浦の有志家に対する反感の声は巷に満ち、激しい漁民の怒りは爆発の危機をはらんでいた。
(ロ)飼付全廃運動 当時の漁民総代、沖世話人の人々は毎日集会を開き、飼付全廃について協議を重ねた。また自分の町内は内部で協議し合い、飼付全廃の運動をおこし支庁、県当局に対し陳情を重ねたが、何の効果もなく、漁家の暮しは日毎に悪くなるばかりで、食うに困る状態となっていった。
その当時、部外者である篠崎清吉、原田元右衛門の両氏が、飼付全廃の陳情等で県、支庁方面に参加して協力された。
(ハ)学校の同盟休校及び税不納申し合わせ このような事情から、漁業者の子弟は同盟休校をさせることを決議し、短期間ではあったが実施を余儀なくされた。また税金の不納の申し合わせをするなど、連日船は港内に繋ぎ、出漁もせず、不平不満やる方なく、漁民感情はその極に達した観があった。
(ニ)青年の示威運動 たまたまその折り、東京の書店、印刷会社等に就職していた青年、平畑善助、下条清、小西(中原)亀太郎の三名が帰省していた。彼等は勝本の現状を見るにしのびず、勝本の大勢の青年を動員し、蓆旗(むしろばた)を押し立て、飼付全廃をスローガンに勝本浦中を練り歩き示威運動を行なった。デモである。だが三人は社会主義に傾いている思想の持主と見なされ、すぐに警察へ連行された。その時代、軍部が政治に介入し社会主義共産主義は一般より忌避されていた。このような勝本浦の動きを重視した郷ノ浦本署は、毎日多数の刑事を勝本へ派遣するようになった。
(ホ)青年会員の交渉 昭和四年九月二三日、壱岐郡ブリ飼付会社の重役会議が、郷ノ浦の清月館で開かれることとなった。勝本の漁民総代及び沖世話人はその会議に出席し、勝本漁民の窮状を訴え、生活救済資金を要請することを決めた。
これに対して、勝本浦西部青年会は集合して協議し、右の交渉を不満とし、この際強硬なる交渉に出、飼付全廃に持ち込むべきであるという決議をし、当日青年一同は各町より漁船一隻宛出して、郷ノ浦へ乗り込み重役会議に青年会として交渉し、ぜひ飼付全廃に持ってゆくことを決め、散会した。
明けて二三日、秋季皇霊祭で好天であった。西部青年会は各町より出した漁船七隻に約二〇〇名の青年達が乗り込み、郷ノ浦へ向け出航した。午前一〇時郷ノ浦に入るが、会議は午後一時からということで船に待機していた。ところが警察の知るところとなり、各町の青年会長及び副会長は全員本署に連行され留置された。
一方、後に残った青年達は清月館に押し寄せる途中で、警察署員に阻止され、各所で小競り合いはあったが、結局船に追い返され何等目的を達することはできずに帰勝する。会長、副会長が本署に連行されたため、統率する者がなくちりぢりになったと考えられる。
しかし、この事件は当日は何の効果もなく帰勝したのだが、子弟の学校同盟休校や納税不納の申し合わせ等は大きな社会問題として世間の注目を集めることとなる。県としては免許漁場の内火棚曾根、ナンカケ等三箇所を解放した。だが盛大に撒き餌をやる飼付には及ばず、結果的にはブリは飼付けられたと変らず、勝本の不景気は続いた。
結局、漁民総代、沖世話人の交渉により、救済資金として三〇〇〇円の贈与を受け、その一部を飼付全廃運動資金として使用することにし、残りを漁業者の生活費に配分した。
その後再度県に陳情の折り、県としては飼付全廃は大勢より見て不可能であると考える、飼付は相当有望な新規漁法であるので、勝本の漁業者も七里ヶ曾根を免許するのでやらないかというすすめを受けて帰勝した。各町協議の結果、時勢に順応するのが得策であるということに意見が一致し、各町より次表のとおり設立委員を選出し、昭和五年九月、香椎村漁業組合とは別個に組合を結成し、ここに七里ヶ曾根ブリ飼付漁業組合が発足した。
こうして昭和五年から同一六年まで一二年間にわたり、勝本漁民にとって未曾有の好景気をもたらす飼付事業が継続される。
後日、県水産課から聞くところによれば、七里ヶ曾根は、当時、欧州航路の汽船の重要な航路筋であり、国としては相当免許に難色を示したが、勝本の実情を訴え無理に許可してもらったという。
(ヘ)漁業権免許交付 組合が発足し組合長に大久保平三郎氏を推して特別飼付漁業権免許を申請し、昭和五年九月、大久保平三郎氏外二六一名に対し、ブリ飼付特別漁業権免許が下付された。
(注)この免許は昭和九年六月県の指令により勝本漁業組合に譲渡する。以後は漁業組合より免許を借入れ操業し、毎年の借入料五〇〇円を支払って操業する。
(ト)組織 組合員 組合員は勝本浦に在留している純漁業者をもって組織し、年齢は尋常高等小学校を卒業した者より満六〇歳までの漁業専業者をもって組織する。
漁船
当時の漁船で動力船は全部雇い入れるものとする。飼付の釣船には焼玉発動船六馬力以上を使用し、発動船五馬力以下モーター船は釣船には使用させないこととする。
給与
給与については組合員を一口として高小卒業当時は半額とし二年目より七合を支給し、役員も組合員並とする。漁船の割合は組合員の二口分を支給し、八馬力以上は二口二合を支給、釣船に使用しない五馬力以下の船は組合員の八合の割で支給する。(次年度より変更した)
配当金の口数も給料と同じ率とする。
以上のような組織によって漁船六七隻の内六馬力以上約五〇隻を釣船として雇船、一隻当たり六名乗組み一日二〇隻、二線に張り東より順番に出漁させる。
但し次年度より一線張り一五隻宛出漁させることとなる。
当日の出漁当番船以外の船は、全部自由漁業は禁止していたが三年目から当番船以外の船は七里ヶ曾根飼付漁場以外の漁場には自由操業を認めることとした。
年次別の水揚げ高と昭和一一年度の収支決算は次表のとおりである。
以上のような水揚げ状況で、月給制で割合も前述のとおりであった。年間の総決算をして、利益金のある場合は配当金として配分していた。歩合は給料と同率であり、昭和五年開始当初でも一人当り一〇一円あり、最高一七五円も配当があった程である。
前記のとおり、操業していた飼付期間は全国的には不況の時代で、沿岸漁業は不振の時期であった。だが勝本の漁民のみは飼付の給料あり、配当金あり、当番日以外の自由操業の収入ありで、非常に好景気の時代であった。
(チ)飼付事業の閉鎖 このように毎年豊漁を続けていた飼付事業であったが、昭和一五年頃より漁獲も減少する様になった。減少の理由として、軍の秘密兵器が七里ヶ曾根に敷設されたという風評が立った。がなにより戦争のため餌用のイワシが全然なくなった。こうして事業中止のやむなきに至ったのである。
その後昭和一八年に、下関船喜商店に漁場を貸与した。船喜商店は一年間操業したが不漁で中止している。
(リ)漁協の事業に対する協力 昭和一一年勝本町漁業協同組合が組織設定され、出資制度を設け、急激に種々の事業を開始した。この漁協の事業に対し資金的に側面より飼付組合が援助している。これによって漁協の事業はスムースに進捗した。これは飼付組合の援助の賜であると考えられる。

一、免許漁場の位置
イ免許期間 九月一日至翌年一月三〇日
ロ免許番号 第七種漁業鰤飼付(免許第五三八七号)
ハ存続期間 自昭和五年九月一七日至昭和一〇年九月一六日
ニ漁場の位置 長崎県壱岐郡香椎村沖合中ノ曾根
点の位置 基点香椎村若宮島灯台
イ基点より二八六度の線と壱岐郡柳田村津ノ上と福岡県糸島郡吉井山見通線。
同渡良村、長島平島の中間と佐賀県馬渡島高所の見通線。
ホ漁場の区域 イより三〇〇間の半径を以て囲まれたる水面。
二、免許漁場位置変更の許可
イ出願 昭和六年四月一八日。許可昭和八年八月二六日付
ロ免許番号 第七種漁業ノ飼付け
ハ漁場の位置 長崎県壱岐郡香椎村沖合中ノ曾根
イ甲より二九二度の線と渡良村長島頂上と馬渡島東端見通し線との交叉点
ロイより渡良村長島頂上と馬渡島東端見通し線の上北西三〇〇間の処。
ニ漁場の区域 ロイハ直線より二五〇間以内の水面。

ブリ飼付郡外出漁船
地元において、飼付事業を実施中、小畑梅太郎氏が考案した飼付ウダ漁法が開発され水揚げが向上した。その漁獲実績が認められ、下関船喜商店、油政商店などと合同事業を結んだ。そのため郡外各地に釣船および釣子(つりこ)を派遣した概況を、当時の飼付記録と、諸先輩の記憶をもとに紹介する。
一、昭和七年、斉州島沖に釣船坂本和合丸、中鶴金毘羅丸、熊本安全丸三隻と運搬船万栄丸を派遣して試験操業をした。しかし不漁のため中止となってしまった。
二、昭和一〇年頃より三年間、上対馬西泊港で釣船中忠金毘羅丸、西浦金毘羅丸を雇船し下関船喜商店と合同事業を行なった。勝本からは責任者として、下条庄之助、川村金次郎、村川幸平の三氏を派遣した。
三、昭和一〇年頃より五年間山口県の江崎港を基地にして漁場は島根県飯の浦沖で操業した。この時の魚の形は主に中ブリであった。
釣船松亀(現在中上)稲荷丸、平兵金毘羅丸、中上福漁丸、その他が毎年抽選で出漁した。ここは下関の油政商店との合同事業のため、勝本より代表責任者として、毎年一名を派遣した。初年度は大久保福次郎氏で、次年度以降は村川幸平、下条庄之助、木寺亀太郎の諸氏。
四、昭和一一年頃より三年間、佐賀県馬渡島に大洋漁業経営の釣船として雇船された。その釣船は西浦金毘羅丸、川村進栄丸、角喜金毘羅丸、中鶴金毘羅丸、山寅金毘羅丸、立清金毘羅丸(鹿伸)、篠儀住吉丸などであった。この船の中から毎年抽選で二隻、豊漁のときは五隻が出漁し、沖船頭として代表者も乗船した。とれた魚の形は小ブリが主体であった。
五、昭和一一年頃、島根県那賀郡周布村洲摩港(浜田港に隣接)に釣船和合丸、中鶴金毘羅丸の二隻と沖船頭一名を派遣した。魚の形は小ブリが主体であった。
六、昭和一一年頃対馬住吉瀬戸を基地とし、漁場は黒島沖三〇分走りであった。釣船として雇船された船は香椎金毘羅丸、中福金毘羅丸(現中村岩夫氏)の二隻で二年間出漁し、責任者として下条庄之助氏が派遣された。魚の形は小ブリが主体で一日二〇〇―三〇〇本の漁獲であった。生きブリで入港し基地の生簀に短期蓄養し、活魚出荷をしたという。
七、昭和一三年頃、島根県大浜港、漁場は高島の周辺で、船喜商店の経営事業に釣子として雇用契約を結び出漁した。
責任者は吉田若三郎。釣子は中村光友、中原亀太郎、松尾茂蔵、川谷福次郎、大久保留吉、小畑兼男、下条善助、西村貞吉の諸氏であった。ここでは地元船(一五馬力)が雇船され、技術収得を兼ねて荒川氏という人が乗船した。
八、年代が不明であるが、山口県イワヤ港に中佐金毘羅丸などが出漁したと伝えられている。現在生存者がなく明確ではないが、子息である中上信男氏の話によると、以前フライ旗(フラホ)にイワヤ港の何某名前入りでもらった事実があるといわれている。
以上であるが、調査もれで不備な点はご了解願いたい。

香椎村漁業組合の発足
明治四一年度に県の示達によって、香椎村漁業組合が設立されることになった。香椎村内一円の漁業者はもちろん、農業者、商人、その他の人でも加入できる、単なる専用漁業の管理、即ち地先の磯のウニガゼ、海藻、貝類の管理のみの組合であった。
初代組合長には土肥勇一郎氏を推して、磯の管理人を置き、磯の監督取締りに当らせている。

勝本漁業組合の分離
漁業組合の性質上、純漁民のみをもって組織すべきであるという趣旨のもとに、香椎村漁業組合より分離し、勝本浦の純漁業者だけをもって、昭和七年四月八日に勝本漁業組合として発足した。
その折り、地先の漁業権の関係で紛糾し、磯のウニガゼ、海藻類の採取の件については、将来は漁業者以外の人でも無条件で採取は認めるという条件で、分離が成立した。
初代組合長に長島俊光氏を選出し、ここに純漁業者のみで組織された香椎村勝本漁業組合が設立された。当時の役員氏名は次のとおりである。
昭和七年度 組合長長島俊光、理事川村文三郎、住吉林助、吉田若三郎、立石幸吉の各氏。
昭和九年度 長島組合長の辞退により、後任に立石幸吉氏を推し、理事一名の欠員に中上富三郎氏を選出する。
昭和一〇年度 組合長立石幸吉、理事平畑福次郎、松尾常太郎、川村金次郎、村川幸平の各氏。

香椎村漁業組合を再び吸収合併
昭和一六年一〇月、県の指令第二六二六号により、香椎村漁業組合を再び勝本町漁業協同組合に吸収合併することとなった。その時の条件として、将来は在部の農家その他の人でも漁業に従事し、入会希望者はいつでも入会できるという条件を付して、ここに合併が成立し、香椎村漁業組合は正式に解消した。

ブリ飼付特別漁業権免許譲り受け
昭和五年結成開始された勝本ブリ飼付組合は、漁業組合とは別個に組織し、組合長大久保平三郎氏外二六一名によるブリ飼付特別漁業権の免許を受け、操業していたが、勝本漁業組合が分離成立するや、その特別漁業権免許は飼付組合より、勝本漁業組合に免許を県の指令第五三七八号をもって譲渡されることとなった。
その後は飼付組合は漁業組合より免許を借り入れ、操業することとなり、年間に金五〇〇円也を免許借り入れ料として漁業組合に支払った。




 

【壱岐の象徴・猿岩】

猿 岩

 

【全国の月讀神社、月讀宮の元宮】 

月 讀 神 社